日蓮の「立像釈迦仏」一考

【 立像釈迦仏について写本遺文を元とした伝承 】

弘長元年(1261)512日、執権北条長時の代に日蓮は伊豆へ配流される。

 

「聖人御難事」(P1673 弘安2101日 真蹟)

弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪。

 

それ以降、日蓮が終生所持した「立像釈迦仏」について記録した文書として、有名なものに「船守弥三郎許御書」がある。

 

「船守弥三郎許御書」(P230 弘長元年627日 本満寺本上177 三宝寺本6 真蹟なし)

ことに当地頭の病悩について、祈せい()申すべきよし仰せ候ひし間、案にあつか()ひて候。然れども一分信仰の心を日蓮に出だし給へば、法華経へそせう(訴訟)とこそおもひ候へ。此の時は十羅刹女(じゅうらせつにょ)もいかでか力をあ()はせ給はざるべきと思ひ候ひて、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏並びに天照・八幡・大小の神祇(じんぎ)等に申して候。定めて評議ありてぞしるし()をばあらはし給はん、よも日蓮をば捨てさせ給はじ。いた(痛)きとかゆ(痒)きとの如く、あてがはせ給はんとおもひ候ひしに、ついに病悩なを(治)り、海中いろ(鱗)くずの中より出現の仏体を日蓮にたまはる事、此の病悩のゆへなり。さだめて十羅刹女のせめなり。此の功徳も夫婦二人の功徳となるべし。

 

文中には「海中いろくずの中より出現の仏体を日蓮にたまはる事、此の病悩のゆへなり。」とあり、これにより今日では「地頭・伊東祐光の病悩に対し日蓮が祈念したところ快癒した。その御礼として、海中より引き上げられた仏像を日蓮に与えられた」との立像釈迦仏にまつわる「解説」がなされている。

 

この「解説」はいつの頃から発生したものだろうか。日蓮一弟子・六老僧の各門流で語り継がれ、いつの間にか「当然の話」として定着してきた感がある。しかしながら、富士門流の日興高弟の文献によれば今日定着している話とは違うものがあり、検討を要する事項となっていると思う。以下、日蓮の「立像釈迦仏」について確認してみよう。

 

※本文と直接の関係はないが、身延町・見どころみのぶ > 歴史・文化財 > 木造伝釈迦如来立像 付黒漆塗厨子(県指定文化財)・大野山本遠寺蔵は「文永3(1266)5月法橋、覚慶等によって作られた」像とされるが、伝来の詳細はどのようなものか?気になるところではある。

 

【 立像釈迦仏・弘長配流の昔之を刻み 】

日興の門流(富士門流)、重須談所・日代筆の「五人所破抄」には「一体仏を刻んだ」、同じく重須学頭・日順の著「日順雑集・法花観心本尊抄見聞」には「聖人が一体仏を造った」との記述がある。

 

「五人所破抄」

日蓮宗宗学全書・興尊全集P83 国会図書館近代デジタルライブラリー(58/287)

日蓮大聖人御書全集(創価学会版P1614)

又五人一同に云く、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻み、弘安帰寂の日も随身せり何ぞ輙(たやす)く言うに及ばんや云云。

日興が云はく、

中略

次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛月を待つ片時の螢光か(1)、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須(すべか)らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云。

 

「日順雑集」富士宗学要集2(P92)

法花観心本尊抄見聞

中略

聖人は造仏の為の出世には無し本尊を顕んが為なり(2)、然れば正像の時は多く釈尊を造れども本尊をは未だ顕さず然れば如来滅後未曽有大漫荼羅と云云、聖人海の定木を以て一躰の仏を造り佐渡の国へも御所持・御臨終の時には墓側に置けと云云、小乗の頭陀釈迦の仏・瓔珞の衣を脱ぎ垢衣を着玉ひ鹿苑に来遊教化の御弟子無きは一人頭陀し玉ふ事なり、設ひ鹿苑教化の後も一人修行し玉ふ時は頭陀の釈迦なり、聖人御滅の時に註法花経は弁の法印・一躰仏は大国阿闍梨に取られ畢んぬ(3)、御遺言には身延に墓を建て墓の傍に置けと波木井殿・此を無念に思はせられ長門殿に用途五十貫借用して身延の仏を造らせらる。

