自然智宗、山林修行そして日蓮 2

【 唐僧・神叡 】

         奈良 世尊寺 比蘇山寺跡
         奈良 世尊寺 比蘇山寺跡

※これより以下は、薗田香融氏の論考「古代仏教における山林修行とその意義」(「虚空蔵信仰」編者・佐野賢治氏 1991年 雄山閣出版)の教示によりながらの展開になります。

 

 

奈良時代の唐僧、神叡(?~天平9[737])が芳野現光寺(3)20年間に亘って籠り、結果、自然智を得たことについて、「扶桑略記」(4)は天平2(730)1017日条に「延暦僧録」を引用して以下のように記す。

 

 

○十月十七日乙酉。大僧都弁静法師為僧正。【三論宗】

◎同日。神叡法師為小僧都。道慈法師為律師。唐僧思託作延暦僧録云。沙門神叡。唐学生也。因患制亭。便入芳野。依現光寺。結盧立志。披閲三蔵。秉燭披翫。夙夜忘疲。逾二十年。妙通奥旨。智海。淵沖。義雲。山積。盖法門之龍象也。俗時伝云。芳野僧都得自然智。【已上延暦僧録之文。】

 

「続日本紀」(5)天平16(744)10月には、

冬十月辛卯。律師道慈法師卒。【天平元年為律師。】法師俗姓額田氏。添下郡人也。性聰悟 為衆所推。大宝元年隨使入唐。渉覧経典。尤精三論。養老二年帰朝。是時釈門之秀者唯法師及神叡法師二人而已。

とあって、道慈(?744・南都大安寺に住した三論宗の第3)と並んで「釈門之秀」とまで称された学僧であったことが窺える。

 

 

3「芳野現光寺」

放光寺、比蘇寺、比蘇山寺とも称され、現在は曹洞宗世尊寺。白鳳期の創建か。芳野は現在の奈良県吉野郡大淀町

 

4「扶桑略記」

比叡山東塔西谷の功徳院に住した天台の学僧・皇円(1074?1169?・法然の師)が神武天皇から堀河天皇までの記事を、仏教関係を重点としてまとめた漢文編年体の歴史書。

 

5「続日本紀」

延暦16(797)に完成した六国史の第二番目の勅撰史書。文武天皇から桓武天皇までの歴史を記す。(40)

六国史~日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録

 

【 最澄の記述「自然智」・護命 】

         延暦寺 東塔 戒壇院
         延暦寺 東塔 戒壇院

時代はくだって、弘仁9年から10年にかけ、最澄は三つの「学生式」を朝廷に提出して允許を求める。弘仁9(818)513日に「天台法華宗年分学生式」(六条式)、同年8月末に「勧奨天台宗年分学生式」(八条式)、弘仁10(819)315日には「天台法華宗年分度者回小向大式」(四条式・以上三つを合わせて山家学生式と称される)を朝廷に上奏。

 

概要としては、

・天台法華宗の年分学生は比叡山寺で独自に得度。「梵網経」所説の大乗菩薩戒を授け、大僧として太政官が公認する。(六条式)

・遮那業と止観業の学生に十二年間の籠山を定め、比叡山寺独自の仏教学習を行い、終了後は国家の官符により修了者を伝法、諸国の講師として任用する。(六条式)

・天台法華宗の得度者は、戸籍を治部省玄蕃寮に移行しない。(八条式)

・東大寺、下野薬師寺、筑紫観世音寺の「天下三戒壇」で授けられていた戒は「四分律」であり、部派仏教の一つ法蔵部の律に基づいていた。これは小乗律であり、天台法華宗の年分学生並びに他の宗派より比叡山寺に来たって大乗を志向する者には小乗戒は受けさせず、大乗戒を授けて大僧とする。(四条式)

などというものだった。

 

