日蓮滅後の身延山・小考 5・6

5 墓所輪番崩壊の時期は

(1)一周忌の年は皆、輪番を務めたのではないか

 

              身延の山々
              身延の山々

墓所の寺=身延山の寺を守ることは輪番制となったものの、それが順守されたのは一周忌の年までだったろうか。 

 

もう一度「墓番帳」を見てみよう。 

 

正月  弁阿闍梨

二月  大国阿闍梨

 

弘安61月は日蓮の百箇日忌であり、この頃作成された「墓番帳」に日昭は「弁闍梨・花押」日朗は「大闍梨・花押」と記しているので、両名の身延在山は明らかである。身延山の輪番も1月が日昭、2月が日朗なので、そのまま身延に留まればよいだけのことであり、最初の当番給仕を務めたことだろう。「一弟子」と定められて三カ月もしないうちに、師匠の墓所寺当番を怠る、しかも取り決めの書面には「右番帳の次第を守り懈怠無く勤仕せしむ可し」と誡文が記され、自ら署名・花押をしながらその当月に破る、などは考えづらいものがある。

 

この後の月番の弟子とその教線を見ると、

 

3月・越前公(甲斐の国)、淡路公(駿河の国)

5月・蓮花阿闍梨(日持、駿河の国)

6月・越後公(日弁、駿河の国)、下野公(日秀、駿河の国)

7月・筑前公(駿河の国)

8月・和泉公(日法、駿河の国)、治部公(日位、駿河の国)

9月・白蓮阿闍梨(日興、甲斐の国、駿河の国)

10月・卿公(日目、駿河の国)

 

となっている。これらは日興とその弟子を中心とした月番であり、彼らの法華伝道の舞台と身延山は近接していることから、初回の輪番給仕は務めたことと思われる。

 

続いての11月は「佐土公(日向)」となっているが、どうだろう。亡き師匠の墓所の寺=身延山の寺の月番を初回から、というよりも一回も務めない、登山せず、などということがあるだろうか。初の月番であれば、まずは怠らずその任についたのではないか。これは4月の「伊与公(日頂)」、7月の伊賀公、10月の但馬公も同じであったろう。

 

12月は「丹波公、寂日房」となっているが、寂日房日華であればその教線は甲斐の国であることから、近接の身延山には登山したことだろう。

 

 

(2)聖人御房を御堂に

問題は明けて弘安7年からとなる。

前に記したように、この年の9月当番の日興は身延山に登山して、墓所が荒廃しているのを目の当たりにしそれを嘆いているので、弘安71月から8月のいずれかの時期には、月番の弟子達は身延疎遠となり輪番制は崩れていたことが分かる。日興は墓所の整備を行い、師日蓮の三回忌の仏事を修したことだろう。 

 

この三回忌の仏事を、御影堂で修した記録があることには注意したい。

「開山より日順に伝はる法門」

波木井は富士へ音信有るべからずと云ふ連書の起請有り、身延山には日蓮聖人九年、其後日興上人六年御座有り、聖人御存生の間は御堂無し、御滅後に聖人御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ、御影を造させ玉ふ事も日興上人の御建立也。(富士宗学要集2P95)

 

「尊師実録」

弘安七年甲申・五月十二日、甲州身延山へ登山、同年十月十三日、大聖人第三回御仏事に相当たる日、始て日興上人に対面、御影堂出仕云々(日蓮宗宗学全書2P411)

 

重須・三位日順の「開山より日順に伝はる法門」によれば、日興は日蓮亡き後、身延山の聖人御房を御影堂に作り変えている。聖人御影といえば、重須に移住してからの書簡に見られるように、日興は聖人御影を造立し生身の日蓮に擬して崇敬しており、それは他の本弟子以上のものがあったように思われる。その、「聖人御影信仰」の事始めともいえるだろうか。日蓮亡き後、「御影を造させ」て、奉安するに相応しい造りに房舎を改築したものであろう。ただし狭隘なる地でのことであり、今日のような諸寺院に見られる「御影堂」とは、その規模、趣も異なっていたのではないか。

