「国主帰依の本尊」一考 

【 日蓮は何を国主帰依の本尊と考えていたのか 】

ここで考えたいのは、日蓮の勘文=立正安国論が受け入れられて、得宗・(前の第5代執権)北条時頼を始めとして、執権、連署、評定衆、引付衆などの幕府高官達が法華経受持に及んだ時、日蓮は何を本尊としようとしていたのか?ということだ。それは文応元年(1260)だけでなく、以降も含めての疑問となるが。

 

これは仮定の設問であり、今となっては各方面で論じることもないようだが、当時の日蓮の本尊観を知ることは滅後の弟子達の分裂の一因となった「本尊問題」(日興と門流が一方的に他の一弟子五人を批判しただけであり、他からは相手にもされなかった。しかし、日興とその門流は、一弟子五人の門流と和合して法華弘通を成さない最大の理由としている。というのが私の認識だが)の一端の究明にもなると思われ、決して意味のないことではないと考えるのである。

 

まず、「立正安国論」の意とするところは、「若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし怱いで対治を加へよ」(P225)であり、具体的には一切の災難の根源である謗法=念仏への供養の停止と帰依を断つことである。

主人の曰く、客明らかに経文を見て猶斯の言を成す。心の及ばざるか、理の通ぜざるか。全く仏子を禁むるに非ず、唯偏に謗法を悪むなり。夫釈迦の以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能仁の以後の経説は則ち其の施を止む。然れば則ち四海万邦一切の四衆、其の悪に施さずして皆此の善に帰せば、何なる難か並び起こり何なる災か競ひ来たらん。(P224)

 

そして法然浄土教を禁断し、天台宗復興、大乗仏教再興と共に日蓮を登用し「国中安穏・天下泰平」を願うことである。

主人の曰く、余は是頑愚にして敢へて賢を存せず。唯経文に就いて聊所存を述べん。抑治術の旨、内外の間、其の文幾多ぞや。具に挙ぐべきこと難し。但し仏道に入りて数愚案を廻らすに、謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん。(P220)

 

更には為政者が法華経を信仰することによる日本国の仏国土化である。

汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし。(P226)

 

「立正安国」の実現は諸経に照らして一国の猶予も許されないことであり、権力者の我が身一身のみの安泰などは有り得ないと日蓮は諌める。

他方の賊来たりて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや豈騒がざらんや。国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。汝須く一身の安堵を思はゞ先ず四表の静謐を祈るべきものか。(P225)

 

ここまで為政者に対して法華勧奨をしながら、彼らが帰命すべき本尊を日蓮は考えていなかった、ということは考えられないと思うのだ。

 

【 北条一門 】

             鎌倉 建長寺 仏殿
             鎌倉 建長寺 仏殿

当時の北条一門の主要人物を概観してみよう。

 

北条時頼は宝治2(1248)、禅僧・道元を鎌倉に招いている。建長5(1253)11月、南宋より渡来の禅僧・蘭渓道隆(大覚禅師)を招き建長寺を創建。続いて同じ南宋の渡来僧・兀庵普寧(ごったんふねい)を招じて建長寺2世として師事、参禅してその教えを受けるようになる。

 

           建長寺・梵鐘の鐘銘・・・・・建長禅寺住持宋沙門道隆・・・・・
           建長寺・梵鐘の鐘銘・・・・・建長禅寺住持宋沙門道隆・・・・・
          建長寺仏殿・地蔵菩薩像
          建長寺仏殿・地蔵菩薩像

 

 

 

  

建長寺では地蔵菩薩を本尊とするが、兀庵普寧は「自己より下位たる地蔵菩薩の礼拝はなさず」としていたことが伝承されている。

 

          建長寺・法堂の釈迦苦行像と千手観音像
          建長寺・法堂の釈迦苦行像と千手観音像

 

 

北条時頼と子の時宗は、日蓮が「守護国家論」で「禅宗等の人云く『一代聖教は月を指す指・天地日月等も汝等が妄心より出でたり十方の浄土も執心の影像なり釈迦十方の仏陀は汝が覚心の所変・文字に執する者は株を守る愚人なり。我が達磨大師は文字を立てず方便を仮らず一代聖教の外に仏迦葉に印して此の法を伝う法華経等は未だ真実を宣べず』」(P133)と記した禅宗の熱心な信奉者だった。

