「不動・愛染感見記」一考

(1) 不動・愛染感見記

日蓮は建長6(1254)11日に生身の愛染明王を、続いて月は不明だが「ある月」の15日より17日に至る間に生身の不動明王を感見して、両明王感見を同年の625日に記録。両感見記に大日如来を祖にした相承の23代目であると、自らを密教の系譜の中に位置付けている。それを記したものが「不動・愛染感見記」である(P16)

 

【 愛染明王幅 】

         千葉 保田妙本寺蔵
         千葉 保田妙本寺蔵

31.0×50.0cm

生身愛染明王拝見

正月一日日蝕之時

( 愛染明王図像 真言陀羅尼1 )

自大日如来至日蓮廿三代

嫡々相承

建長六年六月廿五日

日蓮授新仏

 

 

 

※陀羅尼

吽(ウン)悉(シツ)地(チ)弱(ジャク)吽(ウン)鑁(バン)穀(コク)

 

・愛染明王の頭に宝冠、上部に五鈷鉤

・愛染本体は飛天疾走馬上八臂天衣条帛輪光

・顔には三眼

・上左手は握手

・上右手には蓮華

・中左手には弓

・中右手には矢

・中下左手は手綱

・中下右手には剣

・下左手には金剛鈴

・下右手には金剛杵

・胸の飾りは瓔珞、腕釧、足釧

・馬上鈴、神鏡、蓮座日輪宝珠光一、連座月輪宝珠一

・馬の尾に孔雀羽根二枚

 

・三重輪線上に太陽が九つ

・同じく剣が九つ

・愛染明王向背には太陽が七つ

・右上座に太陽が一つ

・右中座に獅子一匹

・左上座に獅子頭部

・左中座に黒い鳥一匹(日の象徴か)

・左中座に宝瓶と鳥の頭部

 

*愛染明王

梵名はラーガ・ラージャであり、愛情、愛着、情欲等を意味する。

忿怒身は衆生が本来具有する欲情、愛染をそのまま、金剛薩埵の清浄な愛染三昧を示す化身とするので、煩悩即菩提の理を示している。

 

【 不動明王幅 】

         千葉 保田妙本寺蔵
         千葉 保田妙本寺蔵

31.3×50.0cm

生身不動明王拝見

自十五日至十七日

( 不動明王図像 真言陀羅尼2 )

自大日如来至于日蓮廿

三代嫡々相承

建長六年六月廿五日

日蓮授新仏

 

 

 

※陀羅尼

南(ナウ)莫(マク)三(サン)満(マン)多(ダ)勃(ボ)陀(ダ)南(ナン)唵(オン)唅(カン)

 

・不動明王本体は立像四臂天衣

・左右第一手は剣索

・右第二手は開手施無畏

・左第二手には蓮華

・怒髪逆立ち

・腕釧、臂釧、足釧

・胸には瓔珞の飾り

 

・一輪に満月の月天

・上座虚空に瑞雲

・左座に笏を持った冠の官吏一人

・横に立木一本(月に生える桂の木)

・下座にうさぎ一匹(月にいる)

 

*不動明王

梵名はアチャラ・ナータであり、五大明王(中心・不動明王、東・降三世明王、南・軍荼利明王、西・大威徳明王、北・金剛夜叉明王[台密では鳥枢沙摩明王])の主尊、大日如来の教令輪身として忿相に変化、難化の衆生の煩悩を摧破するのが本誓願。右手の剣は仏智であり、貪欲、瞋恚、愚痴の三業・三毒を断つ意味がある。

 

尚、「感見記」での愛染明王・不動明王の図像については、日蓮独創ものではなく、密教曼荼羅の図像との関連が指摘されている。

 

梅沢恵氏の論考「日蓮筆『不動愛染感見記』について」(『図録・鎌倉の日蓮聖人』2009年 神奈川県立歴史博物館・日蓮宗神奈川県第二部宗務所)

「さらに近年では、従来本図像については日蓮が感得し創出したものであると考えられてきたが、三室戸寺所蔵摩尼宝珠曼荼羅の画中にほぼ共通した図像が描かれていることが知られ、不動、愛染、如意宝珠を組み合わせた『三尊合行法』という醍醐寺三宝院流を中心に作られた密教儀礼との関連が指摘されている。」(P154)

 

⇒ただし、「三尊合行法」については阿部泰郎氏の論考「文観著作聖教の再発見―三尊合行法のテクスト布置とその位相―」によれば、律と真言を学び醍醐寺座主、天王寺別当、東寺長者を務めた僧・文観(もんかん・弘安元年[1278]~正平12年・延文2[1357])三尊合行法」を小野三宝院流に伝え、その体系的な聖教は延元2年・建武4(1337)から延元4年・暦応2(1339)にかけて成立した(趣意)、と指摘されている。一方では、日蓮晩年以降に成立したもの、との説もある。故に、この場合、三尊合行法は日蓮青年期以前より成立していた」との確証が必要になると思う。

