滅びと再生の物語1-2 異国調伏の祈祷

文永5年、蒙古の国書到来により国中が騒然とする中、朝廷、幕府の命により諸社寺は異国調伏の祈祷を始めた。京畿を中心とした記録となるが、神仏に敵国降伏を祈請した当時の様相の一端を知るために、相田二郎氏の著「蒙古襲来の研究」(1958年 吉川弘文館)をめくってみよう。

 

第三章 敵国降伏の祈願 一、朝廷を中心とせる京都に於ける御祈願(P59~P63)

諸社の奉幣(ほうへい)

             京都 大宮御所
             京都 大宮御所

文永五年二月、鎌倉幕府から異国の国書に関して奏上し、その十五日に、院の御所に於いて評定が行われた。この後二十二日に、二十二社即ち伊勢大神宮、石清水八幡宮(山城)、賀茂下上社(同上)、松尾社(同上)、稲荷社(同上)、春日社(大和)、大原野社(山城)、大神社(大和)、石上社(同上)、大和社(同上)、広瀬社(同上)、竜田社(同上)、住吉社(摂津)、日吉社(近江)、梅宮社(山城)、吉田社(同上)、広田社(摂津)、祇園社(山城)、北野社(同上)、丹生社(大和)、貴布禰社(山城)に奉幣せられ、異国の事を祈請あらせられた。これが朝廷に於ける御祈願の初見である。

公卿勅使初度発遣

次いで四月十三日に大神宮に公卿勅使を差遣せられた。この勅使は使として特に公卿を選び、神前に於いて勅使の宣読し奉る宣命は、畏くも宸筆を染めさせられるものであった。特に国家の重事に関して御祈請あらせられる時に発遣せられる例となっている。今蒙古の国書到来は容易ならぬ大事件であるに依って、かく公卿勅使を発遣あらせられたものである。

七陵の奉幣

更に六月二十二日には、七陵に山陵使を発遣せられ、異国の事に関して御祈請あらせられた。この山陵使も特に国家の重事の起こった時に発遣せられるものであった。

(比叡山延暦寺の記録門葉記によると、文永五年七月十七日から異国の事に関して山門に於いて七仏薬師法を行ったように記録してあるが、その基く根本の資料である吉田経長の日記吉続記を熟読すると、これは異国の事には関係がなく、祈雨の為の御祈願に過ぎなかったことが判った)

後深草上皇石清水八幡宮御幸

この後暫く御祈請の事が見えないが、文永八年十月廿五日、後深草上皇には、親しく石清水八幡宮に御幸せられ、異国の事を御祈願あらせられた。

延暦寺に於ける祈祷

これより先九月十九日元の使者趙良弼の一行が筑前今津に来たり国書を捧呈したので、これに関し、十一月二十二日、院の御所に於いて評定が行われ、それと同時に延暦寺座主澄覚をして熾盛光法を修せしめた。澄覚は総持院の真言堂でこれを始め、十七箇日厳修して二十八日結願となり、この日蔵人平棟望が勅使として登山した。

公卿勅使再度の発遣

更に十二月十一日には、大神宮に第二度の公卿勅使を発遣せられ、異国の降伏を御祈願あらせられた。この時の勅使は権中納言洞院公守であった。かくの如く異賊の襲来を見ない頃に於いても時々御所願を籠めさせられたのである。

文永初度の異賊襲来、亀山上皇八陵に奉幣せらる

いよいよ文永十一年十月初度の蒙古襲来があり、十月二十八日、鎮西から京都にこれに関する報知があった。よって翌十八日院の御所に於いて評定を行わせられ、翌月二日、神功皇后の御陵以下八陵に勅使を立てられ、亀山上皇は諸山陵に御告文を奉られ、異賊の降伏を御祈請あらせられた。次いで十一月七日には、十六社に奉幣、又異賊の降伏を御祈願あらせられた。

亀山上皇異賊の艦船漂没御報賽の為石清水八幡宮御幸

これより先十月二十日異賊の艦船は、この夜大颶風にあって悉く漂没したが、これに関する報知が京都に達したのは、十一月六日のことであった。従って前記七日の奉幣はこの捷報に依る御祈請ではなかった。この我が軍の大勝利の報知があった後、その御報賽の為に、八日亀山上皇は親しく石清水八幡宮に御幸あらせられ、我が軍の勝利を御祈請あらせられた。翌九日に又賀茂北野の両社に御幸あらせられたが、これも恐らく御報賽の為であろう。

文永度襲来合戦後の御祈願、第三度の公卿勅使発遣

翌建治元年正月二十二日亀山上皇は、石清水八幡宮に御幸、十七箇日御参籠あらせられたが、異国降伏の為か否か明らかでない。翌二月十七日十六社に奉幣、異国の降伏を御祈願あらせられた。この年四月十五日には、元使杜世忠の一行が長門国の室津に到り、又国書を捧呈せんとした。たまたまこの日大神宮に内大臣花山院師継を勅使として発遣せられたが、これ又異国御祈の為と思われる。これが異国御祈の公卿勅使の第三度目の発遣である。