             鎌倉 浄光明寺
             鎌倉 浄光明寺

 

 

  

「立正安国論」進呈時、かつ伊豆配流の時の第6代執権・北条長時は、建長3(1251)に浄光明寺を創建して開山に真阿(真聖国師)を迎え、浄土、真言、華厳、律の四習兼学の寺としたことが伝えられている。長時は文永元年(1264)に死去、浄光明寺に葬られている。

             鎌倉 極楽寺
             鎌倉 極楽寺

長時の父親・北条重時(2代執権・北条義時の三男)は連署として北条時頼を補佐し、正元元年(1259)、極楽寺を藤沢より鎌倉に移して隠居、極楽寺殿と呼ばれている。弘長元年(1261)、同寺で没する。

 

建治3(1277)1120日の「兵衛志殿御返事」(P1406 真蹟)には、「極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし、念仏者等にたぼらかされて日蓮を怨ませ給いしかば、我が身といい其の一門皆ほろびさせ給う。ただいまはへちご(越後)の守殿一人計りなり」とあり、念仏者に近い人物だったことが窺われる。尚、重時の死後、浄土宗であった極楽寺は真言律宗に改められ、良観に寄進されている。

 

            鎌倉 円覚寺 選仏場
            鎌倉 円覚寺 選仏場

「安国論御勘由来」を法鑑房に報じた文永5(1268)は、7代執権・北条政村(2代執権・北条義時の五男)より第8代執権・北条時宗に代替わりした年である。時宗は父・時頼と親交のあった蘭渓道隆、兀庵普寧そして同じ禅僧の大休正念にも学んだと伝えられる。弘安5(1282)には、元寇戦没者の追悼の為に宋の禅僧・無学祖元を招いて円覚寺を創建している。これら北条各氏の仏教宗派は禅、真言、浄土、律等と多彩なものになっており、江戸時代に見られるような「家の宗教」というよりも、「個人としての宗教」であった中世の特色を示しているように思われる。

 

【 日蓮の宗教的世界観 】

一方、日蓮の宗教的世界観では、釈迦こそが三界の国主であり、一切衆生の師匠・親であるとして遺文に記している。

 

文永12(1275)2(建治3[1277]821)「神国王御書」(P881 真蹟)

仏と申すは三界の国主、大梵王・第六天の魔王・帝釈・日月・四天・転輪聖王・諸王の師なり、主なり、親なり。三界の諸王は皆此の釈迦仏より分かち給ひて、諸国の総領・別領等の主となし給へり。故に梵釈等は此の仏を或は木像、或は画像等にあがめ給ふ。須臾も相背かば梵王の高台もくづれ、帝釈の喜見もやぶれ、輪王もかほり落ち給ふべし。

神と申すは又国々の国主等の崩去し給へるを生身のごとくあがめ給う。此又国王・国人のための父母なり、主君なり、師匠なり。片時もそむかば国安穏なるべからず。此を崇むれば国は三災を消し七難を払ひ、人は病なく長寿を持ち、後生には人天と三乗と仏となり給ふべし。

 

*仏というのは三界の国主であり、大梵天王、第六天の魔王、帝釈天王、日月天、四天王、転輪聖王及び諸王の師であり主であり親なのである。三界の諸王は皆、釈迦仏より分けいただいて諸国の総領・別領の主となったのである。故に大梵天王、帝釈天等は釈迦仏をあるいは木像、あるいは画像として崇めているのである。もしわずかでも釈迦仏に背くならば、大梵天王の高台は崩れ、帝釈天王の喜見城も破れ、転輪聖王の宝冠も地に落ちてしまうことであろう。

神というものは、国々の国主等が崩御されたのを生身の如くに崇め奉っているものである。神もまた現在の国王や人々の父母であり、主君であり、師匠なのである。片時でも神に背くことがあるならば、国は安穏とはならないのである。神を尊崇するならば、国は三災を消し、七難を打ち払い、人々は病に侵されることなく長寿となり、後生には人界、天界、三乗(声聞・縁覚・菩薩)、仏となることであろう。

 

 