大乗戒壇の建立、南都僧綱の統制から離れた独自宗派の勅許を求めた、要するに比叡山寺を独立した一向大乗の寺とする最澄の「山家学生式」を受け、嵯峨天皇は南都の僧綱に諮問。大僧都・護命を始めとする南都の僧綱は弘仁10(819)519日付けの「大日本六統表」を上奏して反対意見を表明。その中に「入唐した最澄は唐都(首都・長安)を見ることなく、ただ、辺州(台州、越州等)に在ったのみで還ってきてしまった。今、私に式を造って、たやすく奉献しているのである」旨の記述がある。この南都の「大日本六統表」に対して、弘仁11(820)、最澄は「顕戒論」(3)を著して反論、大乗戒の本旨を説いて大乗戒壇の正当性を主張する。文中、自己の入唐を云々されたことについて、僧綱の大僧都・護命は未だ辺州すらも見ていないのであり不忠の詞である、ましてや比蘇は自然智ではないか、と反駁している。これにより護命は比蘇の自然智に関係していることが窺われるのである。

 

 開示見唐一隅知天下上座明拠十八

僧統奏曰。最澄只在辺州。即便還来。寧知天下諸寺食堂。仏之所説。猶難盡行。詿誤之事。何為信用。已上奏文。

論曰。最澄向唐。雖不巡天下諸寺食堂。已見一隅。亦得新制。其文云。令天下食堂。置文殊上座。当今所奏詿誤之事。未見辺州。不忠之詞。若嫌辺州闕学失。何況比蘇自然智也。

 

顕戒論

「顕戒論」 森江英二 1917年

国会図書館近代デジタルライブラリー

 

【 最澄の記述「自然智」・徳一 】

      比叡山 峰道 最澄像
      比叡山 峰道 最澄像

弘仁7(816)から弘仁12(821)まで続いた法相宗・徳一(760?835?)との教理上の論争「三乗一乗論争(三一論争)・仏性論争」においても、最澄の著作中に「自然智宗」との表現が見受けられる。

 

 法華秀句・上末

若言短翮禀師説。未知。師師伝日本。若言道昭及智通。古記之中示其文。若言古徳所伝語。不足令信後学者。若言比蘇及義淵。自然智宗無所禀。短翮何言有禀。

 

法華秀句

伝教大師全集第3巻 比叡山専修院付属叡山学院編 1926年 比叡山図書刊行所

国会図書館近代デジタルライブラリー

  

 

 

 

 

最澄と激しい論争を行い、弘仁6(815)、空海からの密教典籍の書写・布教の要請に対しても、「真言宗未決文」を以て批判した官寺仏教を代表する論客・徳一。20歳にして東国に下った彼の詳細な経歴は明らかではないようだが、最澄の記述によれば、徳一は比蘇の自然智と関係しており、かつ、その一団は自然智宗と称されていたことが認識されるのである。

 

【 神叡から護命への学的系譜 】

            奈良 元興寺
            奈良 元興寺

最澄の大乗戒壇の求めに反対した南都・僧綱の代表者、法相宗の学匠である元興寺の護命は若年の頃、月の上半は吉野の深山に入り虚空蔵法を修し、下半は本寺に在したことが「続日本後紀」に記録されている。

 

「続日本後紀」承和元年(834)九月戊午条

戊午。天皇御大極殿。奉幣帛於伊勢大神宮。

是日。僧正伝灯大法師位護命卒。法師俗姓秦氏。美濃国各務郡人。年十五。以元興寺万耀大法師為依止。入吉野山而苦行焉。十七得度。便就同寺勝虞大僧都。学習法相大乗也。月之上半入深山。修虚空蔵法。下半在本寺。研精宗旨。教授之道。遂得先鳴。弘仁六年擢任少僧都。七年転大僧都。僧統之職。

 

ここで、薗田氏の論考では、文中の吉野山とは「恐らく比蘇寺に入居したものであろう」として、「日本後紀」から護命の学系をたどり「神叡―尊応―勝悟―護命」との「元興寺を中心とする法相宗唯識の相承系譜」を示す。

 

これにより、

・比蘇山寺に神叡入山以来、自然智宗と称される山林修行の伝統が形成されていたこと。

・元興寺法相宗系の一派が中核体となっていたこと。

・神叡の入山時期は明らかではないものの、「延暦僧録」に「逾二十年」とあるから、それは奈良朝初期であること

・同時に自然智宗の起源も奈良朝初期となること。

を結論する。

 

