自然智宗、山林修行そして日蓮 1

【 開元釈教録と貞元新定釈経目録 】

        立正安国論  中山法華経寺蔵
        立正安国論  中山法華経寺蔵

周知のように鎌倉時代の仏教経典・一切経には、奈良時代の聖武天皇(701756)の代(724749)に、大陸に渡った僧が写経して持ち帰った「開元釈教録(かいげんしゃくきょうろく)全20巻」の内10765048がある。また、それ以降に訳出された経典を追加して編纂した、「貞元新定釈経目録(じょうげんしんじょうしゃくきょうもくろく)30巻」もある。

 

日蓮の著作にもそれらを記述しているところから、「日蓮は『貞元釈経録』とともに、『開元釈教録』をもって中国伝来翻訳経典類等のよりどころとしている。」(「日蓮聖人遺文辞典・歴史編」P160)と考えられている。

 

以下、日蓮遺文での記述。

 

< 開元釈教録 >

 

「和漢王代記」建治2(1275) 真蹟

華厳宗

後漢の世より唐の神武皇帝、開元十八年庚午に至る六百六十四載に渡る所の経律論五千四十八巻訳者一百七十六人なり。(P2347)

 

「法華題目抄」

文永3(1266)16日 真蹟

仏世に出でさせ給ひて五十余年の間八万聖教を説きをかせ給ひき。仏は人寿百歳の時、壬申(みずのえさる)の歳、二月十五日の夜半に御入滅あり。其の後四月八日より七月十五日に至るまで一夏九旬の間、一千人の阿羅漢結集堂にあつまりて一切経をかきをかせ給ひき。其の後正法一千年の間は五天竺に一切経ひろまらせ給ひしかども、震旦国には渡らず。像法に入りて一十五年と申せしに、後漢の孝明皇帝永平十年丁卯(ひのとう)の歳、仏教始めて渡りて、唐の玄宗皇帝開元十八年庚午(かのえうま)の歳に至るまで、渡れる訳者一百七十六人、持ち来たる経律論一千七十六部・五千四十八巻・四百八十帙(ちつ)。是皆法華経の経の一字の眷属の修多羅なり。(P395)

 

 

< 貞元新定釈経目録 >

 

「貞元新定釈経目録」については、法然が「選択集」において自説を展開したものを引用紹介する中で、「貞元入蔵録」(「貞元新定釈経目録」の内、第29巻・30巻に収められている入蔵目録)として書かれている。

 

「災難退治抄」正元2(1260)2月 真蹟

問うて曰く、其の証拠如何。答へて曰く、法然上人所造等の選択集是なり。今其の文を出だして上の経文に合はせ其の失を露顕せしめん(P167)

中略

又云はく「貞元入蔵録の中、始め大般若経六百巻より法常住経に終はるまで顕密の大乗経総じて六百三十七部・二千八百八十三巻なり。皆須く読誦大乗の一句に摂すべし○当に知るべし、随他の前には暫く定散の門を開くと雖も、随自の後には還って定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉じざるは唯是念仏の一門なり」。

中略

已上選択集の文なり。(P168)

 

「立正安国論」文応元年(1260)7月 真蹟

主人の曰く、御鳥羽院の御宇に法然といふもの有り、選択集を作る。則ち一代の聖教を破し遍く十方の衆生を迷はす。其の選択に云はく(定P214)

中略

又云はく「貞元入蔵録の中に、始め大般若経六百巻より法常住経に終はるまで、顕密の大乗経総じて六百三十七部・二千八百八十三巻なり、皆須く読誦大乗の一句に摂すべし」(P215)

 

【 開元釈教録 】

            奈良 興福寺
            奈良 興福寺

後漢の明帝(孝明皇帝)の代、永平10年(67)の中国への仏教伝来(この時期と考えられている)より、唐の玄宗皇帝の代、開元18年(730年)に及ぶ664年間の漢訳経典、22787046巻を収録しているのが「開元釈教録」。

 

 

「開元釈教録」(「開元録」「智昇録」)は、唐の僧・智昇(668740)が編纂した仏教経典目録で、全20, 開元18730年)頃の成立とされている。

 

 

 

驚くべきは、僅か5年後には「開元釈教録」の内、五千余巻=10765048巻・一切経が日本にもたらされたことではないだろうか。

『続日本紀』巻第十六によると,法相宗四代・玄昉(げんぼう・?746)が霊亀2年(716)に入唐し,天平7年(735)に帰朝して,五千余巻(10765048)の経典及び諸仏像をもたらしている。

 

『続日本紀』巻第十六・天平十八年(746)六月

己亥。僧玄昉死。玄昉俗姓阿刀氏。靈龜二年入唐學問。唐天子尊・。准三品令着紫袈裟。天平七年隨大使多治比眞人廣成還歸。齎經論五千餘卷及諸佛像來。皇朝亦施紫袈裟着之。尊爲僧正。

 

玄昉の書写した五千余巻(10765048)の経典が,これ以降の、一切経を書写する際の有力な基準となった。

 

