日蓮滅後の身延山・小考 1・2・3・4

                          身延山 山頂より
                          身延山 山頂より

1 御所持佛教事

        日蓮の荼毘所と伝える 池上本門寺 宝塔
        日蓮の荼毘所と伝える 池上本門寺 宝塔

 

 

弘安5(1282)1013日辰の刻、日蓮は武州・池上宗仲邸にて亡くなり、翌14日戌の刻に入棺、子の刻に火葬された。日蓮の遺骨を奉持した弟子達は身延山へと向かった。 

 

 

 

 

 

 

 

弘安61月下旬、門弟一同によって百箇日忌法要が営まれたようだ。この時、一弟子六人の内、身延山にいたのは日昭、日朗、日興、日持の四名であり、日向、日頂は不在だったが「墓所可守番帳事=墓番帳」が作成されている。「墓番帳」はおそらく日蓮百箇日前後に作られたもので、内容は一弟子六人を中心として、その弟子(孫弟子)らにより日蓮の墓所の寺(後に見るようにそれは身延山の寺を意味すると考えられる)を一カ月ずつ輪番で守ることを約したものである。

 

「宗祖御遷化記録」御所持佛教事、墓所可守番帳事=墓番帳 (日興筆正本・西山本門寺蔵)

 

日昭  日朗  日興  他行 他行 日時   ( 第四紙継目 )

花押  花押  花押          花押

 

一  御所持佛教事

御遺言云

佛者 釈迦立像 墓所傍可立置云々

経者 私集最要文名註法花経

同篭置墓所寺六人香花当番時

可被見之 自余聖教者非沙汰之限云々

仍任御遺言所記如件

弘安五年十月十六日 執筆日興  花押

 

弁闍梨  大闍梨  白蓮闍梨  他行   他行  蓮花闍梨 ( 第五紙継目 )

 花押   花押    花押   佐土公  伊予公    花押

 

定         次第不同

墓所可守番帳事

正月  弁阿闍梨

二月  大国阿闍梨

三月  越前公

     淡路公

四月  伊与公 

五月  蓮花闍梨 

六月  越後公 

下野公

七月  伊賀公

筑前公

八月  和泉公 

治部公

九月  白蓮阿闍梨

十月  但馬公 

卿公

十一月 佐土公

十二月 丹波公 

寂日房

右守番帳次第無懈怠可令勤仕之状如件

弘安六年正月 日

 

【 西山本「墓所可守番帳事」と池上本「身延山久遠寺番帳事」 】

池上本門寺には身延山久遠寺の輪番を定めた「身延山久遠寺番帳事」がある。池上本を偽筆とする説に対し、「日蓮教団全史・上」(立正大学日蓮教学研究所編 1964年 平楽寺書店)では、「池上本は草案、西山本は改訂された正本」(趣意P57)としている。

今回の私の小考では池上本の真偽論は横に置き、西山本を基に考える。

 

【 三本の日蓮遷化記録 】

日蓮の「遷化記録」には三本ある。

 

◇西山本門寺本  日興筆(白蓮阿闍梨)   五紙(継紙)巻子   一巻  国重要文化財

記録⇒日蓮略伝あり、本弟子定置あり、葬送記録あり、遺物配分あり、墓所番帳あり

 

◇池上本門寺本  日興筆?(白蓮阿闍梨)   二紙(折紙)軸装  二軸  東京都重宝

記録⇒日蓮略伝なし、本弟子定置なし、葬送記録なし、遺物配分あり(前半分欠)、身延山番帳あり

 

◇池田本覚寺本  日位?(治部公日位)   八丁(綴帖装)冊子 一帖  静岡県指定文化財

記録⇒日蓮略伝なし、本弟子定置なし、葬送記録あり、遺物配分あり、墓所または身延山番帳なし

 

他には日向所持の「遷化記録」が存在したようで、本間裕史氏は「『日蓮聖人御遷化記録』考」(「浅井圓道先生古稀記念論文集 日蓮教学の諸問題」収載 1997年 平楽寺書店)と題する論文で、以下のように指摘されている。

 

「ちなみに、日向所持分の御遷化記録が身延山にも残っていたようである。身延山久遠寺第二十一世寂照院日乾が、慶長八年(1603)十月十五日付で記された『身延山久遠寺御霊宝記録』、いわゆる『乾師目録』には、

