日蓮遺文・法華経の行者、上行菩薩 16

*聖人

一閻浮提の内に定めて聖人出現して候らん

日蓮が心は全く如来の使ひには非ず、凡夫なる故

三類の大怨敵に怨まれて、二度の流難に値へば如来の御使ひに似たり

口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使ひに似たり

弘安2(1279)(或は弘安元年[1278])915日「四条金吾殿御返事(怨嫉大陣既破事)(真蹟曽存)

今こそ仏の記しをき給ひし後五百歳、末法の初め、況滅度後の時に当たりて候へば、仏語むな()しからずば、一閻浮提の内に定めて聖人出現して候らん。

聖人の出づるしるしには、一閻浮提第一の合戦をこるべしと説かれて候に、すでに合戦も起こりて候に、すでに聖人や一閻浮提の内に出でさせ給ひて候らん。

きりん(麒麟)出でしかば孔子を聖人としる。鯉社(りしゃ)()って聖人出で給ふ事疑ひなし。仏には栴檀(せんだん)の木を()ひて聖人としる。老子は二五の文を蹈()んで聖人としる。

末代の法華経の聖人をば何を用ってかしるべき。経に云はく、能説此経・能持此経の人、則ち如来の使ひなり。八巻・一巻・一品・一偈の人、乃至題目を唱ふる人、如来の使ひなり。始中終す()てずして大難をとをす人、如来の使ひなり。日蓮が心は全く如来の使ひにはあら()ず、凡夫なる故なり。但し三類の大怨敵にあだ()まれて、二度の流難に値へば如来の御使ひに似たり。

心は三毒ふかく一身凡夫にて候へども、口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使ひに似たり。過去を尋ぬれば不軽菩薩に似たり。現在をとぶらうに加刀杖瓦石(かとうじょうがしゃく)にたが()う事なし。未来は当詣(とうけい)道場疑ひなからんか。これをやしな()はせ給ふ人々は豈(あに)同居浄土の人にあらずや。事多しと申せどもとゞめ候。心をも()て計らせ給ふべし。(P1667)

 

*法華経の行者

一閻浮提の内で、仏の経文を助けた人は日蓮一人だけである

末法の法華経の行者を軽賎する王臣・万民は必ずや滅びる

弘安2年(1279)101日「聖人御難事」(真蹟)

而るに日蓮二十七年が間、弘長元年[辛酉(かのととり)]五月十二日には伊豆国へ流罪、文永元年[甲子(きのえね)]十一月十一日頭にきず()をかほ()り左の手を打ちを()らる。同じき文永八年[辛未(かのとひつじ)]九月十二日佐渡国へ配流、又頭の座に望む。其の外に弟子を殺され、切られ、追ひ出され、くわれう(過料)等かずをしらず。仏の大難には及ぶか勝れたるか其れは知らず。竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし。日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり。過去・現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣・万民、始めは事なきやうにて終(つい)にほろ()びざるは候はず、日蓮又かくのごとし。始めはしるし()なきやうなれども、今二十七年が間、法華経守護の梵釈・日月・四天等さのみ守護せずば、仏前の御誓ひむなしくて、無間大城に堕つべしとをそろしく想ふ間、今は各々はげむらむ。 (P1673)

 

法華経の行者

日蓮は、弾圧に屈せず法華経信仰を貫く熱原農民信徒を法華経の行者と呼ぶ

弘安2年(1279)1017日「変毒為薬御書」(日興本)

今月十五日酉時御文、同じき十七日酉時到来す。彼等御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経と唱へ奉ると云云。偏に只事に非ず。定めて平金吾の身に十羅刹の入り易()はりて法華経の行者を試みたまふか。例せば雪山童子・尸毘王(しびおう)等の如し。将又(はたまた)悪鬼其の身に入る者か。釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝等、五五百歳の法華経の行者を守護すべきの御誓ひは是なり。

大論に云はく「能く毒を変じて薬と為す」と。

天台云はく「毒を変じて薬と為す」云云。

妙の字虚(むな)しからずんば定めて須臾(しゅゆ)に賞罰有らんか。伯耆房等深く此の旨を存じて問注を遂ぐべし。平金吾に申すべき様は、去()ぬる文永の御勘気の時、乃(なんじ)聖人の仰せ忘れ給ふか。其の殃(わざわい)未だ畢(おわ)らざるに重ねて十羅刹の罰を招き取るかと、最後に申し付けよ。(P1683)

 

法華経の行者

顕密第一の大法・諸仏第一の上仏・法華経の行者

弘安3年(1280)529新田殿御書」(真蹟)

使ひの御志限り無き者か。経は法華経、顕密第一の大法なり。仏は釈迦仏、諸仏第一の上仏なり。行者は法華経の行者に相似(あいに)たり。三事既に相応せり。檀那の一願(いちがん)必ず成就せんか。(P1752)

 

