妙法曼荼羅の形相の起源をめぐって 2

【 明恵房高弁と日蓮の認識 】

明恵上人樹上坐禅図 京都高山寺           京都国立博物館で委託管理
明恵上人樹上坐禅図 京都高山寺           京都国立博物館で委託管理

日蓮の曼荼羅の起源を考える時、密教曼荼羅と共に参考にしたいのが明恵房高弁の「三宝礼の名号本尊」であることを、佐藤弘夫氏の著「日本中世の国家と仏教」(2010 吉川弘文館)と「鎌倉旧仏教・日本思想体系15(1971 岩波書店)での田中久夫氏の解説「著作者略伝・高弁」により認識した。ここでは佐藤氏、田中氏の教示に学びながら、高弁について見てゆこう。

 

鎌倉時代前期の顕密仏教を代表する論者で、華厳宗の僧である明恵房高弁(こうべん・明恵上人・栂尾上人、承安3[1173]~寛喜4[1232])40歳の時、建暦2(1212)に「於一向専修宗選択集中摧邪輪=摧邪輪」を著し、法然房源空の「選択本願念仏集=選択集」の中に「菩提心を撥去(除きさる)する過失」「聖道門を以て群賊に譬ふる過失」ありとして徹底した批判を展開。続く建暦3(1213)には「摧邪輪荘厳記」を著し再び源空の義を批判する。

 

日蓮はそのことを「浄土九品之事」(文永6年 真蹟)に簡潔に記している。

 

華厳宗

トガノオ(栂尾)

明恵房(高弁のこと)―摧邪輪三巻を造る随機諸行往生(P2310)

 

建久9(1198)に源空が「選択本願念仏集」を著した後、園城寺の公胤(こういん)が「浄土決疑抄」(元久元年頃・1204)を書いて源空の義を批判し、続いて華厳宗の高弁は「摧邪輪」(建暦2年・1212)を、比叡山の定照(じょうしょう)は「弾選択」(嘉禄元年・1225)を著して源空の教説を批判したのだが、日蓮は「守護国家論」(正元元年 真蹟曽存)の中で、三師の批判は「選択集謗法の根源を顕さ」なかった故、「還って悪法の流布を増」してしまったと記している。

 

此の悪義(法然の選択集のこと)を破らんが為に亦多くの書有り。所謂、浄土決義抄・弾選択・摧邪輪等也。此の書を造る人、皆碩徳の名一天に弥ると雖も、恐らくは未だ選択集謗法の根源を顕さず。故に還って悪法の流布を増す。譬えば盛んなる旱魃の時に小雨を降らせば草木弥枯れ、兵者を打つ刻、弱き兵を先にすれば強敵倍の力を得るが如し焉。(P89)

 

【 明恵房高弁 「三宝礼の名号本尊」への信仰 】

高弁は「摧邪輪」「摧邪輪荘厳記」を著した後、紙の中央に「南無同相別相住持仏法僧三宝」と文字を書き、左右に八十華厳(巻二十七)十廻向品にある菩提心の異名二十種より「万相荘厳金剛界心、大勇猛幢智慧蔵心、如那羅延堅固幢心、如衆生海不可尽心」を選んで書き入れた「三宝礼の名号本尊」を作り、それを栂尾の練若台の草庵にかけて、自行として日に三回、三返ずつの礼拝を行った。本尊の図様は中央に「南無同相別相住持仏法僧三宝」と認め、拝して右上より「万相荘厳金剛界心、大勇猛幢智慧蔵心」、左上より「如那羅延堅固幢心、如衆生海不可尽心」と配列し、上部には横一列に三宝を梵字で並べてある。三宝と菩提心を文字に顕しそれを本尊として礼拝するのは密教の思考で、自らに厳しい戒律を課し、華厳教学と真言密教を習い極めてその復興に尽力した高弁の顕密兼学の思考と源空の専修念仏に触発された教理的結実が「三宝礼の名号本尊」といえるのではないか。彼は自ら礼拝するだけでなく、信奉する人々にも礼拝することを勧めている。建保3(1215)1125日には「三時三宝礼釈」を著して「三宝礼の名号本尊」への礼拝に意味合いを持たせ、源空の専修念仏に走った人々を呼び戻すかのように「三宝礼の名号本尊」への信仰が易行であることを強調する。(高山寺蔵明恵自筆消息断簡には、「三宝礼の名号本尊」を15枚書いて授けたことが記されている)