 

香川県綾歌郡宇多津町ホームページ 町指定有形文化財

「絹本着色摩尼宝珠曼陀羅図」 真言宗御室派 圓通寺蔵

 

【 愛染・不動の両明王を台密の僧・日蓮が感得した 】

「愛染明王幅」は右に「生身愛染明王拝見 正月一日日蝕之時」とあって左に「建長六年六月廿五日」と年月日を記録しているので、日蓮が愛染明王を感見したのは「建長六年正月一日」ということになるだろう。

 

「不動明王幅」は右に「生身不動明王拝見 自十五日至十七日」の記載があって左は「建長六年六月廿五日」とあるので、不動明王の感見は「建長六年の『ある月』の十五日から十七日の三日間に亘った」ということになる。

 

鎌倉時代初期の歴史論書「愚管抄」を著し、天台座主を三回(65・69・71代)務めた慈円(1155年~1225年)が口伝したものを、弟子の慈賢が記した「四帖秘決」(「続天台宗全書」収載)という書がある。文中の「日愛染月不動事」には、日輪中に愛染明王がおり、凡夫の肉眼で快晴の日にしばらく日輪を見ていると、その中に愛染明王像が顕現すると説かれている。次に、月が極めて明るい十五夜に凡夫の肉眼で数刻、月輪を臨んでいると、その中に必ず不動明王の形像が現れるとしている。

 

問云。先日所被申和尚御房日月中所在者。真言教心申様在之云々。其趣承之はや

珍作答云。非別事。以凡夫肉眼奉見生身仏也。日愛染。月不動申。日輪中愛染王現御座也。

能日晴閑久見日輪。即日中彼像顕現給云々。

月極明夜。十五日円満無碍なるに。数刻臨天見月輪。其中必不動明王形像現給也。日愛染。

月不動云事大集経見承云々

 

日蓮は17歳の時、清澄寺で「授決円多羅義集唐決上」を書写し、30歳には京都で「五輪九字明秘密義釈」の書写を許されるほどに密教を摂取している。そのような日蓮に比叡山での修学中、「四帖秘決」を拝見する機会もあったことだろう。また京畿を歩く途次に「摩尼宝珠曼荼羅」などを礼拝しただろうか。ともかくも、日蓮は建長5年に「法華経最第一」を主張し、法華勧奨を開始するのだが、法華経を始め禅・念仏・密を併せ包摂している「四宗兼学の道場・比叡山・台密信仰圏」の僧・日蓮でもあり、その法脈に連なる僧として、「日愛染月不動事」の説示と同じく肉眼で生身仏を感見。日輪の中に生身愛染明王を、月輪の中に生身不動明王を見たのであろう。

 

【 不動明王幅の「月」は不明 】

「不動明王幅」の「ある月」については、「吾妻鏡」の建長6616日の項に「今夕月蝕。左大臣法印厳恵祈祷を修す。陰雲の気有りと雖も度々出現すと」と、鎌倉での月蝕の祈祷が記録されているところから、「ある月」は6月ではないかとの説がある。ただ、「生身愛染明王拝見」は「正月一日日蝕之時」なのだが、記録したのは半年後の「六月廿五日」である。「生身不動明王拝見」の記録も「六月廿五日」となっており、「愛染明王」の例よりすれば、半年前の1月15日から17日にかけて不動明王を感見、同年の6月に記録したとしてもおかしくはないだろう。

 

【 愛染・不動の両明王を感見した場所は不明 】

建長6年1月、日蓮がどこにいたのかについては、従来の一般的な伝記等では「建長5428日の立宗後、清澄寺を追われた日蓮はすぐに鎌倉に向かった」としているものが多い。これによれば建長61月、日蓮は鎌倉にいたことになる。しかし、現在の他の考察はそれとは異なっている。

 

「日蓮聖人のご真蹟」(P43)等での中尾堯氏の考察によれば、建長61月、日蓮は下総の国八幡庄(千葉県市川市)にいたことになるだろうか。「日蓮攷」(P102)などでの高木豊氏の考察では、日蓮は建長693日まで清澄寺を退出しなかった、ことになる。また、寺尾英智氏も同様である(「鎌倉の日蓮をめぐる三つの日付」『図録・鎌倉の日蓮聖人』P146)。建長61月の日蓮は鎌倉、下総の国八幡庄、安房の国清澄寺、これらのどこにいたのだろうか。故に日蓮がどこで両明王を感見したものか?現段階では場所の特定はできていない、としておこう。

 

【 不動愛染感見記の初出 】

この「感見記」については、1560年・永禄3(日蓮滅後279)京都要法寺・日辰の「祖師伝・駿州富士山大石寺釈日目の伝」(富要5巻P33)に記録されているものが初見だろうか。

 