諸社寺一箇年の各月を分担して祈祷を修す

前述の如く、異国御祈の為に十六社若しくは二十二社に度々奉幣せられたが、建治三年の頃には、地頭御家人が博多湾の沿岸等に於いて幾箇月か交替して、異賊の襲来を警備する為に警固番役と称する課役を勤仕していたように、諸社が一年中の各月を分担して、その月に御祈祷の精誡を抽んずべき定であった。この事は興福寺略年代記に見えている。そしてなおこれに依ると、春日社の勤仕すべき分は六月であり、門葉記に依ると、日吉社の分は十月であった。かように毎年その月々を各社の分担としていたのである。右の如く十二社に春日、日吉両社が入っているが、他の十社は何社であろうか。切に知りたい事実であるが、遺憾ながらこれに関する史料が伝わっていない。恐らくその十社の中には、石清水、賀茂下上、松尾、平野、稲荷等の諸社が加わっていたことであろう。

諸社寺に祈祷を命じたる宣旨下る

更に朝廷から諸社寺に向かって、異国の事に関して祈願を行わしめた。この時宣旨が下されたのであるが、何日の事であったか記録が欠けている。この宣旨によって、諸寺に於いて、如何なる経文を読誦すべきか、その本尊は何に定むべきか、明瞭でなかった為に、僧綱所から太政官の官務に向かって、文永七年三月十五日付の書状を以て尋ねている。これは異国の事に関する御祈祷は、度々あることではなく、先例が乏しかった為によるのであろう。これによって見るも、この異国の事が、当時如何に臨時の重大事として、上下の人々に大きい衝動を与えていたかが想像せられる。僧綱所に於いては諸寺を取り締まっている関係上、諸寺から如何なる経文を読み又呪文を誦すべきかの質問のあることを慮って、かくの如き書状を送って尋ねたわけである。なお、その中に経文は仁王経を転読し、本尊は不動明王を造立図書してよろしきや否やと意見を述べている。これに対して太政官から如何に処置をしたかは、記録古文書が伝わらないので明らかでない。

弘安四年再度蒙古襲来の時に於ける祈祷

弘安四年再度の蒙古襲来のあった年になると、諸社寺殊に僧侶が熱誠こめて異国降伏を祈請している。朝廷に於いては、五月八日に又二十二社に奉幣せられた。翌六月一日、異賊襲来の報知が京都に達したが、翌々日、院の御所に於いて評定があって、異国の事について種々取り定めた。翌四日に又二十二社に異賊降伏の御祈を致すように命令を発している。

弘安四年日記抄に、同日亀山上皇の仰せを奉って、賀茂社神主に充てた院宣の案文が伝わっている。それには、「異国襲来の由其聞あり、早く社頭に参籠し、丹誠を抽んで祈請すべし」云々とあり、又追而書に、一社の祠官全部が参籠して、異敵を撃滅するまで懈怠することがあってはならぬと誡めている。又参籠中勤仕すべき条々は追って仰下さるべしと書いてある。先ず取り急ぎ祈請を始めさしたのである。他の二十一社の祠官にも勿論同様の院宣が下されたものと思われる。

又比叡山延暦寺に命じて、同じ六月四日、浄土寺の慈基(関白兼平の子息)をして山上四王院に於いて異国降伏の御祈として、大法楽を始行せしめられている。

更に六月九日には、大神宮に公卿勅使御差遣の事が議せられ、その日時は来月二十二日で、勅使には中御門経任卿が当たることに定められた。

 

中略

(ハ)京都東寺 P86~P87

京都の東寺に於いても、早くから異国降伏の為に祈願を行っている。先ず文永五年二月二十三日から、同寺の前の長者道勝が、講堂に於て仁王経法を一七箇日に亘って行っている。文永十一年初度の襲来のあった時には、十一月二日に、長者道融が西院に於て仏眼法を修して、異国の降伏を祈念している。

初度の襲来があってから三年後の建治三年正月十二日、長者道宝は、異国降伏の為、大神宮に三十箇日参籠して祈念した。

弘安二年正月には、長者斎助が、異国降伏祈願の為に、大神宮に進発し、同四年正月十九日には、同じく長者定済が、大神宮に参向して祈願を籠めた。又六月二日には、定済が同寺の西院に於いて不動法を修し、十日に結願を行い、次いで二十二日に仁王経法を行ひ、熱誠を尽して、異賊の調伏を祈請している。

(ト)近江国延暦寺

延暦寺に於いても早くから異国の事に就いて祈願を行ったことは勿論である。文永八年十一月廿二日から、座主澄覚は熾盛光法を修して、異国の降伏を祈念し、二十九日に結願を行い、この日特に蔵人佐平棟望は、この結願の法会に臨む為に登山している。

文永十一年初度の襲来の時は、十一月二日前大僧正慈禅(関白鷹司兼平の子)は、金剛寿院に於いて、金輪法を修して、異国降伏を祈念し、翌三日には、座主道玄が異賊降伏の為に初めて尊勝法を修し、同十八日には、同じ祈願として、初めて四天王法を修し、十二月七日には、前大僧正澄覚が、根本中堂に於いて、七仏薬師法を行っている。

なお道玄は、この襲来の終わった翌々年即ち建治二年正月十六日、後深草上皇の押小路烏丸の御所に於いて、異国降伏の為に熾盛光法を行わせられた時、伴僧二十口を率いて、法性寺の座主として導師を勤めている。更に道玄は翌三年十月、前述した各社一箇月当番の祈祷に於いて日吉社の分を勤仕した。

弘安四年再度の襲来のあった年には、その四月八日、根本中堂に於いて、七仏薬師法を厳重に修している。又同日後妙香院僧正慈実は、大成就院に於いて如法金輪法を修して異国の降伏を祈請した。なお、延暦寺が勅願として異国調伏の御祈祷を修した事は、前項朝廷を中心にした京都に於ける御祈願について記したところにも挙げてある。

前のページ                                  次のページ