 

「三時三宝礼釈」~部分

以下の現代語訳は高橋秀栄氏の「三時三宝礼釈」訳文(「大乗仏典〈中国・日本編〉第二十巻」1988 中央公論社)より引用

 

「 礼拝の仕方は、合掌し、身体をまっすぐに伸ばしてお唱えするものです。

南無同相別相住持仏法僧三宝(なむどうそうべっそうじゅうじぶっぽうそうさんぽう)

生生世世値遇頂戴(しょうじょうせぜちぐうちょうだい)

万相荘厳金剛界心(まんそうしょうごんこんごうかいしん)

大勇猛幢智慧蔵心(だいゆうもうとうちえぞうしん)

如那羅延堅固幢心(にょならえんけんごとうしん)

というところまでは立ったままで唱え、このあとの句の『如衆生海(にょしゅじょうかい)』と唱え始めるのと同時に身体を地面につけて礼拝(五体投地)しますと、『生生世世皆悉具足(しょうじょうせぜかいしつぐそく)』というのと同じに礼拝が終わります。(礼拝を)始めるなり、すぐに立ち上るようなことはしてはいけません。(そのようなのは)礼拝とはいえません。仏教の経典に説かれている礼拝の仕方は、すべて端身正立(たんしんしょうりゅう)ということです。

中略

愚僧は、練若台と名づけた草庵の学文処に、(仏法僧の)三宝と菩提心の名号(の掛軸)をかけ、三時(早朝・日中・日没)における念誦のときとか、お堂を出たあとなどに、かならずこの名号を唱え、一度につき三返の礼拝をおこなっています。合わせると三時(一日)で、九返の礼拝になります。

その礼拝のことばは、次の通りです。

 

南無同相別相住持仏法僧三宝

生生世世値遇頂戴

万相荘厳金剛界心

大勇猛幢智慧蔵心

如那羅延堅固幢心

如衆生海不可尽心

生生世世皆悉具足   」

 

「 男の人が問うていう。

私どものような在家の者は、清浄であるとか不浄であるとかえりわけをしないで、この名号にむかって、まごころこめた礼拝や供養をすべきでしょうか。

答えていう。

まことにそのとおりです。前に引用した『起信論大意記』にも、朝夕に『敬礼常住三宝』と唱えることが示されています。それは四部の弟子が朝夕に礼拝し恭敬する仕方なのです。ただ手を洗い清め、口をすすいで、朝夕に礼拝供養して、何度生まれかわろうとも、いつでも仏の教えにめぐりあいたいものだ、という願いを発すがいいでしょう。たとえ、ほかの修行のつとめがないとしても、この一行に励むと、二つの利益がもたらされるはずです。ただし、この名号を掛けようとするときに、室内が狭すぎて、魚や鳥を焼く煙がもうもうとたちこめるようなところでしたら、あえて文字を開かなくとも、ただ口の中で(名号を)唱えて礼拝するだけでも十分です。また財宝にめぐまれず、仏画(図絵ノ仏像)を手に入れることができない人は、この名号にむかって、わずか一体の仏や一体の菩薩の姿を心に思い浮かべるだけでもいいのです。それだからといって、(仏の救済に)漏れるというようなことはありません。

男の人が問うていう。

その行儀は、法師がなさっておられるように、必ず三時につとめるべきでしょうか。

答えていう。

たしかに愚僧の場合は、三時に道場に入って、顕密の行法をつとめるついでに修しておりますが、なにがなんでも同じようにつとめなさいというのではありません。一日に三返も礼拝することもあれば、あるいはただ名号だけを唱えたり、あるいはただ香花だけを供えたり、あるいは飲食の際に供養するだけでもよいのです。

後略 」

 

 

引用文中、注目すべきは男の人(俗人)が、

「我等ガ如キノ在家ノ人等。浄不浄ヲキラハズ。此名号ニ向ヒ奉テ礼供ヲナスベシヤ。」()

私どものような在家の者は、清浄であるとか不浄であるとかえりわけをしないで、この名号にむかって、まごころこめた礼拝や供養をすべきでしょうか。

 

と問いを発したのに対し高弁が、

 

「縦ヒ余行ナクトモ。此一行ニ二利ヲ円満セム。」

たとえ、ほかの修行のつとめがないとしても、この一行に励むと、二つの利益がもたらされるはずです。

 

