日蓮遺文・法華経の行者、上行菩薩 2

*法華経の行者

法華経の行者は一期南無阿弥陀仏と唱えずとも、南無阿弥陀仏と十方の諸仏の功徳を備へている

文永8年(1271)5月「十章抄」(真蹟)

当世の念仏は法華経を国に失う念仏なり。設ひぜん()たりとも、義分あ()たれりというとも、先づ名をい()むべし。其の故は仏法は国に随ふべし。天竺には一向小乗・一向大乗・大小兼学の国あ()ひわ()かれたり。震旦(しんだん)亦復(またまた)是くの如し。

日本国は一向大乗の国、大乗の中の一乗の国なり。華厳・法相・三論等の諸大乗すら猶相応せず。何に況んや小乗の三宗をや。

而るに当世にはや(流行)る念仏宗と禅宗とは、源方等部より事を()これり。法相・三論・華厳の見を出づべからず。南無阿弥陀仏は爾前にかぎる。法華経にをいては得道の行にあらず。開会の後仏因となるべし。南無妙法蓮華経は四十余年にわたらず、但法華八箇年にかぎる。南無阿弥陀仏に開会せられず、法華経は能開念仏は所開なり。法華経の行者は一期南無阿弥陀仏と申さずとも、南無阿弥陀仏并(なら)びに十方の諸仏の功徳を備へたり。

譬へば如意宝珠の金銀等の財を備へたるが如し。念仏は一期申すとも法華経の功徳をぐ()すべからず。譬へば金銀等の如意宝珠をか()ねざるがごとし。譬へば三千大千世界に積みたる金銀等の財も、一つの如意宝珠をばかうべからず。設ひ開会をさとれる念仏なりとも、猶体内の権なり、体内の実に及ばず。何に況んや当世に開会を心え()たる智者も少なくこそをはせすらめ。設ひさる人ありとも、弟子・眷属・所従なんどはいかん(如何)があるべかるらん。愚者は智者の念仏を申し給ふをみては念仏者とぞ見候らん。法華経の行者とはよも候はじ。又南無妙法蓮華経と申す人をば、いかなる愚者も法華経の行者とぞ申し候はんずらん。当世に父母を殺す人よりも、謀反をを()こす人よりも、天台・真言の学者といわれて善公(ぜんこう)が礼讃をうたい、然公(ねんこう)が念仏をさえ()づる人々はをそ()ろしく候なり。(P491)

 

*法華経の行者

自己に対する疑問として

文永9年(1272)2月 「開目抄」(真蹟曽存)

されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし。定んで天の御計いにもあずかるべしと存ずれども、一分のしるし(験)もなし。いよいよ重科に沈む。還て此の事を計りみれば。我が身の法華経の行者にあらざるか。又諸天善神等の此の国を捨てて去り給えるか。かたがた疑わし。(P559)

 

*法華経の行者

三類の強敵に遭い仏語を助けた自己=日蓮のこと

「開目抄」

当世、法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん。日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん。(P560)

 

*法華経の行者

自己に対する疑問として

「開目抄」

但し世間の疑いといい、自心の疑いと申し、いかでか天扶け給はざるらん。諸天等の守護神は仏前の御誓言あり。法華経の行者にはさる(猿)になりとも法華経の行者とがう(号)して、早々に仏前の御誓言をとげんとこそおぼすべきに、其の義なきは、我が身法華経の行者にあらざるか。此の疑いは此の書の肝心、一期の大事なれば、処々にこれをかく上、疑いを強くして答をかまうべし。(P561)

 

*法華経の行者

諸天善神の擁護を被る者として

「開目抄」

諸の声聞、法華をはなれさせ給いなば、魚の水をはなれ、猿の木をはなれ、小兒の乳をはなれ、民の王をはなれたるがごとし。いかでか法華経の行者をすて給うべき。諸の声聞は爾前の経々にては肉眼の上に天眼慧眼をう(得)。法華経にして法眼仏眼を備われり。十方世界すら猶お照見し給うらん。何に況んや此の娑婆世界の中、法華経の行者を知見せられざるべしや。設い日蓮悪人にて一言二言、一年二年、一劫二劫、乃至百千万億劫此れ等の声聞を悪口罵詈し奉り、刀杖を加えまいらする色なりとも、法華経をだにも信仰したる行者ならばすて給うべからず。譬えば幼稚の父母をのる、父母これをすつるや。梟鳥が母を食う、母これをすてず。破鏡父をがいす、父これにしたがう。畜生すら猶おかくのごとし。大聖法華経の行者を捨つべしや。(P562)

 

水すまば月影をおしむべからず。風ふかば草木なびかざるべしや。法華経の行者あるならば、此れ等の聖者は大火の中をすぎても、大石の中をとおりても、とぶらはせ給うべし。迦葉の入定もことにこそよれ。いかにとなりぬるぞ。いぶかしとも申すばかりなし。後五百歳のあたらざるか。広宣流布の妄語となるべきか。日蓮が法華経の行者ならざるか。法華経を経内と下して別伝と称する大妄語の者をまもり給うべきか。捨閉閣抛と定めて法華経の門をとじよ巻をなげすてよとえりつけ(彫付)て、法華堂を失える者を守護し給うべきか。仏前の誓はありしかども、濁世の大難のはげしさをみて諸天下り給はざるか。日月天にまします。須弥山いまもくずれず。海塩も増減す。四季もかたのごとくたがはず。いかになりぬやらんと大疑いよいよつもり候。(P566)

 

