滅びと再生の物語6

【 日蓮と不軽自覚 】

ここで注目したいのが「守護国家論」に「不軽軽毀之衆は千劫阿鼻地獄に堕つ」(P112)とあることだ。

この文は前の法然房源空批判に続くものだが、「権師を信じて実経を弘むる者に誹謗を作した」(P112)者が長期間地獄に堕ちる先例として、不軽菩薩を軽毀した大衆が千劫もの長きに亘り阿鼻地獄に堕ちたことを挙げている。そして「而るに源空、我が身唯実経を捨てて権経に入るのみに非ず。人を勧めて実経を捨てて権経に入らしめ、亦権人をして実経に入らしめず」()と源空が阿弥陀仏による本願の働き(他力本願)を説き「一代の聖教を聖道浄土・難行易行・雑行正行に分け」(P412)て専修念仏を勧奨、実経たる法華経を捨て人にも捨てさせ、権経たる浄土三部経に帰依させたことを批判。

次の「剰え実経の行者を罵る之罪、永劫にも浮かび難からん歟」()との源空ら念仏者による法華経の行者批判について、不軽軽毀の大衆が千劫に亘り阿鼻地獄に堕ちたこととは比較にならないほど未来永劫無間地獄に沈むものとしているのは、源空在世のことだけではなく、日蓮に対する浄土教徒からの批判を破折する意も含まれているのではないか。このような念仏者と実経の行者の関わりを記述するところで常不軽菩薩品第二十の故事を引用したことは、「法門申しはじめ」より6年を経過した日蓮に「不軽自覚」が芽生えていたことを窺わせるものではないだろうか。

建長5(1253)の「法門申しはじめ」より説示した法華経最第一の主張、題目勧奨の活動に相当な批判を浴びたことは、法華経常不軽菩薩品第二十の「是の語を説く時、衆人或は杖木・瓦石を以て之を打擲す」「諸人聞き已って軽毀罵詈せしに不軽菩薩能く之を忍受しき」を想起させるものであり、経典の文と我が身が符合することにより、日蓮に「不軽菩薩」としての自覚を抱かせたことだろう。同時に、不軽菩薩は「彼の時の不軽は則ち我が身是れなり(常不軽菩薩品)とあるように、釈迦の前世の因行として説かれていることが日蓮の法華勧奨活動を発奮させ、精神的支柱ともなったのではないかと思う。

 

日蓮の「不軽自覚」は次第に成長し、年を重ねるに従い強いものとなり書簡の随所に見られるようになる。以下、三つの遺文から確認してみよう。

 

 

① 文永10(1273)511日「顕仏未来記」(P740 真蹟曽存)

爾りと雖も仏の滅後に於て、四味三教等の邪執を捨て、実大乗の法華経に帰せば、諸天善神並びに地涌千界等の菩薩、法華経の行者を守護せん。此の人は守護之力を得て、本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て、閻浮提に広宣流布せしめんか。例せば威音王仏の像法之時、不軽菩薩、我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如き也。彼の二十四字と此の五字と、其の語は殊なりと雖も、其の意、之同じ。彼の像法の末と、是の末法の初めと全く同じ。彼の不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫也。

 

ここでは「本門の本尊・妙法蓮華経の五字」が一閻浮提に広宣流布することについて、不軽菩薩が「我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布」したことを例えとして引用し、不軽菩薩が唱えた「我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏」の二十四字と日蓮の唱えた「妙法蓮華経」の五字とは語は異なるが「其の意之同じ」であり、不軽菩薩の「像法の末」と日蓮の「末法の初めと全く同じ」としている。

 

 

② 文永11(1274)「聖人知三世事」(P843 真蹟)

後五百歳は誰人を以て法華経の行者と之を知るべきや。予は未だ我が智慧を信ぜず。然りと雖も自他の返逆侵逼、之を以て我が智を信ず。敢えて他人の為に非ず。又我が弟子等之を存知せよ。日蓮は是れ法華経の行者也。不軽の跡を紹継する之故に。軽毀する人は頭七分に破れ信ずる者は福を安明に積まん。

 

日蓮は「自他の返逆侵逼」が的中したことにより「我が智を信」じたとし、後五百歳における法華経の行者は自らであるとして、「不軽の跡を紹継する之故に」と不軽菩薩の実践行を自身が承継したことを根拠とする。