 

「尊師実録」に弘安7年の「十月十三日、大聖人第三回御仏事」に「御影堂出仕」とあるように、御影像の造立、「聖人御房」の「御堂」への「造り」変えは、この時までには成されていたものであろう。

 

尚、「聖人御房」の「御堂」への改築を以て「日蓮三回忌以前より、日興が久遠寺の別当として身延の地を掌握していたことが明確に窺えるのである」とする説もあるが、記録として伝わるのは「聖人御房の御影堂への改築と御影造立」だけであり、改築作業を日興が推進したからといって日興が身延山の寺の別当職にあったかどうかはまた別問題である。確実な文献上では、「三回忌以前より日興が久遠寺の別当であった」との記録はない。このような主張は、それ以外の記録、例えば「美作房御返事」にて日興は日蓮墓所の荒廃を嘆いていることなどから、否定されるのではないか。「御堂」の改築は行うが、肝心の日蓮墓所を放置していた、ということはないだろう。常住していなければこその「美作房御返事」の記述であると思う。

 

また、前に見たように、本弟子六人らによる「墓所の寺の輪番」は「身延山の寺の輪番」を意味しているものと考えられるのであるから、日興常住説は現在の宗派意識に基づく主張・解説だけでは成り立たず、そこに確たる証拠というものが必要になってくる。もちろん、日興の教線は甲斐と駿河にあるのだから、往復の途次に身延山に立ち寄りもしたことだろうし、「御房」の「御堂」への改築の際には尚更のことであっただろう。

 

更には「尊師実録」の記述を以て「これは弘安六年に日目を師匠として出家得度した日尊が、弘安七年の五月に登山したのは、大師匠である日興が身延に常住されていたからこそ、お目通りのために登山したということである」との説もある。

 

これは日尊の登山の動機の「推測」により、日興常住を「確定」しようとするものだが、同書より判明することは、「(前年に日目のもとで受法した)日尊は弘安7512日に日蓮の正墓のある身延山に登山した」そして「1013日、日蓮三回忌の仏事の日、初めて日興に会った」というだけであり、どこにも日興常住説を裏付ける直接の証拠は見当たらない。

 

日尊が弘安7512日、身延に登山した動機は日目の弟子となり仏門の修行を始めたことを日蓮墓所に報告するため、次の登山は日蓮三回忌に列席するためと考えられ、日興と初めて会ったのが1013日と記録されていることから、この記述はむしろ、日興身延不在を示し、常住説を否定するものといえるだろう。

 

 

(3)「大国阿闍梨奪い取り」が可ならば日朗は「師の遺品を守った」も可である

話を元に戻して、弘安71月の日昭、2月の日朗の月番のことを考えよう。

 

日興は五老僧方の登延を促し、弘安71018日、房総の美作房日保に書状を発している。

この「美作房御返事」では、日興は「詮する所縦ひ地頭不法に候はゞ眤んで候ひなん。争でか御墓をば捨て進らせ候はんとこそ覚え候。師を捨つ可からずと申す法門を立て乍ら、忽に本師を捨て奉り候はん事、大方世間の俗難も術無く覚え候」と、「師を捨ててはならないという法門を立てながら、御墓を捨てて身延から遠ざかることは、世間からも非難をあびるであろう」と、他の本弟子達が墓所を捨てて身延から遠ざかっていることを嘆き、「委細の旨は越後公に申さしめ候ひ了ぬ。若し日興等が心を兼て知し食し渡らせ給ふべからずば、其の様誓状を以て真実智者のほしく渡らせ給ひ候事越後公に申さしめ候。波木井殿も同事にをはしまし候」と、「自身と波木井氏は老僧達の不審が解けることを心から望んでおり誓状を書いてもよい」としている。故にこの年1月の日昭、2月の日朗は月番に来ない、身延不参だったのかと考えるところだが、ここで気になるのが、後に日昭所持となる「註法華経」、同じく日朗所持の「釈迦随身仏」である。果たして、これらはいつ、両名の手に渡ったのであろうか。

