日蓮と弟子(日昭・日朗ら)による「天台沙門」との名乗りについて 1

                         身延山 山頂より
                         身延山 山頂より

【 師弟(日蓮と日昭・日朗ら)による「天台沙門」との名乗り 】

日昭・日朗らの申状にある「天台沙門」との名乗りについて見てみよう。

 

日興一門による「五人所破抄」(嘉暦三戊辰年1328]七月草案 日順)では、日蓮亡き後の日昭・日朗・日向・日頂による武家への申状を引用する。

 

五人武家に捧ぐる状に云く[未だ公家に奏せず。]

天台の沙門日昭謹んで言上す。
先師日蓮は忝くも法華の行者と為して専ら仏果の直道を顕し、天台の余流を酌み地慮の研精を尽すと云々。

又云く、日昭不肖の身為りと雖も、兵火永息の為め副将安全の為に法華の道場を構え、長日の勤行を致す、已に冥冥の志有り豈昭昭の感無からんや 詮取。

 

天台沙門日朗謹んで言上す。

先師日蓮は如来の本意に任せ先判の権経を閣いて後判の実教を弘通せしむるに、最要未だ上聞に達せず愁欝を懐いて空しく多年の星霜を送る。玉を含みて寂に入るが如く逝去せしめ畢んぬ。然して日朗忝くも彼の一乗妙典を相伝して鎮に国家を祈り奉る 詮取。

 

天台法華宗の沙門日向・日頂謹んで言上す。
桓武聖代の古風を扇ぎ伝教大師の余流を汲み立正安国論に准じて法華一乗を崇められんことを請うの状。

右謹んで旧規を検するに、祖師伝教大師は延暦年中に始めて叡山に登り法華宗を弘通したもう云云。
又云く法華の道場に擬して天長地久を祈ること今に断絶すること無し 詮取。

(日蓮宗宗学全書2 P79、以下「宗全」)

 

「富士一跡門徒存知事」でも簡略に記している。

一、五人一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり。仍て公所に捧る状に云く、天台沙門云云。又云く、先師日蓮聖人天台の余流を汲むと云云。又云く、桓武聖代の古風を扇いで伝教大師の余流を汲み法華宗を弘めんと欲す云云。

(宗全2 P119)

 

このような昭・朗・向・頂の「天台沙門」との名乗りに、また「祈国・天長地久の御願を祈った」ことに対し、日興一門は激しく批判する。

 

「五人所破抄」

凡そ一代教籍の濫觴は法華の中道を説く為なり。三国伝持の流布は盍ぞ真実の本門を先とせざらんや。若し瓦礫を貴んで珠玉を棄て、燭影を捧げて日光を哢せば、只風俗の迷妄に趁いて世尊の化導を謗ずるに似るか。華の中に優曇有り、木の中に栴檀有り、凡慮覃び難し併て冥鑑に任す云云。本迹既に水火を隔て時機と亦天地の如し。何ぞ地涌の菩薩を指して苟も天台の末弟と称せんや。次に祈国の段亦以て不審なり。所以は何ん。文永免許の古は先師素意の分、既に以て顕れ畢んぬ。何ぞ僭聖道門の怨敵に坐を交へ、鎮に天長地久の御願を祈らんや。況や三災弥よ起りて一分も徴し無し。啻に祖師の本懐に違するのみにあらず還って己身の面目を失うの謂いか。

(宗全2 P80)

 

「富士一跡門徒存知事」

日興が云く、彼の天台伝教所弘の法華は迹門なり。今日蓮聖人の弘宣し給う法華は本門なり。此の旨具に状に載せて畢んぬ。此の相違に依て五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ。

(宗全2 P119)

 

