日蓮滅後の身延山・小考 7

7 日興と波木井氏

            富士宮市 田貫湖より
            富士宮市 田貫湖より

日興の身延入山からは時間が飛んでしまうが、ここで、富士門流の一部で指摘する波木井氏の「四箇条の謗法」を見てみよう。

 

 

正応元年(1288)末から正応2(1289)春にかけて、身延を離山した日興一門は後年、「富士一跡門徒存知の事」に「四箇条の謗法」として波木井氏の「行為」を列挙する。その文面からは、波木井氏の「行為」を許した日向への批判の意も汲み取れる。

 

 

一、甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり。而るに日興、彼の御廟に通ぜざる子細は、彼の御廟の地頭・南部六道入道[法名日円]は日興最初発心の弟子なり。此の因縁に依つて聖人御在所・九箇年の間帰依し奉る。滅後其の年月、義絶する条条の事。

釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一。

次に聖人御在生九箇年の間・停止せらるる神社参詣其の年に之を始む。二所三島に参詣を致せり是二。

次に一門の勧進と号して南部の郷内のフクシ(福士)の塔を供養奉加・之有り是三。

次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり。甲斐国其の処なり是四。

已上四箇条の謗法を教訓するに日向之を許すと云云。此の義に依つて去る其の年月・彼の波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶し畢んぬ。よつて御廟に相通ぜざるなり。

 

日興一門はこれら波木井氏の「行為」を「四箇条の謗法」とし、それを許した日向を批判するのだが、まず「釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし」とは本師・日蓮の先例に倣い、師説を受けてのものではなかったろうか。

 

【 釈迦如来造立供養 】

       鎌倉 日蓮辻説法跡と伝える
       鎌倉 日蓮辻説法跡と伝える

 

いつ頃、波木井氏が法華経受法に至ったのか、明確な年月は不明なようだが、「日蓮聖人遺文辞典・歴史編」(P905)では「入信の時期は『波木井三郎殿御返事(七四五頁)、『原殿御返事』によって考えれば文永六年のころと推察される。」としている。

 

 

 

 

 

 

「波木井三郎殿御返事」(日興本 北山本門寺蔵)を見れば、文永10(1273)83日、佐渡の日蓮は波木井実長に「鎌倉在住の筑後房・弁阿闍梨・大進阿闍梨より法門の教示を受ける」よう促していて、少なくとも文永8年の法難以前には日蓮の檀越として直接、面識もあったであろうことが推測される。ということは、文永8年の法難前、波木井氏は鎌倉の日蓮のもとを訪れたこともあったのではないか。そこには、「小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したり(P892 神国王御書 真蹟)と釈迦仏像が奉安され、その前には経典が置かれていた。建治23月の「忘持経事」(真蹟)」によると、波木井氏の領地・身延の草庵でも釈迦仏像が奉安されていた。

 

然る後深洞に尋ね入りて一菴室を見るに、法華読誦の音青天に響き、一乗談義の言山中に聞こゆ。案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌して両眼を開き、尊容を拝するに歓喜身に余り、心の苦しみ忽ちに息()む。(P1151)

 

「観心本尊抄一考」で見たように、「波木井三郎殿御返事」には「但し仏滅後二千余年三朝の間数万の寺々之有り。然りと雖も本門の教主の寺塔、地涌千界の菩薩の別に授与したまふ所の妙法蓮華経の五字未だ之を弘通せず。経文には有って国土には無し、時機の未だ至らざる故か。~当に知るべし、残る所の本門の教主妙法の五字、一閻浮提に流布せんこと疑ひ無き者か。(P748) とあって、「本門の教主の寺塔」即ち「法華経本門寿量品の釈尊・仏本尊を安置した寺塔」を作る必要性、「末法の為に残された本門の教主と妙法の五字が一閻浮提に流布」されるべきことを、波木井氏は学びとったのではないだろうか。

 

          鎌倉 由比ヶ浜
          鎌倉 由比ヶ浜

系年が建治3年とされる「四條金吾殿御返事」(八風等真言破事・真蹟断片)では、「はきりどの(波木井殿)の事は法門は御信用あるやうに候へども、此の訴訟は申すままには御用いなかりしかば、いかんがと存じて候いしほどに」(P1303)と、日蓮は波木井氏の訴訟の行方を案じている。四条金吾宛ての書簡に波木井氏の名が出るということは、波木井氏と四条金吾は既知の間柄であったと思われる。その四条金吾は建治2715日前に釈迦一体仏を造立して日蓮から「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云~此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ(P1182 四條金吾釈迦仏供養事・真蹟断片)と讃嘆の書状を受け取っており、夫人も同じく釈迦一体仏を弘安222日前に造立して「三界の主教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女~教主釈尊をつくりまいらせ給ひ候へば、後生も疑ひなし」 (P1623 日眼女釈迦仏供養事・真蹟曽存) と讃嘆されていて、このようなことを波木井氏も知っていた可能性は高いと思う。

 

