安房国清澄寺に関する一考 3

3 日蓮の記述からわかること

 

① 清澄寺大衆中

 

ここまで見てきた日蓮の法脈と窪田氏の指摘=寂澄・法鑁の事跡を踏まえれば、日蓮が生きた時代の清澄寺は「台東両系の修学者達も混住していた」(窪田P329)、東密・台密の修学がなされた寺院・山林修行の霊場であったということになるだろう。ただし、「混住」の意味するもの、実態としてはそれぞれの房舎に居住していたというものではないだろうか。そこで想起されるのが日蓮遺文にある「このふみは、さど(佐渡)殿とすけあさり(助阿闍梨)御房と虚空蔵の御前にして大衆ごとによみきかせ給へ」(建治2年または文永12年、111日「清澄寺大衆中」定P1136)との記述で、これは「この手紙は、佐渡殿(日向)と助阿闍梨御房とが、虚空蔵菩薩の御前で大衆ごとに読み聞かせなさい。」というものだが、「虚空蔵の御前」に集まる清澄寺の「大衆ごと」の意味としては、「房舎ごと」というもの、またそこには「台密、東密などの大衆ごとに」との意が含まれていると読み解くことができると思うのだが、どうだろうか。

 

この「清澄寺大衆中」の東密・台密批判は、清澄寺大衆の信仰の内実、人物の構成がどのようなものであったかを知る手がかりになると思う。

以下、本文について順を追って確認していこう。

 

 

 

本文

清澄寺大衆中

新年の慶賀自他幸甚幸甚。

去年来らず、如何。定めて子細有らん歟。抑そも参詣を企て候ば伊勢公の御房に十住心論・秘蔵宝鑰・二教論等の真言の疏を借用候へ。是の如きは真言師蜂起之故に之を申す。又止観の第一第二御随身候へ。東春・輔正記なんどや候らん。円智房の御弟子に観智房の持ちて候なる宗要集かし(貸)たび候へ。それのみならず、ふみ(文)の候由も人々申し候し也。早々に返すべきのよし申させ給へ。今年は殊に仏法の邪正たださるべき年歟。浄顕の御房・義城房等には申し給ふべし。(P1132P1133)

 

意訳

新春を祝えること、自他ともの喜びであり幸せなことである。

去年、来られなかったのはどうしたことだろうか。様々な事情があったのだろう。身延山へ参詣されるならば、伊勢公の御房から「秘密曼陀羅十住心論」(真言密教の体系書)、「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく・十住心論の要綱をまとめ示した書)、「弁顕密二教論」(顕教と密教を対比、密教の勝れる所以を示した書)等、真言の注釈書を借用し持参して頂きたい。これらは真言師が騒がしくなってきた故に依頼するものである。また、「摩訶止観」の第一、第二の巻を携えてきてほしい。「天台法華疏義纉」(唐代の天台僧・智度の著)、「法華天台文句輔正記」(唐代の天台僧・道暹[どうせん]の著)等もあるだろうか。円智房の弟子である観智房が持っている「宗要集」(天台のものか?)も、お借りしたい。それだけではなく、観智房は文書(文書が何であるかは不明)を持っていると、人々は言っていた。早々にお返しするので借りてきて頂きたい。(真言師が騒がしくなってきたこともあり)今年はことに、仏法の邪正が正されるべき年になることだろう。浄顕の御房、義城房等にはそのように伝えてほしい。

 

 

 

本文

日蓮が度々殺害せられんとし、並びに二度まで流罪せられ、頚を刎られんとせし事は別に世間の失に候はず。生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん。明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗並びに一切経の勝劣粗(ほぼ)是を知りぬ。其上、真言宗は法華経を失ふ宗也。是は大事なり。先づ序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ。其故は月氏・漢土の仏法の邪正は且らく之を置く。日本国の法華経の正義を失ふて、一人もなく人の悪道に堕つる事は、真言宗が影の身に随ふがごとく、山々ごとに法華宗に真言宗をあひそひ(副)て、如法の法華経に十八道をそへ、懺法に阿弥陀経を加へ、天台宗の学者の潅頂をして真言宗を正とし法華経を傍とせし程に、真言経と申すは爾前権経の内の華厳・般若にも劣れるを、慈覚・弘法これに迷惑して、或は法華経に同じ或は勝れたりなんど申して、仏を開眼するにも仏眼大日の印・真言をもって開眼供養するゆへに、日本国の木画の諸像皆無魂無眼の者となりぬ。結句は天魔入り替って檀那をほろぼす仏像となりぬ。王法の尽きんとするこれなり。此の悪真言かまくら(鎌倉)に来りて、又日本国をほろぼさんとす。(P1133P1134)

 

意訳

日蓮が何度も殺されかかり、二度までも流罪となり首を刎ねられようとしたことは、別に世間の罪によるものではなかった。日蓮は、生身の虚空蔵菩薩より大智慧を賜わったことがあった。「日本第一の智者にしてください」と祈ったことを不憫に思われたのだろう。明星のような大宝珠を賜わり、右の袖で受け取ったために一切経を学んだところ、八宗並びに一切経の勝劣をほぼ知ることができたのである。

 

その上、真言宗は法華経を失わせる宗である。これは大事なことで、まず序分に禅宗と念仏宗の誤りを責めてみようと考えたのである。その理由は、インド・中国の仏法の邪正はしばらく置くとしよう。日本国が法華経の正義を失ってすべての人が悪道に堕ちてしまうことは、真言宗が、人の動きに影が随うように、寺院ごとに法華宗に真言宗を合わせ添えて、法華経の経文に18種類の印契を使い行う密教の修法・十八道を添え、法華経を読み罪を懺悔して滅する・法華懺法に阿弥陀経を加へ、天台宗の学者らは自宗の灌頂に際して真言宗を正とし法華経を傍としこのようなことを続ける程に、真言の経典というのは爾前権経の中の華厳経や般若経にも劣っているものを、慈覚や弘法がこれに迷惑して、あるいは真言は法華経に同じ、あるい真言は法華経よりも勝れているなどといって、仏像を開眼するのにも大日経で説かれる仏眼尊と大日如来の印・真言をもって開眼供養する故に、日本国の木画の諸像は全て無魂無眼のものとなってしまったのである。結局は天魔が入り替わってしまい、檀那を滅ぼす仏像に成り果てたのである。日本の王法が尽きようとしているのは、真言の悪法のためなのだ。このような悪法たる真言が鎌倉に来たりて、またも日本国を滅ぼそうとしている。

 

 

 