御葬礼次第等折紙二紙 裏ニ昭朗興持ノ四人ノ御判有之

とある。」(同書P224)

 

 

中尾堯氏は「『日蓮聖人御遷化記録』の書誌的研究」(「宗教社会史研究Ⅲ」収載 2005年 立正大学史学会 )と題する論文で、西山本門寺本、池上本門寺本は日興筆、池田本覚寺本はその保存状態より考察した結果、「日位の筆写本ではなく、日蓮の本弟子日持が、葬送儀礼の現場で記した筆記本である」(同書P28)とされる。

 

本間裕史氏は「『日蓮聖人御遷化記録』考」で、西山本門寺本は日興筆、池上本門寺本は検討の結果「日興の自筆とはとうてい言い難いと言わざるを得ない」(P230)とし、池田本覚寺本は文中にある「身延山久遠寺」「本門寺」について、当時、身延山久遠寺、本門寺と呼称される寺院の建立、実態がなかったことから、「日興の認めた御遷化記録よりも後年になって、日位が備忘録として残したものであろう」(同書P227)とされる。

 

2 日蓮の随身仏・釈迦立像はどこに置かれたのか

「御所持佛教事」の「仏は 釈迦立像 墓所の傍に立て置く可し云々」について、日蓮系教団の一部からは「『墓所の傍』なのだから、墓地の傍らに釈迦立像を置くのが日蓮の遺志である。ここに、釈尊像は末法には無益である、という日蓮の意も読み取れるのである」との解釈がされている。これについて、以下、確認してゆこう。

 

(1)墓所=墓所の寺

           身延山頂より富士川を見る
           身延山頂より富士川を見る

 

一 御所持仏教の事

(日蓮の)御遺言に云く。

仏は 釈迦立像 墓所の傍に立て置く可し云々。

経は 私集最要文註法花経と名づく 

同じく墓所の寺に篭()め置き六人香花当番の時之を被見す可し 

自余の聖教は沙汰之限りに非ず云々 

仍て御遺言に任せ記す所件の如し。

 

 

 

日蓮の遺言では、釈迦随身仏は墓所の傍らに立て置くとしている。註法華経については(随身仏と)同じく墓所の寺に篭め置くとされている。紙製の註法華経を置くのだから、「墓所の寺」には「堂舎等の建物内」との意も含まれていると理解できる。

 

文面の解釈について「日蓮教団全史・上」(1964年 立正大学日蓮教学研究所編 平楽寺書店)では、「従って、前条の仏像が『墓所の傍』に安置され、註法華経が『同じく墓所の寺に篭め置か』れるというのは墓所の傍に寺が作られることになっていたことが当然予想される。この寺はいわゆる塔頭といわれるものである。弟子が師匠の遺徳をしのぶため、塔(墓所)の近くに房をかまえて住する所を塔頭というといい・・・・」(P54)と、塔(墓所)の近くに寺・塔頭が作られるとして「この寺、塔頭に立像仏が本尊として安置され、註法華経がおかれ、輪番諸師乃至器許の人々が披読することができたのである。」(同書P54)と説明している。

 

私としては「仏は 釈迦立像 墓所の傍に立て置く可し」の「墓所」と、「経は 私集最要文註法花経と名づく 同じく墓所の寺に篭め置き」の「墓所の寺」とは、「同じく」により同じ所を意味する、即ち「墓所=墓所の寺」と考えている。「御所持仏教の事」を「ABに置くべし、Cは同じくDに置くべし」と書き換えてみたらどうだろう。この場合BDという「表現の異なり」はあるものの、「同じく」によりBDはその「意味するところについては同じ」となる、「BDは同所」ということになるのではないか。

 

註法華経を置く所は、前文に続いて「同じく墓所の寺」なのだから、前の「仏は 釈迦立像 墓所の傍に立て置く可し」の「墓所」とは後文と同じ「墓所の寺」であり、「寺」を略したもの、と解釈されるのではないだろうか。「」とあるのは、釈迦随身仏が「墓所の寺」のいずれかの堂舎に立て置かれるべきものである(それは日蓮教団全史の解説する塔頭かもしれないが)、との日蓮の謙譲の意を表しているのではないかと思う。