尚、文中の「軽毀する人は頭七分に破れ」については法華経陀羅尼品第二十六に「若し我が呪に順ぜずして 説法者を悩乱せば 頭破れて七分に作ること 阿梨樹の枝の如くならん」とあり、「法華文句記」()には「若悩乱者頭破七分」とある。次の「信ずる者は福を安明に積まん」は最澄の「依憑天台集」に「讃者積福於安明、謗者開罪於無間」とある。曼荼羅では弘安元年(1278)8月の「日頂上人授与之」曼荼羅(53)の讃文に、

仏滅度後二千二百三十 余年之間一閻浮提之 内未曾有大 漫荼羅也

有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分

謗者開罪於無間 讃者積福於安明

とあり、以降、相貌中に認められるようになる。

 

※「法華文句記」

天台宗第6祖の湛然・妙楽大師が「法華文句」(智顗の講説、弟子の灌頂[章安大師。天台宗第4]が記す)を註釈したもの。

 

 

③ 建治2(1276 または文永12[1275])111日「清澄寺大衆中」(P1134 真蹟曽存)

此れを申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほう(報)ぜんがために、建長五年四月二十八日、安房の国東条の郷清澄寺道善之房持仏堂の南面にして、浄円房と申すもの並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、其の後二十余年が間退転なく申す。或は所を追ひ出だされ、或は流罪等、昔は聞く不軽菩薩の杖木等を。今は見る日蓮が刀剣に当る事を。

 

日蓮は退転することなく法華勧奨に励んだ20数年間のことにつき、不軽菩薩が杖木の難を受けたことと自己が刀剣等の難に当たったことを重ね合わせており、「法難」の渦中、また身延山で来し方の受難を想起する時にも、彼の念頭には不軽菩薩の存在があったことが窺われる文となっている。

 

【 光日上人御返事・2 】

 

それでは「光日上人御返事」に戻ろう。

 

◇本文

去る承久の合戦に隠岐の法皇の御前にして、京の二位殿なんどと申せし何もしらぬ女房等の集まりて、王を勧め奉り、戦を起して、義時に責められ、あはて給ひしが如し。今御覧ぜよ。法華経誹謗の科と云ひ、日蓮をいやしみし罰を申し、経と仏と僧との三宝誹謗の大科によて、現生には此の国に修羅道を移し、後生には無間地獄へ行き給ふべし。此れ又偏に弘法・慈覚・智証等の三大師の法華経誹謗の科と、達磨・善導・律僧等の一乗誹謗の科と、此れ等の人々を結構せさせ給ふ国主の科と、国を思ひ生処を忍びて兼ねて勘へ告げ示すを用ひずして還りて怨をなす大科、先例を思へば、呉王・夫差(ふさ)の伍子胥(ごししょ)が諌めを用ひずして、越王・勾践(こうせん)にほろぼされ、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)が比干(ひかん)が言をあなづりて周の武王に責められしが如し。(P1878)

 

意訳

去る承久3(1221)の合戦の時に、隠岐の法皇(後鳥羽上皇)の御前で京の二位殿(藤原兼子)などという何も知らない女官等が集まり王に勧め奉って武家相手の無謀な合戦を起こし、逆に北条義時に攻められて慌てふためいたようなものである。

今をよくよく見なさい。法華経を誹謗した科といい、日蓮を卑しむ罰といい、法華経・仏・僧に対する三宝誹謗の大科によって、現世にはこの国に修羅道を表し、後生には無間地獄へ堕ちゆくことであろう。

これは又偏に東密の弘法、台密の慈覚・智証ら三大師による法華経誹謗の科と、禅宗の達磨、念仏の善導、律宗の僧らの一乗誹謗の科と、これら悪僧を増長させた国主の科と、国を思い、生まれた地を大事にして、かねてより「立正安国論」で示してきたものを用いないで還って怨をなす大科なのである。

先例を思へば、呉王の夫差が伍子胥の諌めを用いないで越王の勾践に滅ぼされ、殷の紂王が比干の忠言を侮って周の武王に攻め滅ぼされたようなものなのである。

 

 

◇本文

而るに光日尼御前はいかなる宿習にて法華経をば御信用ありけるぞ。又故弥四郎殿が信じて候ひしかば子の勧めか。此の功徳空しからざれば、子と倶に霊山浄土へ参り合わせ給はん事、疑ひなかるべし。(P1879)

 

意訳

しかしながら、光日尼御前はいかなる宿習によって法華経を信仰するようになったのだろうか。また、今は亡き子である弥四郎殿が信じていたので、彼に勧められたのだろうか。法華経信仰の功徳が空しいということはないのであるから、子の弥四郎殿と共に霊山浄土へ参詣して会うことは疑いないことである。

