日蓮と弟子(日昭・日朗ら)による「天台沙門」との名乗りについて 4

                          身延山 山頂より
                          身延山 山頂より

【 天台沙門日蓮の勘文「立正安国論」 】

駿河国富士川流域とは遠く隔たった鎌倉の日昭・日朗らと周辺の日蓮法華衆は、天台宗の僧、檀越らと相対することはいかほどのものだったのか。日興とは対極的に、おそらくはその機会は少なかったのではないかと思う。建治3(1277)69日、鎌倉桑谷での問答は天台僧・龍象房と日行の間で行われ、四条金吾もその場にいたものだったが、龍象房は京都で人肉を食していたことが露見して比叡山より逐電した僧といわれ、この問答自体は鎌倉天台勢力と日蓮門下の衝突というものではなかった。

 

日蓮が文永8年の法難に到るまで法華勧奨の主舞台とした鎌倉は、同時に日昭・日朗が師説を弘めた地でもあった。正嘉3年・正元元年(1259)717日、日蓮は書を武蔵房に送り書籍の借用を依頼。天台宗の「法華八講」の日時を訪ねているところから、他の天台僧と共に参加もしていたと推測される。そこには日蓮に付き従う弟子達もいたのではないか。であれば、日蓮一門では年配者であった日昭の同席も考えられよう。

 

翌文応元年(1260)716日、日蓮は「天台沙門」と名乗り、「勘文」としての「立正安国論」を最明寺入道時頼に進呈する。「勘文」の意味について辞書を紐解けば、「天皇・院などの上意を受け、その裁断の資料として先例・故実を考査して提出する上申書。」(日本大百科全書)、「平安時代、神祇官・陰陽師等が天皇などの諮問に答えて、先例・吉凶・方角・日時などを調べて上申する文書」(大辞林)、というものだが日蓮の場合、鎌倉幕府からの諮問などはなかった。

 

日蓮のいう「勘文」について、文永5(1268)45日の「安国論御勘由来」(P421 真蹟)を見てみよう。

 

正嘉元年太歳丁巳、八月二十三日戌亥の時、前代に超えたる大地振。同二年戌午八月一日大風。同三年己未大飢饉。正元元年己未大疫病。同二年庚申四季に亘て大疫已まず。万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。

⇒正嘉元年(1257)の大地震、大風という天災地変と飢饉、疫病による大量死によって、

 

而る間国主之に驚き、内外典に仰せ付けて種種の御祈祷有り。

⇒驚き恐れた国主(幕府)は宗教界各派に祈祷を命じたものの、

 

爾りと雖も一分の験しもなく還りて飢疫等を増長す。

⇒なんらの効験もないばかりか、かえって飢饉・疫病の惨状は増すばかりであった。

 

日蓮世間の体を見て、粗一切経を勘ふるに、御祈請験し無く、還りて凶悪を増長する之由、道理文証之を得了んぬ。終に止むこと無く、勘文一通を造り作し其の名を立正安国論と号す。文応元年庚申七月十六日辰時、屋戸野(やどや)入道に付し、古最明寺殿に奏進して了んぬ。此れ偏に国土の恩を報ぜんが為也。其の勘文の意は・・・・

⇒日蓮がこのような世の有り様を見て一切経と照らし合わせ考えるに、様々な祈祷に効果がなくかえって天災地変がひどくなり、世の嘆きが深まることの道理と経文上の証を見出すことができた。そこで止むにやまれぬ思いから勘文一通を作成した。その名は「立正安国論」という。文応元年(1260)716日、宿屋入道を仲介として故最明寺入道殿に奏進したのである。これはひとえに国土の恩に報じるためであってそこに身の為というものはない。その勘文の意としては・・・・

 

日蓮の場合、「立正安国論」という「勘文」は公家、武家から問い尋ねられたものに対する答えではなかった。世の惨状、民の嘆きを直視して、隠れ没していた正法・法華一経(涅槃経)により一切の災難を払い、根源的に解決することを決意した一仏教者の宗教的信念の発露であり、確信の表明であった。このような思いで考え書いた「立正安国論」を日蓮自らは「勘文」と位置付けた、即ち国家にとっては十分にその書の意とするところを解釈・検討し、採用した後は書の指南に基づいて事に当たり、善政を行って国の繁栄、天下泰平・国土安穏を期するべき「勘文」だったのである。

 