 

日蓮は伊豆配流以降、随身仏を終生所持しており、それは同時に、奉安したことも意味するであろう。日蓮遺文における「国主・父母・明師たる釈迦仏」(P993 一谷入道御書 真蹟断片)等の釈迦仏崇敬の文を踏まえて考えれば、随身仏の奉安は釈迦仏にお仕え申し上げる弟子としての範を示すものであり、更に「釈迦仏の御使ひ」(P996 同書)とあるように自身は教主釈尊の使いたることを姿で示すことでもあったことだろう。生ける教主釈尊に擬して崇敬したであろう随身仏を、自身の臨終に当たって墓地そのものの横に立て置け、即ち「野ざらしにせよ」などと言うことは考えられないのである。故に釈迦随身仏は、墓所の寺に「立て置く」=奉安することを遺言したのではないだろうか。

 

 

(2)原殿御返事

 

ここで視点を変えて、日興の著「原殿御返事」に注目し、以下、仮説を組み立ててみよう。

 

日蓮聖人御出世の本懐、南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道殿御徴力以ての形の如く造立奉り思召立候を、御用途も候はず、大国阿闍梨奪い取り奉り候仏の代りに其程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給て固く其の旨を御存知候を、日興が申様は責て故聖人安置の仏にて候はゞさも候なん。それも其の仏は上行等の脇士もなく、始成の仏にて候き。その上其れは大国阿闍梨の取り奉り候ぬ。なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給へ候べき。御力契給せず御子孫の御中に作らせ給仁出来し給ふまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。

 

日興の記述について順を追って確認してゆこう。

(日蓮の遺言により釈迦立像・第一転の仏は「墓所の傍に立て置」かれた)

・大国阿闍梨=日朗は身延山より「墓所の傍に立て置く可し」とされた釈迦立像を持っていく。(日興は「大国阿闍梨奪い取り奉り候」と記すも、それは日興の認識であり、真実はどこにあるのか?については別問題だと思う)

・波木井氏は「御用途も候はず」財力がないにも関わらず、「大国阿闍梨奪い取り奉り候仏の代りに其程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給て」と、日朗が所持するところとなった随身仏の替わりに、それと同じような一体仏・第二転の仏の造立を申し出てきた。

・日興の考えとしては「其の仏は上行等の脇士もなく、始成の仏にて候き」と、日蓮が安置した仏(随身仏)ならばよいと思われるかもしれないが、その仏は上行菩薩を始めとした四菩薩の脇士がない一体仏であり始成の仏となるのである。しかもその仏は日朗が持ち去っており、どうして第二転の始成無常の仏を欲しく思うことがあるだろうか、とする。

・続けて「御力契給せず御子孫の御中に作らせ給仁出来し給ふまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。」と、一尊四士の造立は経費がかかることなので、子孫が財力をつけるようになるまでは日蓮の文字曼荼羅を安置するべきである、と教示している。

・即ち、日興は一体仏は不可、一尊四士ならば造立可とするのである。しかし「一尊四士は将来、財力ある子孫が出るまで待つべきであり、それまでは日蓮文字曼荼羅(紙本)を安置しなさい」としているのであり、一尊四士や紙本の曼荼羅が風雨に晒される「墓地そのものの傍」に置かれるということは考えづらいものがある、といえるだろう。これにより「墓所の傍」とは堂舎等の建物内であることが推測されるのである。

 

繰り返すが、日興は「日朗が持っていった釈迦立像の替わりに釈迦仏を造立するのなら、四菩薩を添えた久遠実成の釈尊・一尊四士を造るべきである。しかし、経費のかかることなので、将来、子孫が財力をつける等、経済環境が整うまでは日蓮曼荼羅を安置するように」(趣意)と教示する。釈迦立像の替わりに日蓮曼荼羅の奉安を勧め、一尊四士造立は財力が備わるまで待つべき、としているのである。この日興の説示により、日蓮随身仏たる釈迦立像が置かれた場所はどのような所であったのかが窺えるのではないか。それは、堂舎など建物内の本尊を奉安する所を示している、といえるだろう。日蓮の随身仏・釈迦立像は日蓮亡き後、身延山の寺の建物内に奉安されていたことを、日興の記述から読み取れるのではないだろうか。