*法華経の行者

仏・菩薩・天等の守護を被る者として

「開目抄」

予事の由をおし計るに、華厳・観経・大日経等をよみ修行する人をばその経々の仏・菩薩・天等守護し給うらん。疑いあるべからず。但し大日経・観経等をよむ行者等、法華経の行者に敵対をなさば、彼の行者をすてて法華経の行者を守護すべし。(P581)

 

*法華経の行者

誰人が法華経の行者なのかとの疑問

「開目抄」

当世は如来滅後二千二百余年なり。大地は指せばはずるとも、春は花さかずとも、三類の敵人必ず日本国にあるべし。さるにてはたれたれの人々か三類の内なるらん。又誰人か法華経の行者なりとさされたるらん。おぼつかなし。彼の三類の怨敵に我等は入りてやあるらん。又法華経の行者の内にてやあるらん。おぼつかなし。(P592)

 

*法華経の行者

天台真言=台密に法華経の行者はいるのか

「開目抄」

又天台・真言の高僧等、名は其の家に得たれども我が宗にくらし。貪欲は深く、公家武家をおそれて此の義を証伏し讃歎す。昔の多宝分身の諸仏は法華経の令法久住を証明かす。今天台宗の碩徳は理深解微を証伏せり。

かるがゆえに日本国に但法華経の名のみあって、得道の人一人もなし。誰をか法華経の行者とせん。(P598)

 

*法華経の行者

自己たることを否定しながら経文合致を行者の条件として、現証により自己とする

「開目抄」

仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり。金言のやぶるべきかのゆえに法華経の行者なし。いかんがせんいかんがせん。抑そも、たれやの人か衆俗に悪口罵詈せらるる。誰の僧か刀杖を加えらるる。誰の僧をか法華経のゆえに公家武家に奏する。誰の僧か数数見擯出と度々ながさるる。日蓮より外に日本国に取り出さんとするに人なし。日蓮は法華経の行者にあらず、天これをすて給うゆえに。誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん。

仏と提婆とは身と影とのごとし。生々にはなれず。聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓同時なるがごとし。法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし。三類はすでにあり。法華経の行者は誰なるらむ。求めて師とすべし。一眼の亀の浮木に値うなるべし。(P598)

 

*法華経の行者

法華経の行者たれば安穏であるはず、との疑問を設ける

「開目抄」

有人云く 当世の三類はほぼ有るににたり。但し法華経の行者なし。汝を法華経の行者といわんとすれば大なる相違あり。

此の経に云く「天の諸の童子 以て給使を為さん 刀杖も加えず 毒も害すること能わじ」。又云く「若し人悪み罵らば 口則ち閉塞せ」等。

又云く「現世安穏にして後に善処に生じ」等云云。

又「頭破れて七分に作ること 阿梨樹の枝の如くならん」。

又云く「亦現世に於て其の福報を得ん」等。

又云く「若し復是の経典を受持せん者を見て其の過悪を出さん。若しは実にもあれ若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん」等云云。(P599)

 

*法華経の行者

法華経の行者であればこそ安穏ならず、値難こそ行者の証明であるとの例えとして

「開目抄」

答て云く、汝が疑い大に吉し。ついでに不審を晴さん。

不軽品に云く「悪口罵詈等」。

又云く「或は杖木・瓦石を以て之を打擲すれば」等云云。

涅槃経に云く「若しは殺し若しは害す」等云云。

法華経に云く「而も此の経は如来の現在すら猶お怨嫉多し」等云云。

仏は小指を提婆にやぶられ、九横の大難に値い給う。此れは法華経の行者にあらずや。不軽菩薩は一乗の行者といわれまじきか。目連は竹杖に殺さる。法華経記別の後なり。付法蔵の第十四の提婆菩薩・第二十五の師子尊者の二人は人に殺されぬ。此れ等は法華経の行者にあらざるか。竺の道生は蘇山に流されぬ。法道は火印を面にやいて江南にうつさる。北野の天神・白居易此れ等は法華経の行者ならざるか。(P599)

 

*三大誓願

日蓮は日本国の柱()・眼目()・大船()にならんと誓願する

「開目抄」

我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず(P601)

 

*法華経の行者

過去世に法華経の行者を迫害した例えとして

「開目抄」

我、無始よりこのかた、悪王と生まれて、法華経の行者の衣食田畠等を奪いとりせしことかずしらず。当世日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし。又法華経の行者の頚を刎ること其の数をしらず。此れ等の重罪はたせるもあり、いまだはたさざるもあるらん。果たすも余残いまだつきず。生死を離るる時は必ず此の重罪をけしはてて出離すべし。功徳は浅軽なり。此れ等の罪は深重なり。権経を行ぜしには此の重罪いまだをこらず。鉄(くろがね)を熱くにいたう(甚)きたわざればきず隠れてみえず。度々せむればきずあらわる。麻子(あさのみ)をしぼるにつよくせめざれば油少なきがごとし。今日蓮強盛に国土の謗法を責むれば大難の来るは、過去の重罪の今生の護法に招き出せるなるべし。鉄は火に値わざれば黒し。火と合いぬれば赤し。木をもって急流をかけば波山のごとし。睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ。(P602)

 

*したし(親)父母

日蓮は日本国の諸人にしたし(親)父母である

「開目抄」

日蓮は日本国の諸人にしたし(親)父母也。一切の天台宗の人は彼等が大怨敵なり。(P608)

 

                         沼津市 大瀬崎より
                         沼津市 大瀬崎より

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