日蓮と弟子(日昭・日朗ら)による「天台沙門」との名乗りについて 3

                        富士宮市上井出より
                        富士宮市上井出より

【 日興一門の事情 】

日蓮一弟子が師の滅後「天台沙門」と称することについて、それを激しく批判した日興側には「彼我の相違を明示して自派の正当性を主張、門弟らに正統意識を持たせる」という思惑があったのではないだろうか。

 

永仁6(1298)に作成された日興の「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」(弟子分本尊目録)には、「聖人御弟子六人中、五人者一同改聖人御姓名号天台弟子。爰欲被破却住坊之刻、行天台宗而致御祈祷之由、各々依捧申状免破却難了。具見彼状文。」(宗全2 P112)と、日昭・日朗ら五人が天台沙門としての祈祷を行い住坊の破壊を免れたことを批判的に記すが、そこに後の「富士一跡門徒存知事」「五人所破抄」のような直截な批判の言葉は見当たらない。一弟子五人が天台沙門と称したことにより「五人と日興と堅く以て義絶し畢んぬ」と、決別を表明した「富士一跡門徒存知事」は、山上弘道氏の論考「富士一跡門徒存知事について」(興風19P52)により正和2(1313)または元応2(1320)以降元亨3(1323)以前の成立と推定されている。日興の真筆はないが、その記述は日興の思想と考えを伝えたものと理解されよう。「何ぞ地涌の菩薩を指して苟も天台の末弟と称せんや」と批判した「五人所破抄」には、「嘉暦三戊辰年(1328)七月草案 日順」との奥付があり、こちらも日興真筆はないものの彼の思想を伝えることは同様だろう。

 

このような「富士一跡門徒存知事」と「五人所破抄」の記述内容からすれば、日興とその一門が富士山麓を中心に形成される過程に於いて、他の一弟子五人との法門理解の異解、自派の教理的正当性を明示して、それを門弟に学習、継承させることを主眼として日興の弟子により両書が作成されたと理解でき、その教材の一つ(批判材料)として「弘安8年」という日蓮弟子教団の名称も定まらない、和合よりも対立することの多かった不安定な発足期の「一表現」が使用された、といえるのではないだろうか。

 

いずれの時代、いずれの教団、門派であっても、組織の基盤を固め結束させるには、他を非難しながら感情論を先行させてそこに教理的正当性(それは自派の構成員を適度に納得、満足させればいいものであり他から独善的、一方的、曲解と言われようが一切関係ない)を確立、明示して、組織にいることにより自己が優越的地位に立てるという自信と自覚を持たせる手法が効果があるもので(実は、それは人間の弱さの裏返しでもあると思うが)、日興一門は意識の有無は別として結果としてそのような路線を歩んだのではないかと私は考えている。

 

元徳四年(1332)という文字通り日興晩年の遺告で、日道が筆記したと伝える「日興上人御遺告」は「天台沙門と仰せらる申状は大謗法の事。」「既に上行菩薩の血脈を汚す争か下方大士の相承と云はん。」「何ぞ日蓮聖人の弟子となって拙くも天台の沙門と号せんや。」「しかればすなはち日蓮聖人の御弟子は天台と云ふ字をば禁ずべきものなり。」「すでに天台沙門と号す、全く地涌千界の眷属にあらず。」と激しく批判し、ここにおいて日興一門による「権力に屈して媚び諂い、日蓮の法門を曲げて天台沙門と称した大謗法者、臆病者である日昭・日朗らの門流」という印象が作られて、「富士門流としての日昭・日朗観」が後世まで継承される原型ができあがったのではないか。

 

思想をいささかも曲げず、妥協せず、理想・理念を貫徹して殉教の道を行くのか、環境の変化、世の動向に応じて柔軟に対応して生き続けるのか、どちらも思想を守るということでは思いは同じだろうが、身で知る結果は甚だ異なるものとなる。これは古くて新しい今日的な議論でもあると思う。

 

【 駿河国富士川流域の天台寺院と日蓮法華衆 】

ここで視線を転じて、日興が活動の主舞台とした駿河国富士川流域に注目してみよう。まずは日興の申状(宗全2 P95P100)における名乗りを確認しよう

 