 

3 墓所の寺とは身延山の寺を意味するのではないか

日蓮遺言にある「六人」が「香花当番」する墓所輪番とは、身延山の寺の一角にある墓地の輪番ではなく「墓所の寺」、即ち「身延山の寺」の輪番を意味しているのではないだろうか。

 

(1)六老僧は日蓮の「本弟子=一弟子」であり、墓所の寺=身延山の寺を一弟子が月番で守ることはごく普通なことではないか

 

宗祖御遷化記録 (日興筆正本・西山本門寺蔵)

~前略~

一 弘安五年 壬午 九月十八日 武州池上に入御 地頭 衛門太夫宗仲

同十月八日 本弟子六人被定置 此状六人面々可帯云々 日興一筆也

一弟子六人事 不次第

 蓮花阿闍梨 日持 

    日頂 

 佐士公   日向

一 白蓮阿闍梨 日興

 大國阿闍梨 日朗

 弁阿闍梨  日昭

右六人者本弟子也 仍為向後所定如件

弘安五年十月八日

~後略~

 

「宗祖御遷化記録」にあるように、日蓮は弘安5年同108日に「蓮華阿闍梨日持公日頂佐士公日向白蓮阿闍梨日興、 大国阿闍梨日朗、弁阿闍梨日昭」の六名を「本弟子」「一弟子」としている。即ち「唯授一人血脈相承」の言葉に示されるような、特定の人物にのみ秘法を授ける、付属をするという継承法ではなくして本弟子六人を定め、その六人を「一弟子」としているのである。このことは、自身滅後の法華教団運営はこれら一弟子六人を中心として行い、六人和合して令法久住、広宣流布を期すべきことを明示した、と理解できることであろう。

 

日蓮は最後臨終の時に当たり、本弟子=一弟子六人を定置したことの意味、本弟子六人による法華教団の在り方などを、病床を訪れた直弟子達に種々指南したことだろう。そして「此状六人面々可帯云々」とあるように一弟子・本弟子を定め置いた書状を六人それぞれが所持し、日蓮の遺志というものを共有したのである。

 

このような経緯を踏まえて日興の「佐渡国法花講衆御返事」(元亨3[1323]622日、日蓮滅後42)の下記の記述を見ると、「勝手に日蓮聖人の直弟子と名乗ることを誡める」ことが主眼とはなっているが、本弟子六人定置の意味の一端が窺えると思う。更に「その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりといはせんずるためにて候」に本弟子六人を導師とした各門流の共存、共栄を思い描く日蓮の遺志も読み取れ、そのような師匠の遺志が六門徒に共有されていたことも窺われるのではないだろうか。

 

本文

うちこしうちこし直の御弟子と申やからが、聖人の御ときも候しあひだ、本弟子六人をさだめおかれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりといはせんずるためにて候。案のごとく聖人の御後も、すゑの弟子どもが、これは聖人の直の御弟子と申やからおほく候。これが大謗法にて候也。

 

概訳

ものごとの順序を越えて、自分は日蓮聖人の直弟子だと名乗る輩が、日蓮聖人在世にもいました。そのため本弟子六人を定めて六老僧としたのです。その本弟子が教化した弟子は、その本弟子の弟子分に属すると明確にするためです。案じた通り、日蓮聖人の滅後に末席にいた弟子たちが勝手に「私は日蓮聖人の直弟子である」と名乗ることが多くありました。これは師弟の道を逸脱する大謗法の振る舞いといわねばなりません。

 

日蓮の遺志としての「本弟子」「一弟子」六人であり、それは「不次第」なのである。そこには「一門結束すべし」との意も込められていると思え、同時に一弟子それぞれの門流は共存共栄であるべきなのだから、特定の人物を身延山の寺の別当職とするよりも、日蓮が等しく「本弟子=一弟子」六人とその弟子(孫弟子)による身延山の寺の輪番を期したとしても、それはごく自然なことではないだろうか。

 