本文

其上、禅宗・浄土宗なんどと申すは又いうばかりなき僻見の者なり。此を申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほう(報)ぜんがために、建長五年四月二十八日、安房の国東条の郷清澄寺道善之房持仏堂の南面にして、浄円房と申すもの並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、其後二十余年が間退転なく申す。或は所を追ひ出され、或は流罪等、昔は聞く不軽菩薩の杖木等を。今は見る日蓮が刀剣に当る事を。日本国の有智無智上下万人の云く 日蓮法師は古の論師・人師・・大師・先徳にすぐるべからずと。日蓮この不審をはらさんがために、正嘉・文永の大地震大長星を見て勘へて云く、我朝に二つの大難あるべし。所謂自界叛逆難・他国侵逼難也。自界は鎌倉に権の大夫殿御子孫どしうち(同士打)出来すべし。他国侵逼難は四方よりあるべし。其中に西よりつよくせむべし。是偏に仏法が一国挙(こぞり)て邪まなるゆへに、梵天・帝釈の他国に仰せつけてせめらるるなるべし。日蓮をだに用ひぬ程ならば、将門・純友・貞任・利仁・田村のやうなる将軍百千万人ありとも叶ふべからず。これまことならずば真言と念仏等の僻見をば信ずべしと申しひろめ候き。就中、清澄山の大衆は日蓮を父母にも三宝にもをもひをとさせ給はば、今生には貧窮の乞者とならせ給ひ、後生には無間地獄に堕ちさせ給ふべし。故いかんとなれば、東條左衛門景信が悪人として清澄のかいしゝ(飼鹿)等をかり(狩)とり、房々の法師等を念仏者の所従にしなんとせしに、日蓮敵をなして領家のかたうどとなり、清澄・二間の二箇の寺、東條が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやう(精誠)の起請(きしょう)をかいて、日蓮が御本尊の手にゆい(結)つけていのりて、一年が内に両寺は東條が手をはなれ候しなり。此事は虚空蔵菩薩もいかでかすてさせ給ふべき。大衆も日蓮を心へずにをもはれん人々は、天にすてられたてまつらざるべしや。かう申せば愚痴の者は我をのろう(呪咀)と申すべし。後生に無間地獄に堕ちんが不便なれば申すなり。領家の尼ごぜんは女人なり、愚痴なれば人々のいひをど(嚇)せばさこそとましまし候らめ。されども恩をしらぬ人となりて、後生に悪道に堕ちさせ給はん事こそ、不便に候へども、又一つには日蓮が父母等に恩をかほらせたる人なれば、いかにしても後生をたすけたてまつらんとこそいのり候へ。(P1134P1135)

 

意訳

その上、禅宗や浄土宗などはまた、いうほどにもない誤った教えによる者である。このようなことを言えば、必ず日蓮の身命に及ぶような事態となることは分かってはいたが、幼少の時に大宝珠を授けてくださった虚空蔵菩薩の御恩を報ずるため、建長5428日、安房の国東条の郷・清澄寺の道善之房・持仏堂の南面において、浄円房という者をはじめ少しばかりの大衆に日蓮の法門をいいはじめ、その後20年余も退転せずに言い続けてきたのである。

 

この間、あるいは所を追い出され、あるいは流罪されてきた。昔は不軽菩薩が杖木瓦石の難にあったと聞くが、今は日蓮が刀剣の難に当たることを見るのである。日本国の有智・無智・上下万民はいう、日蓮法師は往古の論師・人師・・大師・先徳に勝れることはないと。日蓮はこのような不審を晴らすために、正嘉元年の大地震、文永元年の大彗星を見て考え言ったのである。「我が国に二つの大難があるであろう。それは自界叛逆難と他国侵逼難である。自界叛逆難は鎌倉に北条義時(権の大夫殿)の子孫の同士打ちが起こるであろう。他国侵逼難は四方から起こるであろう。その中でも西より強く攻めてくるであろう。これ偏に、仏法が一国を挙げて邪であるために、大梵天王・帝釈天王が他国に言いつけて攻められるのである。日蓮を用いないならば、平将門、藤原純友、安倍貞任、藤原利仁、坂上田村麻呂のような名将が百千万人いたところで叶わないのである。これらが真でないならば、真言と念仏等の誤った考えを信じることにしよう」といい、広めてきたのだ。

 

中でも清澄山の大衆は、日蓮のことを父母にも三宝にも劣ると思われるなら、今生には貧しく生活に窮する乞食となり、後生には無間地獄へと堕ちることであろう。なぜかならば、東條左衛門景信が悪人の本性を出し、清澄で飼っている鹿等を狩り取ってしまい、山内各坊の法師等を念仏者の家来とし、念仏を唱えさせようと謀った時に、日蓮は東條景信のやり方に反対して領家の味方になって、「清澄・二間の二箇寺が東条方についてしまうならば日蓮は法華経を捨てよう」と心より誓って起請文を書き、日蓮が御本尊の手に結び付けて祈り続け、一年の内に両寺は東條の手を離れることができたのである。清澄・二間の寺が東条方についてしまうような事態を、虚空蔵菩薩がどうして見放されることがあろうか。清澄寺の大衆も日蓮のいうことを信じない人々は、諸天に捨てられるであろうか。こう言えば愚かで無知なる者は、「日蓮は私のことを呪詛(じゅそ)している」と言うだろうが、後生に無間地獄に堕ちるのは憐れむべきことなので申しているのである。

領家の尼御前は女性であり愚痴の人なので、人々が言い脅かすと「そうか」と頷いてしまうのであろう。しかしながら、恩を知らない人となり、後生に悪道に堕ちてしまうのは憐れむべきことであるし、また一つには日蓮の父母等がお世話になった人なので、なんとしても後生を助け奉りたいと祈っている。

 

 

 

本文

法華経と申す御経は別の事も候はず。我は過去五百塵点劫より先の仏なり。又舎利弗等は未来に仏になるべしと。これを信ぜざらん者は無間地獄に堕つべし。我のみかう申すにはあらず。多宝仏も証明し、十方の諸仏も舌をいだしてかう候。地涌千界・文殊・観音・梵天・帝釈・日・月・四天・十羅刹、法華経の行者を守護し給はんと説かれたり。されば仏になる道は別のやうなし。過去の事、未来の事を申しあてて候がまことの法華経にては候なり。日蓮はいまだつくし(筑紫)を見ず、えぞ(西戎)しらず。一切経をもて勘へて候へばすでに値ひぬ。もししからば、各々不知恩の人なれば無間地獄に堕ち給ふべしと申し候はたがひ候べき歟。今はよし、後をごらんぜよ。日本国は当時のゆき(壹岐)対馬のやうになり候はんずるなり。其後、安房の国にむこ(蒙古)が寄せて責め候はん時、日蓮房の申せし事の合たりと申すは、偏執の法師等が口すくめて無間地獄に堕ちん事、不便なり不便なり。

正月十一日 日 蓮 花押

安房の国清澄寺大衆中

このふみは、さど(佐渡)殿とすけあさり(助阿闍梨)御房と虚空蔵の御前にして大衆ごとによみきかせ給へ。(P1135P1136)

 

意訳

法華経という御経は何か別の事を説いているのではない。

「我は過去五百塵点劫より先の仏である。また舎利弗等は未来に仏になるであろう」と。「これを信じない者は無間地獄に堕ちるのである。私一人だけがこのように言うのではない。このことは多宝仏も証明し、十方の諸仏も舌を出してこのように言っている。地涌千界の菩薩、文殊菩薩、観音菩薩、大梵天王、帝釈天、日天、月天、四天王、十羅刹女らは法華経の行者を守護することであろう」と説かれている。故に仏になる道は別のものではない。過去の事、未来の事をいい当てているのがまことの法華経なのである。

 

