滅びと再生の物語1

【 文永の役を経て・亡国への予感 】

「曾谷入道殿御書」文中の「自界叛逆の難、他方侵逼の難すで()にあ()ひ候ひ了んぬ。(中略)当時壱岐・対馬の土民の如くに成り候はんずるなり」(P838)との記述により、日蓮のもとに蒙古(元軍)に攻め込まれた壱岐対馬の惨状を知らせる書状が届いていたことが窺える。その模様は翌建治元年(1275)58日の「一谷入道御書」(真蹟断片)に記されている。

 

去ぬる文永十一年太歳甲戌(きのえいぬ)十月に蒙古国より筑紫(つくし)によせて有りしに、対馬の者かためて有りしに宗(そう)の総馬尉(そうまのじょう)逃げければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生け取りにし、女をば或は取り集めて手をとを()して船に結()ひ付け、或は生け取りにす。一人も助かる者なし。壱岐(いき)によせても又是くの如し。船おしよせて有りけるには、奉行入道豊前(ぶぜん)の前司(ぜんじ)は逃げて落ちぬ。松浦党(まつらとう)は数百人打たれ、或は生け取りにせられしかば、寄せたりける浦々の百姓ども壱岐・対馬の如し。(P995)

 

蒙古に蹂躙された壱岐・対馬では男は生け捕り殺され、女性は紐を手に通して船に結びつけられる等惨状を呈し、凄惨な現場が書状に描写されているのである。

 

文永11(1274)1111日の「上野殿御返事(与南條氏書)(P836 日興本)には「(そもそも)日蓮は日本国をたすけんとふかくおもへども、日本国の上下万人一同に、国のほろぶべきゆへにや用ひられざる上、度々あだ()をなさるれば力をよばず山林にまじ()はり候ひぬ。大蒙古国よりよ()せて候と申せば、申せし事を御用ひあらばいかになんどあはれなり。皆人の当時のゆき(壱岐)つしま(対島)のやうにならせ給はん事、おもひやり候へばなみだもとまらず」とある。

 

「曾谷入道殿御書」には「当時壱岐・対馬の土民の如くに成り候はんずるなり」とある。

 

「一谷入道御書」にも上記に続けて「又今度は如何が有るらん。彼の国の百千万億の兵、日本国を引き回らして寄せて有るならば如何に成るべきぞ。北の手は先づ佐渡の島に付きて、地頭・守護をば須臾に打ち殺し、百姓等は北山へにげん程に、或は殺され、或は生け取られ、或は山にして死しぬべし。抑そも是れ程の事は如何として起るべきぞと推すべし。前に申しつるが如く、此の国の者は一人もなく三逆罪の者也。是れは梵王・帝釈・日月・四天の、彼の蒙古国の大王の身に入らせ給ひて責め給ふ也。日蓮は愚かなれども釈迦仏の御使・法華経の行者となのり候を、用ひざらんだにも不思議なるべし。其の失に依て国破れなんとす。」とある。

 

このように、この頃の日蓮は次なる蒙古襲来では日本国の本土も壱岐、対馬の如く惨劇に見舞われることは必定と考えていたようで、「曾谷入道殿御書」の文末は「最後なれば申すなり。恨み給ふべからず」と「もはや最後の時なり」との覚悟、切迫した緊張感が窺えるものとなっているのである。

しかしながら、対馬が襲われたのは105日、壱岐は1014日であり、そして1020日には元軍は筑前国に上陸して激戦となり、鎮西の御家人は防戦しつつ太宰府に退いたものの、元軍は夜半に撤退したようだ。(風雨=神風により蒙古船が漂没と伝えるも、これは日本側の士気を鼓舞するための創作話か。今日の学説では、この時の元軍は本格的な軍事侵攻ではなく、威力偵察に来たもので、撤収するのも予定の内だったとの見方がある)

ということは日蓮のもとに105日の対馬、1014日の壱岐の件は伝わったものの、一週間後の1020日頃の情報は正確には伝わっていなかったことになるだろうか。

 

いずれにしても、日蓮は近い内に日本の本土も元軍により蹂躙されて「皆人の当時のゆき(壱岐)つしま(対島)のやうにならせ給はん」「当時壱岐・対馬の土民の如くに」なって、一旦は「国破れなん」と亡国となることは間違いないと見ていたようだ。その理由は、「釈迦仏の御使・法華経の行者」である日蓮が「日本国をたす()けんとふか()くおも()」い「立正安国論」を進呈したものの、「申せし事を御用ひ」なかった故、としている。

