安房国清澄寺に関する一考 4・5

4 東密の鎌倉進出

 

【 清澄山の一宇と鶴岡八幡宮寺 】

 

「安房国清澄寺縁起」(岩村義運氏 1930)が伝える「光仁天皇の宝亀(ほうき)二年(771)、一人の旅僧何地よりか飄然として此の山に来たり一大柏樹を以って、虚空蔵菩薩の尊像を謹刻し、一宇を此處に建立し、日夜礼拝供養怠らず」(同書P3)との、清澄寺起源の時代の宗旨は不明だと考えるが、「其の後六十余年を経て、仁明天皇の御宇、承和三年(836)慈覚大師東国巡錫の砌、清澄に登りし處、聞きしに優る仙境に讃嘆禁ぜず、之れ仏法相応の霊地なりとし、錫を止めて興隆に力を盡(つく)し、自ら一草堂に籠りて、虚空蔵菩薩求聞持法を厳修して其成満を祈り、遂に僧坊を建つる十有二、祠殿を造る二十有五、房総第一の巨刹、天台有数の大寺となり、清澄寺の名、漸(ようや)く世に知らるるに至れり」(同書P6)と、円仁再興との伝承を発生させた時代=天台・台密の聖らが再興した時からしばらくは天台・台密色の濃い清澄寺であったのではないか。これが東密の聖らの再興であれば、「弘法大師東国巡錫の砌、この地に」云々との縁起を作ったのではないかと考えられ、「慈覚大師東国巡錫の砌、清澄に登りし處」(安房国清澄寺縁起)、「房州千光山清澄寺者、慈覚大師草創」(清澄寺・古鐘の銘文)との伝承に、清澄山の堂宇を整備した天台・台密系の聖らの姿が思われるのである。

 

くだって元暦元年(1184)53日、後に見るように東密と関係の深かった源頼朝(久安3年・1147~建久10年・1199)が伊勢神宮の外宮に安房国東条郷を寄進して以降、時を重ねる過程で清澄寺に東密の進出もあったものだろうか。寺伝では、源頼朝は清澄寺を尊信し、妻の政子(保元2年・1157~嘉禄元年・1225)は頼朝追善のために大輪蔵を建立して一切経を収めた、と伝えている。源頼朝が再興した鎌倉の鶴岡八幡宮寺は建久2(1191)の火災後、上宮と下宮の体制となり、初代の円暁(頼朝の従兄弟)から5代の慶幸までは三井寺(園城寺)出身者が別当職を務め、6代目に東寺出身の定豪が就いて以降、17代までは三井寺、東寺出身者によって占められていく。頼朝時代から東寺の勢力は伊豆・関東に進出しており、加えて鶴岡別当となった東寺の高僧につき従う僧らが幕府との関係を深め、教勢拡大を意図して鎌倉と海上交通が活発な安房国に渡り、虚空蔵菩薩求聞持法の霊場として喧伝されていた清澄寺に向かうことは、十分に推測されることではないだろうか。

 


【 日蓮と平左衛門尉の対面、阿弥陀堂法印の祈雨 】

 

日蓮の遺文にも、東密勢がいかに鎌倉に進出していたかを窺えるものがある。佐渡から鎌倉に戻った日蓮が平左衛門尉と対面した時のこと、また阿弥陀堂法印=加賀法印定清の祈雨について、日蓮の記述から確認してみよう。

 

文永11(1274)3月、日蓮は流刑地の佐渡より鎌倉に帰り、48日に平左衛門尉をはじめ幕府高官達と面談した。その時の平左衛門尉は、「さき()にはにるべくもなく威儀を和らげてただ()しくする」(建治元年または建治2年「種種御振舞御書」定P979 真蹟曽存)と以前、草庵に逮捕に来た時とは異なり礼儀正しいもので、「或入道は念仏をとふ、或俗は真言をとふ、或人は禅をとふ、平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ。」(P979)ある入道は念仏を、ある人は真言を、ある人は禅について問い、平左衛門尉は爾前得道の有無を訊ねてきた。「一一に経文を引ひて申す。」()日蓮は経文を引用しながら一つ一つに返答。

「平の左衛門の尉は上の御使の様にて、大蒙古国はいつか渡り候べきと申す。日蓮答て云く、今年は一定也。」()続いて、平左衛門尉は次なる蒙古襲来はいつかを問い、日蓮は「間違いなく今年である」と答える。