日蓮はいまだ筑紫を見たことはない、蒙古のことも知らない。一切経により考え言い続けてきた、自界叛逆難と他国侵逼難が既に起きているのだ。もしそうであれば、清澄寺の大衆が皆不知恩の人となるならば無間地獄に堕ちることであろう、と申したことがはずれることがあるだろうか。今はよいとしても、後のことを御覧なさい。日本国は今の壱岐・対馬のようになることだろう。その後、安房国に蒙古が攻め寄せてきた時、日蓮房のいっていたことは的中したと言いながら、誤った教えに執着した法師等が口をすくめて無間地獄に堕ちゆくことは不憫でならない。

 

正月十一日 日 蓮 花押

安房の国清澄寺大衆中

 

この手紙は、佐渡殿・日向と助阿闍梨御房とが、虚空蔵菩薩の御前で大衆ごとに読み聞かせなさい。

 

 

【 清澄寺大衆の信仰の内実・人物の構成 】

 

「清澄寺大衆中」では日本亡国の因である真言を弘めた者として、台密の円仁、東密の空海を名指しで批判する。再掲となるが要点をまとめてみよう。

 

・真言宗こそが法華経を破失する教えであり、それは大事なことであるとする。

 

・日本国が法華経の正義を失って、大衆が悪道に堕ちてしまうのは真言宗の誤りによるとして、当時の台密寺院の潅頂などを描きながら真言批判を展開。

 

・真言の経典は爾前権経の内の華厳経や般若経にも劣っているのに、天台の円仁、東密の空海が経典の高低浅深に迷惑して、「法華経に同じである」または「法華経に勝れる」などと唱え邪義を流布させた。仏像を開眼するのにも仏眼尊と大日如来の印・真言により開眼供養した故に、日本国の木画の諸像は皆、無魂・無眼の像となってしまった。結局は、仏ではなく、天魔が入るところとなり、祈願する檀那を滅ぼしてしまう仏像となってしまった。王法が尽きようするのは、真言の亡国の悪法によるものなのである。この悪法・真言が鎌倉に来たり流布して、今又、日本国を滅ぼそうとしているのである、とする。

 

故郷の清澄寺大衆が抱いたであろう、日蓮に対する疑念を、日本国の有智、無智、上下万民は言う。「日蓮法師は昔の論師、人師、大師、先徳よりも優れるということはない」と表現。

 

・日蓮は不審を晴らすために、正嘉元年の大地震、文永元年の大彗星を見て考え言ったのである。「我が国に二つの大難があるであろう。それは自界叛逆難と他国侵逼難である。自界叛逆難は鎌倉に北条義時(権の大夫殿)の子孫の同士打ちが起こるであろう。他国侵逼難は四方から起こるであろう。その中でも西より強く攻めてくるであろう。これ偏に、仏法が一国挙げて邪であるために、大梵天王・帝釈天王が他国に言いつけて攻められるのである。日蓮を用いないならば、平将門、藤原純友、安倍貞任、藤原利仁、坂上田村麻呂のような名将が百千万人いたところで叶わないのである。これらが真でないならば、真言と念仏等の誤った考えを信じることにしよう」と言い広めてきたのである、として蒙古襲来による亡国以前に日蓮が説示する法華経を信仰するよう強く促している。

 

このような文中の真言批判と、悪法が弘まった元凶とする台密・円仁と東密・空海への批判により、清澄寺大衆の信仰の内実・人物の構成というものは、真言・東密と天台・台密であったと理解できるのではないだろうか。例えば禅の信奉者に日蓮法華を信仰すべきことを説くのに、東密批判をしても的外れで意味はなく、禅に対する批判をした後、説教者の信仰を受持すべきことを説くのが布教をなす時の道理というものだろう。清澄寺大衆に宛てた書で東密・台密を批判し、日蓮説示の法華経信仰を勧奨するのに、「虚空蔵菩薩の前で大衆ごとに読み聞かせなさい」としたこと、即ち亡国という事態、安房に蒙古が攻め寄せる最悪の展開となる前に在山者全てが東密・台密の誤りを知るべきであるとしたところに、清澄寺大衆の信仰がどのようなものであったかを知ることができると考えるのだ。

 

もちろん「富木殿御書」(建治3823日 真蹟 定P1372)や「大田殿許御書」(文永12[または建治2年か3]124日 真蹟 定P852)のように、一人の檀越に宛てた一書に東密・台密を批判した書もあるが、日蓮が清澄寺関係者に宛てた書については、単に「この時期は真言批判が始まった頃だから」「台密批判を盛んに行っていた時期だから」台東批判を書き込んだ、というものではないと思う。

 

「清澄寺大衆中」

虚空蔵の御前にして大衆ごとによみきかせ給へ。(P1136)

 

「聖密房御書」

これは大事の法門なり。こくうざう(虚空蔵)菩薩にまいりて、つねによみ奉らせ給ふべし。(虚空蔵菩薩の前で読めば、周囲の者も耳を傾けたことと思う)(P826)

 

「別当御房御返事」

聖密房のふみにくはしくかきて候。よりあいてきかせ給ひ候へ。(P827)

 

「種種御振舞御書」

他人はさてをきぬ。安房国の東西の人人は此の事を信ずべき事なり。(P983)

 

これらの記述は、当人のみならず周囲の者が読むことを多分に意識していた、また「読むべき、知るべきである」としたものといえるのではないか(ただし報恩抄送文については次の項参照)。このような日蓮の書の宛先となった人物の周囲は、日蓮法華信奉者よりも他の法系に連なる者の方が多かっただろうから、そこには法華勧奨をなすにあたって周囲の者が信奉する「誤れる教え」を批判する意が込められていると考えてよいと思う。「清澄寺大衆中」だけではなく、これから見るように、日蓮が清澄寺と周辺に送った書には繰り返し東密・台密の教理と諸師の批判が行われている。故に清澄寺大衆や周囲の僧は、真言・東密、天台・台密の法脈の者が多かったと考えられるのではないだろうか。

 

 

【 報恩抄送文 】

 

建治2(1276)726日の「報恩抄送文」(真蹟なし・平賀本・本満寺本)には、「又此文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ、詮なからん人人にきかせなばあしかりぬべく候。又設ひさなくとも、あまたになり候はばほかさま(外様)にもきこえ候なば、御ため、又このため、安穏ならず候はんか。」(P1251)とある。「報恩抄には大事中の大事である法門を書いたので、日蓮の教えを信じない人々に聞かせることはかえって悪い結果をもたらすことであろう。たとえ理解あるような人であっても、大人数となってしまえば、やはり不信の者が聞くことになってしまうだろうから、あなた方のためにも、この法門のためにも、安穏でいることができなくなってしまうだろう。」と、「清澄寺大衆中」等とは違い「報恩抄」の扱いには慎重を期すように指示している。これについては、「送文」に「道善御房の御死去之由去る月粗承はり候」(P1250)とあるように6月に師匠・道善房が死去したことを聞き、急ぎ書いた書が「報恩抄」であり、その意とするところは「御まへ()と義城房と二人、此御房をよみてとして、嵩かもり()の頂にて二三遍、又故道善御房の御はか()にて一遍よませさせ給ひては、此御房にあづけさせ給ひてつねに御聴聞候へ。」(P1251)と師匠への報恩のためというもの、また法兄たる浄顕房・義城房に法門理解を促すものだったから、他の清澄寺関係者に宛てた書とは異なる扱いを期したものと思われる。