幕府からしてみれば一天台僧が自称しているにすぎない「勘文」でも、日蓮にとっては一国の動向を決するべき重大なる「勘文」。そこに持てる宗教的知見を注ぎ込み、初めて事実上の国主にそれまでの修学・研鑽の宗教的成果を表明、そのもたらす結果も予期しながら身命を賭した書ではなかったか。そのような日蓮にとっての「勘文」に、公に対する書に、彼は「天台沙門」との名乗りを使用した。日蓮は公権力、内外に対して、宗派は天台宗であることを明示、同時に天台僧であることを名乗ったのである。これで当時の日蓮への仏教的な認識は定まった、としてもよいだろう。鎌倉日蓮一門は天台宗(台密)の天台沙門日蓮を導師とする、天台系の一門であったのだ。 

 

これについては後の日興一門も認識しており、「富士一跡門徒存知事」には、

一、唱題目抄一巻。

此の書は最初の御書なり。文応年中常途の天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し給へり。仍て文言義理共に(日蓮宗宗学全書2 興尊全集興門集・P123)

と「唱題目抄=唱法華題目抄」(文応元年[1260]528日 定P184)は日蓮法華伝道初期、文応年中の書であり、「常途天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し」たとしている。常途天台宗の経典判釈を行う日蓮は、天台系の僧であったといえよう。

  

【 鎌倉における天台系日蓮一門 】

日蓮が進呈した「立正安国論」に対する幕府からの返答はなく無視黙殺だったが、それまでの布教現場における対立論争の結果としてもよいであろう、念仏者らによる草庵の襲撃があり次には伊豆への配流となった。赦免後に故郷安房国を訪れたものの東条松原での襲撃により負傷、日蓮は鎌倉に戻った。その後は、鎌倉で、諸国への往来の道中で、自説の説法教化に力を注いだことだろう。文永51月、蒙古からの牒状到来により「他国侵逼難」の危機が現実化するに及んで、鎌倉の天台系日蓮一門は増加したが、その結集軸となったのが天台大師講だった。

 

文永667日の「富木殿御消息」(真蹟)には、「大師講の事。今月は明性房にて候が、此の月はさしあい候。余人の中せんと候人候はゞ申させ給へと候。貴辺如何仰せを蒙り候はん。」(P440)とあって、鎌倉では日蓮を中心に「天台大師講」が行われていたことが確認できる。文永71128日の「金吾殿御返事(大師講書)(真蹟)にも「大師講に鵞目(がもく)五連給()び候ひ了んぬ。此の大師講三・四年に始めて候が、今年は第一にて候ひつるに候。」(P458)とある。その身が流刑地の佐渡にあった文永10919日、日蓮は鎌倉の日昭に書 (弁殿尼御前御書 真蹟) を送り、「しげければとゞむ。弁殿に申す。大師講ををこ()なうべし。大師とてまいらせて候。」と天台大師講を行うよう指示している。文永8年の法難から2年後、一旦は壊滅状態となった鎌倉日蓮法華衆の再建が天台大師講を軸に進んでいることが窺われるのである。弘安31129日の「富木殿御返事」(真蹟)は冒頭に、「鵞目一結、天台大師の御宝前を荘厳し候ひ了んぬ。」(P1818)とあり、富木氏が身延山での「天台大師講」のために銭一結を供養していることから、日蓮晩年期となった身延山においても天台大師講が行われていたことが知れる。

 

文永8年の法難に続く佐渡配流までの日蓮は、天台宗(台密)・比叡山の再興を意とし、書状には期待と配慮が記されていた。

 

文永5(1268)45日「安国論御勘由来」(真蹟)

日蓮復之を対治するの方之を知る。叡山を除きて日本国には但一人なり。(P423)

 

系年、文永6(1269)とされる「法門可被申様之事」(真蹟)

仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに異国我が朝をほろぼさんとす。叡山の正法の失するゆえに、大天魔日本国に出来して、法然大日等が身に入り、此等が身を橋として王臣等の御身にうつり住み、かへりて叡山三千人に入るゆえに師檀中不和にして御祈しるし()なし。御祈請しるし()なければ三千の大衆等檀那にすてはてられぬ。(P453)