堀日亨頭注

○日順立像仏ヲ以テ新ニ彫刻セルモノトシ海中出現聖文ヲ没ス五人所破抄ニ亦此説等ノ見ユルハ如何ゾヤ

 

尚、同じ「五人所破抄」ながら「平成新編日蓮大聖人御書」(大石寺版P1879)では、

一、又五人一同に云はく、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔より弘安帰寂の日に到るまで随身せり、何ぞ輙く言ふに及ばんや云云。

と「昔之を刻み」ではなく、「昔より」と訳している。

「日蓮正宗聖典」「日蓮正宗歴代法主全書」でも同じく訳されている。

 

対して「富士宗学要集」の「五人所破抄」は「昔之れを刻み」(2P5)とされる。

「日興上人全集」(興風談所P294)も、

先師所持之釈尊者忝弘長配流之昔刻之、弘安帰寂之日随身。何輙及言哉云云

と「昔之を刻み」である。

 

 

(1)

次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛月を待つ片時の螢光か

 

(2)

聖人は造仏の為の出世には無し本尊を顕んが為なり

 

(3)

聖人御滅の時に註法花経は弁の法印・一躰仏は大国阿闍梨に取られ畢んぬ

これらは日蓮の立像釈迦仏、注法華経について「富士派としての見方を記述したもの」であり、直ちに「日蓮の意とするところを示したものではない」ことに注意を要する。一門派の解釈がいついかなる時でも絶対的に正しいということは有り得ない。むしろ、立像釈迦仏について「継子一旦の寵愛月を待つ片時の螢光」と評するのは「日蓮が身を以て教示した釈迦との師弟関係」を貶めるものではないか。

 

【 日蓮遺文での釈迦仏本尊 】

伊豆期以降、日蓮は立像釈迦仏を随身したのだが、直ちにそのものかどうかを意味するのかは別としても、釈迦像を奉安し本尊としたことは真蹟遺文に窺える。 

 

「神国王御書」(文永122または建治3821 真蹟断片)

其の外小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎ねこぼちて、仏像・経巻を諸人にふまするのみならず、糞泥にふみ入れ、日蓮が懐中に法華経を入れまいらせて候ひしをとりいだして頭をさんざんに打ちさいなむ。

此の事如何なる宿意もなし、当座の科もなし、たゞ法華経を弘通する計りの大科なり。(P892)

 

文永8912日、鎌倉の草庵に平左衛門尉一行が日蓮逮捕に訪れた際の状況の記述により、草庵では「釈尊を本尊とし一切経を安置」していたことが確認できる。

 

尚、「木絵二像開眼之事(法華骨目肝心)(文永10年或は文永元年 真蹟曽存)には、

木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。但し心なければ、三十二相を具すれども必ずしも仏にあらず。

中略~

三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云。

~中略~

法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたち()とあら()はしぬれば、顕・形(ぎょう)の二色となれるなり。滅せる梵音声、かへ()て形をあらはして、文字と成りて衆生を利益するなり。

~中略~

法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。(P791)

とあるが、釈迦像を法華経によって開眼供養する、即ち「木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり」という教示による奉安形式であったことだろう。

 

 

「忘持経事」(建治23月 真蹟)

然る後深洞(しんどう)に尋ね入りて一菴室(あんしつ)を見るに、法華読誦の音(こえ)青天に響き、一乗談義の言山中に聞こゆ。案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌して両眼を開き、尊容を拝するに歓喜身に余り、心の苦しみ忽ちに息()む。(P1151)

 

教主釈尊の御宝前」とあり、身延の草庵で釈迦像を奉安していたことが窺える。また、建治23月であれば曼荼羅も奉掲されていたことも考えられるし、法華経も安置されていたことであろう。それら「曼荼羅」「法華経」「釈迦像」を総称して、「教主釈尊の御宝前」と呼称したものであろうか。

 

   宗祖御遷化記録・御所持佛教事 西山本門寺蔵
   宗祖御遷化記録・御所持佛教事 西山本門寺蔵

 

