旧仏教による禅宗批判と日蓮の諸宗批判の展開

~川添昭二氏の教示(「歴史に生きる日蓮」2008 山喜房仏書林)に学びながら~

【 旧仏教・伝統的教学と禅宗の違い 】

◇旧仏教・伝統的教学=教典により教判論を作り教学体系を形成する。

⇒代表例・智顗の五時八教説

 

◇禅宗=教外別伝により伝統教学の体系を実質、否定してしまう。一部では戒律無視、放埓な形も出る。中世の神仏の宗教秩序を否定することも。

 

【 旧仏教の禅宗批判と反論 】

「教外別伝」を旨とする禅宗に対して、旧仏教は猛烈に反撃。日蓮の「禅は天魔の所為」も、広い範囲の禅宗批判の中にあり、典型的、伝統的な批判といえる。

 

建久9(1198)、栄西は「興禅護国論」3巻を著し、旧仏教側からの禅宗批判に対して禅宗の正当性、その興隆が仏教と国家の繁栄のために必要であることを主張。

 

文永5(1268)、山門衆徒は禅僧・東厳慧安(とうがんえあん 嘉禄元年・1225~建治3年・1277)が創建した正伝寺(正伝護国禅寺・京都一条今出川)を破却してしまう。

 

文永9(1272)、叡山衆徒は禅宗興隆を憎み朝廷に奏上し、抑圧せんとする。これに対し禅僧・無象静照(むぞうじょうしょう 天福2年・1234~嘉元4年・1306)は「興禅記」を著し、禅宗の正当性、卓越性を説く(偽撰説あり)

 

永仁2(1294)、叡山大衆は禅宗停止を朝廷に訴える。

 

永仁3(1295)9月成立の歌論書「野守鏡」の下巻は宗教論が中心。台密の立場から禅宗、浄土宗、一遍の踊念仏を批判している。禅宗批判については、日蓮のものと基調・語勢が似通い、念仏批判は「立正安国論」と近似している。

 

永仁4(1296)成立の絵巻物「天狗草子」は一遍の踊念仏、禅宗に対する批判を述べる。

 

嘉元3(1305)、南都興福寺の六万衆徒の沙汰により大和国片岡の達磨寺が焼き払われる。

 

同年、後宇多上皇は京都東山に嘉元寺を建て禅僧・南浦紹明(なんぽしょうみょう 嘉禎元年・1235~延慶元年・1309)を開山に招請しようとするも、叡山の抗議で停止となる。

 

正中2(1325)、南都北嶺の学僧が禅僧・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう 弘安5年・1282~延元2年・1338)と宗論をして論破される。

 

【 日蓮の諸宗批判 】

・顕密仏教側からの念仏、禅に対する批判、排撃。

⇒日蓮についても同じで顕密仏教の僧・日蓮という側面も見える。台密僧であったのだから、当然のことか。背景には、布教現場での現実があっただろう。日蓮が直接法華伝道の対象とした人々が念仏信奉者、禅の実践者が多かっただろうし、日蓮に帰依した人々が法華経を他者に勧奨する際、その人間関係においても同様だったのではないか。日蓮当時の念仏は体制側にも信者が多く、禅は為政者自らが実践するものとなっていた。

 

・蒙古国書到来を契機に日蓮は東密批判を開始。

⇒文永5年、蒙古の国書到来により国中が騒然とする中、朝廷、幕府の命により諸社寺は異国調伏の祈祷を始める。特に日蓮は密教の祈祷に対して危機感を抱き、国の安泰は正法たる法華経によるべしとの持論から、東密批判の展開となったものか。

 

・鎌倉における忍性一門の活動と相対するようになり、忍性・律に対する批判。

⇒弘長元年(1261)、鎌倉に進出した良観房忍性とその一門の活動が活発化するにともない、鎌倉日蓮門徒衆による法華勧奨の現場での接触も増えたことだろう。日蓮にとって忍性は眼前に立ちはだかる存在となったことにより、忍性・律批判が展開されたものか。

 

・蒙古襲来を契機として、台密に対する批判を開始。

⇒日蓮は文永1110月の蒙古襲来により国が滅びんとする事態を眼前にして、出身母校ともいうべき比叡山・台密に目を向け、「日本国は慈覚大師が大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部と」(曾谷入道殿御書、以下も同じ)なして、「伝教大師の鎮護国家」の法を破壊した故に「叡山に悪義出来して終に王法」が尽きたのであるとし、続いて「此の悪義鎌倉に下つて又日本国を亡す」との認識を示すようになる。「弘法大師の邪義は中々顕然なれば、人もたぼらかされぬ者もあり。慈覚大師の法華経・大日経等の理同事勝の釈は智人既に許しぬ。愚者争(いか)でか信ぜざるべき。」と、当書以降は円仁ら台密の人師への、激しい批判が展開されるようになる。それは「最後なれば申すなり、恨み給べからず」という悲壮な決意からのものであった。

 

このように、日蓮の教理面の展開は始めに「法華経・最第一」「法華一経(涅槃経も)尊崇」「口称題目」の主題があり、もう一方では顕密側の論理も含ませ、国際情勢と日本国の動向に応じながら順を追って諸経、諸宗批判を行い、主題を正当化していくのである。

 

日蓮系教団でよく言われる、日蓮聖人が建長54月の「法門申しはじめ」の時から「真言亡国・律国賊、念仏無間・禅天魔という四箇格言」をされた、というのはいかがなものか。はじめに四箇格言ではなく、修学時代に培った宗教的使命感と自らの仏教上の立ち位置があり、当時の仏教界の実状、庶民大衆の信仰を認識。そして国内政治、国際情勢と日本仏教界の対応というものを踏まえ、自らの意志と現実に対する宗教的解決法の思索により教理面の展開があった、というものではないだろうか。

 

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