本尊問答抄一考 6・7・8

6 日蓮的両論並立思想・法華経について

            身延 下山・本国寺より
            身延 下山・本国寺より

ここで「日蓮的両論並立思想」の代表例ともいえる、法華経についての日蓮の教示「余経も法華経もせん()なし」⇔「経は法華経、顕密第一の大法なり」について見てみよう。

 

以下の遺文を引用して、「現在はただ、南無妙法蓮華経によって成仏を期すべき時であり、釈迦の説いた法華経は成仏の法にはならない。釈迦仏も同じく過去の仏となって、衆生成仏とは無縁なのである。」との解釈がある。

 

建治元年712高橋入道殿御返事(加島書)(真蹟)

末法に入りなば迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし。(P1084)

 

系年・建治元年「智慧亡国御書」(真蹟)

今の代は外経も、小乗経も、大乗経も、一乗法華経等も、かなわぬよ()となれり。ゆへいかんとなれば、衆生の貪・瞋・癡の心のかしこきこと、大覚世尊の大善にかしこきがごとし。

(P1129)

 

弘安元年41日「上野殿御返事(法要書)(日興本[要検討]大石寺蔵)

今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん()なし。但南無妙法蓮華経なるべし。かう申し出だして候もわたくし()の計らひにはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計らひなり。此の南無妙法蓮華経に余事をまじ()へば、ゆゝしきひが()事なり。

(P1492)

 

これら遺文を以て「末法には妙法蓮華経の五字が一閻浮提の一切衆生に授けられるべきものであり、釈迦の法華経は衆生の病の薬とはならず。釈迦仏も法華経もせん()なきものとなるのだ。今は但南無妙法蓮華経なるべし、であり、これは日蓮が明言しているのである。」との解釈は果たして妥当なものだろうか。実はこのようなところにこそ、日蓮遺文の随所にある矛盾表記の一端が示されていると思うのだ。日蓮は「余経も法華経もせん()なし」とした後にも、法華経の大事、その最第一たることを説き続けるのである。

 

当該文は、末法の衆生は妙法蓮華経によって成仏を期すべきことに重きを置いた「一表現」であって、如来使たる日蓮が仏の法を用いない、即ち法華経の行者が自らの教理的存在基盤である「釈迦仏の法華経」を「末法に用なし」とすることはないのである。その代表例として挙げられるのが新田殿御書」だろう。

 

弘安3年日蓮は釈迦仏を尊信し、仏説示の法華経を第一の大法とし、自らを法華経の行者に相似たり、としている。

 

弘安3529新田殿御書」(真蹟)

使ひの御志限り無き者か。経は法華経、顕密第一の大法なり。仏は釈迦仏、諸仏第一の上仏なり。行者は法華経の行者に相似たり。三事既に相応せり。檀那の一願必ず成就せんか。(P1752)

 

弘安31024日の「上野殿母尼御前御返事(中陰書)(真蹟断簡)では、「南条故七郎五郎殿の四十九日御菩提のために送り給ふ物の日記の事、鵞目(がもく)両ゆ()ひ・白米一駄(いちだ)・芋一駄・すりだうふ(摺豆腐)・こんにゃく・柿一籠(ひとこ)・ゆ()五十等云云。御菩提の御ために法華経一部・自我偈数度・題目百千返唱へ奉り候ひ畢(おわ)んぬ。」(P1810)とあって、南条家の亡き七郎五郎の菩提のために、法華経一部・自我偈数度・題目百千返を唱えている。

 

そして、法華経が諸経中において第一であることを法華経の経文から引証し、仏の誠言なのだから誤りはない、としている。

「法華経の第四法師品に云はく『薬王今汝に告ぐ、我が所説の諸経あり、而も此の経の中に於て、法華最も第一なり』等云云。第五の巻に云はく『文殊師利、此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て最も其の上に在り』等云云。第七の巻に云はく『此の法華経も亦復是くの如し。諸経の中に於て、最も為()れ其の上なり』と。又云はく『最も為れ照明なり。最も為れ其の尊なり』等云云。此等の経文、私の義にあらず、仏の誠言にて候へば定めてよもあや()まりは候はじ。」(P1810)

