滅びと再生の物語3

【 弘安4年5月・「天の御計い」の時 】

           蒙古襲来絵詞より
           蒙古襲来絵詞より

弘安4(1281)5月、その「天の御計い」の時はきた。

「聖人・賢王」が率いる元軍は東路軍(兵士約4万人、軍船900余)と江南軍(兵士約10万人、軍船3500余)の二手に分かれ日本への侵攻を開始する。

21日、東路軍・高麗の軍勢の一部が対馬に上陸。続いて66日には東路軍主力が博多の志賀島、能古島周辺に碇泊。以降、東路軍は志賀島に上陸を試みるも大友貞親軍がよく防ぎ、安達盛宗に率いられた武士達も参戦して東路軍は壱岐へと退く。その後、日本勢は壱岐の東路軍を急襲して混乱させるも、江南軍と東路軍は九州本土への上陸のため6月下旬には平戸・鷹島付近に集結。

ところが上陸を間近にした630日の夜、九州を通過した台風のために、元軍のほとんどの船は水没、兵士も多くが水死という事態となってしまう。生き残った兵士らは多くが宋へ引き返し、島部に残された者は日本勢と戦うも漢人、モンゴル人、高麗人は殺害され、日本と交流のあった南宋人は捕虜となり保護されたと伝えられる。

このように、630日の夜には元軍、即ち日蓮のいう「隣国の聖人」「隣国の賢王」の軍勢は水没し、去ってしまった。これはいったいどうしたことなのか。

 

先に見た「智妙房御返事」(P1826)は智妙房より銭一貫文の供養が送られたこと、鎌倉の八幡宮炎上の報を受けたことに対する返状だが、八幡宮焼失の報告をしているところから智妙房は鎌倉在住の弟子かと推測されている。一方、本書は真蹟七紙が中山法華経寺に伝来しているので、智妙房は下総在住だった可能性もあるようだ。

日蓮より返状を受け取った智妙房は、本書に説かれるところを周囲の弟子檀越に語ったことだろう。

「八幡大菩薩の本地は釈尊であるのに、日本国の人々は念仏の善導・恵心・永観・法然等の大天魔にたぼらかされて、教主釈尊を投げ捨てて阿弥陀仏を本尊とし、八幡大菩薩は阿弥陀仏の化身であると偽っており、これは八幡を敬うようでいて、実は八幡大菩薩の敵となっているのである」

知らずに『八幡大菩薩は阿弥陀の化身だ』と言っているだけならまだしも、日蓮はこの二十八年間、法華経譬喩品第三の『今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是吾子』などの文を引いてこの迷いを晴らす説示をしてきたにも関わらず、日蓮と一門を射ち、切り、殺し、流罪し、居所より追い出した故に八幡大菩薩は鎌倉の八幡宮を焼いて天に昇ったのである。日蓮が考え進呈した立正安国論に説いた通りである。」

そして五逆罪の日本国の一切衆生を待ち受ける、他国侵逼という苛烈なる運命というものも。

 

「清澄寺大衆中」(P1134)でも日蓮は説く。

日本国の有智無智上下万民の云く 日蓮法師は古の論師・人師・大師・先徳にすぐべからずと。日蓮この不審をはらさんがために、正嘉・文永の大長星を見て勘へて云く 我が朝に二つの大難あるべし。所謂自界叛逆難・他国侵逼難也。自界は鎌倉に権の大夫殿御子孫どしうち(同士打)出来すべし。他国侵逼難は四方よりあるべし。其の中に西よりつよくせむべし。是れ偏に仏法が一国挙て邪まなるゆへに、梵天・帝釈の他国に仰せつけてせめらるるなるべし。日蓮をだに用ひぬ程ならば、将門・純友・貞任・利仁・田村のやうなる将軍百千万人ありとも叶ふべからず。これまことならずば真言と念仏等の僻見をば信ずべしと申しひろめ候ひき。

 