そのことはまた、文永9(1272)2月に著した「開目抄」の心であるとして、建治元年(1275)の「種種御振舞御書」(身延曽存)に「此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬へば宅に柱なければたもたず、人に魂なければ死人なり。日蓮は日本の人の魂なり、平左衛門既に日本の柱をたをしぬ。只今世乱れてそれともなくゆめの如くに妄語出来して此の御一門どしうちして、後には他国よりせめらるべし。例せば立正安国論に委しきが如し」(P975)と日蓮は日本国の柱、日本の人の魂であり、為政者が日蓮の「立正安国論」を用いるか否かにより日本国が存続するか滅亡するかが決まるのだが、平左衛門尉が日蓮を亡きものにしようと既に日本の柱を倒した以上、北条一門の自界叛逆難、他国より攻められることは間違いない、とするのである。

 

【 亡国後の仏国土化 】

実際には、文永の役の段階では日本が壊滅的打撃を受けることはなく、蒙古の攻めは局地的なものにとどまり、全国が日蓮のいう壱岐・対馬の如き惨状となることはなかった。しかし、蒙古の次なる侵攻は十分に予想されるところでもあった。この頃の日蓮には、「日本亡国による法華経の国としての再生」との思考があったようで、次なる蒙古襲来に多くの人が不安を覚えていたであろう文永12(1275)216日に著された「新尼御前御返事(与東條新尼書)(真蹟断片)には、

末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃(かんばつ)・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉(ききん)・大兵乱(ひょうらん)等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各々甲冑(かっちゅう)をきて弓杖(きゅうじょう)を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶(たす)け万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱(のが)るべしと仏記しをかせ給ひぬ。

而るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほゞ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひかと存じて此の二十余年が間此を申す。(P867)

と記している。

 

同年、建治元年(1275)610日の「撰時抄」には、

文の心は第五の五百歳の時、悪鬼の身に入れる大僧等国中に充満せん。其の時に智人一人出現せん。

彼の悪鬼の入れる大僧等、時の王臣・万民等を語らひて、悪口罵詈、杖木瓦礫、流罪死罪に行なはん時、釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌の大菩薩らに仰せつけ、大菩薩は梵・帝・日月・四天等に申しくだされ、其の時天変地夭盛んなるべし。

国主等其のいさめを用ひずば、隣国にをほせつけて彼々の国々の悪王悪比丘等をせめらるゝならば、前代未聞の大闘諍一閻浮提に起こるべし。

其の時日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ、或は身ををしむゆへに、一切の仏菩薩にいの()りをか()くともしるし()なくば、彼のにく()みつる一(ひとり)の小僧を信じて、無量の大僧等、八万の大王等、一切の万民、皆頭を地につけ掌を合はせて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし。

例せば神力品の十神力の時、十方世界の一切衆生一人もなく娑婆世界に向かって大音声をはな()ちて、南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし。(P1007)

中略

是をもつて案ずるに、大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大白法日本国竝びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑ふべからざるか。(P1017)

中略

此の事一定ならば、闘諍堅固の時、日本国の王臣と竝びに万民等が、仏の御使として南無妙法蓮華経と流布せんとするを、或は罵詈し、或は悪口し、或は流罪し、或は打擲し、弟子眷属等を種々の難にあわする人々いかでか安穏にては候べき。これをば愚痴の者は呪詛すとをもひぬべし。法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり。章安大師云く「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」等云云。されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり。而るを上一人より下万民にいたるまであだをなすをば日月いかでか彼等が頂を照らし給ふべき。地神いかでか彼等の足を載せ給ふべき。()

中略

蒙古のせめも又かくのごとくなるべし。設ひ五天のつわものをあつめて、鉄圍山を城とせりともかなうべからず。必ず日本国の一切の衆生兵難に値ふべし。されば日蓮が法華経の行者にてあるなきかはこれにて見るべし。教主釈尊記して云く末代悪世に法華経を弘通するものを罵詈せん人は、我を一劫が間あだせん者の罪にも百千万億倍すぎたるべしととかせ給へり。(P1018)

と記す。

 

「撰時抄」は明白に蒙古襲来を予期しての記述であり、「新尼御前御返事」では仏説引用中に「一閻浮提の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時」と記すところから、これも次なる他国侵逼の意を含めて書かれたものと思われ、その時にこそ万民は日蓮の教えに帰伏せねばならず、必死の祈りを捧げるであろうことを「一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」と表現している。日蓮は「他国侵逼による亡国から立ち上がっての日本国の再生・仏国土化」を構想していたといえようか。

「新尼御前御返事」より二ヶ月後、412日の こう入道殿御返事」(真蹟)では佐渡の国府入道夫妻に「蒙古国の日本にみだれ入る時はこれへ御わたりあるべし。」(P914)と、蒙古襲来の時は身延山に避難するよう促している。

そして建治元年(1275)97日、幕府は 蒙古の使者・杜世忠を竜口にて斬首してしまう。

 

建治2(1276)327日の「富木尼御前御書」(真蹟)では、異国警護番役で西国に出動する御家人、その妻子の思いを心情豊かに綴っている。

 