中略

又日蓮房の申し候。仏菩薩並びに諸大善神をかえしまいらせん事は別の術なし。禅宗・念仏宗の寺々を一もなく失い、其の僧らをいましめ、叡山の講堂を造り、霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請じ入れたてまつらざらん外は諸神もかえり給うべからず、諸仏も此の国を扶け給わん事はかたしと申せ。(P456)

 

系年、文永6(31)とされる「御輿振御書」(真蹟断簡)

御文並びに御輿振の日記給び候ひぬ。悦び入って候。中堂炎上の事其の義に候か。山門破滅の期其の節に候か。

中略

但恃(たの)む所は妙法蓮華経第七の巻の「後五百歳閻浮提に於て広宣流布せん」の文か。伝教大師の「正像稍(やや)過ぎ已()はって末法太(はなは)だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是其の時なり」の釈なり。滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為なり。山門繁昌の為是くの如き留難(るなん)を起こすか。(P437)

 

文永7(1270)1128日「金吾殿御返事(大師講書)(真蹟)

我が朝又此の邪法(禅門・念仏)弘まりて、天台法華宗を忽諸(ゆるがせ)のゆへに山門安穏ならず、師檀違叛の国と成り候ひぬれば、十が八・九はいかんがとみへ候。(P458)

 

書状に「天台宗(台密)・比叡山への期待と配慮」を書いたということは、日蓮の門弟への教示もかようなものだったといえ、教えを受ける弟子檀越はそれを基に教理的思考をなし、更には周囲にも師説として伝播したことだろう。文永8年の法難から竜口の首の座、そして佐渡配流へと至るに及んで日蓮の天台宗(台密)・比叡山への期待、配慮は薄れていくのだが、その身は鎌倉にはなく、このような師の意思の変化を日昭・日朗は日常的に直接教示される環境ではなかった。両名は師の姿が消えた後の、鎌倉日蓮法華衆再建という難事に取り組まねばならなかった。教理面の細かな説示よりも日蓮法華信仰の勧奨である。また、期待した日蓮の赦免後も、師は鎌倉に留まることなく身延へと去ってしまった。同じ頃、駿河国では日興らが天台寺院と周辺を舞台に法華勧奨を貫徹し、それは弘安2年の熱原法難となって爆発する。日昭・日朗の教線では、池上兄弟、四条金吾らが個人に降りかかった信仰的試練を乗り越えていくが、日興のように天台寺院勢力と直接的に対決するようなことは記録には見えない。むしろ、日蓮亡き後の日昭は天台宗と親密であったことが後年、批判されている()ぐらいだから、そこから遡って考えると日蓮が身延に入山している間、幕府・既成仏教勢力に対して組織だっての公然たる批判は控え、距離を取りながら、法華経・題目流布を展開したのではないだろうか。

 

※「日蓮聖人遺文辞典・歴史編」P875より

(日昭は)徳治二年(1307)三月、日成に妙法寺を、文保元年(1317)十一月、弟子日祐に妙法華寺を譲った。この譲状にはともに「法印日昭花押」とあって(正本・池上本門寺蔵)、日昭が晩年叡山にのぼり官位を得たことは上古日蓮門下では極めて特異なことである。元亨三年(1323)三月二十六日、百三歳の高齢をもって浜土の妙法華寺に寂した。日昭の本拠は浜土の妙法華寺にあったから、一般に浜門流といい、その門下は日昭の先例によって叡山の戒壇にのぼったといわれ、諸門より批判をうけたことが日親の「伝燈抄」にのせられているが、これは浜門流の特殊な伝統として守られたようである。

 

【 小教団並列の日蓮一門 】

日蓮法華一門は師の滅後、東国各地に散在する小教団のような状態となるが、原形ともいえるものが師の「身延期」には形成された。その形成過程において、念仏・禅・律・真言等既成仏教各派との関係は「日蓮一人、阿弥陀仏は無間の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗持斎等は国賊なりと申す」(P1732 秋元御書[筒御器抄] 日興写三行断片 三島・本覚寺蔵 弘安3127)と破折対象という一点で師が存命中に確立した。

 

しかし、対天台宗については「仏法の滅不滅は叡山にあるべし」(P453 法門可被申様之事 真蹟 文永6)、「但恃(たの)む所は妙法蓮華経第七の巻の『後五百歳閻浮提に於て広宣流布せん』の文か。伝教大師の『正像稍(やや)過ぎ已()はって末法太(はなは)だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是其の時なり』の釈なり。滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為なり。山門繁昌の為是くの如き留難を起こすか。」(P437 御輿振御書 真蹟断簡 文永6[31])等、佐渡期以前の教説があり、それらは「法華一乗の最澄の時代に還るべし」との意を表したと解釈されるもので、このような教説が文永8年までには鎌倉・下総を中心に浸透していたと思われる。

