佐渡始顕本尊一考 4

4 「開目抄」と「観心本尊抄」そして始顕本尊

仏が「我が滅後末法に入らずば此の大法いうべからず」(P1447 三沢抄)と制した此の法門出現」(P1447 三沢抄)の内実を記したものが「開目抄」であり「観心本尊抄」ではないだろうか。

 

「開目抄」では「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑(ねうし)の時に頸はねられぬ。此は魂魄(こんぱく)佐土の国にいたりて返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそ()ろしくてをそろ(恐怖)しからず。み()ん人、いかにを()ぢぬらむ」と記している。文の意については、「日蓮という者は去年の九月十二日子丑の時(午後11時から午前3時頃)に首を刎ねられた。当抄は、日蓮の魂魄が佐渡の国に到り、次の年の2月に雪中の塚原で記して有縁の弟子達に送るものである。恐ろしいように思うかもしれないが、不惜身命の法華経の行者にとっては恐ろしくはない。しかし、法華経の行者のような決定心を持たない人が、この書を見れば、どれほどか怖気づくことであろうか」と私は読むが、特に日蓮は自己を「首を刎ねられた魂魄」として、その前提で当抄を記しているのである。

 

これは、「死罪に処せられて」「魂となって」という物理的な意味合いよりも、受難による法華経との一体化「日蓮即法華経」=文字通りの「南無・妙法蓮華経」の境地を成し遂げて、「法門申しはじめ」て以来の、一つの到達点に達していることを示しているのではないだろうか。

 

その「新たなる境地」を確立した日蓮は「当世、日本国に第一に富める者は日蓮なるべし。命は法華経にたてまつる。名をば後代に留むべし」(P589 開目抄 真蹟曽存)と、雪中の流人の身でありながら、実は日本国中で第一の富める者、即ち、法華経と一体化し法華経の行者(上行菩薩であることも秘めて)として内面境涯の確立された者となったのであり、その名は後代に留められるであろう、としている。

 

そして「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(P601 開目抄)との三大誓願へと到っていく。

 

だが日蓮自身は到達点に達しても、一人満足に浸ることは許されず、そのような者であればこその次なる責務、弟子檀越に対する教導、衆生への妙法の弘法というものがあった。

 

日蓮は「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(P539 開目抄)と、法華経の本門である如来寿量品第十六の文の底に一念三千を見出す。そして久遠の仏によって成就されている一念三千を、法華経を介して衆生のものとなすべく、具体的な救済論として確立し、「観心本尊抄」において「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」(P720 真蹟)受持即観心により、末法の衆生は久遠仏の功徳力に潤うことを訴える。

 

この「観心本尊抄」では「妙法曼荼羅」の相貌を示し、少し前では「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。四大声聞の領解に云はく『無上宝聚、不求自得』云云」(P711)自然譲与を、そして「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為りて一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に末だ此の本尊有さず」(P720)と、一閻浮提第一の本尊が立つことを宣言している。

(一閻浮提第一の本尊は「観心本尊抄一考」で見たように、仏本尊・一尊四士と法本尊・曼荼羅であると考えている)

 

この背景には、死罪・流罪という受難によって法華経の行者としての自己の仏教上の立場が明確となり、それまで抱いていた天台宗・台密に対する一定の配慮、期待というものを越えて「日蓮(我れ)による衆生救済の時となった」との強烈なる自覚というものがあったのではないだろうか。

 

一切衆生皆成仏道の導師、救済者は、明確に日蓮となったのであり、「開目抄」の三大誓願「我は日本の柱、眼目、大船」の精神に立脚して「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」との宣言を発し、国主帰依の本尊ともいえる一尊四士が造立されることを待望しながら、日蓮自らが直ちに成しえること、即ち曼荼羅の図顕を始めたと考えるのである。

 

しかし、いつ再びの死罪に処せられるかも分からない日蓮である。であればこそ一刻も早く、我れの存在が無くなったとしても、永遠に生き続ける我れ=曼荼羅を顕さなければならない。それが「佐渡始顕本尊」ではないかと考えている。

 

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