日本の朝廷やそれを凌ぐ権勢をふるった鎌倉幕府の執権、高官と雖も、三界の国主たる釈迦仏より「分かち給」わって、「諸国の総領・別領等の主」となっている。即ち世俗的権威は宗教的法威に劣り、世俗的権力は宗教的法力に従い、世俗的階層は宗教的世界に内在されてしまう、というものが日蓮の宗教的世界観ともいえるだろうか。宗教的思考が世俗的思考を超越しているのである。このような世界観、宗教的思考であれば、鎌倉幕府の膝元での日蓮の激しい法華勧奨の活動も、臆しためらうことなき国主への勘文の提出も日蓮にとっては至極当然のことであり、また、その後の受難というものも日蓮の将来展望では既定路線、「法華経伝道者たるの証明として必要なもの」としていたように見られるのである。日蓮が権力に対する時、謗法諸宗禁断・法華受持勧奨という権力者の宗教観の覚醒と同時に、「三界の国主たる釈迦仏より分かち賜って、今、日本国の為政者としてそこにある」という一国の指導者としての社会観の覚醒、宗教的使命を自覚することによる善政を促す意が含まれていたのではないだろうか。

 

※注

◇三界=欲界、色界、無色界のこと

 

① 欲界=種々の欲望が渦巻きそれに捉われた有情世界。地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界の一部である六欲天をいう。

 

< 欲界・六欲天 >

地居天=

・四大王衆天(六欲天の初天で帝釈天の外将 須弥山の中腹・由犍陀羅山にある四頭を欲界六欲天の最下・四天王・四大王衆天といい、その主が四天王とされる。東方持国天王、南方増長天王、西方広目天王、北方多聞天王)

・忉利天(六欲天の第二天  須弥山山頂、閻浮提の上8万由旬に位置し帝釈天の住処  三十三天とも)

 

空居天=

・夜摩天(六欲天の第三天 時に随い快楽を受ける処  焔摩天とも)

・兜率天(六欲天の第四天 須弥山山頂12由旬の処  覩史多天とも)

・化楽天(六欲天の第五天 自己の対境・五境を変化して娯楽の境地とする天  楽変化天とも)

・他化自在天(六欲天の第六天で最高位  欲界の天主大魔王たる第六天魔王波旬[悪魔]の住処)

 

② 色界=種々の欲望から離れたが色(物質的制約)に捉われている有情の世界。天界の一部である四禅天をさす。

 

< 色界・四禅天 >

初禅天=

・梵衆天(大梵天王の領地する天衆)

・梵輔天(大梵天王の輔相の臣下たる天)

・大梵天(色界四禅天の中の初禅天に住し色界及び娑婆世界を統領している天)

 

第二禅天=

・少光天(身体から光明を放つ天)

・無量光天(身体から無量の光明を放つ天)

・光音天・極光浄天(口中より浄光を放ち音声となす天)

 

第三禅天=

・少浄天(意識清浄、喜びに満ちる[楽受]天 身長16由旬 寿命16)

・無量浄天(意識清浄、無量の喜びに満ちる[楽受]天 身長32由旬 寿命32)

・遍浄天(浄光が遍く周り、快楽と清浄も遍く周る天 身長64由旬 寿命64)

 

第四禅天=

・無雲天(雲上の無雲処にいる天)

・福生天(福徳により生ずる天 身長250由旬 寿命250)

・広果天(心想なき有情である天)

・無煩天(欲界、色界の苦楽を超越した煩いなき天)

・無熱天(依処なく清涼自在、熱き煩いなき天)

・善現天(善妙の果報が現れる天)

・善見天(自由自在に十方を見渡すこと障碍なき天)

・色究竟天(欲望と物質の存在なき精神世界・無色界の手前、清浄なる物質・肉体の存在する色界の最上位の天)

 

③ 無色界=欲望と物質的制約から離れた精神世界であり天界のうち四空処天をさす。

 

<無色界・四空処天 >

・空無辺処天=無色界の下から一番目、物質的存在のない空間における無限性の三昧の境地

・識無辺処天=下から二番目、認識作用における無辺性について三昧の境地

・無所有処天=下から三番目、いかなるものの存在もない三昧の境地

・非想非非想処天=天界のうち最高の天、有頂天とも

 

◇帝釈天王=ヴェーダ神話上の最高神で雷神、欲界第二忉利天の主、須弥山の頂の喜見城に住す、他の三十二天を統領する

 