 

日蓮最後の約8年は台密批判が行われたものの、各地の門流形成過程における「天台宗勢力・寺院・僧侶・信徒との関わり方」によって、その認識・対応に違いが生じたようだ。同じ日蓮法華という概念で括られる東国の教団でありながら、師説への教理的理解(本尊の人・法、法華経迹門・本門等)も含めて対天台宗の見方は一弟子六人各位とそれぞれが受け持った地域ごとに、結果として異なるものがあったのではないか。師日蓮は存命中に、門弟間に存していた対天台宗の認識の異なりと教理面における解釈の相違を是正したようではなく、師滅後はそれがそのまま各門流の結集軸になると共に、日蓮法華一門は小教団並列のような有り様となった。

 

【 日興一門の独自の歩み 】

鎌倉における日昭・日朗ら法華衆は、師日蓮と共に法華勧奨に歩いたことは容易に想像されるところで、そこには「法門申しはじめ」からの師説の浸透があり、当然、その継続性を有することになる。一門を揺るがすような天台系勢力との衝突もなかった。智顗・最澄の思想と教えという天台的なものを基盤として日蓮が法華仏教を展開していた時空間を、鎌倉方面の門下は共有したのである。「滝泉寺申状」「実相寺御書」「四十九院申状」等によれば、富士山麓の法華衆形成は大半が師の身延入山以降なされたもので、そこでは佐渡期以前の師説を知る者は少なく、天台寺院当局からの圧迫がむしろ日興一門の形成に寄与し、その思想的自立を促す結果となった。日興一門は、はじめから天台宗という大きな壁を乗り越えるべく宿命づけられていたのではないか。尚、弘安29月下旬の富木常忍と天台僧・了性房、思念房の論争は個人的、教理的なもので、同地や他の日蓮一門を圧迫、揺るがすようなものではなく、日興と弟子檀越が受けた信仰的試練とは次元の異なるものだったと思う。

 

師日蓮滅後17年、日興が身延から離山して9年後の永仁6(1298)、日興によって著された「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」(弟子分本尊目録)には、日蓮在世中に日興が教化した弟子・檀越が多数記されており、それによれば駿河国38名、甲斐国20名、伊豆国3名、武蔵国3名、計64名(出家者16名・在家人48名)となっている。これら日興の教化により法華信奉者となった駿河国、甲斐国を中心とした一団は、日蓮と共に歩き教化して門徒組織を作り上げるという経験がなく、その発生当初から日興の個性が浸透して、従来の日蓮法華一門とは一線を画していたとはいえまいか。

 

対天台系勢力との攻防から原型が作られた日興一門は、本尊観についても現場における必要から独自の考え方をするに至ったのではないだろうか。熱原法難時の逮捕事件に象徴されるように、法敵たる天台勢力といつ事件が起きるかもしれない緊張状態が常のことであれば、本尊として直ちに持ち出せる紙本の曼荼羅、経典たる法華経が主となったことだろう。また、誰人であれ、専修唱題成仏を主張するのが師説であったから、財力に乏しい在地の農民層の本尊としても、曼荼羅と経巻が適合していたのではないか。

 

弘安2(1279)921日、熱原の法華衆が逮捕されるのだが、その前日の20日、日興に宛てた「伯耆殿御書」(日興筆断簡 北山本門寺蔵)には以下のようにある。

「形像舎利並余経典 唯置法華経一部と申す釈と、直専持此経。則上供養の釈をかまうべし。余経とは小乗経と申さば、況彼華厳○以法化之。故云乃至不受余経一偈の釈を引け。」(P1671)ここでは、智顗の「法華三昧懺義儀」の「形像舎利並余経典 唯置法華経一部」と「文句」の「直専持此経。則上供養」の文、及び湛然の「法華五百問論」にある「況彼華厳○以法化之。故云乃至不受余経一偈」の一文を引用して、形()像、舎利及び余の経典を安置するのではなく、法華経を安置すべき事を主張するよう指示している。日興が天台僧、または誰人かと議論することを知った日蓮が指南したものか。この書状の日時、送付先、前後の日興と周辺の状況を踏まえると、対論を前にした日興に宛てて熱原の法華衆の信仰形態に正当性を与える書面であったと思われ、そのことはまた富士方面での本尊奉安の態様が天台寺院の仏像に対して法華経であったことを示しているのではないかと思う。また、日蓮は熱原、市庭寺界隈の信者に曼荼羅を図顕して授与していることから、同地での本尊として紙本の曼荼羅が奉安されていたことが認識される。