 

日蓮は法華経について続ける。

「法華経と申すは三世十方の諸仏の父母なり、めのと(乳母)なり、主にてましましけるぞや。」(P1814)

「仏も亦かくの如く、法華経を命とし、食とし、すみか()とし給ふなり。」()

「仏は此の経にすみ給ふ。月は水にやどる、仏は此の経にやどり給ふ。此の経なき国には仏まします事なしと御心得あるべく候。」()

「仏も又かくの如く、多宝仏と申す仏は此の経にあひ給はざれば御入滅、此の経をよむ代には出現し給ふ。釈迦仏・十方の諸仏も亦復かくの如し。かゝる不思議の徳まします経なれば此の経を持つ人をば、いかでか天照太神・八幡大菩薩・富士千眼大菩薩すてさせ給ふべきとたのもしき事なり。」(P1816)

「又此の経にあだ()をなす国をばいかに正直に祈り候へども、必ず其の国に七難起こりて他国に破られて亡国となり候事、大海の中の大船の大風に値ふが如く、大旱魃(だいかんばつ)の草木を枯らすが如しとをぼしめせ。当時日本国のいかなるいの()り候とも、日蓮が一門法華経の行者をあなづ()らせ給へば、さまざまの御いの()り叶はずして、大蒙古国にせ()められてすでにほろ()びんとするが如し。今も御覧ぜよ。たゞかくては候まじきぞ。是皆法華経をあだませ給ふ故と御信用あるべし。」(P1816)

 

日蓮老齢期の弘安3年、このように法華経を主として日蓮の教示は成り立ち、日本国の浮沈もひとえに法華経の信謗による、とするのである。他にも、同様に法華経について説示した書状は多数ある。

 

以上、見てきたように日蓮は

「法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず」

一乗法華経等も、かなわぬよ()となれり

「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん()なし」

と説示しながら、その後にも、

「経は法華経、顕密第一の大法なり。仏は釈迦仏、諸仏第一の上仏なり」

「仏は此の経にやどり給ふ。此の経なき国には仏まします事なし」

「かゝる不思議の徳まします経」

と説いている。

 

このような矛盾表記については、どちらかが間違っているのではなく、日蓮にとってはどちらも正しいものであり、一方を説くに当たってその大事を重くするが故に、他方とは矛盾をきたしているといえよう。この日蓮の思考法は「法華経観」「本尊観」等、宗教を構成する根本的なものに見えるところから日蓮の思想ともいえるもので、それが「日蓮的両論並立思想」ではないかと考えるのである。

 

この項の「法華経」に関しては、「余経も法華経もせん()なし」等を確立してそれを固定化したとは言えず、後の「経は法華経、顕密第一の大法なり。」などに包摂されてしまっている、といえるだろう。

 

尚、「智慧亡国御書」について見ると、当該文は「今の代」の衆生の三毒がいかに深いかを示したものであり、同書の後文に「大悪は大善の来たるべき瑞相なり。一閻浮提うちみだすならば、閻浮提内広令流布はよも疑ひ候はじ。」(P1131)とあるように、一閻浮提に広宣流布するべき「妙法蓮華経の五字」によって一切衆生は救われていくことを主眼にした場合の、法華経を副次的なものとした一表現、と考えられよう。

 

同書の文末には、「此の大進阿闍梨を故六郎入道殿の御はかへつかわし候。~中略~そのほどまづ弟子をつかわして御はか()に自我偈をよませまいらせしなり。」(P1131)とある。故六郎入道殿については高橋六郎兵衛入道と解されているが、故人の墓に弟子の大進阿闍梨を派遣して自我偈を読ませ、「一乗法華経」によって追善回向をしているのであり、これによっても釈迦の法華経が「末法に用なし」と外されたわけではないことが明らかといえるのである。

 

7 日蓮と釈迦

日蓮と釈迦について遺文を通して確認してゆこう。

 

【 釈迦如来の御所領 】

            本国寺の銀杏
            本国寺の銀杏

日蓮は自己の宗教的世界観を次のように述べる。

 

