一弟子による一日経・如法経・法華三昧について

                          本栖湖より
                          本栖湖より

【 日興一門の批判 】

日興一門による一弟子五人批判の「材料」の一つである、「一日経」「如法経」「法華三昧」について見てゆこう。

 

「富士一跡門徒存知事」

一、五人一同に云く、如法経を勤行し之を書写し供養す、仍て在々所々に法華三昧又は一日経を行ず。

日興が云く、此くの如き行儀は是れ末法の修行に非ず、又謗法の代には行ずべからず。之に依て日興と五人と堅く以て不和也。

(宗全2 P119)

 

「五人所破抄」

又五人一同に云く、如法一日の両経は共に以て法華の真文也。書写読誦に於ても相違有るべからず云云。

日興が云く、如法一日の両経は法華の真文為りと雖も正像転時の往古平等摂受の修行也。今末法の代を迎へて折伏の相を論ずれば一部読誦を専とせず。但五字の題目を唱へ三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責む可き者か。此れ則ち勧持不軽の明文、上行弘通の現証也。何ぞ必ずしも折伏の時摂受の行を修すべけんや。但し四悉の廃立二門の取捨、宜く時機を守るべし敢て偏執すること勿れ云云。

(宗全2 P83)

 

「如法経」

如法、すなわち法の如く書写した経典のことで、多くは法華経を如法清浄に書写することをいう。

 

「一日経」

多人数で分担して経典の書写を一日で行うこと。多くは法華経を書写する。

 

「法華三昧」

・精神を集中させて法華経を一心に読誦する。

・「摩訶止観」の四種三昧の一つ半行半坐三昧のうち、「法華経」に基づいて行われるもの。

 

【 地引御書 】

日興一門は他の一弟子の「一日経」・法華経書写を批判するのだが、「一日経」については身延山に坊舎が新築された際に日蓮が弟子達に行わせ、かつ自らも行う意志であったことが「地引御書」に記されている。

 

弘安4(1281)1125日「地引御書」(真蹟曽存)

坊は十間四面に、またひさしさしてつくりあげ、二十四日に大師講並びに延年、心のごとくつかまつりて、二十四日の戌亥の時、御所にすゑ(集会)して、三十余人をもつて一日経かき(書)まいらせ、並びに申酉の刻に御供養すこしも事ゆへなし。坊は地ひき、山づくりし候しに、山に二十四日、一日もかた時も雨ふる事なし。十一月ついたちの日、せうばう(小坊)つくり、馬やつくる。八日は大坊のはしら(柱)だて、九日十日ふき(葺)候ひ了んぬ。しかるに七日は大雨、八日九日十日はくもりて、しかもあたゝかなる事、春の終りのごとし。十一日より十四日までは大雨ふり、大雪下て、今に里にきへず。山は一丈二丈雪こほりて、かたき事かねのごとし。二十三日四日は又そらはれて、さむからず。人のまいる事、洛中かまくらのまち(町)の申酉の時のごとし。さだめて子細あるべきか。次郎殿等の御きうだち(公達)、をや(親)のをほせと申し、我心にいれてをはします事なれば、われと地をひき、はしら(柱)をたて、とうひやうえ(藤兵衛)・むま(右馬)の入道・三郎兵衛の尉等已下の人々、一人もそらく(疎略)のぎ(義)なし。坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申し候へ。ただし一日経は供養しさして候。其の故は御所念の叶はせ給ひて候ならば供養しはて候はん。なにと申して候とも、御きねん(祈念)かなはずば、言のみ有りて実なく、華さいてこのみ(果)なからんか。いまも御らんぜよ。此の事叶はずば、今度法華経にては仏になるまじきかと存じ候はん。叶ひて候はば、二人よりあひまいらせて、供養しはてまいらせ候はん。神ならは(習)すはねぎ(禰宜)からと申す。此の事叶はずば法華経を信じてなにかせん。事々又々申すべく候。恐々。(P1894)

 

 

意訳

坊の広さは十間四面で、また庇(孫庇)をさし出して作り上げました。24日の智顗の命日には天台大師講と延年の舞を催し、心をこめて執り行いました。同じく24日の戌亥(いぬい=午後9時頃)の時に御所(波木井実長邸か)に集まり三十余人ほどで一日経書写を修し、少し前の申酉(さるとり)の刻(夕方5時頃)には坊舎新築の供養を無事に終えました。

