滅びと再生の物語2

【 文永・弘安の役に至る日蓮遺文 】

文永・弘安の役に至る日蓮遺文の記述を確認してみよう。

 

   別当御房御返事

文永11(1274)の「別当御房御返事」(真蹟曽存)では、

大名を計るものは小耻にはぢずと申して、南無妙法蓮華経の七字を日本国にひろめ、震旦・高麗までも及ぶべきよしの大願をはらみ(懐)て、其の願の満すべきしるしにや。大蒙古国の牒状しきりにありて、此の国の人ごとの大なる歎きとみへ候。日蓮又先よりこの事をかんがへたり。閻浮第一の高名なり。(P827)

とあり、大きな名声を計るものは小さな恥にとらわれることはないといって、日蓮は南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘め、やがては中国、朝鮮へと弘めゆく大願を懐いている。その大願を満たすべき前兆だろうか、文永5(1268)より大蒙古国からの牒状・国書が度々届いたことは、日本国の全ての人の大きな嘆きのもとになっているようだ。日蓮は以前より他国侵逼難があると考えていたのだ。今回、予言が的中することは、閻浮第一の高名なのであるとしている。これにより、蒙古襲来という事態は日蓮にとっては、震旦・高麗への妙法蓮華経の弘法、流布を意味するものとしていたことが窺える。

 

 

   法門可被申様之事

文永6(1269)の「法門可被申様之事」(真蹟)では、

今一国挙げて仏神の敵となれり。我が国に此の国を領すべき人なきかのゆえに大蒙古国は起るとみえたり。(P454)

と記し、一国を挙げて仏神の敵となった日本国は日蓮の眼には既に「領すべき人」のいない国となっており、故に蒙古の襲来が近いとしていた。この「領すべき人」即ち統治者とは公家武家のことと思われるが、後の「釈迦三界国主」思想よりすれば釈迦とも捉えられるだろうか。この頃、日蓮が復興すべきとしていた比叡山の大講堂は放火により焼けおちて、本尊の釈迦像も燃えてなくなっていた。

 

公家武家は山門(延暦寺・円仁の門流)と寺門(園城寺・円珍の門流)の対立抗争に振り回されて、右往左往を繰り返した。文応元年(1260)14日、園城寺に三摩耶戒壇が勅許されたことに対して延暦寺僧徒が朝廷に強訴、勅許は停止されてしまう。文永元年(1264)3月には、朝廷は園城寺の戒壇勅許を停止した代償として、四天王寺(延暦寺末)別当職を園城寺に付した。これにも延暦寺僧徒は反発、再度強訴に及び、延暦寺大講堂に自ら火を放ち焼失させてしまう。そこに本尊として祀られていたのは釈迦像だった。5月になると延暦寺僧徒は山を降りて園城寺を襲い、弥勒菩薩を本尊として祀っていた中院の金堂を始め、諸堂を焼き払ってしまう。

日蓮はこのことを「法門可被申様之事」で記録、評している。「天台・真言等の学者、王臣等の檀那皆奪いとられて御帰依なければ、現身に餓鬼道に堕ちて友の肉をはみ、仏神にいかりをなし、檀那をすそ(呪咀)し、年々に災いを起こし、或は我が生身の本尊たる大講堂の教主釈尊をやきはらい、或は生身の弥勒菩薩をほろぼす」(P454)と、天台真言=台密の学者は浄土教や禅宗に王臣等の檀那を皆奪い取られて帰依もなくなり、現身には餓鬼道に堕ちて友の肉を食べ=もとは同じ最澄の流れを汲む山門と寺門とで争い、仏神に怒りをぶつけ、檀那を呪って、年々に災いを起こし、自らの生身の本尊たる大講堂の教主・釈尊を焼き払い、あるいは生身の弥勒菩薩を滅ぼしているのであるとしている。これらは「進んでは教主釈尊の怨敵となり、退いては当来弥勒の出世を過たんとくるい候か。この大罪は経論にいまだとかれず。又此の大罪は叡山三千人の失にあらず。公家・武家の失となるべし」()進んでは教主・釈尊の怨敵となるものであり、退いては弥勒菩薩の未来における出世を過とうとして狂っているのか。このような仏法上の大罪は経論には未だ説かれていない。また、この大罪は比叡山大衆三千人の過失ばかりではなく、僧徒狂乱の因を作った公家・武家の過失となることであろうとした後、他国侵逼に触れる。