 

 

「宗祖御遷化記録」(弘安51016日、日興の記録)

一  御所持佛教事  

御遺言云

佛者 釈迦立像 墓所傍可立置云々

経者 私集最要文名註法花経

同篭置墓所寺六人香花当番時

可披見之 自余聖教者非沙汰之限云々

仍任御遺言所記如件

弘安五年十月十六日 執筆日興  花押

 

【 日興は五老僧方の「弘長配流の昔之を刻み」に異を唱えず 】

日蓮の「立像釈迦」の由来について、日代が「五人所破抄」の中で記した五老僧方の見解は「先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻み」というものである。重須学頭・日順は「聖人海の定木を以て一躰の仏を造り佐渡の国へも御所持」と日蓮が造った(この場合、周囲にいた彫刻に心得のある者だろうが)との具体的な記述をしている。対して「船守弥三郎許御書」は「海中いろくずの中より出現の仏体」と「海中より仏像を拾い上げた」ということになっているが、このような従来説は真蹟ではない写本遺文である故、伝承扱いということになる。堀日亨は「日順雑集」(富士宗学要集2巻・P92)の「法花観心本尊抄見聞」についての頭注で海中出現聖文ヲ没ス」というけれども、根拠としているのが第一次史料としては使えない文献であるので、この指摘も当たらない。

 

ここまで見れば、日蓮の「立像釈迦」について、その由来を具体的に記述しているのは日代筆の「五人所破抄」と日順の「法花観心本尊抄見聞」の二書ということになり、「日蓮所持の釈迦像は日蓮(彫刻技術を有する周囲の者)が刻んだ」ということになる。

 

気になる日興の見解だが、五老僧方の見解である「先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻み」に異を唱えてはいないようだ。また日順の「聖人は造仏の為の出世には無し本尊を顕んが為なり、然れば正像の時は多く釈尊を造れども本尊をは未だ顕さず然れば如来滅後未曽有大漫荼羅と云云」との記述は、現存、300幅以上の曼荼羅本尊を書写した日興の思想を継承していると思え、「聖人海の定木を以て一躰の仏を造り」との日順の認識も、日興の意とかけ離れていることはないと思われる。

 

それにしても、日蓮の立像釈迦仏は「日蓮()による彫刻であった」という五老僧方の言うところを、日興の一門が否定せずに記述しているのである。このようなことを日興高弟が敢えて書き残しているところに、日順・日代文書の信憑性の高さがあるいといえよう。

 

【 伊豆期以前の釈迦像随身 】

前段までは伊豆における日蓮の釈迦像造立について、日順・日代らの文献にその根拠を求めてきた。続いては、伊豆期以前の日蓮の事跡を見ることにより、釈迦像随身の可能性を考えてゆこう。

 

「立安国論」進覧の少し前、文応元年(1260)528日の「唱法華題目抄」(真蹟「南条兵衛七郎殿御書」行間に日興筆の「唱法華題目抄」一部分の書写あり)には「四十余年の諸経並びに涅槃経を打ち捨てさせ給ひて、法華経を師匠と御憑(たの)み候へ。法華経をば国王・父母・日月・大海・須弥山・天地の如くおぼしめせ。」(P197)と「法華経を師匠」とすべきことを説示した暫く後に、「問うて云はく、法華経を信ぜん人は本尊並びに行儀並びに常の所行は何にてか候べき。答へて云はく、第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」(P202)とある。

 

これは法師品・神力品の「経巻安置」を依文として、「法華経一部八巻・題目」を本尊とし、機根に応じて耐えうる上根の者には「法華経・題目」の左右に「釈迦如来・多宝仏」「十方の諸仏・普賢菩薩等」の木像・画像の安置を説示したものであり、当時の日蓮とその弟子檀越が「法華経・題目」を主体として木像・画像の安置をしていたことが窺われるのである。

 