と他の経教によらなくても、「南無同相別相住持仏法僧三宝」の一行に功徳があると答えていること。また、

 

「又財宝ニ貧キヤカラ。図絵ノ仏像ヲマウケ難カランニ。此名字ニ向ヒ奉リテ、一仏一菩薩ヲ念シ奉ランニモ。更ニモレ給ヘルハ有ベカラズ。」

また財宝にめぐまれず、仏画(図絵ノ仏像)を手に入れることができない人は、この名号にむかって、わずか一体の仏や一体の菩薩の姿を心に思い浮かべるだけでもいいのです。それだからといって、(仏の救済に)漏れるというようなことはありません。

 

と経済的理由から図絵の仏像が入手できない(そこには「作れない」の意もあると思うが)人は、「三宝礼の名号本尊」を礼拝して一仏一菩薩を念じるだけでも、一人も漏れなく救われるとしている、というところだろうか。

 

同書では続けて、在家の男女は「南無三宝後生タスケサセ給ヘ」と唱えて、粗末な供物であっても三宝に捧げてから用いることが大事であることを説いている。翌建保4(1216)105日にも「自行三時礼功徳義」(三時三宝礼釈略本)を著して、三宝信敬による菩提心の大事、西方往生を求める者が三時三宝礼を修すれば上品上生の業にあたり、信心決定して行を成せば他行の必要はないことを説示するのである。

 

※「三時三宝礼釈」の原文は佐藤弘夫氏の「日本中世の国家と仏教」P161より引用。

 

【 源空・高弁・日蓮 実践法の方向性の同質化 】

「三時三宝礼釈」「自行三時礼功徳義」での主張を見ると、高弁は「摧邪輪」で源空を激しく批判しながら、一方では貴族から民衆の間に広まった易行・選択・専修を特徴とする源空の教説より学び摂取して、自らの教理解釈を展開しているようだ。批判しながら相手の修行法・実践手法を取り入れて結果、教理面の異質性に反して実践法の方向性が同質化してくるということは、先方の実践展開が世の大方に受け入れられていて、批判者もそれを認めざるを得なかったことになる。同時に自らの教説を世に問うに当たって、批判対象者の作った方軌を追随するしかなかったともいえるだろう。

 

それは源空が、華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃・大日等は時機不相応なものでありこれらは「聖道・難行・雑行」になるとし、浄土三部経(阿弥陀経・観無量寿経・無量寿経)と専修念仏は末法の世に相応しい「浄土・易行道・正行」であるとした教えが、時代性と衆生の機に合致し、社会の各層に遍く広まっていたことを意味する。既存の顕密仏教も後発の日蓮等も、源空とその弟子によって耕された世の精神空間に合わせながら布教展開しなければならなかった、また源空以降の諸師はそのことを十分認識していたと思う。源空に対抗する既成仏教、彼に続く諸師は教理的立場を異にしながらも、「易行・選択・専修」という「前提」条件をクリア―した故に批判・賛同されながら自らの教説は世に受け入れられ、広まったのではないだろうか。源空がいわゆる鎌倉新仏教をリードした導師であることは、日蓮門下といえども素直に受け入れるべき史実だと思う。

 

【 高弁の教説と本尊・日蓮の教説と本尊 】

ここまで確認して思い至ったのは、源空に対した当時の高弁の教説と本尊、高弁に倍して源空を批判した日蓮の教説と本尊に類似性があるのではないかということだ。日蓮が高弁の本尊と「三時三宝礼釈」に接したという確証はないのだが、日蓮は「摧邪輪」の教説がかえって浄土教流布の手助けとなってしまったことを指摘しており、であれば「摧邪輪」を熟読してそこから高弁の様々な教説に接していたとの推測も可能ではないか。「般舟三昧経」「十住毘婆沙論」「浄土論註」「安楽集」「観念法門」「往生礼賛」「般舟讃」「観無量寿経疏(観経疏)」「選択本願念仏集」「往生要集」「往生拾因」「往生講式」等、多くの浄土教関係の経論に接した日蓮であれば、専修念仏を批判するに当たって源空批判の先達の書の多くに目を通すことも、十分に考えられることだろう。また次代の日蓮と先代の高弁に共通性があるということは、日蓮の常である摂入思考からすれば十分その可能性はあると思うのだ。

 