 

弘安61月、2月の初めての月番の時だろうか。

「御所持佛教事」に「御遺言云」として「佛者 釈迦立像 墓所傍可立置云々」「経者 私集最要文名註法花経 同篭置墓所寺六人香花当番時 可披見之 自余聖教者非沙汰之限云々」とあるのを誰よりも知っていて、しかも自身の手で署名をし、判形を加えながら、初回の月番の時にいきなり持ち出してしまうだろうか。一門の重鎮たる日昭・日朗の二名が、日蓮亡き後、順に輪番登山に身延を訪れる弟子達に、師の遺品であり亡き師が偲ばれる釈迦立像と註法華経を一回も拝させない、ということをするとは思えない。

 

であれば、二回目の月番である弘安71月に「註法華経」の移動、2月に「釈迦立像」の移動ということになるだろうか。注意したいのは日朗による釈迦立像の移動を日興が「大国阿闍梨奪い取り奉り候仏」(原殿御返事)というのは一方(富士門流)で使われる表現であり、それが可ならば日朗側としては、「釈迦立像を守った」ということも可であるということだ。日蓮教学に関する異見ならば、日蓮遺文により判定することも可能だろうが、歴史上の事項について異なる見解が存する場合、一方の主張だけを採用することはできない。特に釈迦立像の移動に関しては、その真相は明らかになることはないと思え、私を含め諸説は推論の域を出ないと思う。

 

私としては日昭、日朗は二回目の月番には登山したと考える。しかし、これ以前に波木井氏と両名の関係は、距離あるものとなっていたのではないだろうか。「美作房御返事」に「若し日興等が心を兼て知し食し渡らせ給ふべからずば其の様誓状を以て真実智者のほしく渡らせ給ひ候事越後公に申さしめ候、波木井殿も同事にをはしまし候」(我々、日興・波木井氏の気持ちをご存知なかったのであれば、誓状を書いてもよい。)とし、更に「さればとて老僧達の御事を愚かに思い進らせ候事は法華経も御知見候へ、地頭と申し某等と申し努々無き事に候、今も御不審免り候はゞ悦び入り候の由地頭も申され候某等も存し候、其れにもさこそ御存知わたらせ給ひ候らん」(さればとて、老僧達をおろそかにしているわけではない。私も波木井氏も、老僧達の不審が解けることを心より望んでいる。)とあるので、日昭、日朗は地頭波木井氏に不審を抱いていたことが窺え、弘安7年秋の頃には日昭、日朗と波木井氏は決裂状態になっていたと思われるのである。

 

日興が「美作房御返事」に「地頭の不法ならん時は我れも住むまじき由御遺言とは承はり候へ」と記したように、日蓮の「身延の地頭に不法があるならば、我が魂はそこには住まない」との遺言は何も日興一人のみならず、本弟子六人が存知のものであったことだろう。であれば、日昭、日朗の認識として、「謗法の地頭となった波木井氏の領する身延山には、最早、聖人の魂は住まれず」という思いがあり、師の遺物ではあるが弟子から見れば師の化身ともいえる「釈迦立像」と「註法華経」を謗法の地に置くのは師の本意に非ず、「我れも住むまじき」の遺言どおりに、他に座を移すことが師の心に叶うもの、弟子の務めとして、「釈迦立像」と「註法華経」の移動は「師の遺品を守ることになる」という思いがあったとも考えられるのだ。

 

(4)日昭・日朗と波木井氏の不和の因は?