 「開元釈教録」は総括群経録」の巻1 -10と「別分乗蔵録」の巻11 -20に大別され、「総括群経録」は、訳者の年代順に、訳者名、訳経名、巻数、存佚、小伝などを列記。巻19、巻20の「現蔵入蔵目録」(大乗入蔵録・小乗入蔵録、実際に経蔵に収められる経典)の総計10765048巻については、「宋版大蔵経」(971年~977年にかけて蜀で版木が彫られ、983年に印刷される)に至る標準巻数となり、奈良朝の写経等はこの数字に従っている。

 

玄昉の経典五千余巻請来について、書道史家の飯島太千雄氏は著書の「若き空海の実像」(2009年 大法輪閣)において、その内実に迫る指摘をしている。(P233)

 

史家は、玄昉が『開元釈教録』とそこに記載された一切経の総て、10765048巻を舶載したことは認めても、なぜ、どうしてとは考えようとはせず、並()べてその歴史的評価に及ぼうとしない。『開元釈教録』は、智昇が開元18(730)に編んだものだが、五千余巻の一切経の転写となれば、国家権力をしても五年は要する。五年で成すには六人の経生を連日専従せしめて、二日に一巻のペースで書写し続けねばならない。『開元録』は勅願ではなく智昇の私撰であったが、隔絶したその内容の完成度から欽定に準じて扱われた。735年に帰国する玄昉がこれを舶載するには、玄宗皇帝の勅許を得て転写、僅か四年でその効を焉()えねばならない。これは、玄宗の勅命にしてのみ可能であって、そこに思い致さねばならない。

  

【 経録 】

         園城寺 一切経蔵
         園城寺 一切経蔵

主に中国で編纂された仏教経典目録のことを「経録(きょうろく)」と称されている。

 

「『開元録』以前の経録は、いずれも分類整理目録(大小乗・経律論などの分類に重点をおいた目録)の部分と、代録(訳者別・時代別目録)の部分とに統一を欠いていたが、『開元録』にいたってはじめて統一融合され、組織体裁の完備した包括的な目録となった。」

(「日蓮聖人遺文辞典・歴史編」P160)

 

東晋「綜理衆経目録」 (「道安録」, 佚書)

梁 「出三蔵記集」 (「僧祐録」)

隋 「歴代三宝紀」 (「三宝紀」)

隋  「衆経目録」

唐 「大唐内典録」 (「内典録」「道宣録」)

唐  「古今訳経図紀」

武周 「大周刊定衆経目録」

唐 「開元釈教録」(「開元録」)

唐  「貞元新定釈教目録」 (「貞元録」)

 

【 貞元新定釈教目録 】

貞元15(799)、唐の徳宗の勅令により開元年間(713741)以降訳出の経典を追加して、僧・円照が編纂した仏教経典目録。後漢の明帝(孝明皇帝)永平10年(67)より、徳宗の代、貞元16(800)までの734年間、24177388巻の経典を収録して貞元16(800)に成立。貞元録、円照録ともいう。

 

【 東大寺での写経 】

         東大寺 大仏殿
         東大寺 大仏殿

正倉院文書「写経請本」(「大日本古文書」巻七)によると、天平7年(735)に玄昉が請来した経典は、早くも翌天平8(736)929日以降、東大寺写経所での転写が始められ、天平勝宝元年(749)頃まで続けられている。その作業では開元釈教録」録外の経典も含め、七千巻余の経典が書写されたようだ。

 

転写目録中、密教経典に注目すると、「金剛頂経一巻=金剛頂瑜伽中略出念誦経(金剛智訳)」「蘇磨呼童子経二巻=蘇婆呼童子経(善無畏訳)」「大毘盧遮那経三巻=大日経(善無畏訳)」「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法一巻(善無畏訳)」などがあり、飯島太千雄氏によると、「善無畏の『虚空蔵求聞持法』は、私が確認しただけで、天平八年(736)九月以降、宝亀三年(772)までの三十六年間に十五回転写が記録されている。」(「若き空海の実像」P30)とのことであり、これは、この時代、同法に関心が寄せられ、また、その実践が行われていたことを意味するのではないかと思う。

 

では、虚空蔵菩薩求聞持法は玄昉帰国の天平7年(735)以降に始められたのかといえば、そうではないようだ。「延暦僧録」(1)の記述によれば、神叡が吉野の比蘇山寺で自然智を得る修行(それは虚空蔵菩薩求聞持法と推測される)を「二十年」続けていることが窺える。神叡の生年は不明だが、「元亨釈書」神叡伝(2)では天平9(737)に没したとしている。彼が山林修行を行じたのは若い頃だろうが、没年から20年を逆算してみても霊亀3年・養老元年(717)頃となる。ということは、和銅3(710)、元明天皇が藤原京より平城京に都を移して奈良時代が開幕した頃には、虚空蔵菩薩求聞持法は大陸より請来されていたことになるだろう。

 

1「延暦僧録」

鑑真の弟子で唐招提寺の建立に尽力して帰化した律宗の僧・思託(生没年不詳、奈良時代・天平勝宝6[754]唐より来日)が著した日本初の僧伝10巻。延暦7(788)成立、現存しない。

 

2「元亨釈書」

臨済宗の僧・虎関師錬(12781346)が元亨2(1322)、朝廷に上程した。日本への仏教公伝以来、鎌倉期までの仏教史、僧伝を綴る。

 

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