系年・文永初期「断簡53」真蹟

是我有 其中衆生 悉是吾子等云云。この文のごとくならば、この三界は皆釈迦如来の御所領なり。寿量品に云はく「我常に此の娑婆世界に在って」等云云。この文のごとくならば、過去五百塵点劫よりこのかた、此の娑婆世界は釈迦如来の御進退の国土なり。(P2496)

 

 

 

文永122または建治3821「神国王御書」真蹟

仏と申すは三界の国主、大梵王・第六天の魔王・帝釈・日月・四天・転輪聖王・諸王の師なり、主なり、親なり。三界の諸王は皆此の釈迦仏より分かち給ひて、諸国の総領・別領等の主となし給へり。(P881)

 

建治元年58日「一谷入道御書」真蹟

娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり。大地・虚空・山海・草木一分も他仏の有ならず。又一切衆生は釈尊の御子なり。(中略) 梵王の一切衆生の親たるが如く、釈迦仏も又一切衆生の親なり。又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし。父母を知るも師の恩なり。黒白を弁ふるも釈尊の恩なり。(P992)

 

日蓮が自らの宗教的信念の範疇に留めることなく、娑婆世界・三界に適用されるとして規定した「三界の領主・三界の国主・一切衆生の師匠・親」である釈迦()が本尊となった時、その仏()本尊は法本尊より劣るというのはいかがなものか。日蓮は「弘長配流の昔之を刻み」(「五人所破抄」日蓮宗宗学全書2P83) 、「聖人海の定木を以て一躰の仏を造り」(「日順雑集」富士宗学要集2P92・法花観心本尊抄見聞)と、終生「釈迦立像」(宗祖御遷化記録)を奉安して法華経信仰における釈迦仏を拝する法華経の行者・如来の使いとして師弟の姿を示しており、弟子として尊信する仏()とその形像を劣として、弟子が考案した題目本尊()が勝れていると「日蓮が定義する」とは考えづらいものがある。

 

【 一閻浮提第一の仏(人)本尊 】

「観心本尊抄」では、「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に末だ此の本尊有さず。」との文で、自界叛逆・他国侵逼の二難興起の時に、(国主の帰依を待って)一閻浮提第一の本尊=法華経本門寿量品の釈尊(久遠実成の釈尊)と四菩薩が造立されることを示しているが、この「一閻浮提第一の本尊=仏()本尊」が「法より劣る」と位置付けられて日本国の大事の時に立てられるということがあるのだろうか?当然ながら、この場合、人・法に勝劣などはないであろう。一方では、日蓮の曼荼羅讃文には「仏滅度後二千二百二()十余年之間一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也」とあって、曼荼羅も「一閻浮提第一の本尊」であることが明示されている。日蓮は曼荼羅図顕を開始して以降は、「仏()・法並列」であってそこに勝劣は認められない。これは本尊観における「日蓮的両論並立思想」の表れであると思う。また、先に見たように、「観心本尊抄」には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」 (P711)と説かれており、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足するのだから、本仏釈尊の内証世界と妙法蓮華経の五字に異なりはないことが分かる。人と法に勝劣はないのである。

 

【 本門の教主釈尊を本尊とすべし 】

             千葉 養老渓谷付近
             千葉 養老渓谷付近

甲州波木井の郷蓑歩の岳より安房国東条郡清澄山浄顕房・義城房の本へ奉送す。」(P1250)として、修学時代の法兄・浄顕房、義城房に宛てた「報恩抄」(真蹟)には「一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。」(P1248)とある。これについては「日本を始めとして一閻浮提の人々一同が、法華経本門寿量品の釈尊を本尊(仏本尊)とすべきである。曼荼羅・宝塔の内では釈迦仏・多宝仏、その他の諸仏並びに上行等の四菩薩は脇士となるのである。」と読むものと考えているのだが、当文においても、仏()本尊・法本尊並列であるということがいえるだろう。少なくとも、本門の教主釈尊=釈迦仏()を本尊とすることは明確で、曼荼羅本尊だけを説示した文章とはいえないと思う。

 