中央に紙本墨書の南無妙法蓮華経と法華経の経巻、左右に釈迦像・多宝仏像また十方諸仏の像・普賢菩薩等の像、この「本尊」に向かい日蓮と弟子檀越が専修唱題に励む光景・・・・これが日蓮一門初期の姿であり、それが後には中央の紙本が曼荼羅となって諸仏の尊像が釈迦一仏の像に収斂されていったのではないかと考えられるのである。(曼荼羅図顕以後、諸仏像を造立安置したことを示す遺文はなく、檀越による釈迦一仏造立安置の遺文はある。)

 

このように「釈迦像」造立を勧めているということは、自らも造立安置していたことは「道理」だろうし、また実際に造立安置していればこそ、「唱法華題目抄」に「釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし」としたのではないか。ましてや「法華経最第一」を主張する台密の僧・日蓮であれば、当然のことながら「法華経の経巻」を安置すると共に、そこには法華経説示の教主たる「釈迦如来の姿()」が存在したことだろう。

 

「伊豆期」以前より、日蓮は釈迦像を奉安、本尊としていたことは「道理」であり、また「何に帰命し如何なる経典に依るべきなのか、何を第一とするべきなのか」を聴聞者に明示する為にも、日蓮の行く所、釈迦像と法華経が安置され、その「本尊」に向かい合掌礼拝していたと思うのである。

 

遡れば建長5(1253)、日蓮は「清澄寺道善の房の持仏堂の南面」において法門説示をしている。建治2(1276または文永12)111日、清澄寺の大衆に報じた「清澄寺大衆中」(真蹟曽存)では、「此を申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために、建長五年三月二十八日、安房国東条郷清澄寺道善の房の持仏堂の南面にして、浄円房と申す者並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、其の後二十余年が間退転なく申す」(P1134)と、「日本第一の智者となし給へ」(善無畏三蔵抄)と祈願した虚空蔵菩薩への御恩を報ずるために、清澄寺道善の房の持仏堂の南面において少々の大衆に向かって「法華経最第一」の教えを説き始める模様が記されているが、この「持仏堂」には、本尊として何が安置されていたのだろうか。

 

後年記した「神国王御書」( 文永122または建治3821 真蹟)での回顧によると、

而るに日蓮此の事を疑ひしゆへに、幼少の比より随分に顕密二道并びに諸宗の一切の経を、或は人にならい、或は我と開き見し勘へ見て候へば、故の候ひけるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず。(P885)

仏の教えを鏡として国土の盛衰を知るべきであり、その「一代聖教の中に法華経は明鏡の中の神鏡なり」(同書・定P886)だったのであり、諸経の勝劣を知り、法華経最第一に立脚すれば、「今日蓮一代聖教の明鏡をもって日本国を浮かべ見候に、此の鏡に浮かんで候人々は国敵仏敵たる事疑ひなし」(同書・定P886)なのである。

 

「法華経最第一」という日蓮の主張よりすれば、「一代聖教の勝劣」に無知なる大衆に向かい、法を説示する日蓮が背にしていたのは、法華経の教主・釈迦の像ではないだろうか。青年日蓮が若き日の一切を注ぎ込んで獲得した「法の真実」を初めて申し伝えるという意義深き法座で、釈迦に依らず他の諸仏、諸菩薩の像の前で説法をする光景は想像しがたいのである。「諸経の王」(P219 立正安国論 真蹟)たる法華経を説き示すのに相応しい法座の本尊は、やはり「教主釈尊法王=釈迦像」(P1340 下山御消息 真蹟断片)ではないかと考えられよう。

 

【 守護国家論「法華経は釈迦牟尼仏なり」 】

続いて系年、正嘉3年・正元元年(1259)の「守護国家論」(P123 真蹟曽存)を見てゆこう。

 

又云はく「若し是の法華経を受持し読誦し正憶念(しょうおくねん)し修習し書写すること有らん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり。仏口より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」已上。

此の文を見るに法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後たりと雖も仏の在世なり。

中略

三千世界広しと雖も仏自ら法華・涅槃を以て南方流布の処と定む。南方の諸国の中に於ては日本国は殊(こと)に法華経の流布すべき処なり。

 

