日蓮と弟子(日昭・日朗ら)による「天台沙門」との名乗りについて 2

【 弘安8年・鎌倉日蓮教団への圧迫 】

日昭・日朗の申状を見ると、日昭の申状の末尾は「弘安八年卯月 日」(宗全6 P9)とあり、日朗の申状の末尾も「弘安八年 月 日」(宗全6 P23)とある。両名が武家への申状を作成した弘安8(1285)は、幕府による鎌倉法華衆への圧迫が強まっていた時だ。弘安7(1284)1018日、日興は上総の美作房に書状(美作房御返事)を送り、「抑も代も替りて候。聖人より後も三年は過ぎ行き候に、安国論の事御沙汰何様なる可く候らん。鎌倉には定めて御さはぐり(詮議)候らめども、是れは参りて此の度の御世間承はらず候に、当今も身の術無きまゝはたら()かず候へば仰せを蒙る事も候はず、万事暗々と覚え候。(宗全2 P145)と、北条時宗が四月に没して執権は子の貞時となったが、幕府の「立正安国論」に対する反応の変化を気にかけ、鎌倉方面の諸情勢を案じている。文面から推測すれば、師日蓮の3年忌に当たるこの年に、日昭・日朗らは新しい執権に「立正安国論」を進呈したものだろうか。 

 

永仁6(1298)、日興が作成した「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」(弟子分本尊目録)には、「聖人御弟子六人中、五人者一同改聖人御姓名号天台弟子。爰欲被破却住坊之刻、行天台宗而致御祈祷之由、各々依捧申状免破却難了。具見彼状文。=(日蓮)聖人御弟子六人の中、五人は一同に聖人の御姓名を改めて天台の弟子と号す。爰(ここ)に住坊を破却せられんとするの刻、天台宗を行じて御祈祷を致すの由、各々申し状を捧ぐに依って破却の難を免れ了んぬ。具(つぶさ)には彼の状の文を見よ。」(宗全2 P112)とあり、日興以外の一弟子五人は天台沙門としての祈祷をすることによって住坊の破却を免れたとの記録から、幕府による法華衆への圧迫は実力行使を厭わない相当なものであったことが窺われる。

 

弘安8年といえば日蓮の入滅からわずか3年弱、師匠亡き後の日蓮法華教団の事始めの時であり、一弟子六人、門徒衆による「特定の宗名・宗派としての名乗り」が共通認識として定まっていたとは思われない。参考文献として日朗の「与肥後殿書」(宗全6 P28)を確認しよう。同書に年号はなく「三月十四日」を記すのみだが、文中で「おもひがけ候はず鎌倉や()け候て、御處もや()け候て経論・聖教も皆焼失、おもふばかりもなく存候」と鎌倉の火災に触れていることから、正和4(1315)頃の書状と推測されている(尚、この火災により建長寺は創建当初の建物の大部分を失ったと伝える)。同書には「さても一井殿京都へいそぎ可参候事候て罷登候、京都法花宗の人に仰候て御もてなし候はゞ日朗之面目と相存候」とあり、日朗は京都における日像と門弟を「京都法花宗」といっている。

 

日興の使用例を確認すると、徳治2(1307)712日付けの「与了性御房書」では「法花衆たるによて」(日興上人全集P169)と、檀越らを「法花衆」としている。元亨3(1323)622日、日興が佐渡の檀越らに宛てた「報佐渡国講衆書=佐渡国法花講衆御返事」(宗全2 P177)では、「御かうしう(講衆)の申さるゝむね()」「御かうしうら(講衆等)しこんいこ(自今以後)においてへんは(偏頗)ありてしやう()人のほうもん(法門)にきす()つけ給候な。」「さと(佐渡)の国の法花かうしう(講衆)の御返事」と法華経信奉者を「法花講衆」と呼んでいる。日蓮直弟子の日朗は「法花宗」、日興は「法花衆」「講衆」「法花講衆」であって、日蓮滅後の法華経信仰集団の呼び名は当事者であっても一様ではなかったようだ。

 

尚、時代が下り日蓮の孫弟子が活動する鎌倉後期から南北朝期にかけて、「法華宗」と称するのが一般的となったことが、坂井法曄氏の論考「日蓮教団の宗号とその実態」(興風22)で解説されている。

 

                           伊豆の山々
                           伊豆の山々

【 天台沙門との名乗りは 】

以上見てきたように、

日蓮が「立正安国論」を最明寺入道時頼に進呈した時、「天台沙門」と称したこと。

日蓮は終生、「従来とは異なる自らが創案した独自の宗名」を名乗ることはなかったこと。

日蓮が「独自の宗名」を弟子・檀越に示した真蹟・真蹟曽存遺文は見当たらないこと。

弘安8年は日蓮亡き後、わずか3年弱であること。

当時もそれからも、日蓮の一弟子・六人の共通認識としての「宗名」はなかったこと。

鎌倉後期から南北朝期、日蓮孫弟子の活動する頃になって「法華宗」との名乗りが一般的となったこと。

 