◇日月天=日天子は日宮殿[太陽]に住む天人、月天子は月を宮殿とする天人

 

◇転輪聖王=七宝・三十二相を備える人界の王で天から輪宝を感得。これを転じながら障害を砕き、四方を調伏していくという武力によらず、正法により一閻浮提を統治するインド古来の伝説上の理想の王

 

◇梵王の高台=初禅天の第二・梵輔天にある高台閣であり大梵天王の住処

 

【 娑婆世界・教主釈尊の御所領、一切衆生は釈尊の御子 】

建治元年(1275)58日「一谷入道御書」(P992 真蹟)

娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり。大地・虚空・山海・草木一分も他仏の有ならず。又一切衆生は釈尊の御子なり。譬へば成劫の始め一人の梵王下りて六道の衆生をば生みて候ひしぞかし。梵王の一切衆生の親たるが如く、釈迦仏も又一切衆生の親なり。又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし。父母を知るも師の恩なり。黒白を弁ふるも釈尊の恩なり。

 

*鎌倉幕府が支配しているかのような日本の国土も、実は「娑婆世界」の一部にすぎず、その娑婆世界というものは「五百塵点劫」という長遠の彼方より今に至るまで、「教主釈尊の御所領」である。「大地・虚空・山海・草木一分」も他仏のものではなく、また「一切衆生は釈尊の御子」なのである。それを譬えれば、世の始まりの時に一人の大梵天王が天より降り来たって六道の衆生を生んだ、という経典と同じものである。大梵天王が一切衆生の親たるが如く、釈迦仏もまた一切衆生の親である。日本国の一切衆生のためには、教主たる釈尊は明師なのである。父母への報恩、孝養を知るのも師たる釈尊の教えによる恩である。物事の善悪、分別を弁えられるようになるのも師匠釈尊の恩である。

 

※注

◇成劫=世の誕生から破壊に至るまでの仏教上の四つの段階の始めをいう。

成劫=世界(国土)、生物の形成期

住劫=世界が存続、生物が営みをなす期間

壊劫=世界、生物が崩壊していく期間

空劫=世界、生物が無くなり空となる期間

 

◇一人の梵王下りて=「阿毘達磨倶舎論=倶舎論」(世親=天親著)に大梵天王が天より娑婆世界に降り来たって、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道の衆生を生んだことが説かれる。

 

◇世親=インドの仏教僧でインド名ヴァスバンドゥ、四世紀~五世紀の人。兄・無着(アサンガ)の勧めで部派仏教の説一切有部より大乗仏教に転じ、瑜伽行唯識学派の教学の大成者となる。「阿毘達磨倶舎論」は説一切有部時代のものでその教義を体系化した論書。唯識学派時代には「唯識二十論」「唯識三十頌」を著す。浄土三部経の一つ「無量寿経」をもとに「無量寿経優婆提舎願生偈=浄土論・往生論ともいう」を著し、浄土真宗では七高祖の第二祖とし、天親菩薩とも呼ぶ。

 

 

日蓮は「撰時抄」で妙法蓮華経を一閻浮提に流布させるべきことについて「今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり」(P1007)と記し、南無阿弥陀仏が日本国に流布している様相の如くに妙法蓮華経を弘法すべきことを説く。更に同抄に「此の名号を弘通する人は、慧心は往生要集をつくる、日本国三分が一は一同の弥陀念仏者。永観は十因と往生講の式をつくる、扶桑三分が二分は一同の念仏者。法然せんちやくをつくる、本朝一同の念仏者。而かれば今の弥陀の名号を唱ふる人々は一人が弟子にはあらず。此の念仏と申すは双観経・観経・阿弥陀経の題名なり。権大乗経の題目の広宣流布するは、実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや。心あらん人は此れをすい(推)しぬべし。権経流布せば実経流布すべし。権経の題目流布せば実経の題目も又流布すべし。」(P1047)と記し、南無阿弥陀仏の日本国に流布している様相を「権大乗経の題目の広宣流布」として、それは「実大乗経の題目」南無妙法蓮華経の広宣流布する序であるとしているのである。

