滅びと再生の物語8

【 再び曾谷入道殿御書・最後の時に当たり「台密批判」となった 】

           身延山 山頂より
           身延山 山頂より

ここで教理的新展開として押さえたいのは、日蓮は文永11(1274)1120日の「曾谷入道殿御書」より公に台密批判を始めたということだ。

曾谷入道殿御書を著した時の日蓮の認識では、元軍の襲来は間近に迫り自身の身も危ういと感じていたのだろう。「最後なれば申すなり。恨み給ふべからず」(P839)と遺言の如く認めた書に慈覚大師円仁を名指しして、「大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部と」(P838)して、「伝教大師の鎮護国家」()の法を破壊した。「叡山に悪義出来して終に王法」()が尽きた、円仁の「悪義鎌倉に下って又日本国を亡ぼ」()そうとしていると痛烈に批判。

亡国が眼前となり、自身と檀越の存在も覚悟を要する時に至り、日蓮は青年期に学び、それまでは一定の配慮、評価、期待もしていた比叡山・台密に対する批判を展開していくのである。

続いて、「弘法大師の邪義は中々顕然」()空海による東密の邪義は明らかなので「人もたぼらかされぬ者もあり」(P839)と誑惑される人も少ないが、「慈覚大師の法華経・大日経等の理同事勝の釈は智人既に許しぬ。愚者争(いか)でか信ぜざるべき」()と、円仁の大日勝法華劣の教判、理同事勝は智有る学匠ですらも誑惑されるものだったので多くの人は円仁の教えを深く信じ込んでいると書いたのは、台密批判が最終段階に至って行われるようになった、一つの背景ともいうべきものだろうか。

 

【 日蓮は「他国侵逼難の現実化=蒙古襲来」を待って、台密への批判を開始することを心に期していたのではないか 】

都守基一氏の論考「法華取要抄の草案について」(「大崎学報」154P118)では、真蹟遺文である「法華取要抄」の草案「取要抄」(延山録外に収録)が身延山に曽存していたことが紹介されている。

同じく都守基一氏の論考「法華取要抄の成立」(「鎌倉仏教の様相」P363収載 1999 吉川弘文館)では、「『法華取要抄』の成立は文中に佐渡国の天変に関する記事がある故に文永11(1274)25日以降、文中の他国侵逼難の論調から1111日以前の成立」(趣意)と推定。そして草案である「取要抄」は「文永11(1274)25日以降、48日の平左衛門尉との会見以前」(趣意)と推定されている。

草案の「取要抄」には、「慈覚等忘本師実義付順唐師権宗人也。智証大師少似伝教大師。」とあって台密批判をしており、これは成稿の「法華取要抄」にはない。よって真蹟遺文では、文永11(1274)25日以降成立の草案「取要抄」が日蓮の台密批判の嚆矢(こうし)となる(趣意)ことが都守氏の論文では紹介され、山上弘道氏も氏の論考「『強仁状御返事』について」(興風22)において、都守氏の論考を肯定して引用されている。(尚、「法華取要抄」の草案は「取要抄」と同じく延山録外収録・身延曽存の「以一察万抄」があり、草案は計二冊となる)

 

日蓮の台密に対する認識は、文永9(1272)2月の「開目抄」(真蹟曽存)では「今真言の愚者等、印・真言のあるをたのみて、真言宗は法華経にすぐれたりとをもひ、慈覚大師等の真言勝れたりとをほ()せられぬれば、なんどをも()へるはいうにかいなき事なり」(P585)とあり、慈覚大師円仁の名を出してその誤りを正すも、教理的批判にまでは踏み入らない。系年・文永9(1272)と推定される「祈祷抄」(真蹟曽存)には「慈覚大師御入唐以後、本師伝教大師に背かせ給ひて、叡山に真言を弘めんが為に御祈請ありしに、日を射るに日輪動転すと云ふ夢想を御覧じて、四百余年の間、諸人是を吉夢と思へり。日本国は殊に忌むべき夢なり(P686)とあって、慈覚大師円仁の「夢」を引用しながら、「本師伝教大師に背」いて「叡山に真言を弘め」ているとしており、佐渡期において台密批判の萌芽が見え始めている。

そして文永11(1274)に入るに及んで、日蓮ならではの情報ルートにより「今年は他国侵逼難は必定でありそれは眼前」としていたのではないだろうか。48日の平左衛門尉との会見では「大蒙古国」襲来について、「今年は一定也」(P979)と明答しているのである。

文永11(1274)25日以降、「法華取要抄」の草案である「取要抄」に「台密批判」を書き入れる。しかしながら、「法華取要抄」を富木氏に届ける時には、まだ元軍は攻め寄せてこない。その成稿からは台密批判は削除されていた。そして105日の対馬、14日の壱岐への元軍の襲来の一報が日蓮のもとに届けられる。この時に至って日蓮は、1120日に曾谷氏に報じた書状「曾谷入道殿御書」において、公に台密批判に踏み切っている。

これら一連の展開から推測すると、日蓮は「他国侵逼難の現実化=蒙古襲来」を待って、台密への批判を開始することを心に期していたといえるのではないだろうか。では、なぜ他国侵逼難が起きるまで台密への公然たる批判をなさなかったのだろうか?自らの青年時代の学び舎、出身母体である故の遠慮だろうか?