「それにとつては日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし。譬へば病の起りを知らざらん人の病を治せば弥よ病は倍増すべし。真言師だにも調伏するならば、弥よ此国軍(いくさ)にま()くべし。穴賢穴賢、真言師総じて当世の法師等をもて御祈り有るべからず。」()それは、日蓮が以前から立正安国論等で訴えてきたところを用いないが故であり、今の幕府は真言師らに異国調伏の祈祷をさせているが、病のよってきたる原因を知らない無知なる者が治療をしても、ますます病は倍増するようなものであるとして、真言師の調伏が続くならば、日本は蒙古との戦いに敗れるであろう、真言師らに祈祷をさせてはいけないのである、と真言批判を展開する。続けて承久の乱で東密・台密に祈祷させた朝廷側が敗れた先例を挙げ、今もまた同じことが起きようとしているとし、「是をもて思ふに、此御房たちだに御祈りあらば入道殿事にあひ給ひぬと覚え候。」(P980)と、この御房達に祈祷させるならば、入道殿に異変が起きるであろうと諌めている。

 

ここで気になるのが「此御房」で、真言の祈祷が亡国を招くと幕府高官らに諌め続けてきて、同席している人物に「此御房」として、「此御房」の祈祷ではやはり同席者である「入道殿」に災いが起きるとしている文脈からすれば、「此御房」とは真言師であると理解できると思う。「此御房」=真言師が祈ることによって、身に異変が起きるとされたのが「入道殿」で、その「入道殿」は前文にある「或入道は念仏をとふ」の「或入道」と同じだとすれば、真言師を連れてきた入道が念仏の義について日蓮に訊ねていることになり、それによって「此御房」=真言師とは後文に出てくる阿弥陀堂法印のことではないかと推測される(ただし「入道殿」が誰であるかについては不明)。以上の文永1148日の記述から、「日蓮と幕府高官達との面談に真言師が同席していた」「幕府は真言師の祈祷に大いに依存していた」ということが分かり、そのことは東密勢がいかに権力中枢に食い込んでいたかを示すものだと思う。

 

続いて410日、幕府は阿弥陀堂法印に祈雨の祈祷を命じる。

阿弥陀堂法印とは、鎌倉の大蔵ヶ谷の勝長寿院に住した加賀法印定清のことで、本堂は阿弥陀堂だった。「吾妻鑑」文治元年(1185)1021日条には、「南御堂(勝長寿院)に本仏(丈六、皆金色の阿弥陀仏、仏師は成朝也)を渡し奉る。」とある。定清は「弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけ、天台・華厳等の諸宗をみな胸にうかべたり」(「種種御振舞御書」定P980)と評され、「東寺第一の智人、をむろ(御室)等の御師」()と仰がれる人物であった。

 

「それに随ひて十日よりの祈雨に十一日に大雨下りて風ふかず、雨しづかにて一日一夜ふりしかば、守殿(こうどの)御感のあまりに、金三十両、むま()、やうやうの御ひ()きで()物ありときこふ。」()と、翌11日には実際に雨が降り、北条時宗(建長3年・1251~弘安7年・1284)は喜び金三十両、馬等を与えている。鎌倉の人々は日蓮に対して、「鎌倉中の上下万人、手をたたき口をすくめて、わら()うやうは、日蓮ひが法門申して、すでに頚をきられんとせしが、とかう(左右)してゆりたらば、さではなくして念仏・禅をそしるのみならず。真言の密教なんどをもそしるゆへに、かかる法のしるし()めでたしとののしりしかば」()と罵ったのだが、12日になると大風が吹き出す。「いゐもあはせず大風吹き来たる。大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を、或は天に吹きのぼせ、或は地に吹きいれ、そらには大なる光物とび、地には棟梁みだれたり。人々をもふ()きころ()し、牛馬をゝ()くたふ()れぬ。」(P981)と、強風が鎌倉に吹き荒れ大変な被害をもたらしている。後年、日蓮はこのことを引用して「去ぬる文永十一年四月十二日の大風は、阿弥陀堂加賀法印東寺第一の智者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり。」(「報恩抄」定P1229)と真言の悪現証の一例とするのである。

 