日蓮が「広宣流布」というほどに南無阿弥陀仏は日本国に広まっていたのであり、そのことは浄土思想の蔓延を意味していよう。日蓮当時には、諸行往生の立場にある「観想念仏」の天台浄土教等ではなく、法然の説く「専修念仏」の実践が世に遍く流布していた。「撰時抄」には「設ひ法然が弟子とならぬ人々も、弥陀念仏は他仏ににるべくもなく口ずさみとし、心よせにをもひければ、日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり。此の五十年が間、一天四海一人もなく法然が弟子となる。法然が弟子となりぬれば、日本国一人もなく謗法の者となりぬ」(P1032)と法然浄土教の隆盛が記されている。

そして、「専修念仏」の理論的根拠たる「選択本願念仏集」も、延応元年(1239)、建長3(1251)に出版されていた。法然が説く「専修念仏」とは、あらゆる人は南無阿弥陀仏と唱えれば(称名念仏)西方極楽浄土への往生が叶う、それは臨終の時に決定されるというものであり、この教えの流布は即ち、西方の遥か彼方にあるとされる阿弥陀如来が治める極楽浄土への待望、渇仰というものが国に満ちていたことを意味しているだろう。民衆は「所化の衆、此の邪義を知らざるが故に、源空を以て一切智人と号し、或は勢至菩薩、或は善導の化身なりと云う」(正元元年[1259] 守護国家論 定P119 真蹟曽存)と法然房源空を崇め、更に「阿弥陀仏の化身とひびかせ給ふ善導和尚の云く十即十生・百即百生乃至千中無一と。勢至菩薩の化身とあをがれ給ふ法然上人、此の釈を料簡して云く末代に念仏の外の法華経等を雑ふる念仏においては千中無一、一向に念仏せば十即十生と云云」(文永9[1272] 四條金吾殿御返事・梵音声書、定P663 日興本)との善導と法然の教えを信ずることについては、「日本国の有智・無智仰ぎて此の義を信じて、今まで五十余年一人も疑ひを加へず」()というものだった。ということは、仏菩薩というものは現実の娑婆世界で出会うというよりも、彼岸世界で邂逅すべきものという見方が大方でもあったろうか。(もちろん、この当時には本覚思想あり、即身成仏の教えあり、仏・菩薩と凡夫の関係を説く多様な思想があったが、上記「撰時抄」の「権大乗経の題目の広宣流布」に依っての一つの認識として)

そのような称名念仏蔓延の日本国で、「彼岸の仏の元へ到る」という仏教の思想の大勢に対抗するように、日蓮は一谷入道御書」などで「此岸に仏は存在し、娑婆世界は仏の御所領である」としたのである。これは「此岸より彼岸への往詣」から「此岸即彼岸」的思考への転換、彼岸世界の此岸への移入という「此岸世界の彼岸化」ともいえるだろうか。また日蓮によって、当時の人々の仏菩薩観を一変させる、「仏身観再生」の試みが開始されたともいえるのではないだろうか。

 

※注

◇「慧心は往生要集をつくる」

恵心僧都源信

天慶5(942)~寛仁元年(1017)

18代天台座主・慈慧大師良源の弟子。念仏往生を説いて「往生要集」一部三巻を著したが、正元元年(1259)頃の日蓮の認識は、源信が「往生要集」を著したのは「法華経に入らしめんがために造るところの書」(守護国家論P104)「法華一乗への導入の書」()であった。源信の立場は後に著した「一乗要決」での法華一乗にあったのであり、法華経こそが本意であった、というものだった。

しかし佐後の「撰時抄」では「天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の師子の身の中の三虫なり」(P1051)と批判し、「台密批判の時代」に至ってその認識を変えたことが窺われる。

尚、源信は43歳で「往生要集」を著し、師・良源の天台法華と念仏の融合思想を発展させて「厭離穢土欣求浄土」の念仏最勝を説き、更に「観想」と「称名」二つの念仏の内「観想」を重く見た。64歳の時「一乗要決」三巻を著して、法華一乗思想を強調し一乗真実三乗方便の教義を確立する。だが、「阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして合掌しながら入滅した」とされており、これは終生念仏者であったことを示している伝承ではないだろうか。浄土真宗では七高僧の第六祖を源信としている。ちなみに七祖は法然房源空になっている。中古天台本覚思想の恵心流の祖ともされている。

 

◇「永観は十因と往生講の式をつくる」

永観

長元6(1033)~天永2(1111)