生身愛染明王拝見

正月一日日蝕の時  日形。

大日如来より日蓮に至る廿三代、嫡々相承。

建長六年六月廿五日、日蓮新仏に授く。

生身不動明王拝見

十五日より十七日に至る、月形。

大日如来より日蓮に至る廿三代、嫡々相承。

建長六年六月廿五日日蓮新仏に授く。

右の一紙日興日目に付属し玉ふ今房州妙本寺に在るなり。

 

(2) 真偽について

「不動・愛染感見記」を偽作とする見方もある。

以下、○は偽作説、*は私の考え

 

 

【 無量義経・方便品の経文 】

○無量義経には「四十余年 未顕真実」、法華経方便品第二には「正直捨方便 但説無上道」とある。その法華経=妙法蓮華経に帰命・南無すべきことを前年の建長5年に唱え始め、立宗宣言したばかりの日蓮が大日如来から相承を受けるなどということは、法義上あり得ないことである。

 

*「後世に作られ出来上がった日蓮像を崇める特定宗派」からすれば、そのような説になるのだろうか。特に「日蓮本仏信仰圏」では絶対化されている傾向が強いようだから、「大聖人様が立宗後に大日如来からの相承云々などは大謗法」と一喝されてしまうことだろう。

 

しかしながら、これまで何回も確認してきたように、建長5428日に何もかもが全て切り替わったわけではなく、この頃の日蓮は「中世の天台僧」「台密の僧・日蓮」であり、「他経典を排撃する法然浄土教・専修念仏」に対する批判を開始したばかり。立宗云々というのも後世の宗派的思考による「物語」であって、日蓮は法華経最第一を唱えつつ、天台宗・台密の諸経併存世界に包まれた天台僧だったのである。

 

法義上では「守護国家論」「災難対治抄」「立正安国論」などによると「法華真言未分」の立場、意として唱えるところは「比叡山・大乗仏教復興」だったのであり、日蓮の内面では当時の天台宗・台密の諸宗兼学の思想を多分に継承していた。法華経以外の諸経、特に密教系への批判が本格化するのは後の受難以降のことであり、建長6年に大日如来からの相承を受けたというのは、台密の僧であれば法義上からすればむしろ当然と考えられることではないか。

 

また、虚空蔵菩薩からの智慧宝珠授与は文献として残っているが、当時、神仏からの啓示を多くの求法者が受けていたのと同じく、修学から建長5年に「此の法門を申し始め」(P990 一谷入道御書 真蹟断片)てより暫くの「一求法者たる日蓮」に様々な神仏との感応道交、啓示があったとしても、この時代の中世天台僧としてはごく自然なことなのである。

 

【 「諸宗問答抄」の文 】

○建長7(1255)に系年される「諸宗問答抄」には、「大日如来の説法と云はば大日如来の父母と生ぜし所と死せし所を委く沙汰し問うべし、一句一偈も大日の父母なし説所なし生死の所なし有名無実の大日如来なり」(P32)とある。

大日如来について「有名無実」の存在と断定する日蓮が、その前年に「大日如来より日蓮に至る廿三代嫡々相承」などと書くであろうか。やはり、「不動・愛染感見記」は偽書ではないか。

 

*「諸宗問答抄」は三宝寺録外に初収録された遺文で真蹟は存在しないが、西山本門寺に日代本が蔵されている。「昭和定本」には「(前半部分の)如何まで西山本門寺蔵代師写本にて校了。」(P29)とあり、日代写本によって前半部を校合したことを記している。また日代写本の奥書きには「応永廿二年正月二十九日 日代上人御筆  治部阿闍梨授与之 日任 花押」(P29)とある。

 

これまで見てきた天台・台密の僧である日蓮という宗教的立場からすれば、建長7年に「有名無実の大日如来なり」と書くこと、また同年に「天台僧の日蓮が自らの天台宗を批判」することも考えづらい。このような場合、後年の「法華真言未分」の明らかな「守護国家論」(真蹟曽存)、「災難対治抄」(真蹟)と、法然浄土教禁断と大乗仏教復興の「立正安国論」(真蹟)とは異なり、矛盾する内容となる「諸宗問答抄」(孫弟子写本)では、当然のことながら孫弟子写本は採用不可となるか、系年の再考を要されることとなるだろう。「日蓮聖人遺文辞典」(P570)にも、「建長七年撰とされる本書に、真言宗批判のあるのは、この時期の他の遺文との違いであって、伝えられる撰述時期について、検討を必要とすることを提起している」とある。

 

更に、冒頭には「問うて云はく、法華宗の法門は天台・妙楽・伝教等の釈をば御用ひ候か如何。答へて云はく、最も此の御釈共を明鏡の助証として立て申す法門にて候」(P22)とあり、天台宗が問いを発して法華宗が答え指摘していく展開となっているが、この場合の法華宗とは文脈からして天台法華宗ではなく日蓮創立の法華宗と読めるが、果たして建長7年に日蓮が天台宗と区別して独自の法華宗を名乗り、またそう意識していたのだろうか。

 