              江の島
              江の島

系年が文永10年或は文永元年とされる「木絵二像開眼之事(法華骨目肝心)(真蹟曽存)では、「木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。~三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云。法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。」(P791)との教示がある。

 

日蓮は文永10919日付の「弁殿尼御前御書」(真蹟)で、しげければとゞむ。弁殿に申す。大師講ををこ()なうべし。」(P752)と、文永8年の法難からの再建過程にあった教団に「天台大師講」を行うように指示しており、席上、「木絵二像開眼之事」にある、釈迦像を法華経によって開眼供養することも、日蓮の弟子らによって在家の人々に伝えられていたのではないだろうか。

 

           身延山にて
           身延山にて

日蓮の鎌倉の拠点、身延の草庵での釈迦一体仏の安置。自らに宛てられた書状での「本門の教主の寺塔」建立の必要性。有力檀越の四条金吾夫妻の釈迦仏像造立と日蓮の讃嘆。これらを見て聞いた波木井氏が、日朗が身延山から移動した日蓮所持の釈迦仏像の替わりに自らが釈迦仏像を作ろうと思い立ったのは師説にかなうことであり、それが日蓮存命中のことであったなら、四条金吾の先例からしても讃嘆されこそすれ、非難などされることはなかったと思う。

 

 

 

しかし、「原殿御返事」に見られる、一体仏では「上行等の脇士もなく、始成の仏にて候き」との日興の考えとは合致せず、正面から衝突することとなったのだろう。(もっとも、日興が一方的に非難しただけのようだが)

 

師日蓮亡き後、同じ釈迦像でも脇士によりその仏格を顕そうとした日興。日蓮存命中からの経緯と身延山を取り巻く環境により、その一つの帰結として一体仏を造立した波木井氏。このどちらにも誤りはなく、共に師説に従い展開したのであり、釈迦仏像造立の有りようをめぐる解釈の違いと、そこに日向が介在して理解を示したことにより問題は複雑化し、感情的なものを含ませながら、日向と波木井氏、対する日興の隔たりが大きくなったのではないかと思う。

 

【 二所三島に参詣 】

続いての「二所の権現=二所権現=箱根山・伊豆山の権現と、三島神社への参拝」について、「日蓮教団全史・上」は次のように解説する。

 

「安国論の正意を破り、神天上してその社には悪鬼がかわって住んでいると定められた謗法の堂社三島神社に参詣した、との非難に対しては、日向は安国論の趣旨はたしかにそうではあるが、『白蓮阿闍梨、外典読みに片方を読んで至極を知らざる者にて候、法華の持者参詣せば諸神も彼の社壇に来会す可し、尤も参詣す可し』(原殿御返事)と教えた。恐らく鶴岡八幡宮が弘安三年十一月十四日炎上した事件についての八幡大菩薩の我国の守護、不守護についての諸人への諸御書に現われた教示、たとえば諌暁八幡抄の『此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給ふとも、法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給ふべし』(P1849)との旨をもって実長の行為を認めたと思われる。」(同書P74)

 

神社への参詣について、日蓮門徒衆にあっては「立正安国論」の正意・神天上の法義からすれば議論が生まれるものだったが、御家人である波木井氏には当然の「行為」であったことだろう。

 

甲斐源氏の系を引く南部三郎光行の子、波木井・御牧・飯野の三郷を領する鎌倉幕府御家人の波木井氏である。父の南部光行は治承4(1180)8月、石橋山の戦いで源頼朝に与して大庭景親ら平氏方と戦っている。

 

嘉禎4(1238)正月(日蓮は17歳)、鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経(建保6年・1218~康元元年・1256)が上洛した際には、波木井氏は随兵を務め、兄・実光(次郎)と共に京都に同行している。

 

「吾妻鏡」

嘉禎4年2月17日 癸巳 天顔快霽

前略

五十一番  大井の太郎  南部の次郎  同三郎

後略

 

南部光行の二男とされるのが上記、南部の次郎=実光で、三男が三郎=実長だ。

 

二所権現と三島神社は源頼朝以来、幕府から重んじられて北条氏の保護を受け、関東武士の信仰を集めている。武門の守護神として篤く信仰され、多くの武士が参詣した二所権現と三島神社に幕府御家人という「公」の立場にある者が参詣するのも、「公」の「行為」で至極当然のことだったと思う。他の武家と同様、彼も武運長久を祈念したものであろうか。

 

以下、今日的な視点から一般常識として考えよう。

私たちが一社会人として、会社の部、課等の単位で行われる新年の初詣に、「悪鬼乱入の神社には行かず」と宣言して一人だけ参加せず、ということがあるだろうか。また、町内の神社で行われる「お祭り」に、一軒だけ参加せず、としたらどうだろうか。私人、公人どちらであっても、町内、自治会、会社等では(それは多分に改めて意識しないものではあるが)、宗教的催事、行事、行為への付き合い、参加というのは自然なもの、また無視できない、等閑にできないものだ。ましてや、鎌倉時代にあって、幕府に恩顧ある武士達皆がこぞって参詣する神社に、宗教的信念に基づいて「行かない」ということが何を意味するか。上下の関係、一族に及ぼす影響を考えれば、他の武士と同じく、御家人として幕府に忠誠をつくす意を表するためにも、参らないわけにはいかなかったことだろう。平成の今を生きる私達には世情、地域の実情に合わせた「応用展開」は「可」で、波木井氏には厳格に原理原則を当てはめて非難するというのは、いかがなものかと思う。