洛東禅林寺の深観に師事して出家。東大寺で三論、法相、華厳を学び東大寺三論宗の別所光明山に籠居。後に禅林寺東南院に移り浄土教の実践化、特に称名念仏を唱え民間への念仏勧奨に励み、病人救済などの慈善事業を行う。康和2(1100)に東大寺別当職となる。永観は「往生拾因=十因」と「往生講式」を撰述して、「往生拾因」の称名念仏は後の源空に影響を与えることになる。

 

◇諸行往生=念仏以外の教えによっても往生できるという思想、法然の弟子長西等の説

 

◇観想念仏=阿弥陀如来や極楽浄土の世界を心に思い浮かべる(観想する)

 

◇此の念仏と申すは双観経・観経・阿弥陀経の題名なり

双観経=無量寿経

観経=観無量寿経

上記二つに阿弥陀経を合わせて浄土三部経とする

 

【 釈迦三界国主論 】

建治3(1277)6月の「下山御消息」(真蹟断片)では、阿弥陀経等、四十余年の諸経は法華経以前の方便であり、阿弥陀如来の十方西方への来迎を真実と思ってはいけないことなどを説き、「釈迦仏の本土は実には裟婆世界なり」(P1337)であり、その釈迦仏が法華行者を守護する様を「此の土に居住して法華経の行者を守護せん事、臣下が主上を仰ぎ奉らんが如く、父母の一子を愛するが如くならん」()と記している。釈迦仏は娑婆世界を本土とする国主、領主であり守護の働きもなすのである。法華経如来寿量品第十六の「我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」の経文と合わせ考える時、日蓮の観念には釈迦仏が三界の国主としての振舞いを示しており、現実の日本国の為政者達はその仏の所従であることを忘れた人々と映っていたことだろう。

 

これまで見てきたように、釈迦が「娑婆世界」の国主・師匠・親であり、「娑婆世界」そのものは釈迦の「御所領なり」、「一切衆生は釈尊の御子なり」というのが日蓮の思想であった。「神国王御書」一谷入道御書」「下山御消息」はいわゆる「佐後」の書なのだが、上記のような「釈迦三界国主論」ともいうべき思想は法華経譬喩品第三の偈文、

「今此の三界は皆是れ我が有なり」との「主の徳」

「其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」との「親の徳」

「而も今此の処は諸の患難多し、唯我一人のみ能く救護を為す」との「師の徳」

更に如来寿量品第十六の偈文、

「我が此の土は安穏にして天人常に充満せり」との「主の徳」

「常に法を説いて無数億の衆生を教化して」との「師の徳」

「我も亦為れ世の父」との「親の徳」

この主師親の三徳を備えた者こそが、「諸の苦患を救う者なり」即ち「仏」である等の文に基づいて展開したと考えられ(もちろん一つの経証としてであり更なる究明が必要だが)、「法門申しはじめ」以前の修学期より、日蓮の釈尊観として定着していたのではないだろうか。それを「仏と申すは三界の国主=釈迦三界国主」として文の表に出したのが、佐後ということになる。ここに、青年時代より培った教養、教理的理解が受難を経ることにより信仰的確信となり、それが日蓮独自の教理を生み出し、同時に豊穣なる法華経信仰世界が創られていくことを見るのである。

 

尚、日蓮が法華経譬喩品に釈迦の「主師親三徳」を見出していたことは、文永元年(1264)1213日の「南条兵衛七郎殿御書」(P320 真蹟断片)より理解できよう。

 

法華経の第二(譬喩品第三)に云く「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護 雖復教詔 而不信受」等云云。此の文の心は釈迦如来は此れ等衆生には親也、師也、主也。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてましませども、親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。親も親にこそよれ、釈尊ほどの親、師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ。この親と師と主との仰せをそむかんもの、天神地祇にすてたれたてまつらざらんや。不孝第一の者也。

 

日蓮は譬喩品第三の経文を引用して「釈迦如来は此れ等衆生には親也、師也、主也」と釈迦が主師親の三徳を兼備していると理解することを「此の文の心」とするのである。

 

それは「八宗違目抄」(文永9[1272]218日 真蹟)では更に明示されるところで、文中には以下のようにある。

 

法華経第二(譬喩品第三)に云く「今此三界 皆是我有」主国王世尊也。「其中衆生 悉是吾子」親父也。「而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護」導師。寿量品に云く「我亦為世父」文。(P525)