同書では、法華経は釈迦牟尼仏であり、法華経を信受しえない人の前では釈迦牟尼仏は入滅となり、法華経を信受する者の前には「滅後たりと雖も仏の在世」即ち、釈迦は眼前となる。また日本国は法華経(釈迦牟尼仏)の流布すべき国であることを教示している。

 

法華経を受持する者は教主・釈迦の守護に包まれるとの教示であり、信仰上の意味合いもさることながら、文意からすれば物理的な観点からも、日蓮のもとを訪れた弟子・檀越は、釈迦像を眼前としていたであろうことも読み取れるのではないだろうか。

 

「守護国家論」の翌年、文応元年(1260)528日の「唱法華題目抄」では先に見たように「第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」(P202)なのであり、「法門申しはじめ」た建長5(1253)から6年後、正嘉3年・正元元年(1259)の釈迦像奉安は確実であろう。

 

また、この「守護国家論」での「法華経は釈迦牟尼仏」「法華経への信・不信による釈迦の入滅・在世」の思想は、此の時俄かに考えついたというよりも、建長5年以前、法華経を「最第一の経なり」(P102 守護国家論)と覚知した時以来のものではないだろうか。その思想が具体的に顕れ、示されたものが「唱法華題目抄」での本尊としての「法華経・題目、左右の釈迦如来・多宝仏、十方の諸仏・普賢菩薩等の木画の像」なのであろう。

 

ただし、法華経最第一を主眼とすることからと思われるが、「法華経或いは題目」が中央、釈迦像等の奉安は法華経の左右となっていることに注意を要する。

 

いずれにしても、法華経を伝道する僧が6年間も全く本尊なしで過ごしていたとは考えづらく、当時の日蓮の遺文より、釈迦像の所持・奉安は鎌倉に草庵を構えて以降は確実だと考えられるのである。

 

【 伊豆期以前・以後の釈迦像の意味 】

日蓮は立教以来、釈迦像を随身しており、伊豆期より新たに始まったものではないとすると、随身仏を伊豆で「刻んだ」のは何故か?ということになると思う。それについては単純ではあるが、伊豆への所持が成せなかった、故に現地で新たに随身仏を彫刻した、ということではないかと考える。

 

「唱法華題目抄」より一年後の1261年・弘長元年512日以降の伊豆配流では、仏教に関係する所持品は少なかったであろう流人の配所にあった日蓮が、法華経の教主・釈迦の造像を行うというのは、それまでの日蓮自身の教説からすれば当然なことであり、また自然なことでもあったと思う。

 

同時に、そこには「殉難の喜び」もあったことだろう。

 

写本遺文ではあるが当時の日蓮の心情を見事に表していると思えるのが「四恩抄(伊豆御勘気抄)(弘長2116日 日朝本)だ。

 

此の身に学文つかまつりし事、やうやく二十四五年にまかりなるなり。法華経を殊に信じまいらせ候ひし事は、わづかに此の六七年よりこのかたなり。又信じて候ひしかども懈怠の身たる上、或は学文と云ひ、或は世間の事にさ(障)えられて、一日わづかに一巻・一品・題目計りなり。(P236)

 

と、法華経を信じたのはわづかにこの六、七年であり、日常の懈怠により修行もあまりすすまなかったのだが、

 

去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで、二百四十余日の程は、昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候。其の故は法華経の故にかゝる身となりて候へば、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に法華経を読み行ずるにてこそ候へ。人間に生を受けて是程の悦びは何事か候べき。凡夫の習ひ我とはげみて、菩提心を発こして後世を願ふといへども、自ら思ひ出だし十二時の間に一時二時こそははげみ候へ。是は思ひ出ださぬにも御経をよみ、読まざるにも法華経を行ずるにて候か。

中略

是程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の持経者は、末代には有りがたくこそ候らめ。(P236P237)

 

伊豆に流されて以降は行住坐臥に法華経を読み行じているとして、「人間に生を受けて是程の悦びは何事か候べき」との喜びを綴っている。

 

日蓮としては、教主釈迦出世の本懐たる法華経に生き、法華経を弘め、法華経に依って念仏を批判する「立正安国論」を提出しての法難であり、身命に及ぶ法難こそが自身の正当性の証明ともなり、その渦中であればこそ、「法悦」に浸るものがあったのではないだろうか。

