日蓮遺文・法華経の行者、上行菩薩 3

法華経の行者

我が身と経文の符号により自己を法華経の行者ではないかとする

文永9年(1272)410日 「富木殿御返事」(真蹟)

(ほぼ)経文を勘(かんが)へ見るに日蓮が法華経の行者たる事疑ひ無きか。但し今に天の加護を蒙(こうむ)らざるは、一には諸天善神此の悪国を去る故か。二には善神法味を味はゝざる故に威光勢力無きか。三には大悪鬼三類の心中に入り梵天・帝釈も力及ばざるか等、一々の証文・道理追って之を進ぜしむべし。(P619)

 

*賢父・聖親・導師、法華経の行者

日蓮は日本国の人の為には賢父・聖親・導師である

日蓮は法華経を身で読んだ法華経の行者であり、それがなければ経文は妄語となる

文永9年(1272)55日「真言諸宗違目」(真蹟)

日本の法然之を誤り、天台真言等を以て雑行に入れ、末代不相応の思ひを為し国中を誑惑して長夜に迷はしむ。之を明らめし導師は但日蓮一人なるのみ。

涅槃経に云はく「若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責(かしゃく)し駈遣(くけん)し挙処(こしょ)せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり」等云云。潅頂(かんちょう)章安大師云はく「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり。慈無くして詐り親しむは即ち是彼が怨なり。彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」等云云。法然が捨閉閣抛、禅家等が教外別伝、若し仏意に叶はずんば日蓮は日本国の人の為には賢父なり、聖親なり、導師なり。之を言はざれば一切衆生の為に「慈無くして詐り親しむは即ち是彼が怨なり」の重禍脱れ難し。日蓮既に日本国の王臣等の為には「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」に当たれり。(P638)

中略

仏陀(ぶっだ)記して云はく「後五百歳に法華経の行者有って、諸の無智の者の為に必ず悪口罵詈・刀杖瓦石(とうじょうがしゃく)・流罪死罪せられん」等云云。日蓮無くば釈迦・多宝・十方諸仏の未来記は当に大妄語なるべきなり。(P639)

 

*法華経の行者

如我等無異~法華経を心得る者は釈尊と斉等なり

法華経の行者は「其中衆生、悉是吾子」とあるように教主釈尊の御子である。教主釈尊のごとく法王となる

日妙聖人~日本第一の法華経の行者の女人

文永9年(1272)525日「日妙聖人御書(楽法梵志書)(真蹟)

此の妙の珠は昔釈迦如来の檀波羅蜜(だんはらみつ)と申して、身をうえたる虎にか()ひし功徳、鳩にかひし功徳、尸羅波羅蜜(しらはらみつ)と申して須陀摩王(しゅだまおう)としてそらごと(虚言)せざりし功徳等、忍辱仙人(にんにくせんにん)として歌梨王(かりおう)に身をまかせし功徳、能施太子(のうせたいし)・尚闍梨仙人(じょうじゃりせんにん)等の六度の功徳を妙の一字にをさめ給ひて、末代悪世の我等衆生に一善も修せざれども六度万行を満足する功徳をあたへ給ふ。

「今此三界(こんしさんがい)、皆是我有(かいぜがう)、其中衆生(ごちゅうしゅじょう)、悉是吾子(しつぜごし)」これなり。

我等具縛(ぐばく)の凡夫忽(たちま)ちに教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全体うけとる故なり。経に云はく「如我等無異」等云云。法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり。

譬へば父母和合して子をうむ。子の身は全体父母の身なり。誰か是を諍(あらそ)ふべき。牛王(ごおう)の子は牛王なり。いまだ師子王とならず。師子王の子は師子王となる。いまだ人王天王等とならず。

今法華経の行者は「其中衆生、悉是吾子」と申して教主釈尊の御子なり。教主釈尊のごとく法王とならん事難(かた)かるべからず。但し不孝の者は父母の跡をつがず。(P644)

中略

今実語の女人にておはすか。当(まさ)に知るべし、須弥山(しゅみせん)をいたゞきて大海をわたる人をば見るとも、此の女人をば見るべからず。砂をむして飯となす人をば見るとも、此の女人をば見るべからず。当に知るべし、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏・上行無辺行等の大菩薩・大梵天王・帝釈・四王等、此の女人をば影の身にそうがごとくまぼり給ふらん。

日本第一の法華経の行者の女人なり。故に名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらえん。日妙聖人等云云。