 

譬喩品第三の「今此三界 皆是我有」は主の徳、「其中衆生 悉是吾子」は親の徳、「而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護」は師の徳と主師親の三徳を立て分けている。続いて寿量品の「我亦為世父」と親の徳を引用しているところから、寿量品の他の経文「我此土安穏 天人常充満」に主の徳「常説法教化 無数億衆生」に師の徳を見出していたことも窺えるだろう。そしてこの仏は「毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと」と説かれるように、一切衆生をして成仏得道せしめるために絶えることなく説法教化し、慈悲の振舞いを示している。そのことを知悉する日蓮は文応元年(1260)7月の「立正安国論」進呈当時には、北条時頼らが帰命すべき本尊として釈迦仏を考えていたのではないだろうか。

 

【 国主帰依の釈迦仏 】

文永6(1269)の「法門可被申様之事」では、

又、御持仏堂にて法門申したりしが面目なんどかゝれて候事、かへすがへす不思議にをぼへ候。そのゆへは僧となりぬ。其の上、一閻浮提にありがたき法門なるべし。設ひ等覚の菩薩なりともなにとかをもうべき。まして梵天・帝釈等は我等が親父釈迦如来の御所領をあづかりて、正法の僧をやしなうべき者につけられて候。毘沙門等は四天下の主、此等が門まぼり、又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし。其の上、日本秋津島は四州の輪王の所従にも及ばず、但島の長なるべし。(P448)

釈迦如来 > 大梵天王・帝釈天王=釈尊の領地を預かり正法を弘める僧を供養する > 毘沙門天、持国天、広目天、増長天の四天王=四天下の主=大梵天王・帝釈天王の門番 > 四州の王等=毘沙門天王が所従(家来) > 四州の転輪王の所従(家来) > 日本秋津島の国主等=但島の長」との仏教上の上下関係が説示されている。

 

このような「但島の長」たる日本国の為政者の遥か上に位置する大梵天王・帝釈天王は、「梵釈等は此の仏(釈迦仏)を或は木像、或は画像等にあがめ給ふ」(神国王御書 定P881)ているのだから、最下位たる日本の国主らが釈迦仏に礼拝合掌するのは、仏教的世界観によれば有るべき姿ではなかったかと考えるのである。

現実の、人間世界の最高権力者たる国主が帰命するのは、宗教的観念世界の永遠の国主たる久遠仏=久遠実成の釈尊こそがそれに相応しいと思うのである。特に時頼が師事した兀庵普寧が住した建長寺は地蔵菩薩を本尊としており、それら爾前権教を捨てて実教たる法華経信仰の世界に入り、法華経の教主・本師釈迦如来のもとへと還ったことを明確化して、その信仰を揺るぎないものにするために、日蓮は釈迦仏を彼らの帰命すべき本尊として考えていた、と推察するのである。

(北条時頼が帰依し建長寺の開山に招いた蘭渓道隆は文永の役の際に、「大陸と内通している」との疑いをかけられたようで幕府により甲斐の国に配流されており、当時の為政者らがいかに疑心暗鬼に陥っていたか、蒙古襲来による動揺の程を示しているように思う)

 

また、日蓮は「法門申しはじめ」以降、遺文に見られる限りでは「唱法華題目抄」「善無畏抄」「善無畏三蔵抄」などで「釈迦を本尊として拝する」教示を重ねており、それらは法華経の教説に基づくものである故、この時点では、階層によって異なる本尊を準備していたとは考えられず、時の為政者や幕府の要路にある者達に対しても釈迦仏を本尊として帰命すべし、というものが日蓮の思想だったと思う。繰り返すが、多岐にわたる北条一門の宗教が日蓮の勘文=立正安国論を受け入れることによって転換され、彼らが「信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰」する時が到来した時、即ち「国主帰依の時」が来たならば、日蓮は国主と周辺の関係者の帰命すべき本尊としてはそれまでの権教の諸仏・諸菩薩などではなく、法華経の教主たる「釈迦仏」を考えていたと推測するのである。具体的には国主造立の釈迦如来像ということになるだろうか。

 

【 北条時頼との面談 】

              鎌倉 建長寺 三門
              鎌倉 建長寺 三門

日蓮は文応元年(1260)7月の「立正安国論」進呈の前、北条時頼に面談している。

 