 

日蓮がこのような指示をした背景としては、(後に確認するが)この時、浄顕房は清澄寺別当を務めていたと考えられるのだが、「送文」冒頭に「親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ。御心得候へ。御本尊図して進候。此法華経は仏の在世よりも仏の滅後、正法よりも像法、像法よりも末法の初には次第に怨敵強くなるべき由をだにも御心へあるならば、日本国に是より外に法華経の行者なし。これを皆人存し候ぬべし、」(P1250)とあることからして、別当自ら日蓮法華への帰伏を促して争論などが起こり、寺中が騒がしいものとなっていたのではないかと推察される。故に日蓮としては、故郷の法兄の身の上を案じ、大事の書である「報恩抄」の取り扱いの注意を促すと同時に、寺内の不信者とのトラブルを避けることを願ったのだろう。しかし、「送文」にある「御本尊図して進候」の浄顕房が授与された紙本の曼荼羅は周囲の疑難を巻き起こしたようで、浄顕房はそのことを身延の日蓮に報告したようだ。日蓮は2年後の弘安元年(1278)9月に「本尊問答抄」を著して、清澄寺の仏像信仰世界に「法勝人劣的教示」を行う。結局は「阿闍梨寂澄自筆納経札」に「弘安三年(1280)五月晦日 院主阿闍梨寂澄」と書かれているように、「報恩抄」から4年を経たずして清澄寺の院主は東密の法脈たる寂澄になっている。この時の浄顕房・義城房の動向は不明なようだ。やはり清澄寺の虚空蔵菩薩像をはじめ諸仏像を拝する大衆には、紙本の曼荼羅は受け入れられなかったということなのだろう。

 

 


② 善無畏三蔵抄

 

「清澄寺大衆中」以外にも、日蓮が清澄寺の僧に宛てたいくつかの書を概観してみよう。

 

鎌倉より清澄寺の法兄たる浄顕房・義浄房に宛てた「善無畏三蔵抄」(文永7年[1270] 真蹟と推される断簡)では、善無畏三蔵と真言師をはじめ浄土・禅・南都諸宗を批判する。

 

「当世の高僧真言師等は其智牛馬にもおとり、螢火の光にもしかず、只、死せるものの手に弓箭をゆひつけ、ねごとするものに物をとふが如し。手に印を結び、口に真言は誦すれども、其心中には義理を弁へる事なし。結句、慢心は山の如く高く、欲心は海よりも深し。是は皆自ら経論の勝劣に迷ふより事起り、祖師の誤りをたださざるによる也。」(P465)

「当世の東寺等の一切の真言宗一人も此(善無畏三蔵の)御弟子に非るはなし。而るに此三蔵一時(あるとき)に頓死ありき。数多の獄卒来りて鉄繩七すぢ懸たてまつり、閻魔王宮に至る。」(P471)

 

 


③ 聖密房御書

 

清澄寺の聖密房に宛てた「聖密房御書」(文永11年[127456月頃 真蹟曽存)では、東密批判を展開している。長文になるが、全体を一読しておこう。

 

 

 

本文

大日経をば善無畏・不空・金剛智等の義に云く 大日経の理と法華経の理とは同じ事なり。但印と真言とが法華経は劣なりと立てたり。良諝(りょうしょ)和尚・広修(こうしゅ)・維鷁(いけん)・なんど申す人は大日経は華厳経・法華経・涅槃経等には及ばず、但方等部の経なるべし。日本の弘法大師云く、法華経は猶華厳経等に劣れり。まして大日経には及ぶべからず等云云。又云く、法華経は釈迦の説、大日経は大日如来の説、教主既にことなり。又釈迦如来は大日如来のお使いとして顕教をとき給ふ。これは密教の初門なるべし。或は云く、法華経の肝心たる寿量品の仏は顕教の中にしては仏なれども、密教に対すれば具縛の凡夫なりと云云。

日蓮勘へて云く 大日経は新訳の経、唐の玄宗皇帝の御時、開元四年に天竺の善無畏三蔵もて来る。法華経は旧訳の経、後秦の御宇に羅什三蔵もて来る。其の中間三百余年なり。法華経互りて後、百余年を経て天台智者大師、教門には五時四教を立てて、上五百余年の学者の教相をやぶり、観門には一念三千の法門をさとりて、始めて法華経の理を得たり。天台大師已前の三論宗、已後の法相宗には八界を立て十界を論ぜず。一念三千の法門をば立つべきやうなし。華厳宗は天台已前には南北の諸師、華厳経は法華経に勝れたりとは申しけれども、華厳宗の名は候はず。唐の代に高宗の后(きさき)則天皇后と申す人の御時、法蔵法師・澄観なんど申す人、華厳宗の名を立てたり。此宗は教相に五教を立て、観門には十玄六相なんど申す法門なり。をびただしきやうにみへたりしかども、澄観は天台をは(破)するやうにて、なを天台の一念三千の法門をかり(借)とりて、我が経の心如工画師の文の心とす。これは華厳宗は天台に落ちたりというべきか。又一念三千の法門を盗みとりたりというべきか。澄観は持戒の人、大小の戒を一塵もやぶらざれども、一念三千の法門をばぬすみとれり。よくよく口伝あるべし。

真言宗の名は天竺にありやいな(否)や。大なる不審なるべし。但真言経にてありけるを、善無畏等の宗の名を漢土にして付けたりけるか。よくよくしるべし。就中、善無畏等、法華経と大日経との勝劣をはん(判)ずるに、理同事勝の釈をばつくりて、一念三千の理は法華経・大日経これ同じなんどいへども、印と真言とが法華経には無ければ事法は大日経に劣れり。事相かけぬれば事理倶密もなしと存ぜり。今日本国及び諸宗の学者等、並びにこと(殊)に用ふべからざる天台宗、共にこの義をゆるせり。例せば諸宗の人人をばそねめども、一同に弥陀の名をとなへて、自宗の本尊をすてたるがごとし。天台宗の人人は一同に真言宗に落ちたる者なり。(P820P822)

 

意訳

中国の善無畏・不空・金剛智の三三蔵は、「大日経の理と法華経の理とは同じことである。ただ、印と真言については法華経は劣である」と理同事勝の義を立てている。

中国天台・11世の広修(こうしゅ・771843)と弟子の良諝(りょうしょ)、維鷁(いけん)は「大日経は華厳経・法華経・涅槃経等に及ばない、方等部の経である」と教示している。

日本の弘法大師・空海がいうのには、「法華経はなお、華厳経等に劣っている。ましてや、大日経には及ぶべくもない」また「法華経は釈迦の説であり、大日経は大日如来の説である。教主が既に異なっている。また釈迦如来は大日如来のお使いとして顕教を説いたのであり、これは密教の初門なのである」といい、あるいは「法華経の肝心たる寿量品の仏は顕教の中においては仏なのだが、密教に対すれば具縛の凡夫なのである」と説示している。