            鎌倉 源頼朝の墓
            鎌倉 源頼朝の墓

 

この波木井氏と日昭・日朗の不和は日蓮入滅後からではなく、長期間に亘るものではないだろうか。文永10(1273)83日に佐渡の日蓮が波木井実長に報じた「波木井三郎殿御返事」(日興本 北山本門寺蔵)には、鎌倉在住の筑後房・弁阿闍梨・大進阿闍梨より法門の教示を受けるべき旨が記されており、波木井氏は鎌倉にいたことが窺われる。

 

 

 

 

鎌倉に筑後房・弁阿闍梨・大進阿闍梨と申す小僧等之有り。之を召して御尊び有るべし、御談義有るべし、大事の法門等粗申す。彼等は日本に未だ流布せざる大法少々之を有す。随って御学問に注し申すべきなり。(P745) 

 

地頭・波木井氏は幕府の番役として、鎌倉に詰めていることも長かっただろうから、同地で日蓮の弟子達と接することが多かったのではないかと思う。特に日蓮の佐渡配流以前より、鎌倉には日昭、日朗の二人が教線を張り、法華衆組織の運営、門徒の指導に当たっており、それは日蓮の佐渡配流期、身延期を通して変わらなかったようであり、波木井氏は弟子の筆頭格の両名から直接指南を受ける機会もあったことだろう。

 

そこで、教義上の見解の相違か、感情的なもつれがあったのだろうか。後に日興は身延山より離れることになるが、間近にいる日蓮直弟子と折り合えず、直弟子をして波木井氏から離れさせてしまう何ものかが波木井氏にはあったものか。現存する波木井文書から彼の性格を読み取り、様々分析する向きもあるがどうだろうか。

 

前記「波木井三郎殿御返事」には爾前分々の得道有無の事之を記す可しと雖も名目を知る人に之を申す也。然りと雖も大体之を教る弟子之れ有り。此の輩等を召して粗聞くべし。其の時之を記し申す可し(P749)とあって、鎌倉の波木井氏は「爾前権教の教えでも分々の利益があるのだろうか」と佐渡の日蓮に質問していることが窺える。これに対し日蓮は「但此経の信不信に任す可きのみ」()「法華経の心は当位即妙不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり」()と、罪業深き凡身のままでも法華経への信によって成仏することなどを教示し、当書冒頭にあるように鎌倉の弟子より教えを受けるべき旨を記すのである。

 

系年・建治3年の「四條金吾殿御返事」(八風等真言破事・真蹟断片)には「だいがくどの(大学殿)ゑもんのたいうどの(右衛門大夫殿)の事どもは申すままにて候あいだ、いのり叶いたるやうにみえて候。はきりどの(波木井殿)の事は法門は御信用あるやうに候へども、此の訴訟は申すままには御用いなかりしかば、いかんがと存じて候いしほどに、さりとてはと申して候いしゆへにや候けん、すこししるし候か。これにをもうほどなかりしゆへに又をもうほどなし。だんな(檀那)と師とをもひあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし」(P1303)とある。

 

「比企大学三郎能本殿や池上右衛門大夫宗仲殿は日蓮が教示した通りにしたので、諸願が成就したのである。波木井六郎実長殿は法門については御信用されているようだが、この訴訟については日蓮のいうままにされなかったので、いかがなものであろうかと案じていたのだが、少々注意したことによるものか、少しは効果があったようだ。しかし、こちらの思いほどには聞く耳を持たなかったので、訴訟の結果は思うにまかせなかったのである。波木井氏の例に見られるように、檀那と師匠の心が合致しない祈りは、水の上に火を焚くようなものであり叶うものも、叶わない結果となるのである」(趣意)

 

日蓮は波木井氏の訴訟の件を通して、彼の性格、姿勢を気にかけているのだが、日蓮をして案じさせるものが波木井氏の内面にはあったのであり、この一例を以てして、鎌倉における日昭、日朗等、他の日蓮門徒との関係を推し量るべきだろうし、ある意味、重しともいえる師匠・日蓮亡き後、彼の感情面が一気に露わになり、一弟子達と正面からぶつかったということも推測できるだろう。

 

弘安7(1284)に推定される(「興風」11P191 池田令道氏の論考「無年号文書・波木井日円状の系年について」による)無記年の波木井文書「六月五日」状には以下のようにある。

 