【 四条金吾夫妻の釈迦仏 】

        四条金吾邸跡と伝える鎌倉 収玄寺
        四条金吾邸跡と伝える鎌倉 収玄寺

弘安222日以前には、四条金吾夫人は「教主釈尊一体三寸の木像」(P1623「日眼女釈迦仏供養事」真蹟曽存)を造立しており、日蓮はそれを「釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり。」(P1623)「今教主釈尊を造立し奉れば下女が太子をうめるが如し。国王尚此の女を敬ひ給ふ。何に況んや大臣已下をや。大梵天王・釈提桓因王・日月等此の女人を守り給ふ。」(P1624)「法華経に云はく『若し人仏の為の故に諸の形像(ぎょうぞう)を建立す。是くの如き諸人等皆已(すで)に仏道を成じき』云云。文の心は一切の女人釈迦仏を造り奉れば、現在には日々月々の大小の難を払ひ、後生には必ず仏になるべしと申す文なり。」(P1624)「今日眼女は今生の祈りのやう()なれども、教主釈尊をつくりまいらせ給ひ候へば、後生も疑ひなし。二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとを()ぼしめすべし。」(P1625)と讃嘆している。そして、一年後の弘安32月には曼荼羅を授与している。日蓮の法華経信仰世界では、弟子檀越は釈迦仏像と曼荼羅=仏()本尊・法本尊が並列しており、ここには「人法の勝劣」というものは感じられないのである。

 

8 清澄寺の信仰世界

【 清澄寺・慈覚開山之勝地 聞持感応之霊場也 】

      栃木県 岩舟町 高平寺別院 誕生寺 円仁像
      栃木県 岩舟町 高平寺別院 誕生寺 円仁像

先に見たように「阿闍梨寂澄自筆納経札」(早稲田大学所蔵文書)によれば、慈覚大師円仁の開山と伝わる清澄寺は弘安3(1280)当時、六十六部如法経納入の寺院であり、虚空蔵菩薩求聞持法を修する「聞持感応之霊場也」として喧伝されていた。

 

房州 清澄山

奉納

六十六部如法経内一部

右、当山者、慈覚開山之勝地

聞持感応之霊場也、仍任

上人素意六十六部内一部

奉納如件、

弘安三年五月晦日 院主阿闍梨寂澄

 

            清澄寺の石碑
            清澄寺の石碑

善無畏三蔵抄」(真蹟と推測される断簡あり)の記述によれば、清澄寺における日蓮の師僧・道善房は、「阿弥陀仏を五体まで作り奉る(P474)熱心念仏者であった。また、建治2(または文永12)の「清澄寺大衆中」(真蹟曽存)の記述では、「(そもそも)参詣を企(くわだ)て候へば、伊勢公の御房に十住心論・秘蔵宝鑰・二教論等の真言の疏(しょ)を借用候へ。是くの如きは真言師蜂起故に之を申す。又止観の第一・第二御随身候へ。東春(とうしゅん)・輔正記(ふしょうき)なんどや候らん。円智房の御弟子に、観智房の持ちて候なる宗要集か()した()び候へ。それのみならず、ふみ()の候由も人々申し候ひしなり。早々に返すべきのよし申させ給へ。今年は殊に仏法の邪正たゞさるべき年か。(P1132)と清澄寺の寺僧に対して、身延山に参詣の折には東密、天台教学書の持参、借用を求めている。これらは清澄寺が台密と東密の修学を盛んに行っていたことを示すものであり、そこからは寺内において天台、真言関係の種々の仏、菩薩の像が祀られ拝されていたことが推測できるだろう。

 

                清澄寺
                清澄寺

清澄寺の仏菩薩像は、薬師如来、虚空蔵菩薩、大日如来、阿弥陀如来、不動明王、愛染明王等多数であったろうか。このような、種々の仏菩薩像に日常的に礼拝する信仰空間に、日蓮は法華経最第一の立場から「而れば此の土の一切衆生生死を厭ひ、御本尊を崇めんとおぼしめさば、必ず先づ釈尊を木画の像に顕はして御本尊と定めさせ給ひて、其の後力おはしまさば、弥陀等の他仏にも及ぶべし。」(P469「善無畏三蔵抄」文永7)と、「我が師釈迦如来」(P466)への帰命を促す。続いては、「一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。」(P1248・「報恩抄」建治2721)と、「本門の教主釈尊を本尊」とすべきこと、また曼荼羅についても教示する。