日蓮聖人の弟子日興重ねて申す。

早く真言、念仏、禅、律等の邪法興行の僧徒を破却して妙法蓮華経の首題を崇敬せられ、天下泰平国土安穏異国降伏の祈に資せんことを請ふの状。

以下、本文

正応二年(1289)正月 日

 

日蓮聖人の弟子駿河の国富士山住日興誠惶誠恐庭中に言上す。

殊に天恩を蒙り且つは三時弘教の次第に任せ且つは後五百歳の金言に依り永く爾前迹門を停止し法華本門を尊敬せられんと請ふ子細の状。

以下、本文

嘉暦二年(1327)八月 日

 

日蓮聖人の弟子日興重ねて言上す。

早く爾前迹門の謗法を対治し法華本門の正法を立てられば天下泰平国土安全たらんと欲する事。

以下、本文

元徳二年(1330)三月 日

 

このように「日蓮聖人の弟子日興」「日蓮聖人の弟子駿河の国富士山住日興」が彼の名乗りである。

 

日興に関する所伝によれば、父は遠江・紀氏の大井橘六、母は駿州富士郡河合住の河合入道の女子(法名・妙福)、舎弟に橘三郎光房がいる。幼少にして父は他界、母は武蔵国綱島九郎太郎と再婚。後、外祖父河合入道に養われ、更に近隣の駿河蒲原庄・四十九院に入り修学、というものだが、「四十九院申状」には「駿河の国蒲原の庄四十九院の供僧等謹んで申す。」(宗全2 P93)とあって、日興は駿河国蒲原庄にかつて存在した四十九院の供僧(ぐそう=供奉僧・ぐぶそう)職を勤めていたことは確かなようだ。これについては大石寺に伝わる「三師御伝土代・日興上人御伝草案」も「日興上人は八十八代一院の御宇、寛元四ひのへむま御誕生。俗姓は紀氏、甲州大井の庄の人なり。幼少にして駿州四十九院寺に上り修学あり。同国冨士山の麓須津の庄良覚美作阿闍梨に謁して外典の奥義を極め、須津の庄の地頭冷泉中将に謁して歌道を極はめ給ふ。」(宗全2 P248)と伝えている。

 

日興は出身地である甲斐・駿河方面での弘法を活発に展開し、彼が居住する富士川西岸の四十九院では供僧である日持・賢秀・承賢ら、熱原滝泉寺では日秀・日弁・日禅ら、富士川東岸の岩本実相寺では肥後公・筑前房・豊前公・円乗房らが日蓮法華の僧、日興の弟子となった。日蓮、日興の弟子となった僧はまたそれぞれの人脈、地縁、血縁などから専持法華・専修唱題の日蓮の教説を弘め、在地の農民層から法華経の題目を唱える者が生まれその数は増すようになり、それは同時に北条得宗家当主の家領である駿河国における富士川流域の日蓮教団形成を意味した。日興らによる法華伝道の拠点となった滝泉寺、実相寺は天台宗寺院、四十九院も天台宗であったとされ、念仏、密教等の教えが入り混じったものが現地の宗教世界そのものであったことだろう。ということは、法華(涅槃)一経尊崇、唱題成仏を強説する日蓮の分身ともいえる信奉者が作る世界と、従来の宗教世界を形成して、そこに世俗的利権も絡めていた天台宗各寺院との衝突は避けようがなかったといえる。

 

文永5(1268)8月には、(駿河国賀嶋庄)実相寺第4代院主、及び院主代の「仏法上の非法」と「不法行為」等を51箇条に亘り列挙して彼らの速やかなる罷免と、北条泰時の下知状の趣旨に則って実相寺住僧より院主を選ぶことを訴えた「実相寺衆徒愁状」(日興筆写本 北山本門寺蔵 日興上人全集P93)が実相寺供僧らによって提出された。北条得宗家によって推任された院主と得宗被官上首の有縁者と思われる院主代理を、供僧らが訴えた文書を日興が書いた(現存写本が日興筆ということは提出された正本も日興筆ではなかったか)ということは、幕府にすれば日蓮法華衆による挑戦とも映ったであろうか。いずれにしても、文永8年の法難に至る幕府の対日蓮観というものに、駿河国における門弟の動きが大きく作用したと思われる。