本文 

(前略) 日円は故しやう()人の御てし(弟子)にて候也。申せハ老僧たちもおな()しとうほう(同胞)にてこそわたらせ給候に、無道に師匠の御はか()をす()てまいらせて、とか()なき日円を御ふしん候ハんハ、いかて仏ち()にもあひかなハせ給い候へき。御経にこうを入れまいらせ候師匠の御あハれミをかふり候し事、おそらくハおと()りまいらせす候。せんこ(先後)のしやへちハかりこそ候へ。されハ仏道のさハりになるへしともおほえす候也。こまかにハけさん(見参)にも申て候き。又えちせん殿くハしく申さるへく候也。恐々謹言 

六月五日 日円花押 伯耆阿闍梨御房  (富士宗学要集8P14)

 

概訳

日円は故日蓮聖人の弟子です。申して言えば老僧方も同じ同胞であるのに、無道心にも師匠日蓮聖人のお墓を捨てられて、失無き日円に不審を抱かれるのは、仏智に相叶うことなのだろうか。法華経に功徳を入れられた師匠日蓮聖人の御慈悲を蒙ったことについては、おそらくは老僧方に劣ることはありません。法華経を受法した、先後の違いがあるだけではないか。故に仏道の障害になるとも思えません。詳細は、見参にて申したとおりです。また、越前殿が詳しく申すことでしょう。

 

これを読めば、波木井氏は一弟子六人に対して対等意識であったことが窺え、「申せハ老僧たちもおな()しとうほう(同胞)」「おそらくハおと()りまいらせす候」「せんこ(先後)のしやへちハかりこそ候へ」よりすれば、その意識は日蓮存命中からではなかったか。であれば、文永末の時期において既に、日蓮直弟子と波木井氏には一定の距離があったと考えられるのではないだろうか。上記のような波木井氏の信仰姿勢、文面より窺える性格というものに、日昭・日朗が身延山より註法華経と立像釈迦仏を移動させ、また日興をして身延より離れさせた因があるように思われるのである。

 

ここで一つ付け加えれば、日蓮遺文の各所に記される身延山での困窮生活に、鎌倉の日昭・日朗が地頭・波木井氏の外護の任に不審を持ったということもあるのではないだろうか。

 

まず、文永11年の身延入山時には、道中各地は飢饉だったようであり、517日の「富木殿御書」(真蹟)では、「かち(飢渇)申すばかりなし。米一合もう()らず。がし(餓死)しぬべし。此の御房たちもみなかへ()して但(ただ)一人候べし。このよしを御房たちにもかたらせ給へ」と、その惨状を記している。(P809) 

 

身延山草庵の生活では、建治21213日の道場神守護事(与富木氏書)(真蹟)では「且()つ知ろし食()すが如く、此の所は里中を離れたる深山なり。衣食乏少(えじきぼうしょう)の間読経の声続き難く、談義の勤め廃(すた)るべし」(P1274)と衣食の乏しさを訴えている。

 

続いて建治3年の「庵室修復書」(真蹟曽存)では、「去ぬる文永十一年六月十七日に、この山のなかに、き()をうちきりて、かりそめにあじち(庵室)をつくりて候ひしが、やうやく四年がほど、はしら()()ち、かきかべ(牆壁)をち候へども、なを()す事なくて、よる()()をとぼさねども、月のひかり()にて聖教をよみまいらせ、わ()れと御経をま()きまいらせ候はねども、風をのづ()からふ()きかへ()しまいらせ候ひしが、今年は十二のはしら()四方にかうべ()をな()げ、四方のかべは一そ()にたう()れぬ。うだい(有待)たも()ちがたければ、月はすめ、雨はと()ゞまれとはげみ候ひつるほどに、人ぶ()なくして、がくしゃう(学生)ども()をせめ、食なくしてゆき()をもちて命をたすけて候ところに」(P1410)とある。

柱朽ちて壁が剝げ落ちた草庵で、月の光で経典を読み、壁の隙間より風が吹き抜けて経典が巻かれていく様が痛々しい。また、食べものがなく、雪を口にするなど食糧事情が厳しかったようだ。

 