文永6(1269)「法門可被申様之事」 真蹟 定P455

但し日本国には日蓮一人計りこそ世間・出世正直の者にては候え。其の故は故最明寺入道に向って、禅宗は天魔のそい(所為)なるべし。のちに勘文もてこれをつげしらしむ。日本国の皆人無間地獄に堕つべし。これほど有る事を正直に申すものは先代にもありがたくこそ。これをもって推察あるべし。

 

文永6(1269)「故最明寺入道見参御書」 真蹟 定P456

挙げ寺々。日本国中為に旧寺の御帰依を捨てしむるは、天魔の所為たる之由、故最明寺入道殿に見参之時、之を申す。又、立正安国論之を挙ぐ。惣じて日本国中の禅宗・念仏宗。

 

この時、二人はどのような言葉を交わしたのだろうか。

後の「撰時抄」に三度の高名の一つ目として、「文応元年[太歳庚申]七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向て云く 禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべしと申させ給へ。此の事を御用ひなきならば、此の一門より事おこりて他国にせめられさせ給ふべし」と「立正安国論」進呈の際、日蓮は仲介した宿谷入道に「禅宗と念仏宗を禁断するよう最明寺殿に伝えてください。この日蓮の意見を用いないならば、北条の一門から同士討ちが起こり、次に他国より攻められることになるだろう」と告げている。これは「国主として仏法上直ちに行うべきこと」を念押ししたものといえ、直接の面談の時も、遺文に残る「禅宗は天魔のそい(所為)なるべ」「天魔の所為」との禅宗批判と共に、日本国の万人に浸透した一凶である念仏批判も展開したことだろう。であれば、批判(破邪)と共に、時頼が邪法を捨てた後に受持すべき正法も勧奨(顕正)するのが道理であり、「捨てるべきは時頼が参禅していた建長寺の本尊『地蔵菩薩』、万人礼拝の『阿弥陀如来』である。帰命すべきは『教主・釈迦如来』、口にすべきは『法華経と題目』である」との説示をしたことだろう。仮にそこまでの時間がなかったとしても、日蓮が言いたかったことはそこにあると思うのである。

 

⇒日蓮と北条時頼の面談については、疑問も呈されている。「日蓮と鎌倉政権ノート」坂井法曄氏(「法華仏教研究」第6P98)

 

【 日蓮の「一同」との表記について 】

建治元年(1275)610日「撰時抄」(真蹟)

設ひ法然が弟子とならぬ人々も、弥陀念仏は他仏ににるべくもなく口ずさみとし、心よせにをもひければ、日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり。此の五十年が間、一天四海一人もなく法然が弟子となる。法然が弟子となりぬれば、日本国一人もなく謗法の者となりぬ(P1032)

 

建治3(1277)823日「富木殿御書」(真蹟)

今日本国の八宗並びに浄土・禅宗等の四衆、上は主上・上皇より、下は臣下・万民に至るまで、皆一人も無く弘法・慈覚・智証の三大師の末孫の檀越なり(P1373)

 

建治元年(1275)は「日本国皆一同に法然房の弟子」なのが、2年後の建治3(1277)には「今日本国の~皆一人も無く弘法・慈覚・智証の三大師の末孫の檀越」となってしまう。日本国皆が専修念仏であったのが、今度は皆が密教の信奉者になってしまうのである。

 

一見矛盾しているかのようだが、これは「批判対象の宗派の信奉者が多い」「批判対象宗派の教えが諸国、社会の各階層に遍く流布している」ということを表現したものだろう。日蓮は青年時代に諸宗を学び、諸宗より得て、建長5(1253)、法華経の題目勧奨を開始して以降、各宗派を順に選択批判し最終的には密教批判に至って既存の仏教よりの独立志向を高め、教主たる釈迦に直結した独自の教説を明言するようになる。その過程で、対象とした宗派に対しては徹底的ともいえる批判を行う。それと同時に日蓮の心の目には、「先方の教えが世を席捲している」と見えたのだろうか。このような彼の「精神的な視界」というものが、遺文に散見される該表現となったのではないだろうか。そのことはまた、日蓮がいかなる思いで諸宗を順に選択、批判していったか、その熱意を示すものでもあると思う。

 

前のページ                                  次のページ