 

【 領主の器 】

三つ目の「一門の勧進と号して南部の郷内のフクシ(福士)の塔を供養奉加・之有り」については、波木井氏の領地である南部郷福士の地に富士籠山修行者らにより念仏供養塔が建立された際、実長は南部一族の代表として供養をし、奉加帳に名を記したようだ。四つ目の「一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり、甲斐国其の処なり」によれば、波木井氏は「南部一族の仏事を助けるため」として、九品往生を説く念仏道場を建立供養している。

 

これについても、「日蓮教団全史・上」は以下のように解説する。

 

「富士の塔供養について、実長は日興に弁解しているが、『九品の念仏の供養したりと候なる全くさること候はず、親しきもの適ま鎌倉より下って候に馬一匹たびて候事候き、それは何にせよ彼にせよとはいかで申すべく候、入道の材木を取って買候しも、何様の人の家御堂をや作り候らむ、その定にこそ候へ、馬賜ひ候事は五月にて候、仏事は七月かの事にて候ひけると承り候へ。全く仏事の合助に賜ひて候事候はず』と陳弁したが、日興はこれを諒承しなかったようである。」(同書P75)

 

このような波木井氏から日興への説明についは、当初より上記文面通りの経緯だったものか、それとも日興側の非難に応じて波木井氏が事態を収めるために、譲って後付で考えたものなのだろうか?これについては、今となってはどちらとも言い切れないと思うのだが、どうだろう、日興側の指摘は厳しすぎるものではないだろうか。日興側の指摘を読むと、公の立場も重んじる波木井氏と、自ら規定した宗教的信念に生きる日興とは相容れない関係であったということになるだろう。

 

私としては、文書に残る両者のやりとりはそれとして、波木井氏の意図は以下のようなものだったと考えている。

 

             身延山頂より
             身延山頂より

念仏供養塔を建てる、念仏道場の建立というものは、当時にあっては、御家人、領主として民心を掌握すると共に、権勢を誇示する方法として一般的なものだったのではないか。波木井氏としても幕府御家人、波木井・御牧・飯野の地頭としての権威を示す社会的な「行為」であったと思う。自らは日蓮門徒として法華経を信仰しながらも、他宗にも助力したということは地頭として領内宗教勢力の調和を図った、「一門の勧進」「一門仏事の助成」とあることからも一族と民心の掌握を意図したともいえるのではないだろうか。

 

もちろん、そこには「日蓮が法門」に対する認識・理解がどの程度であったのか、議論の余地があるにせよ、波木井氏は法華経信奉者としての自覚よりも、地頭としての従来からの思考により行動したのではないかと思う。この件についても「謗法厳誡」云々ではなく、当時の地頭、御家人、領主の有り様にこそ思いをめぐらせるべきではないか。

 

これが逆に、「法華以外は一切認めず」となったらどうだろうか。このような次元になると、それは多分に今日的な問題にもなってくると思うのだが、ここではそれはさておき、現実の例として、弘安年間に甲斐の国より讃岐に移転したとされる秋山家の秋山孫次郎泰忠(入道名・沙弥日高)の応安5年(1372)32日の「誡状」を見てみよう。 

 

「日高念誡の状」

一 十三日のかう()又十五日かう()の人々ひやくしやう(百姓)も御めい()をそむ()き候はば、みなみな(皆皆)大はうぼう(謗法)としてりやうない(領内)のかまい()あるまじく候。

富士宗学要集8P130

 

これによれば、毎月13日と15日の「講」に参加する人々、百姓らにあっても、本門寺・大坊の僧の命に背くならば、それらの者は皆、大謗法者とみなして秋山領内にあっては構うところなし、としている。宗教上の行為のことではあったろうが、法華大坊の僧が言う事は絶対化されているのである。このような地にあって、念仏など他宗の教えを奉ずれば、日蓮の時代とは逆の有り様、法華門徒による圧迫が加えられたのではないだろうか。このような秋山氏の強権的な法華僧絶対化の文書を見ると、むしろ、90年程前の波木井氏の念仏助成行為の方が、信教の自由、多様な宗教勢力の共存等、今日的な視点・思考法に合致しているのではないかと思えてくるのだ。 

富士門流の一部からは、数百年に亘り悪し様に言われる波木井氏なのだが、それのみが「可」であり「正義」であるとは言えないのであり、客観的に分析するならば、波木井氏は法華経信奉の領主でありながら、他宗も尊重して領内の宗教的共存、民心の多様性、宗教的良心を保護した人物、という評価もまた「可」となると思うのである。

 

前のページ                                  次のページ