             身延山 草庵跡
             身延山 草庵跡

弘安213日の「上野殿御返事」(真蹟)には「この両三年は日本国の内に大疫起こりて人半分げん()じて候上、去年(こぞ)の七月より大なるけかち(飢渇)にて、さといち(里市)のむへん(無縁)のものと山中の僧等は命(いのち)存しがたし」(P1621)と疫病、飢饉の凄まじさを記し、「王もにく()み民もあだ()む。衣もうす()く食もとぼ()し。布衣(ぬのこ)はにしき()の如し。くさ()のは()はかんろ(甘露)とをも()う。其の上去年(こぞ)の十一月より雪つもりて山里路たえぬ。年返れども鳥の声ならではをとづ()るゝ人なし。友にあらずばたれ()か問ふべきと心ぼそ()くて過(すご)し候処に」()と、身延山の困窮生活を綴っているのである。

 

弘安41125日の「地引御書」(真蹟曽存)に至って「坊は十間四面に、またひさし()()してつくりあげ、二十四日に大師講並びに延年、心のごとくつかまつりて、二十四日の戌亥(いぬい)の時、御所にすゑ(集会)して、三十余人をもって一日経か()きまいらせ、並びに申酉(さるとり)の刻に御供養すこしも事ゆへなし」(P1894)とあり、身延山に104面の堂宇が完成し生活は一応の安定をみたと思われる。

 

日蓮は身延山での困窮生活を各地の門下に書き記しており、それは鎌倉の日昭、日朗ら五老僧らも聞き及んでいたことであろう。その時、彼らはどのような印象を抱いたであろうか。また、実際に身延の草庵を訪れ、生活の実態を見たとも思う。弘安5225日の「伯耆公御房御消息」(P1909)は、身延に在山中の日朗の代筆とされる。

 

遺文より窺える身延山中での日蓮一門の生活は、幕府が地頭・波木井氏に監視を命じた内地への流刑かとも思えるものだが、幕府お膝元の鎌倉に在って法華伝道活動をする日昭・日朗からすれば、波木井氏の外護は不足なものと映ったことだろう。「波木井氏は、一門の大事なる師匠・日蓮聖人を死の淵に追いやるが如き惨状のまま放置している。何故に師匠の身の周りの環境整備を地頭は怠っているのか」と思ったでもあろうか。日蓮の在山の有様を知るほどに、日昭、日朗らは波木井氏に対する不信感を増幅させたのではないかと思うのだ。

 

ただ、日昭、日朗らは、日蓮が存命中は波木井氏への感情は抑制したと思う。波木井氏との不和が表面化するのは日蓮入滅後である。

 

 

(5)日蓮滅後の鎌倉一門への圧迫

           鎌倉 建長寺 三門
           鎌倉 建長寺 三門

 

他に輪番制崩壊の要因として、鎌倉幕府の日蓮門徒に対する圧迫があったと思う。

幕府にとっては、日蓮という処断したくてもできなかった人物がいなくなったのだから、まずはお膝元の鎌倉日蓮一門の弱体化を計ろうとするのも、日蓮の身が鎌倉に在った時の対応からすれば流れの内ともいえるだろう。陰に陽に様々な圧迫を加えたろうことは想像に難くない。

 

 

 

 

鎌倉を教線とする日昭、日朗は防戦、法華衆組織の維持、布教等、多忙を極めたことであろう。このような時に、長期間鎌倉を離れることは、法華衆組織の弱体化を意味する。故に、日昭、日朗らは弘安712月の身延山輪番の時を除き、鎌倉を離れることはできなかったと思われるのだ。先に見たように波木井氏との関係が日昭・日朗の身延疎遠(または離山)の大きな因として挙げられるのだが、鎌倉における幕府と法華衆組織の関係という不安定要素もそこに付け加えるべきだと思う。

 