日蓮が考えるところは、大日経は唐代の玄奘(げんじょう 602664)以後に訳された新訳の経であって、唐代の玄宗(げんそう)皇帝(685762)の御時、開元四年(716)に天竺(インド)の善無畏三蔵が持ってきたものである。法華経は玄奘以前の旧訳(くやく)の経、後秦の時代に羅什三蔵(350409)が伝来し訳出した経典である。このように大日経と法華経には300余年の隔たりがある。法華経がインドより中国に渡った後、100余年を経て天台智者大師(智顗 538597)が出現し、教門(教相門)では五時四教を立てて、それまでの500余年の学者の教相を破り、観門(観心門)では一念三千の法門を悟り、はじめて法華経の理を得たのである。

天台大師以前の三論宗、以後の法相宗では八界を立てて十界を論じておらず、一念三千の法門を立つ道理というものがない。

華厳宗は天台以前には南三北七の諸師が、華厳経は法華経よりも勝れている、と言ってはいたが、華厳宗の名はなかった。唐の3代皇帝・高宗(こうそう 628683)の后(きさき)である則天皇后(そくてんこうごう=武則天 623?705)という人の御時に、法蔵(ほうぞう 643712)法師、澄観(ちょうかん 738839)という人が華厳宗の名を立てたのである。この宗は教相に五教を立て、観門には十玄・六相などを立てる法門である。いかにも優れた教えのようにみえたのだが、澄観は天台を論破しているようでいて、実際は天台の一念三千の法門を借り取って、自らの経典である華厳経の「心如工画師=しんにょくえし・心は工(たくみ)なる画師(えし)の如し」の文の心としたのである。このようなことは、華厳宗は天台に落ちたというべきか、または一念三千の法門を盗みとったというべきだろうか。澄観は持戒の人で、大乗・小乗の戒律を塵一つほども破ることはなかったのだが、天台の一念三千の法門を盗み取ったのである。これはよくよく口伝するべきことなのだ。

真言宗の名が天竺(インド)にあるかないかは、大きな疑問である。ただ真言経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経の真言三部経)であったものが、善無畏らが、宗の名を漢土(中国)に来た時に付けたのかどうか、詳しく知るべきことなのだ。特に善無畏らは法華経と大日経との勝劣を判釈するのに、理同事勝の釈を作って、「一念三千の理は法華経・大日経共に同じである」といいながら、「印と真言が法華経には無いので、事法は大日経に劣っている。事相が欠けているということは事理倶密もない」としたのである。

今、日本国の諸宗の学者らは、ことに用いてはならない天台宗が、共に理同事勝の義を許している。例えば、諸宗の人々が念仏者を嫉(そね)みながら、皆で弥陀の名号を唱えて自宗の本尊を捨てているようなものなのだ。天台宗は、一同に真言宗へと落ちてしまった人々である。

 

 

 

本文

日蓮理のゆくところを不審して云く 善無畏三蔵の法華経と大日経とを理は同じく事は勝れたりと立つるは、天台大師の始めて立て給へる一念三千の理を、今大日経にとり入れて同じと自由に判ずる條、ゆるさるべしや。例せば先に人丸がほのぼのとあかし(明石)のうらのあさぎりにしまかくれゆくふねをしぞをもうとよめるを、紀のしくばう(淑望)源のしたがう(順)なんどが判じて云く 、此歌はうたの父うたの母等云云。今の人我れうたよめりと申して、ほのぼのと乃至船をしぞをもう、と一字もたがへずよみて、我が才は人丸にをとらずと申すをば、人これを用ふべしや。やまかつ(山賎)海人(あま)なんどは用ふる事もありなん。天台大師の始めて立て給へる一念三千の法門は仏の父仏の母なるべし。百余年已後の善無畏三蔵がこの法門をぬすみとりて、大日経と法華経とは理同なるべし、理同と申すは一念三千なり、とかけるをば智慧かしこき人は用ふべしや。

事勝と申すは印・真言なし、なんど申すは天竺の大日経・法華経の勝劣か、漢土の法華経・大日経の勝劣か。不空三蔵の法華経の儀軌には法華経に印・真言をそへて訳せり。仁王経にも羅什の訳には印・真言なし。不空の訳の仁王経には印・真言これあり。此れ等の天竺の経経には無量の事あれども、月氏・漢土国をへだててとをく、ことごとくもちて来がたければ、経を略するなるべし。(P822P823)

 

意訳

日蓮として、道理に基づき不審に思うのは、善無畏三蔵の「法華経と大日経は、理は同じでも事相は大日経が勝れている」と立てるのは、天台大師がはじめて立てられた一念三千の理を、大日経に取り入れて「法華経と大日経は同じである」と善無畏が勝手に判じたことであり、許されることであろうか。

例えば、先に柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ 斉明天皇6年・660~養老4年・720)が「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島かくれゆく船をしぞをもう」と詠んだ歌を、紀のしくばう(紀淑望・きのよしもち ?~延喜19年・919)や源のしたがう(源順・みなもとのしたごう 延喜11年・911~永観元年・983)らが判じて「この歌は歌の父、歌の母である」と誉めた。今の人が「私は歌を詠んだ」といって、「ほのぼのと~船をしぞをもう」と柿本人麻呂の歌と一字も違えずに詠んで、「我が才、人麻呂に劣ることなし」といったら、周囲の人々がこれを用いることがあるだろうか。歌のことを知らない、やまかつ(山賎・樵[きこり]や猟師などの山中生活者)や海人(あま・漁師、漁夫)らは用いることがあるかもしれない。

天台大師がはじめて立てた一念三千の法門は、仏の父・仏の母である。天台よりも100余年も後の善無畏三蔵が一念三千の法門を盗み取って、「大日経と法華経とは理は同じである。理が同じというのは一念三千のことである」と書くのを、智慧有る人が用いることがあるだろうか。

「法華経と大日経では事において大日経が勝れる。それは法華経には印と真言がないからだ」等というのは、天竺(インド)の大日経と法華経の勝劣のことなのか、それとも漢土(中国)における法華経と大日経の勝劣ことなのだろうか。

不空三蔵の法華経の儀軌=成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌(じょうじゅみょうほうれんげきょうおうゆがかんちぎき)には、法華経に印と真言を添えて訳している。仁王経にも羅什の訳には印と真言はなく、不空の訳の仁王経には印と真言がある。これら天竺(インド)の経々には無量の事相があるけれども、月氏(インド・中央アジア)と漢土(中国)は遠く隔たっており、全てを持ってくることは困難だったので、漢訳の際に事相を省略したのである。

 

 

 

本文

法華経には印・真言なけれども二乗作仏劫国名号・久遠実成と申すきぼ(規模)の事あり。大日経等には印・真言はあれども二乗作仏・久遠実成これなし。二乗作仏と印・真言とを並ぶるに天地の勝劣なり。四十余年の経経には二乗は敗種の人と一字二字ならず無量無辺の経経に嫌はれ、法華経にはこれを破して二乗作仏を宣べたり。いづれの経経にか印・真言を嫌ふことばあるや。その言なければ又大日経にもその名を嫌はず但印・真言をとけり。印と申すは手の用なり。手仏にならずば手の印、仏になるべしや。真言と申すは口の用なり。口仏にならずば口の真言仏になるべしや。二乗の三業は法華経に値ひたてまつらずば、無量劫、千二百余尊の印・真言を行ずとも仏になるべからず。勝れたる二乗作仏の事法をばとかずと申して、劣れる印・真言をとける事法をば勝れたりと申すは、理によれば盗人なり、事によれば劣謂勝見の外道なり。此失によりて閻魔の責めをばかほりし人なり。後にくい(悔)かへして、天台大師を仰ひで法華にうつりて、悪道をば脱れしなり。