師たる日蓮にしてみれば、皆、手塩にかけて育てた直弟子であり、自らの法難の合間に叱咤激励、教導を重ねたことだろう。日蓮が身延山で過ごした8年と5カ月、その間、最大の脅威ともいえる幕府権力と同じ都市・鎌倉にあって門徒衆組織を守り、教線を維持したのが日昭、日朗らである。富士方面で果敢なる弘法を展開し、多くの帰依者を得て、熱原の法難で東奔西走したのが日興。上総、房総方面では日向が布教、駿河には日持、下総には日頂の両名である。

 

これら六名が中核となって法華教団を守り、拡大し、更なる展開を成すことを日蓮は期待したことだろう。また、師たる日蓮から見て、特別、抜きんでた人物もいなかったといえるのではないか。六人全員を「一弟子」としたことに、そのような意が読み取れるのである。

 

日蓮は、自身亡き後の弟子達の多忙は予想していたものの、その合間を縫って愛弟子六人が交替で自己の墓所の寺=身延山の寺の守護輪番を成すことは、師としての喜びでもあったと思うのだ。

 

 

(2)日蓮滅後は六人それぞれの教線が主舞台であり、身延山の寺は二次的なものだったのではないか

 

             富士宮市 朝霧高原より
             富士宮市 朝霧高原より

更に、日蓮滅後に予想される対外的対応という観点からも考えなければならないと思う。六人それぞれの教線は鎌倉、上総、下総、駿河、甲斐方面等にあったのであり、これら地域の門徒組織の維持運営を考えれば、特定の人物を、それぞれの教線から遠い墓所の寺=身延山の寺に常住させるなどは実務的ではない。ましてや、日蓮亡き後様々な圧迫が予想されるであろう中での対外的な対応、これも困難の度を更に増すと思われる法華伝道上からすれば、六人の誰人かを身延山という山寺に常住させるなどは大変な戦力減退となり、現場での中心者の不在はその地域での法華教団の存亡に係わる事態となったことだろう。

 

当然、滅後のことを慮っての本弟子六人定置であれば、これらのことは日蓮の思考の範疇であっただろうし、日興・日持を除く主要門弟の攻防戦の主舞台は身延より遠い所にある以上、身延山は墓所の寺として、月番で維持管理していく体制でよろしい、との認識だったのではないだろうか。即ち、本弟子中の特定の人物が身延山に常住することは、日蓮の本意ではなかったと考えるのである。

 

                房総
                房総

 

一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布」(P818 「法華取要抄」真蹟)こそが日蓮の期すところであったのだから、それを実行する現場は六弟子有縁の地、教線である。その地域の導師として陣頭指揮を執るための本弟子であり、その為の六人の選定なのだから、その内の一人を自身の墓所の寺=身延山の寺に常住させる、いわば閉じ込めておくなどは日蓮の思考にはなかったと思う。

 

 

 

(3)臨終近くの日蓮による身延山の位置付けと滅後の弟子の意識

 

また、日蓮と本弟子にとっての身延山の寺の位置付けという観点も考慮すべきだろう。

 

弘安5919日に波木井実長に報じた「波木井殿御報」(日興代筆本身延曽存)にはさりながらも日本国にそこばくもてあつか()うて候み()を、九年まで御きえ(帰依)候ひぬる御心ざし申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、はか()をばみのぶさわ(身延沢)にせさせ候べく候。」(P1924)とあり、「日本中どこに行っても受け入れられないであろう日蓮を、9年まで受け入れて頂いた波木井氏の信仰、志には感謝の言葉もなく、私がどこで死んだとしても、墓は身延に立ててほしい」旨を記している。日蓮にとっては自身亡き後、身延山は伝道の拠点というよりも墓所であり、即ちそこは墓所の寺にすぎないという認識だったと思われるのである。そして、この意識を本弟子六人も共有したのではないだろうか。

 

現実に弘安71018日、日興が房総の美作房日保に宛てた「美作房御返事」の文中、「今年は聖人の御第三年に成らせ給ひつるに、身労なのめに候はゞ何方へも参り合ひ進らせて、御仏事をも諸共に相たしなみ進らす可く候つるに、所労と申し、又一方成らざる御事と申し、何方にも参り合せ進らせず候つる事、恐れ入り候上歎き存じ候。」と「弘安7年は、聖人滅後の三回忌に当たるが、老僧達は何所へも参集しなかった。日興の気持ちとしては、何所であれ諸共参り合わせて御仏事を奉修したかった。日興は体の調子がおもわしくなく、また、諸事情もあって、何所へも出かけなかった」旨を記している。