幕府高官と日蓮の面談に同席した真言師と阿弥陀堂法印に関する日蓮の記述は、異国調伏をはじめ幕府の意を受けて祈祷を行う東密の僧が、幕府と一体化した存在になっていたことを窺わせる史料になると思う。このように幕府膝下の事実上の官僧として、天変地災、疫病、変事等が起きる度に各種の祈祷をした東密の僧や弟子とその関係者、法脈にある人物が清澄寺に進出すれば一定の勢力・存在となることも考えられるところで、結果としてそれを示すのが日蓮と同時代、それ以降の法鑁(日吽)、寂澄、亮守ら東密と目される人物の清澄寺での活動ではないだろうか。

 

一つ疑問になると思われるのが東密僧進出の初期、清澄寺内で東密の修学者が一定の勢力を占めるようになる過程で、それまで清澄寺内でほぼ独占状態だったと思われる台密僧とのトラブル、問題は発生しなかったのだろうか、ということだ。彼ら台密僧は清澄寺の変わりゆくさまを、ただ黙して見ていたのだろうか。私としては、台密勢は清澄寺を訪れる東密僧の背後にある鎌倉幕府の存在というものを、多分に意識していたのではないかと思う。次の項目からしばらくは、山門・寺門・東密と幕府の関係を確認してみよう。

 



5 以仁王の乱

 

はじめに、平安末期の以仁王(もちひとおう)の乱における、源氏と比叡山の関係を概観しておこう。

 

源義光(寛徳2年・1045~大治2年・1127)は三井寺(園城寺)の新羅明神で元服し新羅三郎と称したが、それ以来、源氏と三井寺の関係は深まっていく。治承4(1180)4月、後白河天皇(大冶2年・1127~建久3年・1192)の第3皇子・以仁王(もちひとおう 仁平元年・1151~冶承4年・1180)は「平家追討の令旨」を発して全国の源氏勢力に決起を促したが、翌月には計画が露見してしまい情勢不利となり515日、以仁王は三井寺に逃れ匿われる事態となる。521日、そこに源頼政(みなもとのよりまさ 長治元年・1104~治承4年・1180)らが合流したが、比叡山延暦寺は中立の立場を取りこれを支援せず。526日、源頼政らの軍勢は興福寺をはじめ南都の寺社勢力の協力を得るべく奈良へ向かうも、宇治平等院の戦いで平氏軍に敗北。頼政は自害、以仁王も討ち取られてしまう。その後も平氏への反抗に動いた三井寺は1211日、平重衡(たいらのしげひら 保元2年・1157~文治元年・1185)らに攻撃され、同じく反平氏であった興福寺をはじめ南都の寺院も、平重衡を総大将とする軍勢によって1228日に攻撃され焼かれてしまう。だが、以仁王の令旨の効果と挙兵の影響は大きく、これが後にいう「治承・寿永の乱」となり、平氏から源氏の世へと時代は大きく変わっていく。

 

源頼政らの要請を拒否して窮地に追い込んだ延暦寺ではあったが、強大な寺社勢力としての延暦寺の力は、源頼朝が覇を握って以降も衰えることはなかった。佐々木定綱(ささきさだつな 康治元年・1142~元久2年・1205)は頼朝と共に戦い多くの戦功を上げ、近江・長門・石見・隠岐の守護に任じられていた。建久2(1191)45日、佐々木庄で比叡山衆徒との間に年貢をめぐるトラブルが発生。両者の衝突の後、比叡山衆徒は強訴を起こし、頼朝はこれに屈伏して定綱を薩摩国へと配流している(2年後には赦免される)。「吾妻鏡」は建久5(1194)728日条で、「定綱の事は山門の訴えなので『是非に能わず』=どうしようもないものだった」と記している。ただし、頼朝が再興した鎌倉の鶴岡八幡宮寺では、別当職は三井寺・東寺系の人物が補任されており、比叡山系は坊舎の供僧止まりだった。寿永元年(1182)923日、三井寺の円暁が拝殿で頼朝より別当職を申し付けられ、寿永4(1185)213日には平家追討の祈祷を行い、324日、平家は壇の浦で敗北して滅亡。以降の鶴岡別当も比叡山ではなく三井寺から迎えられ、続いては東寺出身者となる。坊舎に視点を移して鶴岡八幡宮寺にあった25坊の初代供僧を見ると、4坊の供僧が山門・比叡山となっている。他は寺門・三井寺が15坊、東寺は6坊であった(貫達人氏「鶴岡八幡宮寺」[1997有隣堂]の教示による。以下、貫・鶴岡と表記)

 



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