かまくら(鎌倉)の人々の天の楽のごと(如)にありしが、当時つくし(筑紫)へむかへば、とど()まる女こ()、ゆ()くをとこ()、はな()るるときはかわ(皮)をは()ぐがごとく、かを(顔)とかを()とをと()りあ()わせ、目と目とをあ()わせてなげ()きしが、次第にはな()れて、ゆいのはま(由比の浜)・いなぶら(稲村)・こしごへ(腰越)・さかわ(酒匂)・はこねさか(箱根坂)。一日二日す()ぐるほどに、あゆ()みあゆ()みとを()ざかるあゆ()みも、かわ()も山もへだ()て、雲もへだ()つれば、うちそ()うものはなみだ()なり、ともなうものはなげ()きなり、いかにかな()しかるらん。(P1148)

 

妻子に別れるつらさは皮を剥がされる如く、顔を合わせ、目を合わせて涙を流しても背を向け進まねばならず、由比が浜、稲村、腰越、酒匂そして箱根坂へと日を重ねて歩むほどに、妻子のいる地は遥かに遠くなり、やがて筑紫が近づいて川を山を、そして雲を隔てた彼方ともなれば、残してきた妻子とこれよりの我が運命を思い涙も止まらず、嘆きも尽きることなく、悲しんでもあまりあるものがある。

 

ここでは今も昔も変わらない出征兵士と家族の悲哀というものを、見事なまでに繊細に描写しており、日蓮の感受性の豊かさを物語る文章だと思う。続けて「かくなげ()かんほどに、もうこ(蒙古)のつわもの()()めきたらば、山か海もい()けど()りか、ふね()の内かかうらい(高麗)かにてう()きめ()にあ()はん。」()と押し寄せる蒙古軍に国土は蹂躙され、武士や民は船へ、高麗へと連行されて悲惨な目にあうと記すのだが、これは「次の蒙古との戦いには日本の敗戦は必定。故に滅亡・亡国も免れない」と日蓮は予期していたことを示すものだろう。そのわけはひとえに「失もなくて日本国の一切衆生の父母たる法華経の行者日蓮を、ゆへもなく、或はの()り、或は打ち、或はこうじ(街路)をわたし、ものにくる()いしが、十羅刹のせめをかほ()りてなれる事なり。又々これより百千万億倍たへがたき事どもいで来るべし。」(P1149)とやはり、日蓮を迫害したことにより諸天が治罰を加える故なのだとしている。

特に「一切衆生の父母たる法華経の行者日蓮」との自称は、次なる他国侵逼に当たり当時の日蓮の内面世界がいかに高揚していたものかを示すもので、「撰時抄」にも「法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり」とある。

しかしながら、日蓮の、この他国侵逼後の広宣流布願望ともいうべきものは、弘安の役を通しても実現することはなく、「滅びと再生の物語」は彼一人の胸中に留まり終わることとなったのである。

 

【 弘安4年秋の日蓮 】

弘安4(1281)の夏、日本が蒙古との戦いを終えた当時の、日蓮と一門の思いはどのようなものだったろうか。国敵たる蒙古軍を撃退した幕府、異国調伏の祈祷を重ねた比叡山、園城寺、東寺等の寺社勢力は喜び、ひとまずは安堵したことだろう。それに対し、他国侵逼による亡国、日本国の法華経の国としての再生を予見し、それを弟子檀越への書状の随所に書きとどめた日蓮とそれを受けて身構えていた門下には、落胆に近いものがあったのではないだろうか。

 

建治3(1277)6月の「下山御消息」では、

教大師の云く「竊(ひそ)かに以みれば菩薩は国の宝なること法華経に載せ、大乗の利他は摩訶衍(まかえん)の説なり。弥天(みてん)の七難は大乗経に非ずんば、何を以てか除くことをえん。未然の大災は菩薩僧に非ずんば、豈に冥滅することを得んや」等云云。

而るを今大蒙古国を調伏する公家・武家の日記を見るに、或は五大尊、或は七仏薬師、或は仏眼、或は金輪等云云。此れ等の小法は大災を消すべしや。還著於本人と成りて国忽ちに亡びなんとす。或は日吉の社にして法華の護摩を行ふといへども、不空三蔵が誤れる法を本として行ふ間、祈祷の儀にあらず。又今の高僧等は或は当時の真言、或は天台の真言也。東寺は弘法大師、天台は慈覚・智証也。此の三人は上に申すが如く大謗法の人々也。其れより已外の諸僧等は或は東大寺の戒壇の小乗の者也。叡山の円頓戒は又慈覚の謗法に曲げられぬ。彼の円頓戒も迹門の大戒なれば今の時の機にはあらず。旁(かたがた)叶ふべき事にはあらず。(P1343)

と記している。

 

日蓮は蒙古調伏の法「五大尊、七仏薬師、仏眼、金輪等」は「還著於本人と成りて国忽ちに亡びなんとす」とし、真言・天台の高僧等の祈祷は成就しないことを明言しているのだが、弘安4(1281)の夏、蒙古軍は敗退し日本の本土は無事安泰だったのである。

 

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