 

鎌倉の草庵を襲われ、伊豆へ流されるというそれまでの経験にはない、身命に関わる法難を体験しての新たなる釈迦像の造立は、「唱法華題目抄」における「法華経・題目」の両脇に釈迦如来・多宝仏等を安置するという、従来のものではなかった。いずこいず方にいても「我れ教主と共にあり」の決意、教主の教えに一途に生きる喜び、教主の説かれる通りの現証(身命に及ぶ迫害)となっている法悦、これらの「新たなる境地」から伊豆に於いて「教主を造立」したのではないだろうか。

 

【 立像釈迦仏=久遠仏との師弟 】

「法門申しはじめ」以来の釈迦像には、阿弥陀仏に心を寄せる、宗教的には末法の闇に覆われた周囲の人々に還るべき教主、帰命すべき教主を明示する、という意味合いもあったと思う。

 

そして伊豆期以降の立像釈迦仏には、それまでの「末法の衆生が帰命すべき教主・釈迦」という意義と共に、新たに重要なる意味が加わった。それは、日蓮自身の宗教的意味、法華経に説かれる立場、(この時はまだ上行菩薩との暗示はしないけれども)「法華経通りの難を受けた自身こそが教主釈尊の弟子であり、使いなり」を明らかにする、というものだったのではないだろうか。

 

そのことは「宗祖御遷化記録」(日興筆)に「佛者 釈迦立像」と記されることとなったように、日蓮の伊豆期以降の重大局面「文永8912日・竜口の首の座へとつながる草庵襲撃、流人となり衣食に欠乏、困難な生活を過ごした佐渡、そして身延の草庵」は「立像釈迦仏」と共にあったこと。即ち「日蓮は一生をかけて教主釈迦との師弟の姿・道を示している」ことからも言えると思うのである。

 

別な言葉で表すれば、立像釈迦仏と日蓮は「釈尊の因行果徳の二法を譲り与えられ、末法の衆生に取り次ぐ弟子(日蓮)の立場」というものを、身を以て示しているといえよう。

 

一説にある「脇士なき立像釈尊は一仏であり、小乗の釈尊にも及ぶことなし。物の数にも数えられず」との説は、日蓮滅後の門流・宗派意識がかく言わせているものであり、大難にあっても立像釈迦仏=随身仏を放さなかったという日蓮の姿、またその「意」を思考すれば、実際は「随身仏が従に非ずして随身仏が主、教主であり、所持する日蓮は主に非ずして従の振る舞い、仏弟子としての自覚を持った日蓮であった」と考えられるのである。

 

可視的世界では日蓮が釈迦像を随身したのだが、「在在諸仏土 常与師倶生」(法華経・化城喩品第七 在在諸仏の土に 常に師と倶に生ず」)との法華経の師弟観に立脚すれば、不可視的世界・法華経信仰世界では「我成仏已来。復過於此。百千万億。那由他。阿僧祇劫。自従是来。我常在此。娑婆世界。説法教化。」(法華経・如来寿量品第十六「我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり。是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す。)との経文に基づいて、久遠仏に使える弟子としての振舞いを日蓮は「随身仏=立像釈迦仏との関係」を以て顕現した。即ち教主釈迦に日蓮が随身したということになるのではないか、と考えるのである。

 

 

尚、一体仏については日蓮自身が「生身の仏」との教示をしている。

 

四條金吾釈迦仏供養事」

(P1182 建治2715日 真蹟1紙断片・鎌倉妙本寺蔵 真蹟身延山曽存)

御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云。

開眼の事、普賢経に云はく「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり」等云云。又云はく「此の方等経は是諸仏の眼なり諸仏是に因って五眼を具することを得たまへり」云云。

中略

此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ。優(うでん)大王の木像と影顕(ようけん)王の木像と一分もたがうべからず。梵帝・日月・四天等必定して影の身に随ふが如く貴辺をばまぼらせ給ふべし。是一

 

四条金吾が造立した「釈迦仏の木像一体」を「此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ」としているのである。

 

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