専修念仏を主張する源空と弟子の前に立ち、「三宝礼の名号本尊」への信仰と「三時三宝礼釈」での自説(=易行)によって衆生済度を成さんとした高弁の教理展開と、日蓮の法華経信仰の功徳力説示と文字曼荼羅の展開を重ねてみよう。

 

< 本尊礼拝・題目の功徳 >

高弁は「三宝礼の名号本尊」への礼拝について、仏法に相応しい文字でもって立派な一切経となりうる、南無同相別相住持仏法僧三宝の一行に功徳があると説く。

 

「三時三宝礼釈」より

「まず初めに、(菩提心の名号を)文字に書いて、(それを礼拝用の)本尊とすることについてですが、経典の文字といいますのは、いうなれば、如来の海印三昧から現われ出たものです。あるいは、仏地の後得智から出てきたものです。およそ、(経、律、論の)三蔵の法文で、(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆空という仏法の)四印の意味をはっきりさせることができますと、仏法にふさわしい文字でもって、りっぱな一切経となりうるのです。そして、これによって、密教では、ある場合には、名号そのものを真言としたり、ある場合には、この名号を観想(の対象に)して、真実究極(実際)の悟りに到達するのです。」

「たとえ、ほかの修行のつとめがないとしても、南無同相別相住持仏法僧三宝へのつとめに功徳があるのです。」

 

日蓮は妙法の二字に「法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門」がおさまっている、「妙法蓮華経の五字」を唱える功徳は莫大なることを力説する。高弁・日蓮共に易行である。

 

「唱法華題目抄」(文応元年528日 「南条兵衛七郎殿御書」真蹟行間に日興筆の書写あり)

問て云く 只題目計りを唱ふる功徳如何。(P202)

中略

諸経の題目に是れを比ぶべからず。其の上、法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり。()

中略

故に妙法蓮華経の五字を唱ふる功徳莫大也。 (P203)

 

「四信五品抄(末代法華行者位並用心事)(建治3410日 真蹟)

問ふ、汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何。

答ふ、此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず、将又真言等の諸宗の元祖・畏()・厳(ごん)・恩(おん)・蔵(ぞう)・宣(せん)・摩()・導(どう)等に勝出すること百千万億倍なり。請ふ、国中の諸人我が末弟等を軽んずること勿れ。進んで過去を尋ぬれば八十万億劫供養せし大菩薩なり。豈煕連一恒の者に非ずや。退いて未来を論ずれば、八十年の布施に超過して五十の功徳を備ふべし。天子の襁褓(むつき)に纏(まと)はれ大竜の始めて生ぜるが如し。蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ。(P1298)

 

< 高弁の文字本尊・日蓮の文字曼荼羅 >

高弁が作成した「三宝礼の名号本尊」は、中央に「南無同相別相住持仏法僧三宝」と文字を書き、左右に八十華厳(巻二十七)十廻向品にある菩提心の異名二十種から「万相荘厳金剛界心、大勇猛幢智慧蔵心、如那羅延堅固幢心、如衆生海不可尽心」を選んで書き入れ、上部には横一列に三宝を梵字で並べる。日蓮が文永8109日に「相州本間依智郷」において顕した曼荼羅=通称・楊子御本尊は、中央に「南無妙法蓮華経」の首題を書き、自署花押と左右に「不動明王・愛染明王」を書いている。初期の曼荼羅には「首題、自署花押に釈迦・多宝の二仏と不動・愛染明王」という、簡略化された相貌のものが多く、その相貌・配列法は高弁の「三宝礼の名号本尊」と通じるものがあるのではないか。何よりも両者の共通点で特徴的なのは、「文字で顕した本尊」であるということだ。

 

< 仏像(絵像・木像)と曼荼羅本尊 >

続いては仏像(絵像・木像)と曼荼羅本尊の関係だ。

「三時三宝礼釈」に「財宝にめぐまれず、仏画(図絵ノ仏像)を手に入れることができない人は、この名号にむかって、わずか一体の仏や一体の菩薩の姿を心に思い浮かべるだけでもいいのです。それだからといって、(仏の救済に)漏れるというようなことはありません。」とあるところから、当時の高弁が布教対象とした人々の社会での階層が窺われ、それは財宝ニ貧キヤカラ=底辺の人々も含まれていたことを物語るものだろう。日蓮の檀越でも釈迦仏像を造立したのは一部の者だけで、門下に授与した紙本曼荼羅の多さ、弘安期に相貌座配を少なくした一紙の曼荼羅が多い(日蓮の病状もあるが)ことからも日蓮とその門弟の階層と財力が窺え、このことは高弁と日蓮の布教対象の階層に通じるものがあったことを意味していると思う。別の言葉でいえば高弁や日蓮には、「富者の本尊が仏像(絵像・木像)、庶民大衆の本尊が紙本曼荼羅()」という思考もあったのではないだろうか。日蓮の「唱法華題目抄」(文応元年)にある「第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」(P202)の「たへたらん」には、「財力のある」という意が含まれていると思う。