久遠実成なんどは大日経にはをもひもよらず。久遠実成は一切の仏の本地、譬へば大海は久遠実成、魚鳥は千二百余尊なり。久遠実成なくば千二百余尊はうきくさの根なきがごとし、夜の露の日輪の出でざる程なるべし。天台宗の人人この事を弁へずして、真言師にたぼらかされたり。真言師は又自宗の誤りをしらず、いたづらに悪道の邪念をつみをく。

空海和尚は此理を弁へざる上華厳宗のすでにやぶられし邪義を借りとりて、法華経は猶華厳経にをとれりと僻見せり。亀毛(きもう)の長短、兎角(とかく)の有無、亀の甲には毛なし、なんぞ長短をあらそい、兎の頭には角なし、なんの有無を論ぜん。理同と申す人いまだ閻魔のせめを脱れず。大日経に劣る、華厳経に猶劣る、と申す人謗法を脱るべしや。人はかはれども其謗法の義同じかるべし。弘法の第一の御弟子かきのもと(柿本)き(紀)の僧正紺青鬼(こんじゃうき)となりし、これをもてしるべし。空海悔改なくば悪道疑ふべしともをぼへず。其流をうけたる人人又いかん。(P823P824)

 

意訳

法華経には印と真言はないけれども、声聞・縁覚の二乗が成仏する「二乗作仏」と、成仏する時の劫(こう)の名と長さである劫、仏国土の名である国、仏名たる名号の「劫国名号」と、如来寿量品第十六で釈迦仏が久遠の昔・五百塵点劫という過去において既に仏であったと説かれた「久遠実成」という、他にはない勝れた教えがある。対して大日経等には印と真言はあるが、「二乗作仏」や「久遠実成」はない。

「二乗作仏」と印・真言とを並べたら、天地ほどの勝劣である。四十余年の経々には「二乗は腐った草木の種子(敗種)のようなもので成仏はできない」と一字、二字のみならず無量無辺の経々に嫌われている。法華経では二乗永不成仏を破って「二乗作仏」を説いている。

どこの経々に印と真言を嫌った言葉があるだろうか。その言葉がないのであれば、大日経も印と真言を嫌わずに説いているだけのことである。

印というのは手で結ぶもの、手の働きである。手が仏にならない限り、手で結ぶ印で成仏できるのだろうか。真言というのは口で唱えるもの、口の働きである。口が仏にならない限り、口で唱える真言で成仏できるのだろうか。二乗の身・口・意の三業も、法華経にあわなければ、無量劫にわたって、真言の本尊である千二百余尊(胎蔵界・五百余尊、金剛界・七百余尊)の印と真言を行じても仏になることはできないのである。勝れている「二乗作仏」の事法を説かないといって、劣れる印と真言を説く事法を勝れている、というのは、理によれば盗人であり、事相によれば「劣謂勝見(れついしょうけん)=劣を勝と謂う見、劣っているのに勝れているとする考え」の外道である。善無畏三蔵はこの失(とが)によって、閻魔王から責められた人なのである。後に悔いて、天台大師を師と仰いで法華経を信じ、悪道を免れている。

「久遠実成」というのは、大日経には思いもよらないものである。「久遠実成」は一切の仏の本地である。例えば大海は久遠実成であり、魚鳥は千二百余尊である。久遠実成がなければ、千二百余尊は浮き草の根がないようなものであり、太陽が出る前の夜露のようなものである。天台宗の人々はこのことをわきまえずに、真言師に誑かされてしまった。真言師もまた自宗の誤りを知らずに、いたずらに悪道に堕ちる邪念を積んでいる。

空海和尚はこの理をわきまえなかった上に、既に破られている華厳宗の邪義を借り取って「法華経は華厳経よりもなお劣るのである」との僻見を立てている。「亀毛の長短、兎角の有無」を論ずるようなものである。亀の甲には毛はないのに、どうしてその長いか短いかを争い、兎の頭には角などないのに、どうしてその有無を論じるのだろうか。

「理同」といった善無畏ですら、閻魔の責めを免れなかった。「大日経より華厳経は劣る、華厳経より法華経はなお劣る」という人が謗法罪から逃れることができるであろうか。人は善無畏から空海に変わっても、その謗法の義は同じである。弘法の第一の弟子であるかきのもときの僧正(柿本紀の僧正=真済・しんぜい 延暦19年・800~貞観2年・860)が紺青鬼(こんじょうき)となった(「捨遺往生伝」等)ことからも、空海の謗法を知るべきなのだ。空海は改悔しなければ、悪道に堕ちていることは疑いなきことである。その流れを受けた人々もまた同じことであろう。

 

 

 

本文

問て云く、わ法師一人此悪言をはく如何。

答て云く、日蓮は此人人を難ずるにはあらず。但不審する計りなり。いかり(怒)おぼせば、さでをはしませ。外道の法門は一千年八百年、五天にはびこりて、輪王より万民かうべ(頭)をかたぶけたりしかども、九十五種共に仏にやぶられたりき。摂論師が邪義、百余年なりしもやぶれき。南北の三百余年の邪見もやぶれき。日本二百六十余年の六宗の義もやぶれき。其上此事は伝教大師の或書の中にやぶられて候を申すなり。

日本国は大乗に五宗あり。法相・三論・華厳・真言・天台。小乗に三宗あり。倶舎・成実・律宗なり。真言・華厳・三論・法相は大乗よりいでたりといへども、くわしく論ずれば皆小乗なり。宗と申すは戒定慧の三学を備へたる物なり。其中に定慧はさてをきぬ。戒をもて大小のばうじ(牓示)をうちわかつものなり。東寺の真言・法相・三論・華厳等は戒壇なきゆへに、東大寺に入りて小乗律宗の驢乳臭糞の戒を持つ。戒を用って論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし。

比叡山には天台宗・真言宗の二宗、伝教大師習ひつたへ給ひしかども、天台円頓の円定・円慧・円戒の戒壇立つべきよし申させ給ひしゆへに、天台宗に対しては真言宗の名あるべからずとをぼして、天台法華宗の止観・真言とあそばして、公家へまいらせ給ひき。伝教より慈覚たまはらせ給ひし誓戒の文には、天台法華宗の止観・真言と正しくのせられて、真言宗の名をけづられたり。天台法華宗は仏立宗と申して仏より立てられて候。真言宗の真言は当分の宗、論師人師始めて宗の名をたてたり。而るを、事を大日如来・弥勒菩薩等によせたるなり。仏御存知の御意は但法華経一宗なるべし。小乗には二宗・十八宗・二十宗候へども、但所詮の理は無常の一理なり。法相宗は唯心有境。大乗宗無量の宗ありとも、所詮は唯心有境とだにいはば但一宗なり。三論宗は唯心無境。無量の宗ありとも、所詮唯心無境ならば但一宗なり。此は大乗の空有の一分歟。華厳宗・真言宗あがらば但中、くだらば大乗の空有なるべし。経文の説相は猶華厳・般若にも及ばず。但しよき人とをぼしき人人の多く信じたるあいだ、下女を王のあい(愛)するににたり。大日経は下女のごとし。理は但中にすぎず。論師・人師は王のごとし。人のあいするによていばう(威望)があるなるべし。