「日本一州上下万民一人もなく謗法なれば、大梵天王・帝桓並びに天照大神等、隣国の聖人に仰せつけられて謗法をためさんとせらるるか。」()日本全国の上下万人が一人も漏れなく謗法なので、大梵天王、帝釈天王、天照太神等が隣国の聖人に仰せつけられて日本国の謗法を正そうとしているのだろうか、とするのである。

 

このように「法門可被申様之事」では、「謗法国日本を治罰するために護法善神が隣国の聖人に仰せつける」「日本は一国挙げて仏神の敵となり、領すべき人がいない故に大蒙古国は起る」を蒙古襲来の因として記述している。「立正安国論」を以て国を救わんとした日蓮を伊豆に流した幕府であれば、正しき国主とはいえず。また、比叡山の釈迦如来(仏教上の国主)も焼失してしまっている。まさに「領すべき人」のいない国・日本なのである。

 

 

   法蓮抄・撰時抄

文永11(1274)3月、佐渡配流を赦免となり鎌倉に帰った日蓮は48日、平左衛門尉と面談。蒙古襲来は近いと宣していた。

 

建治元年(1275)「法蓮抄」(真蹟断片)

去年の四月八日に平左衛門尉に対面の時、蒙古国は何比かよし候べきと問うに、答て云く 経文は日月をささず、但し天眼のいかり頻りなり、今年をばすぐべからずと申したりき。(P955)

 

建治元年(1275)6月「撰時抄」(真蹟)

去年[文永十一年]四月八日左衛門尉に語て云く、王地に生まれたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑ひなし。殊に真言宗が此の国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古国を調伏せん事真言師には仰せ付けらるべからず。若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば、頼綱問て云く、いつごろ(何頃)かよせ候べき。日蓮言く、経文にはいつとはみへ候はねども、天の御けしきいかりすくなからずきうに見へて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき。(P1053)

 

 

   智慧亡国御書

建治元年(1275)の「智慧亡国御書」(真蹟)では、今の世において正嘉元年(1257)の大地震、文永元年(1264)の大彗星の時、知恵のある国主がいたならば、日蓮の主張を受け入れ用いたに違いないのである。それがなかったにしても、自界叛逆の難・文永9(1272)2月の「二月騒動」、他国侵逼難・文永11(1274)10月の「文永の役」が的中しているのであるから、その時にこそ、周の文王(西伯)が太公望を迎えたように、殷の高丁王(殷王朝22代・高宗)が傅悦(ふえつ・殷復興のため高宗を補佐した賢人)を七里先より招請した如くにすべきだったのである。日月は盲目の者には財に非ず、賢人を愚王が憎むとはこのことなのである、と記している。

 

今の代には正嘉の大地震、文永大せひせひ(彗星)の時、智慧かしこき国主あらましかば、日蓮をば用ひつべかりしなり。それこそなからめ、文永九年のどしうち(同士打)、十一年の蒙古のせめの時は、周の文王の大公望をむかへしがごとく、殷の高丁王の傅悦を七里より請せしがごとくすべかりしぞかし。日月は生盲の者には財にあらず。賢人をば愚王のにくむとはこれなり。(P1131)

(智慧亡国御書の記述は、日蓮に「国家的な師僧として登用されよう」との意思があった。即ち東密、台密に替わり、真に日本を救済できるのは自己一人しかいない、との気概に満ちている文章といえるのではないだろうか)

 

 

   撰時抄

文永の役を経た建治元年(1275)6月の「撰時抄」(真蹟)では、次なる蒙古襲来の時ともなれば必ずや広宣流布すべしとして、その期待が高まっていた記述が散見され、特に以下の文章は高揚感も沸騰点に達していたことを示すものといえるだろう。

 

あわれなるかなや、なげかしきかなや、日本国の人皆無間大城に堕ちむ事よ。悦ばしきかなや、楽しいかなや、不肖の身として今度心田に仏種をうえたる。いまにしもみよ。大蒙古国数万艘の兵船をうかべて日本国をせめば、上一人より下も万民にいたるまで、一切の仏寺一切の神寺をばなげすてて、各々声をつるべて南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へ、掌を合わせて、たすけ給へ日蓮の御房、日蓮の御房とさけび候はんずるにや。