 

朝廷や幕府関係者、社会的立場のある者は生まれて以来、仏教の本尊といえば仏師が精魂傾けて作り上げた仏像か、絵師がこれまた繊細なる技法で描き上げた絵像、密教などの信仰世界を絵で表した曼荼羅などであっただろう。壮麗なる仏像群を取り払って、「三宝礼の名号本尊」または妙法曼荼羅一紙だけを奉ったら彼らはどのように思うだろうか。逆に、天災地変・飢饉が起き、疫病が発生すれば真っ先に犠牲となってしまう(実際、史実はそうであった)多くの庶民は、立派な仏像を造る余裕など当然ながら持ち合わせていない。だが、仏教者の精神として、高弁は「更ニモレ給ヘルハ有ベカラズ。」と一人も漏れなく救われるのだと説き、日蓮は「一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」(P1487 諌暁八幡抄 真蹟)として社会的階層にとらわれず日本国の一切衆生を救済せんとしており、であれば、「本尊の基準」をどこに置くべきかは自ずと明らかで、そこから両者共に紙の本尊・曼荼羅という形態に至ったのではないかと思う。順を言えば、高弁の先例に日蓮が習ったのではないだろうか。日蓮が高弁の教説と本尊の図様に接する可能性があるのは、やはり青年の時、京畿修学時代だ。それは、源空批判を始めるにあたって、関係書籍を読破する過程でのことではないか。文永810月以降、妙法蓮華経の文字を紙に書いて文字曼荼羅を奉り始めた日蓮の念頭には、先に見たような密教の曼荼羅以外に高弁の「三宝礼の名号本尊」というものがあったのではないかと思うのだ。

 

※庶民大衆の本尊が紙本曼荼羅=日蓮の場合、正確には「地頭・御家人・名主・農民等、また財力の無い者」になるだろうか。ただ、仮に社会の各層に遍く妙法が広まり、多くの信徒から本尊を懇請された時、日蓮は曼荼羅を書いただろうし、であれば、庶民大衆の本尊・曼荼羅ということになるだろう。付言すれば、そのような時の仏像(釈尊像)の造立は、門下各々の財力と機に任せたのではないかと思う。

もちろん、「富者の本尊が仏像、庶民大衆の本尊が紙本曼荼羅」というのは、鎌倉時代当時の実状を客観的に考えてのことであって、現在の信仰の有り様と本尊形態を云々するものではありません。

 

【 日本仏教の流れの中で 】

高弁は顕密仏教随一の論者で華厳宗の僧、日蓮も台密の僧でありいわば旧仏教側の僧であった。この両者が源空を批判しながら、その教説と実践法より大きな影響を受けているのである。源空の時代を読み解く力、洞察力そして表現力、布教力には優れたものがあり、「聖道・難行・雑行」とされた既存の仏教勢力は恐れをなして弾圧・迫害を加えながらも時代の動向は無視できず、自らの変革も促され、批判対象である源空の手法を取り入れ続いていった、というのが源空以降の展開だったと思う。

 

このように、日本仏教という大河の流れの中で、前代からの継承もあれば次の時代にはそぎ落とされるもの、また深化されるもの、新しく生まれるものもあり、鎌倉時代中期に生きた一天台僧(晩年はその意識は薄れるが)日蓮は天台はもとより南都諸宗や密教、念仏等から本尊、教説、実践法など多くのものを摂入して彼の法華経信仰世界のものとした、即ち日蓮化していったのではないだろうか。

 

【 信仰と縁、機と財力に応じての本尊・法爾の道理 】

                        鴨川市 打墨付近
                        鴨川市 打墨付近

前項まで、日蓮の妙法曼荼羅の起源について、「三宝礼の名号本尊」との関係を考えてきたが、今度は日蓮の「本尊としての釈迦仏像、一尊四士と曼荼羅=人本尊・法本尊」について考えてみよう。(若干、今までの考察と重なるところがあります)