 

ここでは、「日蓮三回忌という大事な仏事は身延山の寺で執り行われるべきものでもなかったこと。日興の気持ちとしてはどこであれ老僧達と共に修したかったこと」が記されているのであり、この時の法華教団内における身延山の位置付け、それは精神的な位置付けとも言えるかもしれないが、後の時代ほどの中心的存在、宗教的意味合いの高いものではなく、単に墓所の寺であったろうことが窺えるのである。

 

このように、生前の日蓮にとっても、本弟子六人にとっても、娑婆世界での一切衆生への説法教化という法華経の本義、伝道活動の実際からすれば、身延山自体の位置付けは二次的なものだったのだろうし、ましてや日蓮滅後の弟子達にとっては、月番を務めることによって亡き師匠を偲ぶ精神的な象徴だったかと思われるのである。

 

(4)御所持佛教事」より窺えること

上記とは別角度だが、「御所持佛教事」では「註法華経」を「墓所寺に籠め置き」と指示され、それを「六人香花当番の時之を被見す可し」とされている以上、これを受けて定められた輪番は、墓所の管理のみではなく、「墓所の寺」、即ち身延山の寺の管理を意味していたと考えられないだろうか。

 

4 墓所の寺=身延山の寺は日蓮滅後、二次的なものであった

              身延山頂より
              身延山頂より

これまで見てきたように、日蓮法華教団における身延山の位置付けは日蓮存命中と滅後では大きく異なるものがあったと考えられる。日蓮が各地の弟子檀越に書状を発し、曼荼羅を図顕・授与していた往時は法華伝道の頭脳・心臓部、法華経信仰の泉、源流とも言える地であったが、日蓮亡き後は墓所の寺となり、日興・日持を除く本弟子四人、主要門弟の教線から遠いこともあって二次的な位置付けとなっていた。それは「妙法蓮華経の広宣流布」を願い、何よりも優先させた日蓮が意としたところでもあり、本弟子六人も共有するものであったことだろう。

 

自身滅後の教線維持、拡大を主とし優先する考えから、日蓮の遺志として墓所の寺=身延山の寺の輪番制は定められた、具体的な当番順については本弟子六人を中心に決めるよう託されたものと思われる。故に本弟子=一弟子六人の内、身延山常住別当職を日蓮より直接任じられた者はいなかったと考えられ、一部で使用される「池上相承書・釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり、背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり」というものは、後世、日蓮に仮託して富士門流で作成されたものであると言えるだろう。

 

日蓮三回忌後の弘安71018日、日興が房総在住の美作房日保に宛てた「美作房御返事」には「何事よりも身延沢の御墓の荒れはて候て鹿かせきの蹄に親たり懸らせ給ひ候事目も当てられぬ事に候」とあり、墓所輪番制はこの頃には完全に崩壊していたことを日興の筆が物語っている。これは、身延山を二次的なものとする考えが本弟子六人のみならず、更にその弟子達にも共有されていたことを意味するものだろう。

 

しかも、「三月の越前公・淡路公」「六月の越後公・下野公」「七月の伊賀公・筑前公」「八月の和泉公・治部公」等、身延山と近接した駿河の国、甲斐の国を教線とする弟子達が二度目の輪番に登山していなかったと考えられるのである。

 

もし、日興が日蓮滅後より身延山別当として常住していたのであれば、「身延沢の御墓の荒れはて候」との事態は起こり得なかったことであろう。

 

これについて、日興が「墓所が荒れ果てている」旨を書いたのは、輪番不参の五老僧に身延登山を促すための方便、誇張であるという説がある。しかしながら、日興から書状を託されて美作房日保のもとに向かったのは越後房日弁であり、たまたま身延より上総へ帰るところだったので書状を届けたのだが、彼は身延山の実状を実際に眼にしているのである。墓所の実態を見ている越後房日弁を使者に立てながら、書状には相違する内容を書き込むとは考えづらいのではないか。

 

以上、私としては墓所可守番帳事」は日蓮の遺志としての「身延山の寺の輪番制」を示すものと考えている。そのことは同時に日蓮入滅直後よりの、日興の身延山常住説を否定することにもなるだろう。

 

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