日本国の有智、無智、上下万民は言う。

「日蓮法師は昔の論師、人師、大師、先徳よりも優れるということはない」と。

日蓮はこのような不審を晴らすために、正嘉元年の大地震、文永元年の大彗星を見て考え言ったのである。「我が国に二つの大難があるであろう。それは自界叛逆難と他国侵逼難である。自界叛逆難は鎌倉に北条義時(権の大夫殿)の子孫の同士打ちが起こるであろう。他国侵逼難は四方から起こるであろう。その中でも西より強く攻めてくるであろう。これ偏に、仏法が一国挙げて邪であるために、大梵天王・帝釈天王が他国に言いつけて攻められるのである。日蓮を用いないならば、平将門、藤原純友、安倍貞任、藤原利仁、坂上田村麻呂のような名将が百千万人いたところで叶わないのである。これらが真でないならば、真言と念仏等の誤った考えを信じることにしよう」と言い広めてきたのである、と記している。そして、先に見たように「日本国は壱岐、対馬の如き惨状に見舞われること」「安房の国に蒙古が攻め込んでくること」「その時に『日蓮房の申せし事の合ひたり』と偏執の法師等が口すくめて無間地獄に堕ちるであろうこと」を記しているのである。

このように清澄寺大衆に告げたということは、大衆もまた信謗は別として、日蓮の言うところは認識したことだろうし、少なからぬ人物が周囲に語りもしたことだろう。日蓮の「滅びと再生の物語」は、弟子檀越への書状から飛び出して、多くの人が知るところとなっていたのではないだろうか。

 

日蓮は「日本国滅亡」の予言者でもあった。第三者からすれば脅しである。しかし、「自界叛逆難と他国侵逼難」が起きたところまでは、事態は日蓮の言うとおりに展開しているのである。日蓮は次に「亡国」を強調しているのだ。これまでの警告を的中させてきた彼の言うことだ。次なる「亡国」への物語は既に始まっている、と一門の誰しもが思ったことだろう。また、幕府要路にも、日蓮の言うところに緊張し、拳を握り締めながらも頷く人物がいたかもしれない。

 

元軍は国敵ではあるが、日蓮一門にとっては「隣国の聖人」「隣国の賢王」が率いる謗法国治罰の軍勢であり、彼らが進攻することは「天も悦」ぶところなのだ。元軍は去ってはいけないし、負けてもいけない。ところが実際は水没である。このような展開になるとは、敵味方共に思いもよらなかったことだろう。

 

【 曾谷二郎入道殿御報・一同修羅道に堕し後生には皆阿鼻大城 】

弘安4(1281)71日の「曾谷二郎入道殿御報」(P1871 日興本)は、下総の曾谷入道に宛てた返書となっている。

 

冒頭、719日付けの曾谷入道からの手紙が30日に届いたことを記した後、法華経譬喩品第三の「其の人命終して、阿鼻獄に入らん」の「其の人」とは「弘法、慈覚、智証等の三大師、並に三階、道綽、善導等」であり、それらの教えを信じる「日本国の一切衆生一同」も「入阿鼻地獄の者」なのであるとする。

次に「法師品第十」の、「我が所説の経典無量千万億にして、已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり」や「薬王の十喩」等により、三大師等の謗法を批判したが、末弟子らは「弥瞋恚を懐いて是非を糾明せず。唯だ大妄語を構へて国主、国人等を誑惑し、日蓮を損ぜんと欲す」と、瞋恚を抱いて妄語を構へ、国主や国人等を誑惑して日蓮を亡きものにしようとしてきたとし、「衆ケの難を蒙らしむるのみにあらず、両度の流罪、剰へ頸の座に及ぶ是也」と、小さな難はもとより、伊豆、佐渡へと配流し、竜口の首の座にまで及んだのである、と記す。

これによって「梵、釈日本国を捨て、同生同名も国中の人を離れ、天照大神、八幡大菩薩も争か此の国を守護せん」守護の梵天・帝釈も日本国を見捨て、同生同名天も国土の民より離れ、国神たる天照大神や八幡大菩薩もどうしてこの国を守護することがあるだろうか、として、「蒙古の牒状の已前に去る正嘉、文永等の大地震、大彗星の告に依つて、再三之を奏すと雖も国主敢て信用無し。然而に日蓮が勘文粗仏意に叶ふ歟の故に此の合戦既に興盛也」勘文たる「立正安国論」を国主が信用せず、日蓮の他国侵逼難の警告が仏意に叶う故に元軍との戦闘が盛んとなったのである、としている。

「此の国の人人、今生には一同修羅道に堕し、後生には皆阿鼻大城に入らんこと疑ひ無き者也」と日本国の民、全てが生きては「一同修羅道」に堕ち、死しては「皆阿鼻地獄に入る」ことは疑いようのないことである、とする。