・建長7年より5年後の文応年間(1260年~1261)、または「建長の末(1255年~1256)に書かれたもの」(山中喜八氏「日蓮聖人真蹟の世界・下」P225)と推定される「三部経肝心要文」 (池上本門寺蔵)に「天台沙門日蓮」と記していること。

 

・日興書写「立正安国論」(玉沢妙法華寺蔵)に「天台沙門日蓮勘之」の署名があること。

 

・建長7(1255)より11年後の、文永3(1266)16日に著した「法華題目抄」に「根本大師門人 日蓮 撰」と記し、最澄の門人であることを宣していること。

 

これら建長7年以降の「天台沙門」「根本大師門人」という日蓮自らによる「宗派の名乗り」を踏まえれば、「諸宗問答抄」冒頭の記述「法華宗」との矛盾が生じることとなり、このような場合、やはり真蹟・真蹟曽存遺文に基づく日蓮像構築が優先されるべきことになるだろう。

 

当書の文中(P31以下)真言三部経を説示した者について、釈迦如来なのか大日如来なのかを尋ね、真言信奉者が「釈迦如来」と答えれば「大日経等は四教を含有しており純円一実の法華経に劣る」と責めるべきこと。「大日如来」と答えれば「大日如来の父母、生じた所、死せし所を詳しく詰めて、大日如来は有名無実であって実在しないことを責めよ」としている。

 

日蓮が「諸宗問答抄」を書いたとするならば、真言破折の明確な当書の系年は、真言批判初出の「法門可被申様之事」(真蹟)の文永6年以降、そして天台宗の「念仏・戒・真言・禅という別の名言を出す道理なしとする立場を批判」しながらも、後の台密批判のように円仁ら人師の名を挙げてその教理を破することはないので台密批判の胎動期、即ち佐渡期頃になると考えられよう。しかし文中の従来とは異なる、天台宗を批判する観点から「日蓮一門」を「法華宗」とした表現は他の「真蹟・真蹟曽存遺文」には見られないようで、当書は日蓮が実際に書いたものであるといえるだろうか。

 

「法華本門宗要抄」は西山の日代によって、「日蓮滅後79年後の延文5(1360)に本書は聖人御作と称し下野国より出たが、『文句においては当家の助成たりと雖も一向聖作に非ず、偽書也』『日代門徒は許用するに足らず』」(日蓮聖人遺文辞典歴史編・P1043)として偽作と断じられている。「諸宗問答抄」についても、華厳、法相、三論、倶舎、成実、律の南都六宗、禅宗、念仏宗、更に真言宗を批判しながら、そこに天台法華宗も加えることによって「日蓮が法門(当書では法華宗の法門と書いた)」との相違を明らかにするために「法華本門宗要抄」と同様、日蓮入滅から程なくして作成された書である可能性もあるのではないか。当書を手にすれば、門下が他宗との問答に臨む際の理論上の、また精神的支柱となったことだろう。日蓮門下による文字通りの「諸宗問答用」の教本の一つとして、師日蓮に仮託して作成された可能性を有する書であると思う。

 

※日蓮が「天台宗」「法華一乗思想に基づく天台宗」を指して「法華宗」と呼んだ例は多い。

 

「神国王御書」(真蹟)

人王三十六代に皇極天皇の御宇に禅宗わたる。人王四十代天武の御宇に法相宗わたる。人王四十四代元正天皇の御宇に大日経わたる。人王四十五代に聖武天皇の御宇に華厳宗を弘通せさせ給ふ。人王四十六代孝謙天皇の御宇に律宗と法華宗わたる。しかりといへども、唯律宗計りを弘めて、天台法華宗は弘通なし。

人王第五十代に最澄と申す聖人あり。法華宗を我と見出して、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗等の六宗をせめをとし給ふのみならず、漢土に大日宗と申す宗有りとしろしめせり。同じき御宇に漢土にわたりて四宗をならいわたし給ふ。所謂法華宗・真言宗・禅宗・大乗の律宗也。しかりといへども、法華宗と律宗とをば弘通ありて、禅宗をば弘め給はず。(P879)

中略

人王五十四代仁明天皇の御宇に円仁和尚、漢土にわたりて、重ねて法華・真言の二宗をならいわたす。人王五十五代文徳天皇の御宇に仁寿と斎衝とに、金剛頂経の疏、蘇悉地経の疏、已上十四巻を造て、大日経の義釈に並べて真言宗の三部とがうし、比叡山の内に総持院を建立し、真言宗を弘通する事此の時なり。叡山に真言宗を許されしかば、座主両方を兼ねたり。しかれども法華宗をば月のごとく、真言宗をば日のごとくいいしかば、諸人等は真言宗はすこし勝れたりとをもいけり。しかれども座主は両方を兼ねて兼学し給ひけり。大衆も又かくのごとし。(P880)

 

「秋元御書」(日興写三行断片)

今法華宗の人人も又是くの如し。比叡山は法華経の御住所、日本国は一乗の御所領也。(P1737)

 

「本尊問答抄」(日興本)