「三師御伝土代」

日興上人御伝草案

日興上人御遺告、元徳四年(1332)正月十二日日道之を記す。

一、天台沙門と仰せらる申状は大謗法の事。

地涌千界の根源を忘れ天台四明の末流に跪く天台宗は者智顗禅師の所立迹門行者の所判なり。既に上行菩薩の血脈を汚す争か下方大士の相承と云はん。

中略

何ぞ日蓮聖人の弟子となって拙くも天台の沙門と号せんや。

中略

しかればすなはち日蓮聖人の御弟子は天台と云ふ字をば禁ずべきものなり。本門迹門の付嘱すでに異なり、下方他方弘通何ぞ同じからんや。すでに天台沙門と号す、全く地涌千界の眷属にあらず。

(宗全2 P252)

 

しかしながら、日興自らが書写した「立正安国論」(玉沢妙法華寺蔵)の題号次下には、「天台沙門日蓮勘之」との署名があり、文応元年(1260)716日、日蓮が前執権最明寺入道時頼に「立正安国論」を進呈した時、「天台沙門」の名乗りであったことが窺えるのである。(「日興写本・玉沢本」の紙背には、日蓮筆の「夢想御書」二行と「涅槃経等要文」の記述がある。)他にも千葉県市川市中山・法華経寺蔵の「日高写本」、千葉県香取郡多古町島・正覚寺蔵の「日祐写本」、千葉県香取郡多古町南中・()妙興寺蔵の「日弁写本」の計三本に「天台沙門日蓮」との名乗りが確認されている。

 

【 日蓮一門に独自の宗名なし 】

前にも見たが、ここで日蓮の著作者としての署名、「撰号」の冠詞の変化を確認してみよう。

 

文永3年「法華題目抄」(真蹟)

本文冒頭「根本大師門人 日蓮 撰」(P391)

 

系年・佐渡期と推測される「顕謗法抄」(真蹟断片か・真蹟曽存)

冒頭「本朝沙門 日蓮撰」(P247)

 

系年、文永9年とされる「祈祷抄」(真蹟曽存)

冒頭「本朝沙門 日蓮 撰」(P667)

 

文永10425日「観心本尊抄」

冒頭「本朝沙門 日蓮撰」(P702)

 

文永10年閏511日「顕仏未来記」(真蹟曽存)

冒頭「沙門 日蓮勘之」(P738)

文末「桑門 日蓮記之」(P743)

 

文永11524日「法華取要抄」(真蹟)

冒頭「扶桑沙門 日蓮 述之」(P810)

 

建治元年6月「撰時抄」

冒頭「釈子 日蓮 述」(P1003)

 

建治2721日「報恩抄」では自らの阿闍梨号を記す

冒頭「日蓮 撰之」(P1192)

 

このような日蓮の「撰号」の冠詞の変化と妙法曼荼羅の図顕、台密批判の展開とをあわせ考えれば、「法門申しはじめ」以降しばらくは「天台宗の僧=四宗兼学の道場・比叡山・台密信仰圏の僧日蓮」として「大乗仏教復興」「天台宗の再興」を期していたものが、度重なる法難を経て蒙古襲来間近となるに到って「天台僧」としての意識から自立志向となり、独自の法門展開、路線へと転じたことが窺えるのだが、結局、日蓮は存命中に自らが創案した宗名を公称することはなかった。(真蹟・真蹟曽存遺文より確認。「諸宗問答抄」での、天台宗を批判する観点から「日蓮一門」を「法華宗」とした表現と同書の扱いについては、「不動・愛染感見記一考」を参照して頂きたい。私としては、日蓮そのものに迫るには、真蹟・真蹟曽存遺文に基づく作業が優先されるべきと思う)日蓮遺文から確認できるのは自己と弟子・檀越を含めた総称であり、代表的なものとして以下のような表現がある。

 

日蓮が一門」「此一門」(P1674 弘安2101日 聖人御難事 真蹟)

 

「我一門」(P1752 弘安3526日 諸経与法華経難易事 真蹟)

 

「我か門弟」(P810P816P818 文永11524日 法華取要抄 真蹟)

 

「我門人」(P1299 建治3410日 四信五品抄 真蹟)

 

「我弟子」(P1479 弘安元年321日 諸人御返事 真蹟)

 

                      三島市玉沢 妙法華寺
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