坊を造るため木石を取り除いて地をならし、山を切り開いて平らにしましたが山では24日間、一日片時たりとも雨が降ることはありませんでした。111日に小坊を造り馬屋も造りました。8日には大坊の柱を立て、9日、10日には屋根を葺き終えました。ところが、7日は大雨、8日、9日、10日は曇りで、しかも暖かな陽気は春の終わりのようでした。11日から14日までは大雨が降り、それは大雪となって未だに里では消えていません。山では一丈、二丈も積もる大雪となって、凍った雪が堅いことは鉄のようです。2324日の両日、空は晴れて寒さも和らぎました。人々が参詣する様は京都や鎌倉の町の申酉の時(夕方5時頃)の賑わいのようです。このようなことは、いわれのあることなのでしょうか。

次郎殿をはじめ御子息達は、あなた様(親=波木井氏)から仰せつけられていたのでしょうが、坊舎の新築は御自身の心から思われていたことでもあったのでしょう。自ら地ならしをして柱を立て、藤兵衛右馬の入道、三郎兵衛尉以下の人々も、一人も坊舎築造の仕事を疎かにされることはありませんでした。こうして完成した坊は「鎌倉では一千貫出しても作れないであろう」と参詣の人々は申していました。

ただし一日経の供養は途中で中止させました。その理由は、あなたが成就を祈念していることが叶ってから一日経の供養をなし終えたいと考えたからです。立派な坊舎が造られても御祈念が叶わなければ言葉だけで実がなく、それは華が咲いても実がならないようなものです。今もう一度、この手紙を読みお考えになってください。「この祈念が叶わないということは、このたび信仰した法華経では成仏できないのだろうか」とあなたは思うことでしょう。あなたの御祈念が叶った時には二人が一緒になって、一日経を供養し終わりましょう。「神(かみ)(なら)はすは禰宜(ねぎ)から」と神は侍り仕える人により、いかようにもなるといいます。この祈念が成就しないならば、法華経を信じても意味のないことになります。様々なことはまたの機会に申し上げたいと思います。

 

※延年の舞

寺院での祝賀・法要の際に一山興隆・無病息災・国土安穏などを祈念、神仏に奉納の意を込めて僧侶や稚児らによって演じられた(舞楽・散楽・猿楽・白拍子・小歌などが雑多に混じり合った)芸能が「延年」で、そこで行われた舞のこと。平安時代中頃より始まり鎌倉時代、室町時代に盛んに行われた。

 

【 師日蓮の一日経供養 】

「地引御書」によれば、弘安410月に山を切り開いて平地をつくり地ならしをして、111日から坊舎の組み立てを開始。作業は断続的に雨が降る中、進めたようだ。1日に小坊と馬屋を造り、8日に大坊の柱を立て、9日、10日には屋根を葺き終えている。早くも24日には完成して天台大師講を開催。延年舞も盛大に行い、波木井実長邸(御所)では一日経書写の供養をして、大坊完成の一連の法要は京都や鎌倉の町のような賑わいであったことが報じられている。日蓮は一日経書写の最中に本来の有りように思い至ったものか、途中で中止させて波木井氏の祈念成就以降、二人で一日経の供養をなし終えようと呼びかけている。

 

このように一日経は日蓮の最晩年に行われており、この場合は一旦中止したものの祈念成就後に波木井氏と二人で供養しよう、とまでいうのである。弘安411月の時点で一日経を行ったということは、記録は確認できないものの、以前も同じく、一日経を供養していた可能性があるのではないか。天台大師講も開催されたということは、こちらについても文永年間から行われていたし、佐渡配流により中断したと思われる時期があったにせよ、大師講継続の意思が日蓮にあったことが窺われよう。先に見たように「法門申しはじめ」から天台系日蓮一門の時空間を共有した日昭・日朗等であり、弘安411月に一日経、天台大師講が行われているということは、天台の行法の一つである法華三昧等についても同様の考え、すなわち当時にあっても行われるべきもの、という認識を日昭・日朗等は抱いたのではないだろうか。

 

「地引御書」により日蓮は終生、一日経を行う意思であったと理解でき、師匠亡き後、他の弟子を批判する材料として一日経を挙げて「末法の修行に非ず、又謗法の代には行ずべからず」と決めつけるのは師日蓮の意思からは隔たったものであり、他の一弟子を批判するようでいて、その矢は師匠に向くものではないか。師滅後に一弟子が一日経をなしたのは、師の「行い」と「意志」のとおりであり、法華三昧は師の「行い」と「意志」への認識・理解からなされたものと考えられるのである。

 

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