 

建治年間(建治2[1276])には、阿弥陀信仰であった(駿河国富士郡下方庄熱原の市場寺にある)滝泉寺の院主代・平左近入道行智と、寺内及び近郷で専持法華と法華経の題目を弘める日弁・日秀・日禅らとの対立が深まり、行智は法華信仰の住僧達にその信仰断絶を強要するに至った。そのことは弘安210月の「滝泉寺申状」に記録されている。

 

「滝泉寺大衆日秀日弁等陳状案」(滝泉寺申状 真蹟・富木常忍筆)

行智は乍に当寺霊地の院主代に補し、寺家三河房頼円・並に少輔房日禅・日秀・日弁等に行智より仰せて、法華経に於ては不信用の法なり。速に法華経の読誦を停止し、一向に阿弥陀経を読み念仏を申す可きの由の起請文を書けば安堵す可きの旨下知せしむるの間、頼円は下知に随って起請を書いて安堵せしむと雖も、日禅等は起請を書かざるに依って所職の住房を奪い取るの時日禅は即ち離散せしめ畢んぬ。日秀・日弁は無頼の身たるに依って所縁を相憑み猶寺中に寄宿せしむるの間、此の四箇年の程日秀等の所職の住房を奪い取り厳重の御祈祷を打ち止むるの余り、悪行猶以て飽き足らず、為に法華経行者の跡を削り謀案を構えて種種の不実を申し付くるの条豈在世の調達に非ずや。(P1681)

 

行智は日興の教化による滝泉寺の住僧・三河房頼円、越後房日弁、下野房日秀、少輔房日禅らに対し、法華経は不信用の法であるから直ちに「法華経読誦を停止し、阿弥陀経の読誦と念仏を唱える」という起請文を書くことを強要。従えば所職と住房を安堵するというのである。これに対し、頼円は起請文を書いて従い、日禅は拒絶して所職と住房を奪われ河合に退出。日弁、日秀も起請文を書かずになお滝泉寺に寄宿したものの、後に所職と住房を奪い取られることになった。

 

次に建治4(1278)116日の「実相寺御書」(P1433 日興本・北山本門寺蔵)を見てみよう。

岩本実相寺に住した日興の弟子・豊前公は、実相寺住侶の尾張阿闍梨より「法華玄義巻四」にある涅槃経の文を引用されて、「小乗を以て大乗を破折したり大乗を以て小乗を破折することは仏教上の盲目となる因であり、小乗と大乗は一如なのだから一方に執着してはいけないのである」と指摘された。この尾張阿闍梨の立義について豊前公が日蓮に問い、それに対する返状が当書なのだが、まず「尾張阿闍梨の言うとおりならば、あなたが信仰する日本の弘法・慈覚・智証等、中国の善無畏・金剛智・不空の真言先師らは、密教を最勝と判じて真言三部経典以外の諸経を破折するのだから真言諸師も盲目者になったというのか」と、いつもながらの鋭い切り返しで問い詰めることを促し以下、教理面を説示している。これにより実相寺においても日蓮法華の住僧と従来の信仰である「諸宗融和・共存」であった他の住僧らの間に対立、論争の起きていたことが窺い知れるのである。尚、切り返しの文に「弘法・慈覚・智証」とあることから、尾張阿闍梨は東密・台密兼学の僧であったと考えられる。この頃には、「法華経最第一」「専修唱題成仏」という日蓮一門の主張と、智顗の「絶対開会」について爾前権経を法華に開会して権実は不二であるとする諸経の融会を考えた、いわば「権実皆得道」の天台的教理の対立は決定的になっていたようだ。

 