 

はじめに、日蓮の本尊における「人・法」について、川口日空氏の論考「日蓮伝再考 諸天観から観た日蓮像 」(法華仏教研究7P50 2011 法華仏教研究会)での指摘には教えられるところが多いと思うので、ここでその一部を紹介させて頂きたい。

 

しかして近年の鎌倉仏教研究盛行の視点は、真実の日蓮像に迫ろうという論調がおおい。私はこの拙論をまとめながら、人間日蓮の絶叫こそがそこに通底していることを確認しないわけにはゆかなかった。日蓮の生涯は上行日蓮と人間日蓮の立場が交叉しながら、そこに独自の「日蓮仏教」を屹立させているのである。それは研究者の間で、これまで長年にわたって日蓮の本尊論にたいして、日蓮の真意は法本尊にあるのか人本尊にあるのかという議論が展開されてきたのだが、そしてそれはどちらとも決着のつかないまま今日を迎えているわけだが、日蓮の立場にたてば、法本尊・人本尊、いずれでもよいといったほうが正鵠を射ているのではないのか。ある時は上行日蓮だが、またある時は人間日蓮という視点にたてば、本尊論もまたその時々によって変化してもいいのではないかと思う。法か人かを分別する必要はさらさらないというべきかもしれない。上行日蓮と人間日蓮という場合も、論者の立場によってそのいずれをも許容していくことが大切ではないかと思う。註(省略します)に示したように、法本尊・人本尊を超越したものが「南無妙法蓮華経」だという視点である。しかも私は人間日蓮の立場が上行日蓮へと昇華していく姿のなかに、今日を生きる、換言すれば研究者の研究する日蓮像もまた、そこに確立されていくのではないかと愚考する。(以上引用)

 

それでは私の考えを記していこう。

最初に、かの有力檀越、四条金吾が建治2715日前に釈迦木像を造立し、約二年半後の弘安222日前、金吾夫人も釈迦像を造立していること。その際、夫人は日蓮の讃嘆の書状と共に、守り曼荼羅を授与され、翌弘安321日には四条金吾に曼荼羅を授与、同月に夫人も曼荼羅を授与されていることを想起したい。日蓮の法華経信仰世界では、弟子檀越は「機・財力・縁・信仰」に応じて、釈迦像、曼荼羅、どちらを拝することも一般的だったのである。

 

竜口以前の鎌倉の草庵には釈迦像が安置され、「題目を書きて本尊」(P202唱法華題目抄)と妙法蓮華経を認めた紙幅も安置されていたことだろう。文永34年以降始められた「天台大師講」ではその開催の趣旨からして、智顗の木像または画像が置かれただろうし、流刑地の佐渡から鎌倉の日昭には「しげければとゞむ。弁殿に申す。大師講ををこ()なうべし。大師とてまいらせて候。」(P752弁殿尼御前御書 真蹟)と天台大師講の開催を指示し、天台大師像を意味する文が記されている。そして檀越も、財力の有る者は光日尼や四条金吾(また富木氏)のように釈迦像を造立安置したことだろう。建治から弘安にかけて曼荼羅図顕数は飛躍的に増え、日蓮は曼荼羅の意義を教示しているが、「本尊は釈迦像・曼荼羅のどちらか一方に限る」という門徒全般に対する教えはなかった。その指南は、個々の「機・財力・縁・信仰」に応じているのである。

 

これは決して、本尊についての日蓮の教示があやふやだったというものではないだろう。「日蓮と教団が統一して拝する本尊として、釈迦像、一尊四士又は曼荼羅のいずれかを選択する」等、そこまで明確にするほど日蓮も必要性を感じていなかったし、弟子檀越も同様だったのではないだろうか。言葉を換えれば、釈迦像、一尊四士、曼荼羅も共に本尊であるとの「当然の認識」を、日蓮と彼の一門は共有していたと思う。「日蓮的両論並立思想」における「人法並列の本尊観」である。

 

日蓮は文永5年の蒙古牒状到来により密教批判を視野に入れ、教理的な展開を進行させていくが、曼荼羅自体も文永、建治、弘安と勧請諸尊が増え相貌座配は変化、進展、整足と、教理面と同様な展開を見せる。一方では鎌倉と身延の草庵には釈迦像が安置されていたことが確認され、ということは佐渡でも同じく釈迦像を奉安していた可能性が高いといえるだろう。門下も釈迦像を造立して日蓮はそれを讃嘆している。

