佐渡始顕本尊一考10・11

10 始顕本尊讃文に関連して

ここで、文永1078日の始顕本尊の讃文の一部

「此法花経大曼陀羅 仏滅後二千二百二十余年 一閻浮提之内未曾有之 日蓮始図之」

について、(始顕本尊実在論者として)いくつかの角度から考えてみよう。

 

(1)相貌座配中の勧請諸尊などには他の曼荼羅にはない、その曼荼羅のみのただ一つだけのもの表現もあり、讃文も同様ではないか。

    10番曼荼羅・系年不明

*相貌

首題 自署花押 四天大王 日月衆星

 

・伝承では「文永十一年三月十五日、佐渡真浦より越後柏崎に渡られる船中に於て、楊子を以て認めたまうところ」と伝えられる、通称「楊子御本尊、船中御本尊」の「日月衆星」は他にはない。

 

    13番曼荼羅・文永11725

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無分身等諸仏 南無善徳等諸仏

南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 文殊師利弥勒薬王等諸菩薩 舎利弗迦葉等諸大声聞 不動明王 愛染明王 無量世界大梵天王等 無量世界帝釈天王等 東方持国天王 南方増長天王 西方広目天王 北方毘沙門天王 無量世界大日天王等 無量世界大月天王等 大日本国天照太神八旛大菩薩等 無量世界四輪王等 龍樹菩薩 天親菩薩 天台大師 伝教大師 無量世界阿修羅王等 無量世界龍神王等 天熱提婆達多 鬼子母神 一名藍婆二名毘藍婆三名曲歯四名華歯五名黒歯 六名多髪七名無厭足八名持瓔珞九名皇諦十名奪一切衆生精気 未生怨阿闍世大王

 

・諸天・龍王・阿修羅王に「無量世界」を冠している曼荼羅は他にはない。

・天照太神・八幡大菩薩に「大日本国」を冠している曼荼羅は他にはない。

・「東方持国天王 南方増長天王 西方広目天王 北方毘沙門天王」と、四天王に東西南北の方位を冠している曼荼羅は他にはない。

・「天熱」提婆達多・「未生怨」阿闍世大王と表記する曼荼羅は他にはない。

・文永年間の曼荼羅(現存27幅、身延曽存6)については、この一幅以外は全て総帰命式であるのに、当曼荼羅のみが釈迦・多宝等の諸仏と四菩薩に「南無」を冠し、迹化菩薩・諸大声聞・先師には「南無」を冠していない。

・「大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間 雖有経文一閻浮提之内未有大曼 陀羅也得意之人察之」との讃文も特異。

・山川智応氏は「蒙古調伏の意を存したまう」とする。

 

16番曼荼羅・通称「万年救護御本尊」・文永1112

*讃文

大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無十方分身諸仏 南無善徳仏 

南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 南無文殊師利菩薩

南無普賢菩薩 南無弥勒菩薩 南無薬王菩薩 南無迦葉尊者 南無舎利弗尊者 不動明王

愛染明王 南無大梵王 南無天帝釈 南無日月天等 南無天照八幡等諸仏 南無天台大師

南無伝教大師 

 

・讃文中「大本尊」と称したのはこの曼荼羅のみ。他は「大漫荼羅」「大曼陀羅」を用いる。

 

    17番曼荼羅・通称「朗尊加判御本尊」・系年不明

*相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行菩薩 南無浄行菩薩

南無無辺行菩薩 南無安立行菩薩 不動明王 愛染明王

 

・分身諸仏を略す、四菩薩の位次が通例と異なる。

通例では右方「南無上行菩薩 南無無辺行菩薩」、左方「南無浄行菩薩 南無安立行菩薩」と配されるのが、当曼荼羅は右方「南無上行菩薩 南無浄行菩薩」、左方「南無無辺行菩薩

南無安立行菩薩」となっている。

・「遠沾亨師臨寫御本尊鑑」(P18)では、無記年の同型(寸法もほぼ等しい)曼荼羅の身延曽存を伝える。

・建治元年10月の新曽妙顕寺蔵・26番曼荼羅は、右方を「南無無辺行菩薩、南無上行菩薩」と次第しており通例の逆となっている。

 

以上、確認したように「ただ一つしかない勧請諸尊」「一つしかない表現」「一つしかない座配」だからといって「偽作とは言い切れない」ということがいえると思う。

 

(2)ある時に認められたものが、数年の隠没の後、再び認められる場合もある

文永11725日の13番曼荼羅では、提婆達多と阿闍世大王が初めて列座するも、その後は全く認められず。文永・建治を越えて、弘安年間に至って再現する。阿闍世大王は弘安元年8月の53番「日頂上人授与の曼荼羅」で明星天王の初出と共に再現、弘安22月の60番「釈子日目授与の曼荼羅」では、龍王女の在座と共に提婆達多が再現する。

 

始顕本尊を見ると、佐渡期の文永1078日という早い段階で「此法花経大曼陀羅 仏滅後二千二百二十余年 一閻浮提之内未曾有之 日蓮始図之」と、文永末から建治にかけて定形化していくような長文の讃文が認められている。次の長文の讃文は、一年後の文永11725日の13番曼荼羅で、「大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間 雖有経文一閻浮提之内未有大曼 陀羅也得意之人察之」となる。これを以て不審とするも、上記、「提婆達多」と「阿闍世大王」の隠没の例もあり、特別に不審点として挙げることでもないと考える。

 

また、讃文のかような表現については確かに始顕本尊が初めてではあるが、二か月前の「観心本尊抄副状」を検討すれば、その時点で、その後に認められる讃文の意が含まれているのではないかと考えられ、佐渡期において始顕本尊の如き讃文があることについて、なんらおかしくはないことが認識できると思う。