然らば日本国中に数十万の寺社あり。皆真言宗也。たまたま法華宗を並ぶとも真言は主の如く法華は所従の如く也。若しくは兼学の人も心中は一同に真言也。(P1580)

 

【 日食の記録 】

○「愛染感見記」に「正月一日 日蝕之時」とあるが、同日の日蝕は記録にはない。

 

*今日の天文学に分類される日蝕そのものの現象というよりも、日中にもかかわらず気象の変化により太陽が見えなくなった、薄暗くなった等をかく表現した可能性もあるのではないか。

 

 

 

「吾妻鏡」には、鎌倉の同日の天候について「朝雪聊(いささ)か散る」と記録されており、この時日蓮がどこにいたのか前述のように確定はできないが、東京湾向かいの下総、安房にいたとしても一時的に曇り、雨、雪などの天候があったかもしれない。冬場の強い風である。雲の移動が早ければ、晴れ間も見えたり、雨、雪が急に降りだしたり、陽が陰ったりの不安定な天候も考えられるだろう。

 

日蓮は文永12310日の曾谷入道殿許御書」(真蹟)の文中、日本国に「法華経の大行者」がいるのではないか、それを謗る者には大罰、信じる者には大福があると力説するが、行者存在の所以を経典に説かれる「日月の難」に見るのである。

 

第一は日月の難なり。第一の内に又五の大難有り。所謂日月度を失ひ時節反逆し、或は赤日出で、或は黒日出で、二三四五の日出づ。或は日蝕して光無く、或は日輪一重二三四五重輪現ぜん。又経に云はく『二の月並び出でん』と。今此の国土に有らざるは二の日、二の月等の大難なり。余の難は大体之有り。今此の亀鏡を以て日本国を浮かべ見るに、必ず法華経の大行者有らんか。既に之を謗る者に大罰有り。之を信ずる者何ぞ大福無からん。」(P911)と日月の難の内に五つの大難が有るとし、その一つに「日蝕して光無く」を挙げる。

 

この「日蝕」はいつのことか定かではないが、「余の難は大体之有り」とそれは既に起きているとするのである。中世人は参籠した時など、深夜・明け方に神仏の啓示を受けているようだが、自然災害にまつわる現象を天変地異と恐怖して祈祷を行った当時の人々は、気象の変化にもただならぬものを感じていたようだ。

 

「吾妻鏡」の嘉禎3(1237)121日の項には、

戊寅 雨降る

日蝕正現せず。昨日天晴、夜半以後陰雲、丑寅の刻より雨降る。蝕時分に愛染金剛如法仏(五指量)を造立せらる。主計の頭これを奉行す。

とある。

 

続いて翌日122日には、

己卯

昨日蝕御祈り勤行の僧三人、今日御所に召され、各々銀劔一腰を賜う。伊勢の守定員これを奉行す。

となっており、祈祷により雲が出て雨が降ることを祈らせ、それが実現したことになれば、褒美を与えている。

 

1210日には、

丁亥

日月蝕及び天変重疊の御祈りの為、御所に於いて属星御祭を行わるべし。将軍家祭庭に出御有るべきに依って、今日晴賢これを奉仕せんが為参籠す。右大将家・右府将軍等の御時の例に任せ、重軽服の人々参入すべからざるの由仰せらると。

日蝕、月蝕、天変に関連して鎌倉御所で属星の御祭(属星祭)を行っている。

 

人間の手には負えない、眼には見えない「何かの力の支配下にこの世は存在している」かのような世界観だろうか。中世の人々は自然現象そのものの中にも、様々な神仏を見出したりしたのではないか。

 

参考だが、登山でたまに見ることができる不思議なものにブロッケン現象がある。山頂に立った時、太陽の反対側、谷の方などを見ると霧の中に浮かぶ我が影。それは谷を覆い、向こうの山頂に届かんばかりの巨大なる影であり、その周りには虹の輪がかかっている。その光景は自身が神仏と化し後光を放っているかのようだ。これは太陽光が見る人を通り越して、雲や霧によって散乱されて影の周囲に虹色の光輪となる現象なのだが、日本の山々が山岳修行僧等によって開かれると、この現象は御来迎(ごらいごう)と称されていた。後光射す阿弥陀如来像とイメージを重ねていたようだ。

 

中世は自然災害、疫病が頻発し死が間近にあった時代である。それらを科学的、医学的に分析、対処しようもなく、非力な人力も頼りにならず、事あるごとに神仏にすがりついた。個人が病気にかかったら占い、「物の怪」ならば加持祈祷、「疫気=疫神」ならば加持はなさず逆に祭っていずこかへと退散させたという時代である。今日と違い、人の五感の働きも活発であったろうし、一つの自然現象を見ても、感じ方が異なったことであろう。現代とは違い照明のない夜は闇深く、星空は満点に輝き、星座の運行にも何ものかを感じ取っていた。そして、人は誰もが今日以上の宗教的な思考により日常生活を営んでおり、そのような時代に我が身を置くような思いで考えれば、私は日蓮にかかる体験があった即ち「不動・愛染感見記」は真蹟と考えるのである。