 

 

◇本文

烏龍(おりょう)と云ひし者は法華経を謗じて地獄に堕ちたりしかども、其の子に遺龍(いりょう)と云ひし者、法華経を書きて供養せしかば、親仏に成り、又妙荘厳王は悪王なりしかども、御子の浄蔵・浄眼に導かれて、娑羅樹王仏と成らせ給ふ。(P1879)

 

意訳

烏龍という者は法華経を誹謗して地獄に堕ちたが、その子の遺龍という者が法華経を書写して供養したので、親の烏龍は仏と成ったのである(唐の祥公撰「法華伝記」)。また、妙荘厳王は悪王であったが、我が子である浄蔵・浄眼に導かれて、娑羅樹王仏と成ったのである(法華経妙荘厳王本事品第二十七)

 

 

◇本文

其の故は子の肉は母の肉、母の骨は子の骨也。松栄えれば柏悦ぶ。芝かるれば蘭なく、情け無き草木すら友の喜び友の歎き一つなり。何に況んや親と子との契り、(P1879)

 

意訳

その理由は、子の肉は母の肉より生じたものであり、母の骨は子の骨であり親子は一体だからである。松の木が栄えれば柏の木は喜ぶ。芝が枯れてしまえば蘭は泣く。非情の草木ですら友の喜び、友の嘆きは一体なのである。ましてや、親子の契りはそれ以上であろう。

 

 

◇本文

胎内に宿して、九月を経て生み落とし、数年まで養ひき。彼ににな(荷)はれ、彼にとぶら(弔)はれんと思ひしに、彼をとぶらふうらめしさ、後、如何があらんと思ふこゝろぐるしさ、いかにせん、いかにせん。(P1879)

 

意訳

母親は胎内に子供を宿して九箇月を経て出産し、数年養育する。老いてくれば我が子に担われ、死んだ後は我が子に追善してもらえるだろうと思っていたのに、我が子を弔う悲しさ、今、あの子はどうしているだろうかと思う心の苦しさは一体、どのようにしたらよいのだろうか。

 

 

◇本文

子を思ふ金鳥(こんちょう)は火の中に入りにき。子を思ひし貧女は恒河に沈みき。彼の金鳥は今の弥勒菩薩也。彼の河に沈みし女人は大梵天王と生れ給ふ。何に況んや今の光日上人は子を思ふあまりに、法華経の行者と成り給ふ。母と子と倶に霊山浄土へ参り給ふべし。其の時御対面いかにうれしかるべき。いかにうれしかるべき。(P1880)

 

意訳

子を思う金鳥は子を助けんと、火の中に入り命を捨てた(鴨長明[久寿2年・1155~建保4年・1216]作の「発心集」に説話あり)

子を思う貧女は子を守って、恒河(ガンジス川)に沈んでしまった(涅槃経に説かれる)

彼の金鳥は今の弥勒菩薩であり、彼のガンジス川に沈んだ貧女は大梵天王と生まれたのである。ましてや、今の光日上人は我が子を思うあまりに、法華経の行者と成ったのである。母と子は共に霊山浄土へ参詣できることだろう。その時の対面はどんなにか嬉しいことであろう。嬉しいことであろう。

 

 

弘安4(1281)8月、二回目の蒙古襲来となった一大事の時に当たり、日蓮は安房の国の光日尼に当書を送った。光日尼は安房の国天津の女性信徒であり、文中に「而るに光日尼御前はいかなる宿習にて法華経をば御信用ありけるぞ。又故弥四郎殿が信じて候ひしかば子の勧めか。」(P1879)とあるところから、子の弥四郎の勧めにより法華経に帰依したことが理解できる。しかし、武士である弥四郎は何かしらの事件に巻き込まれたものか、母に先立って亡くなったことが「光日房御書」(真蹟断片)に見える。

 

※「をとゝしの六月の八日に、いや(弥)四郎にをくれ(後)て」(P1156)

建治2(1276)の光日尼より日蓮への手紙に、息子に先立たれたことが記されていた。

 

「光日房御書」には「三位房・佐渡公等に、たびごとにこのふみ(文)をよませてきこしめすべし。」(P1161)とあり、日蓮は三位房と佐渡公日向の二人に書を託して届けさせ、光日尼は両名に会う度ごとにこの手紙(光日房御書)を読んでもらい聞くように、と指示している。続いて「又、この御文をば明慧房にあづけ(預)させ給ふべし。」()と、清澄寺関係の僧と推され光日尼の周辺にいたと思われる明慧房に書(光日房御書)を預けるように促されている。これは、一人暮らしの光日尼では書簡の継承が困難と慮ったものと思われる。