 

(3) 「観心本尊抄副状」と始顕本尊讃文

文永10426日、「観心本尊抄」を富木常忍・大田入道・教信御房等に送付した際の「観心本尊抄副状」(P721 真蹟)始顕本尊讃文を比較してみよう。 

 

・観心本尊抄副状

帷一つ、墨三長、筆五管給び候ひ了んぬ。観心の法門少々之を註し、太田殿・教信御房等に奉る。此の事日蓮当身の大事也。之を秘して無二の志を見ば之を開拓せらるべきか。此の書は難多く答へ少なし、未聞の事なれば人の耳目之を驚動すべきか。設ひ他見に及ぶとも、三人四人座を並べて之を読むこと勿れ。仏滅後二千二百二十余年、未だ此の書の心有らず、国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す。乞ひ願はくば一見を歴来たるの輩、師弟共に霊山浄土に詣でて、三仏の顔貌を拝見したてまつらん。

 

始顕本尊

此法花経大曼陀羅 仏滅後二千二百二十余年 一閻浮提之内未曾有之 日蓮始図之

 

 

(副状) 此の事日蓮当身の大事也・此の書の心・之を演説す

(本尊) 此法花経大曼陀羅

 

(副状) 仏滅後二千二百二十余年

(本尊) 仏滅後二千二百二十余年

 

(副状) 此の書は難多く答へ少なし・未聞の事なれば人の耳目之を驚動すべきか・未だ此の書の心有らず

(本尊) 一閻浮提之内未曾有之

 

(副状) 国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す

(本尊) 日蓮始図之

 

このように「観心本尊抄副状」の文章表現を要約したものが始顕本尊讃文といえ、これは一つ始顕本尊のみならず時を経て定形化していく他の讃文にも同じことが言えると思う。一面からすれば、日蓮は文永10425日の「観心本尊抄」で妙法曼荼羅を顕し、426日「観心本尊抄副状」で曼荼羅讃文を顕したともいえるだろうか。

 

11 まとめ

現在に残る真蹟曼荼羅に依る限りでは、文永107月前後に、始顕本尊の如き相貌・座配、讃文の曼荼羅は見当たらない。通称「佐渡百幅本尊」と称される、在座列衆・諸尊の少ないものばかりである。

 

佐渡期において、日蓮は台密・天台宗への一定の配慮・期待・評価による従来の「天台沙門」的観念を越えて、日本国において法華経の最第一を真に知り身で読んだ、ただ「一人」として「法華経の行者」「如来使」であることを自覚。自己の力量による衆生成仏への具体的行動を開始した。その第一に挙げられるのが妙法曼荼羅の図顕である。

 

当時の日蓮を取り巻く状況、遺文から汲み取れる日蓮の心情、また「開目抄」「観心本尊抄」「観心本尊抄副状」を併せ見れば、文永107月には、日蓮は本格的に曼荼羅を図顕して然るべき時となっている。

 

いつ謀殺、死罪に処せられるかもしれない日蓮の身の上は、日蓮自身が痛切に実感していたはずである。ここで「此の事日蓮当身の大事なり」と併せて考えれば、日蓮は自身なきあとの自己、日蓮の当体ともいうべき実体として曼荼羅を図顕したとも考えられる。それは、文永10425日の「観心本尊抄」から遠くない日に実行されたことであろう。

 

始顕本尊の讃文は特異ではあるが、現存真蹟曼荼羅の列衆、讃文においても「特異」「一つしかない」「このような組み合わせは他に例がない」「隠没して暫く後に出現」というものがあり、今日のように全体を俯瞰できる位置から、相貌・座配、傾向を調べて分析をしても、曼荼羅は日蓮の内観世界を示しているものでもあることを踏まえなければならず、研究者の思考の中だけでは断定し切れない、慎重なる検討を要するものである。

 

「観心本尊抄副状」の文意は始顕本尊讃文と符号しており、その後の曼荼羅讃文にも通じている。始顕本尊讃文は特異というよりも、「観心本尊抄副状」を曼荼羅相貌中に具体的に顕していると考えられる。

 

日蓮は、始顕本尊を以て「観心本尊抄」中の曼荼羅の文を事実の上に顕し、一切衆生皆成仏道の本尊を確立。続いて自らの命につき「いつかは」と覚悟するも、結局は命根尽きることなく無事に鎌倉へと帰還。しかし、自らの存命中には広宣流布の大願成就、立正安国の仏国土実現すること叶わずの現実を知り、一時は隠棲の思いで身延へ入山。そこで11番曼荼羅を図顕する。その後の時の経過、また文永1110月の蒙古襲来というかねてから予見していた他国侵逼難の現実化、国家的大事件の時に当たり、新たなる展開を期して法の久住、弟子檀越・門下の育成に励むと共に、「本尊」としての曼荼羅の図顕に心血を注ぐようになったのである。

 

追記

身延山久遠寺21代・日乾(にっけん、永禄3年[1560]~寛永12年[1635])は、かつて身延山に蔵した「立正安国論」を模写している。その文字は日蓮の字体を丁寧に模したもので、20紙の両紙に、題号を入れて401行で書かれていた。日乾は慶長8年(1603)10月15日付けで「身延山久遠寺御霊宝記録」を著して、身延山にあった日蓮真蹟の整理・保存に力を入れ、日蓮真蹟の継承に貢献をしている。このような日乾が佐渡始顕本尊を模写していることがわかり、その模写本が「本満寺宝物目録」(2010 立正大学日蓮教学研究所)に紹介された。丁寧な運筆で模写された日乾本の確認により、佐渡始顕本尊の曽存に強い説得力が加わったといえるだろう。

                                                                       (2011.7.3)                

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