 

この時の日蓮にとって、他国侵逼難の現実化は「国のほろぶべき(文永11[1274]1111日・上野殿御返事 定P836 日興本)という事態、即ち亡国となることと同義であった。この日蓮が言うところの「日本国が滅びる」という概念には、従来からの顕密仏教も滅びるというものが含まれているのではないか。亡国という事態は顕密仏教・諸宗教に力の無かった現実の証拠であり、その法験のなさが誰の目にも明らかになることである。「立正安国論」を以て「如かず、彼の万祈を修せんより、此の一凶を禁ぜんには」(P217)と喝破した日蓮には、念仏・禅・律・真言こそが邪法である故に「是くの如く仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ。結句は此の国他国にやぶられて亡国となるべきなり。」(本尊問答抄 定P1582 日興本)と、日本は亡国となるのだ。これから起きるであろう亡国という事態を頭に描いた時、青年日蓮が修学に励んだ母校である比叡山・天台宗・台密も他の仏教諸派と並んで、亡国の一因として指弾せざるをえないものがあったと思う。

そして、日蓮の比叡山・天台宗・台密批判の対象人物として真っ先に破折されたのが、台密の母胎を作った円仁であったと考えるのだ。元軍は文永11(1274)105日に対馬、14日には壱岐へと侵攻して、その一報が日蓮にもたらされた。惨状を聞いた日蓮の眼には「あはれなり。皆人の当時のゆき(壱岐)つしま(対島)のやうにならせ給はん事、おもひやり候へばなみだもとまらず」(上記・上野殿御返事)と、それは本土への元軍侵攻=日本国滅亡を意味した。故に諸宗破折の最終段階、台密批判の展開に到った、というのが現在の私の考えるところだ。

 

【 承久の乱の根本原因を知り密教批判・同時に亡国の因に加えられる  】

「曾谷入道殿御書」の9日前、1111日の「上野殿御返事(与南條氏書)(日興本)には「念仏宗と申すは亡国の悪法なり」(P836)とある。これは「立正安国論」で一凶として「法然浄土教」を挙げ、それを因としての他国侵逼難による亡国という思考が継続していたことを意味しよう。

そして次なる新展開の時に至り、「曾谷入道殿御書」では日本国は「壱岐・対馬の土民の如くに成」(P838)る、その亡国の因は「偏に仏法の邪見」()によるものであり、「仏法の邪見と申すは真言宗と法華宗との違目なり」()として邪なる教えは「真言宗」としているのである。後に東密・台密批判が過熱してくる建治から弘安の頃にかけて、東密批判を添加した「立正安国論・建治の広本」(P1455)も書かれる。

 

同じ「上野殿御返事(与南條氏書)」にも

真言宗と申す宗は本は下劣の経にて候ひしを、誑惑して法華経にも勝るなんど申して、多くの人々大師・僧正なんどになりて、日本国に大体充満して上一人より頭をかたぶけたり。これが第一の邪事に候を、昔より今にいたるまで知る人なし。但伝教大師と申せし人こそしりて候ひしかども、くはしくもおほせられず。さては日蓮ほゞこの事をしれり。後白河の法皇の太政の入道にせめられ給ひし、隠岐法王のかまくらにまけさせ給ひし事、みな真言悪法のゆへなり(P837)

とある。

 

これは、

真言宗の大日経は元は下劣なるものだったのが、インドより中国に来た善無畏が「大日経の『心の実相』『我一切本初』『大那羅延力』は、法華経の『一念三千』『久遠実成』『二乗作仏』と同じ法理である」「大日経には手に印を結ぶ仏の姿になることで仏と一体化する『身密』、口に仏の真言を唱え仏と一体化して対話する『口密』、大日如来を心に念ずることで仏の心となる『意密』の三密があるが、法華経は『意密』(念ずる仏はもちろん釈迦)のみであり、事相においては三密の揃った大日経が勝れている」という「理同事勝」の邪義を構えた。日本においても、空海や彼の弟子が大師や大僧正等の高僧となり、国中に真言の邪義が広まり朝廷以下が皆、その教えに頭を垂れているのである。このような真言こそが邪義の中でも第一の邪義なのだが、古今、その所以を知る人はいなかった。最澄のみが、邪義の根源を知りながらも密教については、詳論することはなかったのである。しかし、日蓮は密教の邪義たるを知ることができた。後白河法皇が平清盛に幽閉されたのも、承久の乱で後鳥羽上皇が鎌倉武家方に敗れたのも、真言密教の悪法により調伏をさせたからなのである。

というものであり、東密・台密の歴史的根源と密教の祈祷は敵ではなく我が身を滅ぼす因となってしまうという現証を説示している。

 

尚、「曾谷入道殿御書」の「禅宗と念仏宗とを責め候ひしは此の事を申し顕はさん料なり」(P838)とあるのは、「法門申しはじめ」の頃より東密・台密の邪義を認識して順番に念仏、禅を批判してきたというものではなく、今この時に至って思えば、これまで念仏・禅を批判してきたのは、「仏法の邪見と申すは真言宗と法華宗との違目なり」()ということ、即ち東密、台密を破する為であったという意味だろう。

 

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