中略

今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも、南無計りにてやあらんずらん。ふびんふびん。(P1052)

 

 

   清澄寺大衆中

建治2(1276、または文永12年・1275)111日の「清澄寺大衆中」(真蹟曽存)でも、日本国は壱岐、対馬の如く惨劇に見舞われ、安房の国に攻め込まれたときに「日蓮房の申せし事の合ひたり=日蓮房の言っていたことが合った」と言いながら、「偏執の法師(邪法の法師)等が口すくめて無間地獄に堕ち」るのはかわいそうでならない、と記している。

 

今はよし、後をごらんぜよ。日本国は当時のゆき(壱岐)対馬のやうになり候はんずるなり。其の後、安房の国にむこ(蒙古)が寄せて責め候はん時、日蓮房の申せし事の合ひたりと申すは、偏執の法師等が口すくめて無間地獄に堕ちん事、不便なり、不便なり(P1136)

 

 

   四十九院申状・滝泉寺申状

注意を要するのが、いわば、内向きと外向きでは日蓮の説示が異なっているということだろう。日蓮は一方(弟子檀越)には「蒙古襲来による亡国・再生」を志向し説いているが、他方(公への「申状」)には「正法による一国救済論」を展開しているのである。

 

四十九院申状(弘安元年[1278]3月 日蓮宗宗学全書・興尊全集P94)

駿河の国蒲原の庄四十九院の供僧等謹んで申す。

中略

且去る文応年中・師匠日蓮聖人仏法の廃れたるを見・未来の災を鑒み諸経の文を勘え一巻の書を造る[立正安国論と号す]。異国の来難果して以て符合し畢んぬ、未萠を知るを聖と謂つ可きか。大覚世尊霊山虚空二処三会二門八年の間三重の秘法を説き窮むと雖も、仏滅後二千二百二十余年の間月氏の迦葉・阿難・竜樹・天親等の大論師、漢土の天台・妙楽、日本の伝教大師等内には之を知ると雖も外に之を伝えず、第三の秘法今に残す所なり。是偏に末法闘諍の始・他国来難の刻・一閻浮提の中の大合戦起らんの時、国主此の法を用いて兵乱に勝つ可きの秘術なり。経文赫赫たり所説明明たり。彼れと云い、此れと云い、国の為世の為尤も尋ね聞し食さるべき者なり。仍て款状を勒して各言上件の如し。

承賢 賢秀 日持 日興

 

滝泉寺申状(弘安210月 真蹟)

此の条は日弁等の本師日蓮聖人、去ぬる正嘉以来の大仏星・大地動等を観見し一切経を勘へて云はく、当時日本国の為体(ていたらく)、権小に執著し実経を失没せるの故に、当に前代未有の二難起こるべし。所謂自界叛逆の難・他国侵逼の難なり。仍って治国の故を思ひ、兼日彼の大災難を対治せらるべきの由、去ぬる文応年中一巻の書を上表す[立正安国論と号す]勘へ申す所皆以て符合せり。既に金口の未来記に同じ、宛も声と響きとの如し。外書に云はく「未萠を知るは聖人なり」と。内典に云はく「智人は起を知り蛇は自ら蛇を知る」云云。之を以て之を思ふに、本師は豈聖人に非ずや。巧匠(こうしょう)内に在り、国宝外に求むべからず。外書に云はく「隣国に聖人有るは敵国の憂ひなり」云云。内経に云はく「国に聖人有れば天必ず守護す」云云。外書に云はく「世必ず聖智の君有り、而して復賢明の臣有り」云云。此の本文を見るに、聖人国に在るは日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり。諸竜を駈り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし。君既に賢人に在さば、豈聖人を用ゐずして徒に他国の逼めを憂へん。(P1677)

 