余談だが、対して日興の教線・駿河の国、甲斐の国周辺での幕府との関わりはどうだったろうか?徳治2(1307)712日の日興の書状に「刃傷損物~法花衆たるによて~損物」(与了性御房書・日興上人全集P169  1996興風談所)とあって、鎌倉方面の檀越が日蓮法華信者である故に、なんらかの事件に巻き込まれて傷を負ったことが記されている。このような個々の弟子・檀越が自らの宗教的立場、信念の貫徹により圧迫され、時には実力行使をされたこともあっただろう。がしかし、日蓮存命中、門下が受けたものとしては最大級の弾圧となった熱原法難のような、幕府・国家権力による日興・富士門流総体に対する弾圧「富士の法難」などというものは起こることはなかった。歴史として記録されたのは、長い時間をかけての富士門流の分派、分裂ではなかったか。

 

何か事が起きなくとも、頼るべき師匠・日蓮亡き後の法華衆組織の維持、運営には相当な労力を要するものがあったと思われるのだが、鎌倉では幕府の圧迫である。それは国家安泰の祈祷を強制する弾圧であったともいわれる。(日蓮教団全史P60)

 

日蓮亡き後の一門を取り巻く諸状況を勘案すれば、教線も近く、地域的には平穏であった日興とその一門等が墓所の寺=身延山の寺に在住し、それを対幕府の最前線に身を置く日昭・日朗や他の一弟子らが追認するのも、自然の成り行きであったことだろう。

 

6 日興の身延入山の時期について

          北山本門寺 日興正墓
          北山本門寺 日興正墓

日興が身延山に常住するようになった時期については諸説あり、「日興上人日目上人正伝」( 1982年 大石寺)では、「日興上人が大聖人の御灰骨を捧持して、恙無く身延に入山されたのは初冬の十月二十五日であった。日興上人は御遺命通り、本門弘通の大導師となり、また久遠寺の第二祖(別当)となって一門統帥の地位に就かれたのである。」(P117)と、日蓮入滅後、日興は遺骨を捧持して入山、そのまま常住した旨を主張する。

 

堀日亨氏の「日興上人身延離山史」(1937)では、「興師の御晋山は富士門流古伝の如く弘安5年の冬からそのまま御住持遊ばしたのではない、さりとて二箇の相承の中の池上相承を放棄すべきものではない。弘安6年の春夏は混雑でも有ったし、富士の諸関係もあるし、かたがたその年の暮れ頃にいよいよ名実共に常住ということになったと思う。」(P48)と、弘安6年暮れ頃に身延入山とする。

 

             身延付近
             身延付近

池田令道氏は論考「無年号文書・波木井日円状の系年について」(興風11)にて、波木井文書の考察を重ねた結論として「大聖人滅後、はじめて日興上人が身延に入山されたのは他の門弟檀越たちと同じく弘安五年の十月末。翌六年の初めも引続き老僧たちと在山。その後、一度は下山されて、同六年九月の墓所の月番までには登山。その後はそのまま正応以後の離山まで在山の可能性が高い、と私は考える。年数については『従開山日順法門』の『身延山ニハ日蓮聖人九年、其後日興上人六年御座有リ』の一文はほぼ事実を記していると思われる。~中略~私の考えでは、おそらく大聖人滅後の日興上人は身延山を中心とした弘教であり、生活であったと思うのである。」(P244)と、弘安69月の墓所月番以降、常住したとしている。

 

「日蓮教団全史」(1964年 立正大学日蓮教学研究所発行)では、大要、以下のように推測している。

弘安710月の「美作房御返事」の中で、身延在住を決意した日興がその意志を鎌倉の波木井氏に伝えた。これを喜んだ波木井氏が「こしやう人(故聖人)の御わたり候とこそ思まいらせ候へ」と波木井文書「弘安八年正月四日状」で返書。別の波木井文書の「無記年の二月十九日状」にも、同様の「さてわたらせ給候ことハひとへにしやう人のわたらせ給候」との記述がある。これにより、日興は弘安8年正月前に住山したものの、しばらく有縁の地・駿河方面に赴き、8年末頃改めて入山し、以後常住。同年末頃には身延山を統轄するようになったと思われる。そして「無記年の二月十九日状」が波木井氏から日興に発せられた。故に「無記年の二月十九日状」は「弘安九年二月十九日状」となる。また「弘安八年正月四日状」では、波木井氏は次郎実継を使いとして僧膳料「米二斗」を日興の元に送っているが、「無記年の二月十九日状」によると、逆に日興より銭二結を送られ「丁度、金不足で困っている時であったからありがたい」としている。これにより「無記年の二月十九日状」は、弘安8年以降でなければならないのである。「以上の訴訟・贈物・住山の諸点より見て(無記年の二月十九日状は)弘安九年二月十九日の書状と断定することができ」るとしている。(以上、同書P67P73の趣意)