弘安元年3月には、駿河国蒲原庄・四十九院の供僧等が「申状=四十九院申状」(大石寺17代・日精写本、宗全2 P93P95)を呈する事態にまで発展している。同状によれば、寺務二位律師厳誉らの言動は「四十九院内に日蓮の弟子等が居住しているようだが、(諸宗を排斥して法華一経専持を勧め題目成仏を主張する)彼の党類(日蓮党)は仏法を学びながら(仏法に非ずしてその唱えるところは)外道の教えと同じであり、(従来の仏教の)正見を改めて(日蓮が教説する)邪義を唱えるのはもっての外である。故に院の大衆等により評定を行い、日蓮党は寺内に住むことはならないことを決した」というもので、これにより四十九院内の「彼の党類=日蓮党」であった日興・日持・承賢・賢秀らが住坊、田畠を奪い取られ院外へ追放されてしまった。

 

日興は「所学の法華宗を以て外道大邪教と称し、往古の住坊並に田畠を奪い取り寺内を追い出さしむる謂れ無き子細の事。」として反論、申状を提出している。(文中の法華宗とは、日蓮が使用した法華尊崇の正統天台宗を意味すると思われる。尚、弘安年間と推される定本・断簡209は「法師申す。寺務の為、二位律師厳誉、世間一分之科無しと雖も」[P2928、真蹟三行]というもので、日蓮による四十九院申状の案文であったろうか。当申状の提出先は不明なようだ。)

 

法華の正義を以て外道の邪教と称するは何の経何れの論文ぞや。

⇒正法たる法華経を外道の邪教というのは、いずれの経論によるのか。

 

爰に真言及び諸宗の人師等、大小乗の浅深を弁えず権実教の雑乱を知らず。或は勝を以て劣と称し、或は権を以て実と号し、意樹に任せて砂草を造る。

⇒諸宗の人師等は大乗教と小乗教の浅深をわきまえず、権経と実経の勝劣を違えて権実が入り乱れていることを知らず、自らの意にまかせて俄かに法門を作っているのである。

 

夫れ仏法は王法の崇高に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す。正法を学する僧を以て外道と称せらるの条、理豈に然る可けんや。外道か外道に非ざるか、早く厳誉律師と召し合わせられ真偽を糺されんことを欲す。

⇒仏法は王法が崇め尊ぶことによって威力を増し、王法は仏法が擁護することによって長く栄えるのである。正法たる法華経を学ぶ僧を以て外道と称するのにいかなる道理があると言うのか。法華経信奉者が外道なのか外道ではないのか、早く厳誉律師と対面してその真偽を正したいのである。

 

月氏の迦葉・阿難・竜樹・天親等の大論師、漢土の天台・妙楽、日本の伝教大師等、内には之を知ると雖も外に之を伝えず。第三の秘法今に残す所なり。

⇒「日蓮が法門」は、インドの迦葉・阿難・竜樹・天親等の大論師や、中国の智顗・湛然、日本の最澄等は心には秘めていたが外に出されることはなかった。末法に至ってはじめて顕される第三の秘法なのである。

 

【 四十九院から追放された天台沙門・日興 】

日興の弘通の結果、「彼の党類=日蓮党」と呼ばれるまでの日蓮法華集団が富士川流域に形成されたのだが、(文永年間、師日蓮が目指したものが及んだともいえる)「法華経尊崇の正統天台」回帰の活動が天台寺院とその周辺で活発化するほどに、「四宗兼学の正統天台」寺院の対応が、加速度を増すことになったのである。それは日興と一団にとっては法華弘通故の難というものであった。ここで注意すべきは、日興が法華勧奨の拠点としたのは供僧職を勤めた四十九院(天台)と周辺の天台寺院であり、彼は「日蓮が一門」でありながら同時に「天台沙門」でもあったということではないか。日興は少年期から青年期を天台の四十九院で修学研鑽したと伝えられ、周囲の認識と同じく彼の中にも「天台沙門」としての自覚があったことだろう。「日蓮が一門」と「天台沙門」、この二つは日興にとっては同一のものだったろうが、彼により寺内秩序を乱され、農民層の信仰的自立が促されることによって既得権益に影響が及んだであろう実相寺、滝泉寺、四十九院の院主とその周囲からすれば、日興と一団は「彼の党類=日蓮党」として排除されるべきではあっても、決して同じ「天台沙門」とは認められない、ましてや「正統天台」などはもっての外であったことだろう。