*法華経の行者

日蓮は、佐渡の藤九郎守綱は亡き父(阿仏房)の後をついで一向法華経の行者になった、とする

弘安3年(1280)72日「千日尼御返事(阿仏房書)(真蹟)

而るに故阿仏聖霊は日本国北海の島のいびす()のみ()なりしかども、後生ををそれて出家して後生を願ひしが、流人日蓮に値()ひて法華経を持ち、去年の春仏になりぬ。尸陀(しだ)山の野干(やかん)は仏法に値ひて、生をいとい死を願ひて帝釈と生まれたり。阿仏上人は濁世の身を厭(いと)ひて仏になり給ひぬ。其の子藤九郎守綱(とうくろうもりつな)は此の跡をつぎて一向法華経の行者となりて、去年は七月二日、父の舎利(しゃり)を頸(くび)に懸け、一千里の山海を経て甲州波木井身延山に登りて法華経の道場に此をおさめ、今年は又七月一日身延山に登りて慈父のはか()を拝見す。子にすぎたる財なし、子にすぎたる財なし。(P1765)

 

*法華経の行者

日蓮は治部房の祖母に、孫を法華経の行者としてその教導を受けるようにうながす

弘安3(1280)(或いは建治3年[1277])713日「盂蘭盆御書」(真蹟)

藤は松にかゝりて千尋(ちひろ)をよぢ、鶴は羽を持ちて万里をかける。此は自身の力にはあらず。治部房も又かくのごとし。我が身は藤のごとくなれども、法華経の松にかゝりて妙覚の山にものぼりなん。一乗の羽をたのみて寂光の空をもかけりぬべし。此の羽をもて父母・祖父・祖母・乃至七代の末までもとぶらうべき僧なり。あわれいみじき御たから()はもたせ給ひてをはします女人かな。彼の竜女は珠をさゝげて仏となり給ふ。此の女人は孫を法華経の行者となしてみちびかれさせ給ふべし。(P1776)

 

*法華経の行者

国難に対して日本国がどのように祈祷したとしても、日蓮が一門・法華経の行者を侮るならば、祈りは叶わず蒙古に攻められて滅びるであろう

弘安3年(1280)1024日「上野殿母尼御前御返事(中陰書)

仏も又かくの如く、多宝仏と申す仏は此の経にあひ給はざれば御入滅、此の経をよむ代には出現し給ふ。釈迦仏・十方の諸仏も亦復かくの如し。かゝる不思議の徳まします経なれば此の経を持つ人をば、いかでか天照太神・八幡大菩薩・富士千眼大菩薩すてさせ給ふべきとたのもしき事なり。

又此の経にあだ()をなす国をばいかに正直に祈り候へども、必ず其の国に七難起こりて他国に破られて亡国となり候事、大海の中の大船の大風に値ふが如く、大旱魃(だいかんばつ)の草木を枯らすが如しとをぼしめせ。当時日本国のいかなるいの()り候とも、日蓮が一門法華経の行者をあなづ()らせ給へば、さまざまの御いの()り叶はずして、大蒙古国にせ()められてすでにほろ()びんとするが如し。今も御覧ぜよ。たゞかくては候まじきぞ。是皆法華経をあだませ給ふ故と御信用あるべし。(P1816)

 

法華経の行者

身を惜しまぬ供養により仏になる

南条時光が法華経の行者に似るのは、猿が人に似て、餅が月に似ているようなものである

極寒の山中に身を置く法華経の行者・日蓮への供養に対する感謝

弘安3年(1280)1227日「上野殿御返事」(日興本)

仏にやすやすとなる事の候ぞ、をし()へまいらせ候はん。人のものををし()ふると申すは、車のおも()けれども油をぬ()りてまわり、ふね()を水にう()かべてゆきやすきやうにをし()へ候なり。

仏になりやすき事は別のやう候はず。旱魃(かんばつ)にかわ()けるものに水をあた()へ、寒氷にこゞ()へたるものに火をあた()ふるがごとし。又、二つなき物を人にあたへ、命のた()ゆるに人のせ()にあふがごとし。(P1828)

中略

貴辺はすでに法華経の行者に似させ給へる事、さる()の人に似、もちゐ()の月に似たるが如し。あつはら(熱原)のものどものかくを()しませ給へる事は、承平の将門(まさかど)、天喜の貞任(さだとう)のやうに此の国のものどもはおもひて候ぞ。これひとへに法華経に命をすつるゆへなり。またく主君にそむく人とは天御覧あらじ。

其の上わづかの小郷にをほくの公事(くじ)せめにあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかゝるべき衣なし。

かゝる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食とも()しかるらんとおもひやらせ給ひて、ぜに一貫をくらせ給へるは、貧女がめ()おとこ()二人して一つの衣をきたりしを乞食にあたへ、りだが合子(ごうし)の中なりしひえ()を辟支仏(びゃくしぶつ)にあたへたりしがごとし。たう()とし、たうとし。(P1829)

 

                          富士宮市 朝霧高原
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