最後に「爰に貴辺と日蓮とは師檀の一分也。然りと雖も有漏の依身は国主に随ふ故に、此の難に値はんと欲する歟。感涙押へ難し。何の代にか対面を遂げん乎。唯だ一心に霊山浄土を期せらる可き歟。設ひ身は此の難に値ふとも心は仏心に同じ、今生は修羅道に交り、後生は必ず仏国に居せん」と、元軍迎撃のため九州の戦地へと向かう予定の曾谷入道に対し、日蓮と曾谷入道は師檀の一分なのだ。しかしながら、あなたは国主に仕える身である故に、元軍来襲という未曽有の国難に立ち向かうことになるのだろう。感涙は抑えがたいものがある。ただ一心に霊山浄土を期すべきである。そうであればあなたの身は、今生は元軍との戦いという修羅道に交わるのだが、心は仏心に同じく、後生は必ずや仏国に居住できる身となるであろう、と霊山浄土への往詣を勧めるのである。

 

いよいよ、日蓮の警告通り日本は国の存亡を懸けた一大事に突入した。曾谷入道に霊山往詣を勧め後生の仏国居住を約すところからも、日蓮は今度の蒙古襲来を相当深刻に受け止め、曾谷入道自身も戦死するかもしれない、また日本国の行く末も危ういとしていたことが読み取れるだろう。

 

【 薬王の十喩 行者の内観を顕す時・行者の勝劣を決する時】

法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれる十の譬えであり、諸経の中に於いて法華経が最勝であることを十の譬えを以て示している。

 

1、一切の川流江河の諸水の中に、海為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復是の如し。諸の如来の所説の経の中に於て最も為れ深大なり。

 

2、又土山・黒山・小鉄圍山・大鉄圍山及び十宝山の衆山の中に、須弥山為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復是の如し。諸経の中に於て最も為れ其の上なり。

 

3、又衆星の中に月天子最も為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復是の如し。千万億種の諸経法の中に於て最も為れ照明なり。

 

4、又日天子の能く諸の闇を除くが如く、此の経も亦復是の如し。能く一切不善の闇を破す。

 

5、又諸の小王の中に、転輪聖王最も為れ第一なるが如く、此の経も亦復是の如し。衆経の中に於て最も為れ其の尊なり。

 

6、又帝釈の三十三天の中に於て王なるが如く、此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり。

 

7、又大梵天王の一切衆生の父なるが如く、此の経も亦復是の如し。一切の賢・聖・学・無学及び菩薩の心を発す者の父なり。

 

8、又一切の凡夫人の中に須陀・・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏為れ第一なるが如く、此の経も亦復是の如し。一切の如来の所説、若しは菩薩の所説、若しは声聞の所説、諸の経法の中に最も為れ第一なり。能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり。

 

9、一切の声聞・辟支仏の中に菩薩為れ第一なり、此の経も亦復是の如し。一切の諸の経法の中に於て最も為れ第一なり。

 

10、仏は為れ諸法の王なるが如く、此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり。

 

日蓮は薬王品の十喩の内、特に第八番目を重く見ており、十喩では「法華勝・諸経劣」が説かれるがそれだけでは「詮とするに非ず」(P854)、「仏の御心はさには候はず」(P855)と仏の本意ではなく、「法華経の行者は一切之諸人に勝れたる」(P854)、「法華経の行者は日月等のごとし、諸経の行者は衆星燈炬のごとし」(P856)が仏の御心即ち「一経第一の肝心なり。一切衆生の目也」(P856)であるとして、「受持経典の違いによる行者の勝劣」が「最大事」なのであるとする。以下、関連遺文を見てみよう。

 

 

文永12(1275)124(建治2[1276]又は建治3[1277])大田殿許御書」(P854 真蹟)

法華経の第七に云く「是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此の経の薬王品に十喩を挙げて已今当の一切経に超過すと云云。第八の譬、兼ねて上の文に有り。所詮、仏意の如くならば経之勝劣を詮とするに非ず。法華経の行者は一切之諸人に勝れたる之由、之を説く。大日経等の行者は諸山・衆星・江河・諸民也。法華経の行者は須弥山・日月・大海等也。而るに今の世、法華経を軽蔑すること土の如く民の如く、真言の僻人を重崇して国師と為ること金の如く王の如し。之に依て増上慢の者、国中に充満す。青天瞋りを為し、黄地夭・を至す。涓聚まりて・塹を破るが如く、民の愁ひ積もりて国を亡ぼす等是れ也

 

文永12(1275)127日「四條金吾殿女房御返事」(P855 真蹟)