 

※宮川了篤氏は論考「日蓮聖人にみる虚空蔵菩薩求聞持法の一考察」(日蓮教学の源流と展開・小松邦彰先生古稀記念論文集 2009 山喜房仏書林)にて、虚空蔵菩薩、日蓮と求聞持法、不動・愛染感見記等について論じられている。「日食」についても上田霊城氏の「真言密教事相概説」を引用して考察されている。

 

【 「身」「拝」「見」の字体 】

○「不動感見記」「愛染感見記」の「身」「拝」「見」の字体は、他の日蓮真蹟の字体とは著しく異っており、これら字体を検証しただけでも偽書たること歴然である。

 

*「虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために建長五年四月二十八日安房の国東条の郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして浄円房と申す者並びに少少の大衆にこれを申しはじめ」(P1134 清澄寺大衆中 真蹟曽存)た翌年、日蓮33歳という初期の字体と後年の字体の異なりを以て、偽書とするのはどうだろうか。

 

日蓮の曼荼羅を確認しよう。「御本尊集」NO234等の文永期の曼荼羅と、NO100以降となる弘安期の曼荼羅とは(相貌座配ということではなく)一見しただけでも筆使いが変化している。また、NO11NO56ではどうだろう。わずか4年でひげ文字(光明点)の伸びも大きく異なっている。NO9NO83などでは別人が書いたもののようにも見えてくる。

 

生身の不動明王、愛染明王を感見するということは常の精神状態と異なり、独特の境地でもあったことだろう。半年後、愛染、不動の姿を思い浮かべながら(絵像は日蓮自身が書いたか、画僧等心得のある者に依頼したかは不明だが)記録した時もまた、常の心持ではなかったのではないか。常の精神状態に非ざる時、常の字体と異なることもまた有り得ることだと思う。

 

(3) 日蓮の内面世界に摂し入れられた不動・愛染明王はやがて曼荼羅へ

【 天台僧=日蓮 】

*清澄寺には東密と台密の法脈があり、虚空蔵菩薩求聞持法を修する行者が集う霊場であった。

 

*日蓮は青年時代、虚空蔵菩薩求聞持法を修していたと思われる。

 

*また、日蓮は悪魔降伏、息災の修法である「不動法」「愛染法」も修したのではないだろうか。

金沢文庫古文書識語編には、日蓮と同時代の清澄寺における不動法修法の記録がある。

 

「不動法」識語

文永七年庚午二月廿二日 亥時書写了。寂澄春秋□二十九

 

「不動法」識語

文永七年八月十九日 寂澄春秋□二十九

 

*文応年間とされる「三部経肝心要文」では「天台沙門日蓮」と記し、文永3年の「法華題目抄」では「根本大師門人」、日興書写の「立正安国論」では「天台沙門日蓮勘之」と記している。

 

*正嘉3年・正元元年とされる「守護国家論」に見られるように建長5年以降、文永中期頃までは「法華真言未分」の立場である。

 

*天台大師講は文永34年頃から始まり、身延後期にも続いていた。身延山に十間四面の堂宇が完成したことを記録した「地引御書」(弘安41125日  真蹟曽存)に「坊は十間四面に、またひさし()()してつくりあげ、二十四日に大師講並びに延年、心のごとくつかまつりて、二十四日の戌亥(いぬい)の時、御所にすゑ(集会)して、三十余人をもって一日経か()きまいらせ、並びに申酉(さるとり)の刻に御供養すこしも事ゆへなし」(P1894)とあって導師・日蓮のもと、弘安41124日に天台大師講を修したことが知れるのである。

 

この弘安411月の天台大師講の記録により、日蓮は身延入山後に台密批判を展開するも文永10511日の「顕仏未来記」(真蹟曽存)で「三国四師」を宣した釈迦・智顗・最澄に連なる仏教上の立場であれば、釈迦仏を拝する仏弟子として、智顗・最澄を師とする天台一門の弟子としての「信行学」であったこと、即ち日蓮は「仏弟子として法華経信仰に生き抜いた」ということが理解できるのである。

 

尚、このようなところが日蓮理解の難しいところといえ、一方では「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし」 (P559 文永92月 開目抄 真蹟曽存)と学は劣るが信行では智顗・最澄を越えたとし、「日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗夢の如く一・二をば申せども、第三をば申さず候。第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了へず。所詮末法の今に譲り与へしなり。五五百歳とは是なり。」(P1589 富木入道殿御返事[禀権出界抄] 真蹟)と智顗・最澄も概略しか説けなかった第三の法門を初めて説き出す自己であるとしながらも、他方では天台大師講を修して両師を拝する天台一門の弟子であることを示すのである。

 