上の問答等は当時は世すえになりて、人の智浅く慢心高きゆへに、用ふる事はなくとも、聖人・賢人なんども出でたらん時は子細もやあらんずらん。不便にをもひまいらすれば目安に注せり。御ひまにはならはせ給ふべし。

これは大事の法門なり。こくうざう(虚空蔵)菩薩にまいりて、つねによみ奉らせ給ふべし。(P824P826)

 

意訳

問う、法師(日蓮)一人がこの悪言を吐くとはどのような考えなのか。

答えよう、日蓮は真言諸師を非難しているのではない。ただ、彼らの教えの不審なところを指摘しているだけなのである。それでも怒られるならば、そのようにすればよい。(インドの)外道の法門は八百年または一千年も五天竺(インドを東西南北と中の五つに分けた古称)にはびこって、転輪聖王より万民に至るまで頭を下げ帰依していたのだが、釈迦の時代の九十五種の外道は、皆共に釈迦仏に破られた。(中国の)摂論宗諸師の邪義は陳・隋代の100余年も続いたが、玄奘の出現により破られた。(中国の)南三北七の300余年続いた邪見も、智顗の出現によって破られた。日本では仏教が伝わって以来260余年の南都六宗の義も、最澄(神護景雲元年・767~弘仁13年・822)によって破られたのである。その上この事は、伝教大師が或る書(「依憑天台宗」のことか)の中で破られていることをいっているのである。

日本国では大乗に五宗ある。それは法相・三論・華厳・真言・天台宗である。小乗には三宗ある。それは倶舎・成実・律宗である。真言・華厳・三論・法相宗は大乗より出たとはいえ、詳しく論ずるならばそれらは皆小乗の宗である。

宗というものは、戒・定・慧の三学を備えている。その中で、定・慧はひとまずおこう。戒をもって大乗、小乗の境目を明確にするものなのである。東寺の真言・法相・三論・華厳宗等は戒壇堂がない故に、東大寺の戒壇堂に入って小乗律宗の驢乳(ろにゅう)・臭糞(しゅうふん)の戒を受けている。戒をもって論ずれば、これらの宗は小乗の宗になるのだ。

唐に渡り学んだ伝教大師が、天台宗と真言宗の二宗を比叡山に伝えたのだが、天台円頓の円定・円慧・円戒の戒壇を建立すべきことを願われたので、天台宗に対しては真言宗の名はあるべきではないと考えられ、天台法華宗の止観業・遮那業と認められて朝廷に上表されたのである。伝教大師より慈覚が賜った「誓戒」の文には、「天台法華宗の止観・真言」とまさしく載せられて、真言宗の名を削られている。

天台法華宗は仏立宗といい、釈迦仏により立てられたものである。真言宗の真言とは当分の宗であり、論師・人師がはじめて宗の名を立てたものだ。そのようなことを無視して、事を大日如来と弥勒菩薩等によせているのである。釈迦仏が御存知である御意にかなうのは、ただ法華経による一宗だけである。

小乗には2宗・18宗・20宗とあるのだが、つまるところ、究極の理は無常の一理である。法相宗の究極の理は唯心有境であり、大乗の宗に無量の宗があっても、究極の理は唯心有境だというならば、ただ一宗・法相宗となる。三論宗は唯心無境であり、大乗の宗に無量の宗があっても、究極の理は唯心無境というならば、ただ一宗・三論宗となる。これは大乗の空有の一分であろうか。

華厳宗・真言宗は一つには但中、または大乗の空有となるであろう。経典に説かれた内容をみれば、大日経は華厳経・般若経にも及ぶことはない。ただ、立場のある多くの人が大日経を信仰しているのは、下女を王が愛しているのに似ているようなものである。大日経は下女のようなもので、その理は「但中」にすぎない。論師・人師は王のようなもので、人々が敬愛することによって威望が備わるのである。

以上の問答等は、今は世が末になり人の智慧が浅く慢心が高い故に用いられることがなくても、聖人・賢人などが出現したならば子細も明らかになることだろう。

あなた(聖密房)を不便に思うので、目安として書きしるしたのである。時間ができたら学んでいきなさい。

ここに書いたことは大事の法門である。虚空蔵菩薩に参って常に読んでいきなさい。

 

 

 

以上、「聖密房御書」では中国の三三蔵、日本の空海を批判。大日経より法華経が勝れていることを説示し、それを「大事の法門」として、虚空蔵菩薩に参って当書を「つねによみ奉らせ給ふべし」と反復学習を促しているところから、聖密房は真言密教・東密の僧であったと思われる。もしくは以前は東密僧だったが、書状を届けられた時には日蓮法華信奉者となっていたのかもしれない。その場合は、聖密房の法華信仰不退を固める意から書かれたものとなる。どちらにしても、聖密房の周囲の東密僧に教理的誤りを認識させ、日蓮法華への信を促す意を込めたものと理解できる。

 

 


④ 報恩抄

 

師匠・道善房死去の知らせを受けて報恩のために記述し、「清澄山浄顕房義城房の本へ」(P1250)送った「報恩抄」(建治2年[1276721日  真蹟)でも、東密・台密に照準を合わせるように教理面を詳細に論じながら批判している。

 

「設ひ慈覚、伝教大師に値ひ奉りて習ひ伝へたりとも、智証、義真和尚に口決せりといふとも、伝教・義真の正文に相違せば、あに不審を加へざらん。」(P1215)

「されば叡山の仏法は但伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん。天台の座主すでに真言の座主にうつりぬ。名と所領とは天台山、其主(ぬし)は真言師なり。されば慈覚大師・智証大師は已今当の経文をやぶらせ給ふ人なり。已今当の経文をやぶらせ給ふは、あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや。弘法大師こそ第一の謗法の人とをもうに、これはそれにはにるべくもなき僻事(ひがごと)なり。」(P1217)

「弘法大師いかなる徳ましますとも、法華経を戯論の法と定め、釈迦仏を無明の辺域とかかせ給へる御ふで(筆)は、智慧かしこからん人は用ふべからず。」(P1233)

「弘法大師は仏身を現じて華厳経・大日経に対して法華経は戯論等云云。仏説まことならば弘法は天魔にあらずや。」(P1235)

 

 


⑤ 種種御振舞御書

 