 

駿河国富士川流域という既存の天台宗信仰圏にあって、天台寺院の住僧を教化しながらそこを拠点化して法華経最第一を旨とする(それは天台の正統なる系譜を継ぐものでもあった)日蓮法華への帰依を促し、天台宗を中心とする宗教秩序と真っ向から対決。結果、供僧職を勤める天台寺院から追放されて、寺内における立場を失ったのが日興である。天台寺院を退出せざるをえなくなった僧がその後も「天台沙門」と称したのかどうかについては、他の誰よりも日興の師・日蓮という先例がある。真言・東密と天台・台密が共存し密教の修法が盛んな清澄寺の中で、台密の法脈であった日蓮は同寺を離れた後、「天台沙門」として勘文たる「立正安国論」を進呈しているのだから、日興も同様の名乗りは可能であったことだろう。ただ、日興の場合、師日蓮とは違ったようだ。文永5年の「実相寺衆徒愁状」から遡って思考すれば、少年期から青年期にかけて修学研鑽をなしたこと、学恩には感謝をしていただろうが、世の人々を信仰により救済することを目指す仏教者として、現地の僧侶の教えと行いに義憤を覚えざるを得ないものがあり、法華経最第一を主張し智顗・最澄の源流に立ち還るべきことを唱える日蓮法華信仰を始めたことと相俟って、教理面行躰面を正す活動を展開したことだろう。その結果、弘安元年3月に「往古の住坊並に田畠を奪い取り寺内を追い出さ」れるということになった日興の思考においては、四十九院追放以降は「天台沙門日興・天台宗の僧日興」という宗教的な、(「日蓮聖人の弟子日興」と共にあった)もう一方の立場(名乗り)は終わりをつげていたのではないか。天台寺院に天台僧としていながら、天台的なものと相対しなければならなかった日興ならではの宗教的活動環境が、彼の思想・信条の形成に大きく作用したと考えられるのである。

 

ここで法然房源空のことが思い出される。

源空は9歳の時に父親を土地争論の渦中で殺害され、13(または15)で比叡山に入り途中、清涼寺、醍醐寺などに遊学しながら、43歳の時に専修念仏による救済を主張して比叡山を下山。京都・東山吉水に居を定めて念仏を広めたのだが、30年も身を置いた彼の眼に映った比叡山はどのようなものだったろうか。日吉大社の神輿を奉じて洛中内裏に押しかけて要求を繰り返し、園城寺とは争いを常とし、僧兵が跳梁跋扈するという、比叡山寺を開創した最澄の時代とはほど遠いものだったのではないか。かような「比叡山の姿」を長年見ていた源空が、華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃・大日等は時機不相応なもの「聖道・難行・雑行」とし、浄土三部経(阿弥陀経・観無量寿経・無量寿経)と専修念仏こそが末法の世に相応しい「浄土・易行道・正行」であるとしたのは、「既存の教え、修学修法では衆生は救われない」との思いから、比叡山的なものを一掃したということではなかったか。源空が眼にしたのは、顕密兼習の仏教者としての本来の使命を放棄して私利私欲に明け暮れる、衆生済度の役に立たない堕落した僧侶らの姿であり、故にそのような僧侶の説く教え、僧侶ですら救われない教えなどは捨て去るべきであると思考したものであろうか。約30年も比叡山にいて修学研鑽した源空の仏教的救いの道が、「阿弥陀仏以外の仏に対する功徳行を捨て、閉じ、自力を閣(さしお)き、抛(なげう)って念仏に帰せよ」であったと思う。長年の場を去る、対して留まって追放されるまで改革に取り組む、また念仏と法華経の題目の違いはあるにせよ、少年期より天台寺院にいながら「既存のものより新しいものに救いの道を見出し寺を去る」という点において、日興の宗教的成り立ちには私としては法然房源空と重なるものを感じるのである。

 

                   比叡山延暦寺 「祖師御行績絵看板」
                   比叡山延暦寺 「祖師御行績絵看板」

前のページ                                    次のページ