所詮日本国の一切衆生の目をぬき神をまどはかす邪法、真言師にはすぎず。是れは且く之を置く。十喩は一切経と法華経との勝劣を説かせ給ふと見えたれども、仏の御心はさには候はず。一切経の行者と法華経の行者とをならべて、法華経の行者は日月等のごとし、諸経の行者は衆星燈炬のごとしと申す事を、詮と思しめされて候。なにをもんてこれをしるとならば、第八の譬への下に一の最大事の文あり。所謂此の経文に云く「能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此の二十二字は一経第一の肝心なり。一切衆生の目也。文の心は法華経の行者は日月・大梵王・仏のごとし、大日経の行者は、衆星・江河・凡夫のごとしととかれて候経文也。

されば此の世の中の男女僧尼は嫌ふべからず。法華経を持たせ給ふ人は一切衆生のしう(主)とこそ、仏は御らん候らめ、梵王・帝釈はあをがせ給ふらめとうれしさ申すばかりなし。

 

日蓮は文永12(1275)1月の時点で、「経典の勝劣」よりも「受持経典の違いによる行者の勝劣=人の勝劣」を「最大事」「一経第一の肝心」と強調しているが、それは何故だろうか。

第一に考えられるのは、「法門申しはじめ」以来貫いてきた「法華経最第一」の主張、「法華受持・専修唱題勧奨」の活動による大小の難を経て、日蓮は自身の仏教上の位置付け=法華経伝道者としての教主・釈迦との関係を覚知し、それを鮮明化する段階に至ったとした、というものではないだろうか。身命を賭して法を弘める時「法を顕す時」から、法を弘める人の本地を顕す時「行者の内観を顕す時」となったといえるだろうか。

二つ目は、文中にも記されているように(異国調伏の祈祷をなす)「真言の僻人を重崇して国師と為ること金の如く王の如し」(P854)という宗教情勢下で、諸経の勝劣を明確にする最終段階「法華勝・大日劣」の法の勝劣を決する時がきたということ。それは即ち「法華経の行者対大日経の行者」という「行者の勝劣」を決する時でもあった、ということになるかと思う。

このような日蓮の意とするところの経証として「薬王品の十喩の内、特に第八番目・能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり。」がクローズアップされてきたと考えるのである。

 

文永9(1272)55日「真言諸宗違目」(真蹟)に「薬王品の十喩の内、特に第八番目」が示される。

法華経に云く「又大梵天王の一切衆生の父なるが如く」。又云く「此の経・諸の経法の中に最も為れ第一なり。是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。(P640)

 

文永11(1274)の「聖人知三世事」(P843 真蹟)には「日蓮は一閻浮提第一の聖人也」とある。同年12月の通称「万年救護本尊」の讃文には、「大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之」とあり、「釈迦が仏智を以て大本尊を隠し留め、末法の為にこれを残された。後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するのである。」と記した本尊を顕し、「日蓮は上行菩薩なり」ということを『暗示』する。そして万年救護本尊を顕した翌月の、「薬王品の十喩」が示される大田殿許御書」「四條金吾殿女房御返事」である。

 

続いては、建治元年(1275)610日の「撰時抄」(真蹟)

又云く「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。(P1057)

 

建治2(1276)721日「報恩抄」(真蹟)

法華経の第七に云く「能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此経文のごとくならば、法華経の行者は川流江河の中の大海、衆山の中の須弥山、衆星の中の月天、衆明の中の大日天、転輪王・帝釈・諸王の中の大梵王なり。(P1218)

 

建治2(1276)217松野殿御消息」(真蹟断片)

法華経の薬王品に云く「能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」。文の意は法華経を持つ人は男ならば何なる田夫にても候へ、三界の主たる大梵天王・釈提桓因・四大天王・転輪聖王・乃至漢土・日本の国主等にも勝れたり。何に況んや日本国の大臣・公卿・源平の侍・百姓等に勝れたる事申すに及ばず。女人ならば・尸迦女・吉祥天女・漢の李夫人・楊貴妃等の無量無辺の一切の女人に勝れたりと説かれて候。(P1139)

 

弘安3(1280 或は建治2[1276])1129日「富木殿御返事」(真蹟)

経に云く「能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」(P1818)

 

このように真言批判を展開した佐後は「行者の勝劣」を決する時、「行者の内観」を顕す時だったと考えられるだろう。そして、行者の内観世界は曼荼羅と顕され、日蓮が創り上げた法華経信仰世界に多くの門下が潤うことになるのである。

 

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