 

             富士宮市内より
             富士宮市内より

ここで参考になるのが波木井文書「無記年の六月五日付け状」であり、従来は日興身延離山時の正応2(1289)の書状とされてきたが、池田令道氏の考察「無年号文書・波木井日円状の系年について」(興風11)により、弘安7(1284)に推定されている。文中、「日円(波木井実長)は故聖人の御弟子にて候也。申せば老僧たちもおなし同胞にてこそわたらせ給候に」と、「私・日円は故日蓮聖人の弟子である。申すならば、一弟子の老僧方も同じ同胞ではないか」とある。また「御経にこうを入れまいらせ候師匠の御あわれみをかふり候し事、おそらくはおとりまいらせす候。せんこのしやへちはかりこそ候へ。」と、「法華経に功徳を入れ参らせた師匠・日蓮聖人の御慈悲を蒙ったことについては、おそらくは老僧方に劣るところはない。日蓮聖人の教えを信受した先後の違いがあるばかりなのだ」としており、波木井氏が本弟子六人と対等意識を抱いていたことが窺えるものとなっている。

 

注目したいのが「無道に師匠の御墓を捨てまいらせて、失なき日円を御ふしん候はんは、いかで仏智にもあひかなはせ給い候へき。」と、「(老僧達は)無道なことに、師匠日蓮聖人のお墓を捨ててしまい、失無き私・日円に対して不審を言われるが、どうして仏意に相叶うであろうか」とあることで、波木井氏の認識として「無記年の六月五日付け状」を発した時、即ち弘安765日の時点で「老僧達は師匠の御墓を捨てた」としているのである。「師匠の御墓」を捨てたとは墓所、墓所の寺、身延山の寺を捨てたと同義だと考えられるが、この記述は同年1018日に、日興が美作房日保に宛てた「美作房御返事」の「師を捨つ可からずと申す法門を立て乍ら忽に本師を捨て奉り候はん事、大方世間の俗難も術無く覚え候」との、「師を捨てるべからずという法門を立てながら、本師・日蓮聖人の墓所・身延山の寺を捨てることは、世間からも非難されることであろう」とあることに符合している。

 

弘安765日に波木井氏、同年1018日に日興と、同じ年に二人によって他の老僧達が身延山の寺から遠ざかっていることが記述されているのである。弘安71月の日昭、2月の日朗は自らの輪番を務めて(確実ではないが前に見たように日昭・日朗は登山したと推測している)以降、直接、波木井氏に告げたか、書簡により意思を表明したものかは明らかではないが、身延不参の意思を波木井氏に伝えた、また他の弟子達からも同様の意が表明されたのではないだろうか。それは「身延沢の御墓の荒れはて」との日興の記述から、現実のものだったと考えられるのである。

 

このような老僧達の身延不参、それに伴う「何事よりも身延沢の御墓の荒れはて候て鹿かせきの蹄に親たり懸らせ給ひ候事目も当てられぬ事に候」との墓所の荒廃が、日興に身延山の寺への定住を決意させたのではないかと考えられ、同年9月の輪番を務め、各地の弟子に身延登山を促す書状を発して以降、日興は身延山の寺の運営に当たったのではないだろうか。もちろん、彼の教線は駿河の国、甲斐の国等、身延山の周辺であったことからも、折に触れ、各地を周り、入下山を重ねたことだろう。

 

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