 

これらが意味するのは、「日蓮は門下が仏像を拝するも、曼荼羅を拝するも、また曼荼羅を授与すべきか否かについても、個々の弟子檀越の信仰と縁、財力と機に応じて柔軟に判断していた」というものではないだろうか。「新尼御前御返事」(真蹟断片)に「仏法は眼前なれども機なければ顕はれず。時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり=仏法は眼前であっても、機根がなければ顕れず、時が至らないと弘まらないことは法の道理なのである」(P866)との説示は仏教流伝についての教示だが、その仏教の構成要素の主を成すものが「本尊と教義」であり、文中の「仏法」とは内実を意味する、即ち「本尊とその教え」との解釈もまた可であろう。もちろん、仏像・曼荼羅どちらかが上で下というものではなく、個々の弟子檀越の「機・財力・縁・信仰」により「顕れる本尊・帰命すべき本尊」も異なったと思われるのである。日蓮在世当時はそれが「法爾の道理」だったのではないだろうか。

 

このことは即ち「必ずしも誰人にも曼荼羅が必要であるとの考えではなかった」「帰命の対象たる本尊は曼荼羅に限るという考えではなかった」ということを意味しているだろう。少なくとも、日蓮及び門徒中では曼荼羅というものに「絶対的必要性」はなかったのではないか。

 

日蓮は、天台僧・台密の僧として出発し、根本大師門人意識を佐前までは貫き、佐中より独自色を出して変化を見せ始め、佐後に至って東密・台密批判を本格化させるのであり、その一生は有る意味、他宗を批判し続けたものともいえ、他宗批判の教理的完成期は身延入山以降でみれば53歳を過ぎており晩年となるのである。この時に至るまでの20年間、多くの弟子檀越は鎌倉などの日蓮が居住した草庵で「釈迦像」を礼拝し続けている。日蓮は、自己の内面世界で「一閻浮提第一の聖人」との自覚を成したのだが、他に彼が完成の域に達し得たのは「他宗批判の教理的展開」であり、本尊についての法義としては、「一閻浮提第一の仏本尊・法本尊」「本門の仏本尊・法本尊」と解釈される記述をした他は門下個々の「機・財力・縁・信仰」に応じて曼荼羅を授与、仏像造立をほめたたえたことが窺われることぐらいではないか。日蓮は「曼荼羅と釈迦像・一尊四士などとの関係性」「国主帰依の本尊」などについて、『誰人にも信解可能なレベル』で明示することはなかったのである。

 

「機・財力・縁・信仰」に応じて本尊を立て分けるのは初期の段階、1260年・文応元年の「唱法華題目抄」に「第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」(P202)と、「機と財力」により「釈迦如来・多宝仏」を書く、造る、それを「法華経の左右に」立てる。また「機と財力」によって「十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつる」ことを教示しているのであり、その思考法は終生変わるものではなかったのであろう。

 

各々の、機と財力に応じた、また縁に応じた、信仰に応じた本尊という「日蓮の思考法の淵源」は、彼が学んだ比叡山にあるのではないか。比叡山延暦寺は法華経を中心としながらも、禅、戒、念仏、密教の四宗兼学の道場、そして山王神道もありの諸宗が融和した寺院だったのであり、当然、対境たる本尊も釈迦如来、薬師如来、大日如来、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、阿弥陀如来等、種々様々なものである。修学僧は有縁の師僧のもとで学び、その宗義に伏し、また様々な仏菩薩を拝したことだろう。このような習慣のもとでは、個々の信仰と縁、機と財力に応じた仏菩薩を本尊として拝する、というものが思考の習性となるのも自然なことではないだろうか。

 

日蓮は現存だけでも120数幅の曼荼羅を顕したが、本尊については一生涯、「これだけが本尊である」「これ以外は拝してはいけない」「これこそが私の意とする本尊だ」等と意義付け、規定することはなかった。そのことは即ち、本尊に関しては、日蓮は比叡山時代の思考の習性を継続、一生有していたように思われるのである。本尊を厳格に定義しなかったことが彼の滅後、一弟子・本弟子六門徒分立の時代となって、論争の因になったし、そのことによってまた、各門徒教団がまとまり拡大展開していく因になったのである。

 

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