日蓮は天台法脈の弟子であるのか?智顗・最澄を越えた新しい導師であるのか?私として結論的に言えば「釈迦・智顗・最澄の法華経信仰の系譜に連なる仏弟子であり、久遠仏直参信仰を創り上げた導師」と考えるのだが、このような一見したところの「両面性」「両義併存」ともいうべきものは、他にも「人本尊か法本尊か」という「本尊論」でも言えることだろう。これも私の考えでは「人・法」=「釈迦仏・曼荼羅」両立が日蓮の本尊観だったというもので、日蓮は曼荼羅を本尊として図顕し特に「本尊問答抄」で「法勝人劣」的説示をしながらも、彼は釈迦を仏と信奉する仏弟子であり、仏の使い=如来使であることは遺文の随所に明示するところで、信仰上釈迦を拝したということは物理的にも拝したことを意味していると考えられるのではないだろうか。

 

まず現証として挙げられるのは、伊豆期以降の生涯に亘って「立像釈迦仏」を所持、拝し続けたということである。日蓮は独自の曼荼羅信仰世界を表出させたものの、それらは教主釈尊衣を以て之を覆ひたまはん」(P641 真言諸宗違目 真蹟)と釈迦仏の衣に覆われていたもの、釈迦仏を拝しての日蓮の法華経信仰世界なのだから、信仰的に帰命するのであれば物理的にも釈迦仏を拝するのは道理と考えられるのである。

 

実際的には、個々の門徒の「機」に応じて釈迦仏、または曼荼羅、そして釈迦仏・曼荼羅を拝したものではないだろうか。文応元年(1260)の「唱法華題目抄」にある「第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」(P202)との「たへたらん」との意に「人法本尊両立」の淵源があるように思うのである。このことは後に更に考えてみたいと思う。

 

いずれにしても、「一つの遺文だけで日蓮像を語ることはできない」ということで、彼の全体像を更に高所から俯瞰するような見方をしないと日蓮を捉えきれないのではないかと思うし、そのような作業はまた困難なのは勿論だが、「ただひたすらに日蓮に挑み続けるしかない」というのが気の遠くなるような、実は最短距離でもあるといえる答えなのだろう。

 

脇道にそれたが、「地引御書」では鎌倉時代、寺院での祝賀・法要の際に一山興隆・無病息災・国土安穏などを祈念、神仏に奉納の意を込めて修された延年の舞い(芸能)を身延山でも開催したことが記される。そして同じ日に法華経の書写行である一日経と供養を、「御所」(波木井実長邸か)で行っており盛大な法要だったことが窺われるのである。

 

*日蓮の明確な東密批判は文永6年、台密批判は身延期から始まる。

 

*このように文永8年末の佐渡配流以前までは、日蓮は天台沙門・根本大師門人として自らを位置付け自覚を持っていたのであり、一人の天台沙門が生身の愛染明王、不動明王を感見するのは当人ならではの宗教的感得であり、なんらおかしなところはないであろう。

 

*少年日蓮は「虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給ひて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給ひき」との体験をしており、愛染明王、不動明王の感見と併せ、遺文による限りは二度目の宗教的体験ということになろうか。また、後年(文永9)、佐渡に於いては蒙古襲来の夢想をしている。

 

文永91024

「夢想御書」(P660)

文永九年太才壬申十月廿四日夜夢想ニ云ク、来年正月九日

蒙古為治罰月相国大小可向等云云

 

*東密・台密では、大日如来から始まる相承が多様に記されており、日蓮が感得した際、どの相承によったのか文面には記されていないが、大日如来を祖にした相承の23代目であると、自らを密教の系譜の中に位置付けている。

 

参考

真言宗の法流の正系を示すのが「付法の八祖」である。

大日如来―金剛薩埵―龍猛菩薩―龍智菩薩―金剛智三蔵―不空三蔵―恵果阿闍梨―弘法大師

 

真言宗、日本伝来の祖師8人が「伝持の八祖」である。

龍猛菩薩―龍智菩薩―金剛智三蔵―不空三蔵―善無意畏三蔵―一行禅師―恵果阿闍梨―弘法大師

 

「渓嵐捨葉集」巻第五十一には、円仁・慈覚大師の血脈を掲げる。

慈覚大師印信血脈相承次第

大日如来 金剛手 掬多 善無畏 玄超 恵果 義真 慈覚

 

蘇悉地血脈相承

大日如来 金剛薩埵 龍樹 龍智 金剛智 不空 一行 恵朗 恵則 義操 義真 法全 円仁

 

このような事例と同じく、大日如来より当時の比叡山に至るまでの密教の相承に「不動・愛染を感見した」自己が23代目として連なることを、「自大日如来至于日蓮廿三代嫡々相承」と記しているのではないだろうか。

 