相州鎌倉より北国佐渡国、其の中間一千余里に及べり。山海はるかにへだて、山は峨々(がが)海は濤々(とうとう)、風雨時にしたがふ事なし。山賊海賊充満せり。すくすく(宿々)とまりとまり(泊々)民の心虎のごとし犬のごとし。現身に三悪道の苦をふ()るか。其の上当世の乱世、去年より謀叛の者国に充満し、今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ、いまだ世間安穏ならず。而(しか)れども一の幼子あり。あづくべき父もたのもしからず。離別すでに久し。かたがた筆も及ばず、心弁(わきま)へがたければとゞめ了んぬ。(P647)

 

教主釈尊の御使い

日蓮は教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来たのであり、誹る人は罪を無間に開く

文永9年(1272)「四条金吾殿御返事(梵音声書)(日興本)

但し法華経に云はく「若し善男子善女人、我が滅度の後に能く竊(ひそ)かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん。当に知るべし是の人は則ち如来の使ひ如来の所遣(しょけん)として如来の事を行ずるなり」等云云。

法華経を一字一句も唱へ、又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使ひなり。然れば日蓮賎(いや)しき身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来たれり。此を一言もそし()らん人々は罪無間を開き、一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにもす()ぎたりと見えたり。

(P664)

中略

教主釈尊は一代の教主、一切衆生の導師なり。八万法蔵は皆金言、十二部経は皆真実なり。無量億劫より以来(このかた)、持ち給ひし不妄語戒の所詮は一切経是なり。いづれも疑ふべきにあらず。但し是は総相なり。別してたづぬれば、如来の金口より出来して小乗・大乗・顕・密・権経・実経是あり。今この法華経は、仏「正直捨方便等乃至世尊法久後要当説真実」と説き給ふ事なれば、誰の人か疑ふべきなれども、多宝如来証明(しょうみょう)を加へ、諸仏舌を梵天に付け給ふ。(P664)

中略

仏の大梵天王帝釈等をしたがへ給ふ事もこの梵音声なり。此等の梵音声一切経と成りて一切衆生を利益す。其の中に法華経は釈迦如来の御志を書き顕はして此の音声を文字と成し給ふ。

仏の御心はこの文字に備はれり。たとへば種子と苗と草と稲とはか()はれども心はたがはず。釈迦仏と法華経の文字とはかはれども、心は一つなり。然れば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身の釈迦如来にあ()ひまい()らせたりとおぼしめすべし。此の志佐渡国までおくりつかはされたる事すでに釈迦仏知()ろし食()し畢(おわ)んぬ。実に孝養の詮なり。(P666)

 

*法華経の行者

法華経の行者の祈りは叶う、諸天は行者を守護する

文永9年(1272)「祈祷抄」(真蹟曽存)

いかに申す事はをそきやらん。大地はさゝばはづるゝとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみ()ちひ()ぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかな()はぬ事はあるべからず。法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部等、二聖・二天・十羅刹等、千に一も来たりてまぼ()り給はぬ事侍らば、上は釈迦諸仏をあなづり奉り、下は九界をたぼらかす失(とが)あり。行者は必ず不実なりとも智慧はをろかなりとも身は不浄なりとも戒徳は備へずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給ふべし。袋きたなしとて金(こがね)を捨つる事なかれ、伊蘭(いらん)をにくまば栴檀(せんだん)あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌はゞ蓮を取るべからず。行者を嫌ひ給はゞ誓ひを破り給ひなん。(P679)

 

*法華経の行者

法華経の行者に悪口、打擲すれば千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受ける

系年、文永・佐渡期と推測「顕謗法抄」(真蹟曽存)

法華経第七に云く「四衆の中に瞋恚を生じて心不浄なる者あり、悪口罵詈して言く是の無知の比丘と、或は杖木・瓦石を以て之を打擲す。乃至千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」等云云。

此の経文の心は、法華経の行者を悪口し、及び杖を以て打擲せるもの、其の後に懺悔せりといえども、罪いまだ滅せずして、千劫阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ。懺悔する謗法の罪すら五逆罪に千倍せり。況んや懺悔せざらん謗法においては、阿鼻地獄を出る期かたかるべし。故に法華経第二に云く「経を読誦し書持することあらん者を見て軽賎憎嫉して結恨を懐かん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生れん。是の如く展転して 無数劫に至らん」等云云。(P255)

 

                           本栖湖より
                           本栖湖より

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