「国主此の法を用いて兵乱に勝つ可きの秘術なり」「諸竜を駈り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし」との表現は、法華祈祷による異国調伏の効験の確かなることを明示するものといえるだろう。「四月八日に平左衛門尉に見参す、本よりごせし事なれば日本国のほろびんを助けんがために三度いさめんに御用いなくば山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに同五月十二日に鎌倉をいでぬ」(P1155 光日房御書 真蹟断片)と、文永11(1274)5月に身延山に入った日蓮ではあったが、やはり法華弘通の実践の出発点は北条時頼に進呈した「立正安国論」であり、目指すところも為政者の正法帰依・法華経受持と広宣流布による「立正安国」の実現なのだから、公の機関に対する時には「立正安国論」の趣旨に則ったもの、即ち内外の憂いを除去する「一国救済論」を表に出したということだろう。

 

日蓮は「幕府高官達が『法華一経尊崇』という信仰的良心に目覚める」という、万に一つの可能性を考えることもあったかもしれない。一方では、過去の経験に照らせば、最早、為政者が日蓮に帰依するという見込みはない、ということも承知していたことだろう。故に「蒙古進攻による亡国と再生の救済論」は続くのである。

 

 

   智妙房御返事

弘安3(1280)1218日の「智妙房御返事」(P1827 真蹟)では、日本国の民が他国より攻められて生き地獄を味わうことになるのは、日蓮と一門に仇をなしてきた報いであり、それを「天も悦び、仏もゆるし給はじ」とするに至る。

 

あわれ他国よりせめ来りてたかのきじをとるやうに、ねこのねずみをかむやうにせられん時、あま(尼)や女房どものあわて候はんずらむ。日蓮が一るいを二十八年が間せめ候ひしむくいに、或はいころ(射殺)し、切りころし、或はいけどり、或は他方へわたされ、宗盛がなわつきてさらされしやうに、すせんまんの人々のなわつきて、せめられんふびんさよ。しかれども日本国の一切衆生は皆五逆罪の者なれば、かくせめられんをば天も悦び、仏もゆるし給はじ。

 

哀れなことだが、蒙古が攻め来るならば鷹が雉を捕るような、猫が鼠を噛むような事態となり、尼や女達が慌てふためくことであろう。それは、日蓮と一門を28年にも亘り迫害し続けてきた報いであり、射殺され、切り殺され、生け捕られ、他国へと連れ去られ、(寿永4[1185]324日、壇の浦の戦いで)平家軍の総大将・平宗盛が戦いに敗れて捕虜となり京都や鎌倉でさらされ、源頼朝の前に引き出されたように、日本国の数千万の人々が縄で絞められ晒される不憫さは申すばかりもない。しかし、日本国の一切衆生は皆五逆罪の者なのだから、かかる惨状となることも天の計らいであり、仏も許すことはないであろう、としている。

 

【 隣国の聖人 】

我が国に侵攻してくる蒙古軍は、世人の目には国敵なのだが仏教上では国敵に非ず、日蓮の眼には、

「一谷入道御書」(P996 真蹟)

梵王・帝釈・日月・四天の、彼の蒙古国の大王の身に入らせ給ひて責め給ふ也

 

「撰時抄」(P1047 真蹟)

天の御計いとして隣国の聖人にをほせつけられて此れをいましめ

 

 

「報恩抄」(P1224 真蹟)

大梵天王・帝釈・日月・四天等、隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべし

 

「下山御消息」(1325 真蹟断片)

法華経守護の梵帝等隣国の聖人に仰せ付けて日本国を治罰し

 

と護法善神が蒙古国の大王の身に入り、その「隣国の聖人」「隣国の賢王」が率いる軍勢であり、「日本一州上下万人一人もなく謗法」(法門可被申様之事・定P454)という国と、聖人に「あだをなす」(撰時抄・定P1047)国主を治罰する、待望すべき「天の御計い」でもあった。

 

文永11(1274)10月の蒙古襲来は国土の大事に至らずして終わったものの、今度こそは大軍を以て攻めてくる。それは近いのではないか。その時、我が身は、家族は果たして・・・・このような日本国一同の不安、嘆きを共有しながらも、上記遺文に見られるように万人の思いをも包摂する精神世界に生きていたのが日蓮だった。「残念ながら日本国は一旦は滅びることになるのだ」と。その惨状の中で人々は「南無妙法蓮華経と唱へ、掌を合わせて、たすけ給へ日蓮の御房」と叫び、次には「法華経の大白法日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん」(P1017)という展開となるのだ。

 

弘安の役の前夜、日蓮の眼はその先に広がる世界・一閻浮提広宣流布の地平線を見据えていたのである。

 

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