 

この「報恩抄」の頃には浄顕房のもとに曼荼羅が届けられたようだが、従来にない、紙本の曼荼羅を眼にした時、浄顕房は、また周囲はどのように思うだろうか。清澄寺信仰圏では、幼少時から青年、壮年に至るまで、本尊といえば「仏菩薩像」ばかりの大衆であったと思う。また、虚空蔵菩薩求聞持法を始めとして密教の修行が盛んに行われ、仏菩薩に祈る声が満ちていた清澄寺とその周辺であったことだろう。浄顕房に授与された曼荼羅の奉安・礼拝の形態は明らかではないが、彼はともかく、周囲の者が眼にした時は様々な疑難が寄せられたのではないだろうか。「日蓮が法門」を信解、信仰ある者には「此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶(たす)け万民は難をのがれん(P867)曼荼羅なのだが、浄顕房の周辺では、仏像類に比して紙本曼荼羅は疑問を招くことはあっても、拝しただけで理解する者はいなかったことだろう。むしろ理解どころか、仏師が精魂傾けて彫刻した壮麗たる仏像群よりも、紙本一幅の曼荼羅を下に見る、劣とする者が多かったのではないだろうか。「人勝法劣」的認識といえようか。このような信仰世界に対して、紙本曼荼羅の意義、題目本尊を教理的に説けば、それは自ずと仏像・仏・人を凌駕する「法勝人劣」的記述となるのは、必然ともいうべきものだろう。

 

諸仏像が数多奉安されていたであろう清澄寺の信仰世界に対して、法華経最第一を説く日蓮から「世尊説きおかせ給ひてのち、二千二百三十余年が間、一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず」(P1586)と示された曼荼羅は、一閻浮提」というよりも清澄寺信仰圏には正に「未曽有之大曼荼羅」ではなかったか。従来とは一線を画する、清澄寺信仰圏に一石を投じたともいえる、その「題目本尊・法本尊」を教示する書状が「法勝人劣」的記述となるのも、宜なるかなと思うのである。

 

【 清澄寺信仰圏への対機説法 】

               小湊付近
               小湊付近

「本尊問答抄」では、題目本尊・法本尊に関する教示の後は、東密・台密などの密教破折が展開されている。特に「問ふ、今日本国中の天台・真言等の諸僧並びに王臣万民疑って云はく、日蓮法師めは弘法・慈覚・智証大師等に勝るべきか如何。」(P1575)との問いは、清澄寺などの密教が盛んな寺院の大衆が抱く、疑問の代表的なものといえるだろう。ここでは「答ふ、日蓮反詰して云はく、弘法・慈覚・智証大師等は釈迦・多宝・十方の諸仏に勝るべきか是一。今日本国王より民まで教主釈尊の御子なり。」()と、人師に依らずして教主たる釈迦に還るべきこと、釈迦の領土である日本国は王から民まで教主釈迦の子であるとして、日蓮ならではの宗教的社会観を展開する。これは、釈迦の教えをただ一人継承したと自負する日蓮は、弘法・慈覚・智証大師等に勝ることを間接的に示したもの、といえるだろう。

 

清住寺の諸堂に安置されている様々な仏像、そこに集う修行者達の「宗教的感性」。このような寺院を覆う「宗教的常識」を覆し、長年の眠りから覚醒させるだけの意味合いを、日蓮は自らが創出した曼荼羅に持たせようとした、清澄寺信仰圏の上方に自らの題目本尊を位置付けんとしたのではないかと思うのだ。故に常の「人法並列の本尊」観とは異なり、「本尊問答抄」は「法勝人劣」的な、法に重きを置いた見方を示したのではないだろうか。これも「日蓮的両論並立思想」の一端の表れ、一表現と考えるのである。

 

前のページ                                  次のページ