 

白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事(弟子分本尊目録)より

次在家人弟子分
一、富士下方熱原郷住人神四郎兄。
一、富士下方同郷住人弥五郎弟。
一、富士下方熱原郷住人弥次郎。
此三人者越後房下野房弟子二十人之内也。
中略

一、富士下方熱原六郎吉守者、下野房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方熱原新福地神主者、下野房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方三郎太郎者、下野房弟子也。日興仍申与之。
一、富士下方江美弥次郎者、越後房弟子也。日興仍申与之。
一、富士下方市庭寺太郎太夫入道者、越後房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方市庭寺太郎太夫入道子息弥太郎者、越後房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方市庭寺太郎太夫入道舎弟弟又次郎者、越後房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方市庭寺弥四郎入道者、越後房弟子也。仍日興申与之。
一、富士下方市庭寺田中弥三郎者、越後房弟子也。仍日興申与之。

(宗全2 P116)

 

日興らは唱題成仏を主張して曼荼羅本尊を伝道拠点に奉掲し、法華経を安置。布教の場でも曼荼羅を掲げ法華経を置きながら、富士川一帯の法華勧奨を展開したのではないかと思う。このようなところから、後の五一相対に見られる「曼荼羅正意説」の原型の一端が作られたのではないか。同時に対破天台の論戦から「日蓮が法門と智顗・最澄の流れを汲む天台宗との相違」も思惟され、後の「富士一跡門徒存知事」「五人所破抄」作成に至るのではないだろうか。

 

ところで「伯耆殿御書」を以て、日蓮は「曼荼羅正意」に近き指南を示して弘安2年以降は明確に仏像を退けた、と理解する向きもあるようだ。だが、当の日蓮自身が身延山で釈迦仏像を奉安し、鎌倉では四条金吾夫妻が、安房でも光日尼などの檀越が釈迦仏像を拝している。また「観心本尊抄」には一尊四士が教示されていることも先に見たとおりだ。「伯耆殿御書」で()像、舎利、余経典ではなく法華経安置の主張を示したのは、危難の時に仏像を持ち出す余裕などなく、また財力からも仏像造立がかなわない、曼荼羅・法華経の安置以外の余力がなかった富士一帯の弟子檀越を取り巻く宗教事情を前提として、それでも彼らに教理的正当性を与えようとした対機指南というべきだろう。日蓮の書の一部分、振舞いの一端を以て日蓮の「意」と斟酌しても、他の「行い」「教示」等がそれと矛盾をきたしたりすることが多い。日蓮理解の難しさがこのようなところにあると思う。

 

【 日蓮の教説の裾野の広さ 】

天台寺院の天台僧が天台宗の教義にあらざる新義を唱え、寺内秩序を乱して天台寺院から擯出される。その経過を辿ったのが日興であった。仏教者日興を形成した環境がそのまま、日蓮の弟子となった日興を天台宗より自立させる因となったのである。

 

導師自らが比叡山時代の阿闍梨号を名乗り、天台沙門と内外に称し、天台の再興を願う言動であれば、彼が率いる一団は天台系の一門である。その導師が日蓮であった。日蓮はかような活動を鎌倉を中心に展開し、弟子は師説を継承した。後に日蓮の対天台観の変化があっても、身延と鎌倉、下総、安房という師との距離が隔たったものであれば、書簡による新たなる説の浸透には限界もあり、従来説も同居したと思われる。また、これ以降の日蓮の説示にも「天台的なもの」は多分に残されていたから、そこには様々な理解が生まれたのではないだろうか。

 

文永10年閏511日、佐渡の日蓮は「安州の日蓮は恐らくは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通す。三に一を加えて三国四師と号く。」(P743 顕仏未来記 真蹟曽存)と、自己の仏教上の位置付けを釈迦・智顗・最澄に続くものとして「三国四師」を名乗る。これは正統天台の系譜に連なるものと弟子・檀越には理解されたことだろう。