これらを勘案すれば弘安8年頃、日昭・日朗らが武家に対する時の宗派の名乗りとして「天台宗」「天台沙門」と称したのは日蓮在世からの継続性もあり、至極当然のことであったいえよう。日蓮法華信奉者以外の人々が彼らを見る時、その宗派は「天台宗」と認識したことだろうし、「専持法華」「是一非諸」「題目勝念仏劣」「謗法断罪」という彼らの主張と行動の過激さからすれば「天台宗の異端」「天台宗を母胎とする異質な集団・日蓮党」程度のものであったことだろう。智顗、最澄が考えもしなかった法華経(涅槃経)のみによって自身の思想と行動の正当性を主張し、最澄を崇敬しながら最澄が欲してやまなかった密教を批判し、専修唱題を勧めながら国家権力と相対した天台僧(日蓮)は前代未聞であり、教えの広まりは専修念仏の法然に及ばなかったとしても、そのインパクトは勝るとも劣らないものがあったと思う。

 

日昭・日朗にしてみれば「宗名」という宗教的立場、いわば入口で議論を起こすのではなく、先師日蓮と同じく権力者・世間一般にも容易に認識される「天台宗」「天台沙門」から入り、肝心なのはその主張するところであると考えたのではないか。申状で、日昭は「後五百歳中広宣流布」の時は「法華一乗の機」「妙法蓮華経の五字の機」であることを示し、日朗は「後五百歳広宣流布の時」であることを示し「仏法の邪正」「仏法の浅深」「教の勝劣」をわきまえ「妙法蓮華経の五字」を弘め、「正法への御帰依」あれば「仏日はじめて扶桑に輝き」「法水久しく娑婆に潤わん」ことを訴えている。日昭・日朗らの申状は先師日蓮の「立正安国論」の先例に倣ったものである、といえるのではないだろうか。当時としては、日蓮門下ですら「宗名」は定まらず、法華宗も後のことであったから、公に対する公の文書に、公の宗派名を表示するのはごく普通のことであったろう。尚、「日蓮宗宗学全書6上聖部」(P36)に載せられた日向の申状には「日蓮聖人遺弟日向申」とある。同じく日頂の申状(P40)には「天台法華宗沙門日頂謹言上」とある。

 

日昭が「日昭不肖の身為りと雖も兵火永息の為副将安全の為に法華の道場を構え、長日の勤行を致し奉る」ことをしたのは、また日朗が「日朗忝くも彼の一乗妙典を相伝して鎮に国家を祈り奉る」ことをしたのも、両名が日興の批判する「祈国」「天長地久の御願を祈」ったのは、他国の兵が乱入して国土が蹂躙される亡国という事態を防ぐために、仏教者として「成せること、成すべきこと」を成したということであった。現実に二度も元の軍勢は押し寄せており、三度目の侵攻はいつあってもおかしくないという非常事態下なのである。彼らには「立正安国論」(真蹟)の「所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽う所土民の思う所なり。夫れ国は法に依って昌え法は人に因って貴し。国亡び人滅せば仏を誰か崇む可き。法を誰か信ず可きや。先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし。」(P220)との教示が念頭にあっただろうか。ただし、議論となるのは「国主の帰依・謗法諸宗禁断」が前提ではないか、後でもよいのか?というところだろう。この場合、私としては幕府膝下にあった鎌倉法華衆には原理原則を貫くという選択肢は取れない、「国主の帰依・謗法諸宗禁断」を主張できる状況ではなかったと考えている。

 

これとは逆に、鎌倉法華衆の伝道拠点となる住坊が破壊されかねない事態となっていたこの時に、師匠と同じく「日本国の人の父母よりもをもく、日月よりもたかくたのみたまへる念仏を、無間の業と申し、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ、念仏者どもが頚をはねらるべしと申す上、故最明寺・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄に堕ち給ひたりと申すほどの」 (P1153 光日房御書 真蹟曽存)言動をしていたらどのようなことが起きたか、それは容易に想像されるところだろう。

 

日昭・日朗らが「祈国」「天長地久の御願を祈」ったのは、鎌倉の住坊破壊を予期させる幕府との駆け引きを背景とした現実的対応として、第三次蒙古襲来が起きて亡国という事態が現実化する前に日本国の仏教者として務めを果たしたということであり、そこには、ひとまずは弾圧を回避して鎌倉と周辺の法華衆組織と信奉者を守るとの思いもあったことだろう。日昭・日朗らが日蓮の如くに真正面から幕府に「謗法諸宗断罪・禁断」を叫び、速やかなる国主の帰依を促せば、身命に及ぶ「法難」を招くこととなったのではないか。日昭・日朗という「文永8年の法難」後の、日蓮一門存亡の危機を乗り越えた導師がいなくなれば、鎌倉における日蓮一門は潰滅してしまう。日向、日頂の教線にあっても同様だったのではないか。日昭、日朗らは日蓮とは器が違って当然だし、弟子は師の残してくれたもの、法華衆組織と信徒を守らなければならないという思いが先に立ったとして、そこにいない第三者が云々、非難することは筋としていかがなものであろうか。その時、その渦中に飛び込んで、自らが正しいと考えるところを実行するならばそれなりの説得力があろうというものだが、事が終った後に一々を挙げて非難するなど、いくらでもできることだと思う。

 

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