光日房に宛てた日蓮の書簡は「種種御振舞御書」(建治元年[1275]或いは建治2[1276] 真蹟曽存)、「光日房御書」(建治2[1276]3月 真蹟断片)、「光日上人御返事」(弘安4[1281]88日 真蹟曽存)、断簡である「光日尼御返事」(昭和定本は弘安3[1280]に系ける、919日付け 真蹟)の四書があるとされる。

この内、現在の「種種御振舞御書」は幕末の医師・小川泰堂(18141878)が「高祖遺文録」編纂の際に、身延山曽存の「種種御振舞御書」と「佐渡御勘気御書」「阿弥陀堂法印祈雨事」を合わせたものである。その際、「阿弥陀堂法印祈雨事」の末文「此等はさておき候ひぬ」等の400余字を「光日房御書」の末尾に移動、「光日房御書」の末文「されば鹿は味ある故に人に殺され」等の400余字を「阿弥陀堂法印祈雨事」の末尾に置いたものであり、この改置作業以降、「種種御振舞御書」は光日尼宛とされている。

しかしながら、鈴木一成氏は「日蓮聖人遺文の文献学的研究」(1965 山喜房仏書林)にて「但し『阿弥陀堂加賀法印祈雨事』の末尾と『光日房御書』との錯簡が発見され、改置され、それを肯定する以上は、『種種御振舞抄』の対告も自ら変更さるべきではないか。即ち『光日房御書』の末尾が『祈雨抄』にあるとされていた時は一抄が光日房への消息と見るのが至当であるが、これが取り去られた場合、光日房への消息なる決定的な表示は見出せない」(同書P333)と指摘している。

続いて「阿弥陀堂加賀法印祈雨事」(現「種種御振舞御書」)に、

「されば仏法を習はん人、後世をねがはん人は法華誹謗をおそるべし。皆人をぼするやうはいかでか弘法、慈覚等をそしる人を用ゆべきと、他人はさてをきぬ。安房国の東西の人人は此事を信ずべきなり。眼前の現証あり。いのもりの円頓房、清澄の西堯房、道義房、かたうみの実智房等はたうと(貴)かりし僧ぞかし。是等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし。」(P983)

と清澄寺の高僧らの臨終の悪しきことを現証として破折していることから、「それは清澄の大衆及び安房一帯の信者に対する教誡書と見るべきではないか。光日尼の手を通してそれらの人々へ触れたとも考えられるが、光日房一個の消息ではない。恐らくは清澄の大衆への消息と見るべきか。更考」(同書P333)としている。

「種種御振舞御書」は文永5(1268)、蒙古よりの牒状が日本にもたらされたことから始まり極楽寺良観との祈雨の勝負、竜口法難と前後の動向、佐渡配流、そして鎌倉に帰還しての平左衛門尉との対面、文永11(1274)の身延入山からその様相に至るまでの約8年間、日蓮の一生の中で最も波乱万丈、展開の激しかった時期の記録であり、他の書簡には見られない自伝ともなっている。

「種種御振舞御書」の文中に記された限りでは、日蓮と安房の国の弟子檀越とのやり取りは窺えないが、この8年間というのはいわゆる「佐前、佐中、佐後」の三期に亘るもので、日蓮の宗教的境地は劇的な変化を遂げている。しかしながら、日蓮が直面した種々の困難、それにも退せず成した法華勧奨、自己の内面世界の変化を安房の国の多くの人々は、詳しくは知らない。であれば、自らの一生を画する事跡を綴った自伝を、故郷の人々に報じようとするのはごく自然な感情というものだろう。おそらく日蓮はそのようにしたのであろうし、当書を読んだ故郷の人々は暫く振りに日蓮の思いとその動向を、目の当たりにする如く知ることができたと思う。

 

さて、日蓮より光日尼宛ての書状が発せられた弘安4(1281)88日には、既に蒙古の大軍は壊滅し散り散りとなっていた。最終的には「蒙古襲来」自体は日蓮の予見どおりだったものの、文永11(1274)48日に平左衛門尉に向かって訴えた「病の起りを知らざらん人の病を治せば弥よ病は倍増すべし。真言師だにも調伏するならば弥よ此国軍にまく(負)べし。」(P979)等、彼が訴え続けた日本の敗戦・亡国はなかったのである。

 

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