「種種御振舞御書」(建治元年[1275]または建治2年[1276] 真蹟曽存)では、佐渡より鎌倉に戻った日蓮が平左衛門尉と会い、真言師による異国調伏では日本は戦に負けてしまう=滅びる、と説いたこと。東密の阿弥陀堂法印が祈雨を行い雨は降ったが、大風が吹いて甚大な被害をもたらしたことを記述し、続いて、身延入山後に蒙古が攻め寄せたが、今度こそは日本は危ういとして経文を引用。次に「されば仏法を習わん人、後世をねがはん人は法華誹謗をおそるべし」(P983)として、「皆人をぼするやうは、いかでか弘法・慈覚等をそしる人を用ゆべきと」()と「清澄寺大衆中」と同じく、当時の人々が日蓮に対して抱いた感情、不信を「日蓮のように弘法大師・慈覚大師ほどの人物を謗る者の言うことをどうして用いることができようか」と書いて、「他人はさてをきぬ。安房国の東西の人人は此の事を信ずべき事なり。眼前の現証あり。いのもりの円頓房・清澄の西堯房・道義房・かたうみの実智房等はたうとかりし僧ぞかし。此等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし。」()と、余所のことはさておいて、故郷の安房国の人々は空海・円仁を批判する日蓮のいうことを信ずるべきあり、その現証として、清澄寺及び周辺の僧の臨終がよくないものだったことを知るべきである、とする。ここからは、清澄寺と周辺の僧の信仰、崇敬する人物が読み取れるのではないか。即ち空海と円仁を批判する日蓮の説示を用いなかった悪現証として、清澄寺と周辺に居住する僧の名が列挙されたということは、彼らは空海と円仁を崇めていたと理解でき、この記述も清澄寺内の東密と台密の法脈を探る際の史料になるといえるだろう。

 

 


⑥ 本尊問答抄

 

故郷の法兄・浄顕房に宛てた「本尊問答抄」(弘安元年[12789月 日興本)でも空海・円仁・円珍を批判し、題目・法本尊を教示するにあたって、やはり東密・台密批判を展開している。

「問ふ、今日本国中の天台・真言等の諸僧並びに王臣万民疑て云く、日蓮法師めは弘法・慈覚・智証大師等に勝るべきか。如何。答ふ、日蓮反詰して云く、弘法・慈覚・智証大師等は釈迦多宝十方の諸仏に勝るべきか是一。今日本国の王より民までも教主釈尊の御子也。」(P1575)

「其後弘法大師真言経を下(おと)されける事を遺恨とや思食しけむ。真言宗を立てんとたばかりて、法華経は大日経に劣るのみならず華厳経に劣れりと云云。あはれ慈覚・智証、叡山園城にこの義をゆるさずば、弘法大師の僻見は日本国にひろまらざらまし。彼両大師華厳法華の勝劣をばゆるさねど、法華真言の勝劣をば永く弘法大師に同心せしかば、存外に本伝教大師の大怨敵となる。其後日本国の諸碩徳等各智慧高く有るなれども彼三大師にこえざれば、今四百余年の間、日本一同に真言は法華経に勝れけりと定め畢んぬ。たまたま天台宗を習へる人人も真言は法華に及ば不るの由存ぜども、天台座主・御室等の高貴におそれて申す事なし。」(P1579)

「然らば日本国中に数十万の寺社あり。皆真言宗也。たまたま法華宗を並ぶとも真言は主の如く法華は所従の如く也。若しくは兼学の人も心中は一同に真言也。座主・長吏・検校・別当、一向に真言たるうへ、上に好むところ下皆したがふ事なれば一人ももれず真言師也。されば日本国或は口には法華経最第一とはよめども、心は最第二最第三也。或は身口意共に最第二三也。三業相応して最第一と読める法華経の行者は四百余年が間一人もなし。」(P1580)

「是くの如く仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ、結句は此国他国にやぶられて亡国となるべきなり。」(P1582)

「然而日蓮小智を以て勘えたるに其故あり。所謂彼真言の邪法の故也。僻事は一人なれども万国のわづらひ也。一人として行ずとも一国二国やぶれぬべし。況や三百余人をや。国主とともに法華経の大怨敵となりぬ。いかでかほろびざらん。」(P1584)

 

これら「善無畏三蔵抄」「聖密房御書」「清澄寺大衆中」「報恩抄」「種種御振舞御書」「本尊問答抄」では、一部で師匠・道善房の浄土信仰を破する記述があり、禅・南都諸宗も批判している。だが、日蓮の批判の矛先は東密・台密にあり、多くの紙数を費やすものとなっている。故郷の法兄らに宛てた日蓮の書簡は「清澄寺大衆中」は当然として、他の書においても宛先の人物だけではなく周囲が読むであろうことを念頭に書いたものと考えられ、そこに特定の人物(善無畏・空海・円仁・円珍ら)・教理(東密・台密)を挙げて継続して批判し法華勧奨をなすところに、その人物を崇敬し、教えを信奉する者が清澄寺には多かった、即ち東密・台密の修学・修行者が清澄寺に居住していたと読み解くことができるのではないだろうか。

 

 


⑦ 神国王御書と善無畏三蔵抄

 

他には「神国王御書」と「善無畏三蔵抄」も少年日蓮の修学環境を探るのに、参考になる書だと考えている。

 

「幼少の比(ころ)より随分に顕密二道並びに諸宗の一切の経を、或は人にならい、或は我と開き見し、勘(かんが)へ見て候へば、故の候けるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ことは仏鏡にはすぐべからず。」(昭和定本・文永12年[12752月、岡元錬城氏・山上弘道氏・建治3年[1277821日、「神国王御書」定P885)と、後年回想する中で、顕教・密教、諸宗の一切経を人に習い自ら学んだのは少年時代から、としていること。

 

「日蓮は顕密二道の中に勝れさせ給ひて、我等易易(やすやす)と生死を離るべき教に入らんと思ひ候て、真言の秘教をあらあら習ひ、此事を尋ね勘るに、一人として答をする人なし。此人悪道を免れずば、当世の一切の真言並びに一印一真言の道俗、三悪道の罪を免るべきや。」(文永7年[1270]「善無畏三蔵抄」定P471)と、顕教・密教の中でより勝れ、生死を離れるべき教えに入ることを願い、真言の秘教を粗々習ったが、特に善無畏三蔵の頓死について真言師から明答を得られなかった。善無畏が悪道に堕ちたのであれば、現在の真言諸師と信奉者が三悪道の罪をどうして免れることができようか、としていること。

 

これらは少年・青年期の修学の過程におけることを書いたものだろうが、この文より日蓮は若き日に東密僧と接していたことが読み取れ、「幼少の比より随分に顕密二道」「真言の秘教をあらあら習ひ」ということであれば、それは少年日蓮の清澄寺修学時代を含むものであり、そこには少年日蓮に教示する東密僧の存在が考えられるのではないだろうか。

 

東密の祖・空海が修した虚空蔵菩薩求聞持法を行う山林修行の霊場として喧伝されていた清澄寺であれば、記憶力増進を願い東密の修学・修行者が集うのも、また「慈覚開山之勝地」と天台・台密系の聖らによって再興されたと推される清澄寺であれば、そこに天台・台密の法脈が伝わるのも、即ち台東両系の修学・修行者達が居住したことも考えられるところで、両系の共通の帰命対象・本尊として虚空蔵菩薩があり、宗派という枠にとらわれない虚空蔵信仰・求聞持法の霊場としての清澄寺だった、と位置付けられるのではないかと思う。

 



                          鴨川市 天津
                          鴨川市 天津

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