 

文永111120日の「曾谷入道殿御書」(真蹟断片)では、「漢土には善無畏・金剛智・不空三蔵の誑惑の心、天台法華宗を真言の大日経に盗み入れて、還て法華経の肝心と天台大師の徳とを隠せし故に漢土滅する也。日本国は慈覚大師が大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部と取って、伝教大師の鎮護国家を破せしより、叡山に悪義出来して終に王法尽きにき。」(P838)として台密批判を始め、正統であるべき比叡山を密教化した円仁(後に円珍らも加える)を批判したが、当書でもこれ以降でも、日蓮は智顗を立て最澄を尊重する記述を重ねている。

 

建治2715日の「四條金吾釈迦仏供養事」(真蹟曽存・真蹟断簡)では、「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云。開眼の事、普賢経に云はく『此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり』等云云。又云はく『此の方等経は是諸仏の眼なり諸仏是に因って五眼を具することを得たまへり』云云」(P1182)されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。」「此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり。天台大師のさとり也。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。」「此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ。優(うでん)大王の木像と影顕(ようけん)王の木像と一分もたがうべからず。梵帝・日月・四天等必定して影の身に随ふが如く貴辺をばまぼらせ給ふべし。」(P1184)と教示している。日蓮は台密を批判する一方で、木画の像の開眼供養は法華経・天台宗に限るものでそれによる木画の像は生身の仏になると説いている。これは多様な解釈の可能性をはらむもので、滅後の弟子達に議論の余地を残したのではないかと思われる。このように日蓮の教説は門弟をして異解を生じさせる幅の広いものであったが、師滅後の一弟子六人は見解の相違を話し合うことはなかったし、門流の組織と思想の原型を作った地でそれぞれが独自の道を歩むのみであった。

 

【 最澄と密教と日蓮と 】

日興一門が「天台沙門と仰せらる申状は大謗法」というのならば、その因は日興の師である日蓮が作ったということになるだろう。弟子が信仰の純粋性を求めるあまり師説と矛盾をきたしてしまうことは、日興の師である日蓮自身にも見られたもので、日蓮は比叡山が円仁らによって密教化されたと痛烈な批判を繰り返したが、空海に弟子の礼を取ってまで天台密教を完成させようとしたのが日蓮の崇敬する最澄であり、師最澄の願いを達したのが批判対象の円仁だった。

 

弘仁4(813) 91日、47歳の最澄は「依憑天台集」を著し、3年後の弘仁7(816)50歳の時には「依憑天台集」に序文を加え、「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯(みん)ず」と面授を重んじる真言授受法を批判している。日蓮は「撰時抄」でそれを引用して「日本国の伝教大師漢土にわたりて、天台宗をわたし給ふついでに、真言宗をならべわたす。天台宗を日本の皇帝にさづけ、真言宗を六宗の大徳にならわせ給ふ。但し六宗と天台宗の勝劣は入唐已前に定めさせ給ふ。入唐已後には円頓の戒場立てう立じの論か計りなかりけるかのあひだ、敵多くしては戒場の一事成じがたしとやをぼしめしけん、又末法にせめさせんとやをぼしけん、皇帝の御前にしても論ぜさせ給はず。弟子等にもはかばかしくかたらせ給はず。但し依憑集(依憑天台集)と申す一巻の秘書あり。七宗の人々の天台に落ちたるやうをかゝれて候文なり。かの文の序に真言宗の誑惑一筆みへて候。(P1035)と記している。

 

しかしながら、日蓮は最澄の「依憑天台集」を認識しながらも、先に見たように「法門申しはじめ」から文永初期に至るまでは「法華真言未分」であったことにまずは注意すべきだろう。また、日蓮が「撰時抄」では「天台宗をわたし給ふついでに、真言宗をならべわたす(P1035)とあたかも最澄は天台宗を伝来したついでに真言宗も伝えたかのように書き、「報恩抄」では「伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、大日経は法華経には劣りたりと知しめして(P1210)大日経をば法華天台宗の傍依経となして()真言・天台二宗の勝劣は弟子にも分明にをしえ給はざりけるか()法華経に大日経は劣るとしろしめす事、伝教大師の御心顕然也(P1211)釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師の御心は一同に大日経等の一切経の中には法華経すぐれたりという事は分明なり(P1211)と最澄は勝法華・劣大日と明確化していたように書いているが、このような日蓮的認識はともかくとして、密教こそが最澄の求めてやまないものだったというのが史実ではなかったか