【 不動明王・愛染明王梵字の曼荼羅への配列 】

文永8912日、竜口の虎穴を脱した日蓮は佐渡に発つ前日の109日、相州本間依智郷(現在の神奈川県厚木市北部)において、初の曼荼羅(楊子御本尊)を図顕するが、以降の曼荼羅のほとんどに不動明王、愛染明王の梵字を欠かさないのは、日蓮が法華経と法華経の行者、更に信奉者守護の働きとして、両明王を法華経信仰世界に摂入し重要視していたことを意味するものであろう。真蹟がなく日朝本、三宝寺本の写本遺文で参考となるが、建治3823日とされる「日女御前御返事」(P1375)に「不動・愛染は南北の二方に陣を取り」との表現は、悪魔降伏、戦勝、息災という両明王の力有を端的に顕している。

 

日蓮が「大本尊」(万年救護本尊)として図顕し「上行菩薩出現於世 始弘宣之」()と初めて曼荼羅上に自らの内観を示し、後半生に心血を注いで顕した曼荼羅の多くに、何が故にかくまで不動・愛染を認め続けたのか

 

  

そこに若き日、清澄の深山において虚空蔵菩薩を感得、不動法、愛染法、虚空蔵菩薩求聞持法を修法、比叡山で台密を学び(恵心流椙生の学匠俊範に就学したとの山川智応氏の考察もある)17歳で「授決円多羅義集唐決上」を写し、30歳で「五輪九字明秘密義釈」を写した日蓮の姿を見るのである。

 

密教系の書物の写本をしたということは、その後の日蓮の思想からするならば批判と言うよりも認識をなすと同時に、そこに、取り入れるべき何ものかを見出すという観点があったのではないだろうか。日蓮は比叡山修学時代、諸宗兼学の台密の思考法を培っていたのである。

 

【 日蓮的摂入・包摂思想の集大成としての妙法曼荼羅 】

   唐本御影・伝聖徳太子二王子像 
   唐本御影・伝聖徳太子二王子像 

ここで想起されるのが「神仏習合」である。

538年または552年ともされる仏教公伝後、聖徳太子は蘇我・物部の戦いに臨んで四天王像を彫って戦勝を祈願。物部氏との戦いに勝利を収めて、国家の祭壇として593年・推古天皇元年に四天王寺を開創。仏教興隆の詔を発し、自らも「法華経」等の経典の解説を行い、仏像彫刻、仏教建築にも造詣を深くし、法隆寺を創建すると伝えるが、太子は日本古来の神を否定せず、607年・推古天皇15年には「敬神の詔」を出して神道にも理解を示し援助を行う。

 

聖徳太子は仏教の受持者だが、天皇家の一員としては日本古来の神々を守らねばならない。そのような矛盾を解決すべく考えだされたものだろうか、「神仏儒習合思想」が発案され、時代が下るにつれ洗練され磨きをかけられて、奈良時代では思想として体系化されていくようになる。

 

このような、既存のものと新来のものを合わせて共に生かしていくという思想、また思考法は以来、日本人、特に知識層、仏教者などには骨身にまで染み込んだことであろう。或る時は表に現れ、或る時は目に見えないところに沈み込みながらも思想は生き続け、継承されて、日蓮の時代には比叡山の台密・法華経と密教の共存、諸宗兼学、また「諸宗和合」「釈尊一代教説正法論」「有縁教法得道論」即ち「個々人は有縁の教法によって成仏できるのでありどの教えに対しても勝劣などこだわるべきではない」という思想が大勢となっていたのではないか。

 

    臨滅度時の曼荼羅 鎌倉 妙本寺蔵
    臨滅度時の曼荼羅 鎌倉 妙本寺蔵

日蓮は「法華経最第一」としながらも、台密の僧として上記のような信仰世界に身を置き、思想も継承していた。特に受難を経て曼荼羅を図顕する頃の日蓮には、包摂、摂し入れるという思想が顕著ではないだろうか。妙法曼荼羅にはインドより中国から日本にかけての諸仏、諸神、先師が勧請され、それぞれが力有を備えている。従来の仏菩薩、神々が日蓮に依って法華経、法華経の行者、信奉者守護の使命を課せられ再定義された、とも言えるのである。ここにおいて、曼荼羅の不動明王、愛染明王も同様ではないだろうか。「日蓮的摂入・包摂思想」の集大成が妙法曼荼羅だといえよう。

 

建長61月に感見した不動明王、愛染明王は、修学僧時代に比叡山・京畿などで見た密教の明王と同じ姿だったかもしれない。しかし、建長5年より妙法蓮華経を弘法するという新たなる境地となった日蓮の眼より見れば、それは法華経と行者守護の働きを使命としたもの、魔を降す力を有した明王だったのではないか。

 

 

 

そして、その後の数々の法難を経ながらの日蓮の内面世界の変化と共に、明王の位置付けも昇華され、いわば法華経信仰世界に摂り入れられた明王、妙法蓮華経の眷族としての明王との定義がなされていった。日蓮は自己の内面世界に摂し入れた不動明王・愛染明王に新たなる教理的役割を与えたが故に、その姿を具体的に梵字として曼荼羅に顕すこととした。故に文永8年以降の曼荼羅に、ほぼ欠かすことなく配列したものと考えるのである。

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