 

最澄は延暦23(804)38歳の時に入唐して不空金剛の弟子・順暁より越州にて金剛界五部の灌頂、胎蔵界三部三昧耶の灌頂を受けるも、その内容には不完全なものがあった。空海が唐より帰国して大同4(809)7月中旬に京都・高雄山寺に入山以降、最澄は書を送り、また弟子を行かせて経論、儀軌の貸し出しの要請を重ね、最澄から空海への書状は24通、空海から最澄への書状は6通が現存しているといわれる。

 

弘仁3(812)最澄が46歳の時、1115日に空海が灌頂壇を高雄山寺に開筳するや、最澄は和気真綱、和気仲世兄弟と共に高雄山寺に赴き、三濃種人を加えた四名で空海に弟子の礼を取り、金剛界の結縁灌頂を受法。続いて1214日には、最澄は弟子の円澄、光定、比叡山寺の僧徒、更に泰範と南都諸大寺の学匠・沙弥・近事・童子など190名余と共に、空海より胎蔵の結縁灌頂を受法している。金剛界・胎蔵の灌頂は一般的な結縁灌頂であり、最澄の望んでいた伝法灌頂ではなかったとされる。

 

翌弘仁4(813)には、最澄は高雄山寺の空海のもとに円澄・泰範・賢栄を派遣し、2月に泰範・円澄・光定ら数名は空海より「法華儀軌一尊法」の伝授を受け、3月には泰範・円澄・光定等19名が金剛界の結縁灌頂を空海から受法している。ところが円澄と光定は比叡山寺に戻るも泰範は空海のもとに留まり、619日に最澄は泰範に「棄てられし老同法最澄」と綴った書を送り、「摩訶止観輔行伝弘決」十巻の返還を求めている。空海より意とするような密教の受法がかなわず、最愛の弟子にも事実上捨てられたかのような思いとなりながらも、91日に「依憑天台集」を著す。その後も1123日に最澄は空海に書を送り「文殊讃法身礼」「方円図」「注義」「釈理趣経一巻」等の借覧を願い出るのだが、この年12月頃(または11月か)、空海は「叡山の澄法師、理趣釈経を求むるに答する書」を以て密教受法の厳格なることを説いて、経典の貸し出しを拒絶。これ以降、両者は疎遠となり、互いが独自の道を歩み始めることになる。最澄の約10年間に亘った天台密教完成への思いは断ち切られることとなったのだ。そして3年後に「依憑天台集」に序文を加え、真言授受法を批判するのである。

 

このような過程より推測すれば、空海からの密教伝授を求めていたものが、かなわない結果となった心情的なものから、「依憑天台集」に序文が加えられた可能性もあるのではないだろうか。空海より胎蔵界・金剛界の結縁灌頂を受法したわずか4年前後に、「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯(みん)ず」と書いているのだ。空海から「叡山の澄法師、理趣釈経を求むるに答する書」が届いた時点で、最澄にとって密教受法は中断のまま終わったのであり、次なる展開へと至らざるをえなかったのである。

 

日蓮にしてみれば法華経継承の正統の系譜としての最澄であり、「依憑天台集」序文の「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯(みん)ず」は自説の補強材料となったのではないか。最澄の長年にわたる密教受法への取り組みは知りながらもその角度については意図的に詳論せず、日蓮なりの認識にとどめたものだろうか。日興一門もまた師説の裾野の広さを知りながらも、一弟子五人を本格的に批判した背景には「門流」意識が多分にあったのではないかと思う。

 

これまで長々と確認してきたが、結論としては師が「勘文」に「天台沙門」と称したのだから、宗名の定まらない一門の弟子が申状に「天台沙門」と名乗ることは師説のとおりである、というものだ。日興一門の「天台沙門と仰せらる申状は大謗法」との主張については、彼我の相違を明示することが先にあって後付の批判材料として使われたというべきもので、日興一門の思いを汲みとれば、彼らの主張を議題として一弟子六人で「申状には『天台沙門』か『日蓮聖人の弟子』かを議論すること」の必要性はあるだろうが、「大謗法」と一方的に批判するのはいかがなものかと思う。

 

                        比叡山 峰道 最澄像
                        比叡山 峰道 最澄像

前のページ                                    次のページ