【 道璿 】

        奈良 世尊寺 比蘇山寺跡
        奈良 世尊寺 比蘇山寺跡

また、最澄の「内証仏法相承血脈譜」(弘仁10[819]の著作、系譜部は最澄筆、伝記部は後代とされる)所引の「吉備真備纂」の道璿(どうせん・702760、大安寺三論系、最澄の禅法の祖)伝に、比蘇入山の記述があることから、「当然『自然智』の行者に加わったに違いなかろう」とし、比蘇山寺は元興寺法相系のみならず、大安寺三論系の行者も共に居したことを示される。

 

 

 

 

内証仏法相承血脈譜・道璿伝

天平宝字年中正四位下大宰府大弍吉備朝臣真備纂云。大唐道璿和上。天平八歳至自大唐。戒行絶倫。教誘不怠。至天平勝宝三歳。聖朝請為律師。俄而以疾。退居比蘇山寺。

 

内証仏法相承血脈譜

伝教大師全集第1巻 比叡山専修院付属叡山学院編 1926年 比叡山図書刊行所

国会図書館近代デジタルライブラリー

 

続けて薗田氏は、「元亨釈書」の撰者・虎関師錬が同書中の「神叡伝」で、引用元となった「延暦僧録」の「自然智を得たり」との記述を「虚空蔵菩薩の霊感を得たり」と表現を換えていることに注目し、その理由を「今昔物語」を引用して、「自然智が虚空蔵から与えられるものであったから」とする。そして「自然智は虚空蔵菩薩を祈願の対象とし、この菩薩から賦与せられるものと考えられていた」こと、「自然智宗とは虚空蔵求聞持法によって聞持の智慧を得ることを目標とした山林修行の一派である」ことを解明されるのである。

 

「元亨釈書」

釈神叡唐国人。居元興寺講唯識。世言。得虚空蔵菩薩霊感。霊亀三年(正しくは養老三年[719])勅曰。沙門神叡。学達三空。智周二諦。戒珠光潔。慧海波深。冝施食封五十戸。天平九年(737)化。

 

ということは、比蘇山寺に入山して自然智の行者に加わった道璿も、虚空蔵菩薩求聞持法を行じたと考えてもよいだろう。では、神叡以下元興寺法相系の学僧と、大安寺三論系の道璿が比蘇山寺において修した「虚空蔵菩薩求聞持法」はいつ、誰によって請来されたものなのだろうか。

 

【 道慈 】

           奈良 猿沢池
           奈良 猿沢池

日本に「虚空蔵菩薩求聞持法」を請来した人物は、大安寺の道慈(?744、日本三論宗の第3)とされている。道慈は大宝2(702)の遣唐船で入唐。長安の西明寺で16年に亘り修学した後、養老2(718)10月に帰朝した。

 

「続日本紀」天平16(744)10月の項を再掲しよう。

冬十月辛卯。律師道慈法師卒。【天平元年為律師。】法師俗姓額田氏。添下郡人也。性聰悟 為衆所推。大宝元年隨使入唐。渉覧経典。尤精三論。養老二年帰朝。是時釈門之秀者唯法師及神叡法師二人而已。

 

薗田氏は中国の李華撰の「玄宗朝翻経三蔵善無畏贈鴻臚卿行状」と「宋高僧伝・善無畏伝」を引用して、開元5(717)、天竺から到着した善無畏はまず「求聞持法」一巻を漢訳しており、在唐中だった道慈が新訳出の同巻を携えて翌養老2(718)帰国したと推測。そして大安寺三論宗の正統派「道慈―善議―勤操」へ相伝された、それが空海の山林修行喚起の因となった、吉野比蘇山寺に自然智宗を形成した人達・神叡らは道慈より「虚空蔵求聞持法」を受け継いだであろう、とされている。

 

確かに善無畏と道慈は同時期に中国にいたのだろう。また、16年も現地に留まり学習、仁王般若経を講義する高僧100人の内の一人に選ばれるほど仏教経論に秀でており、帰国後も神叡と共に食封50戸を賜る、天平9(729)には律師に補せられる、平城京に大安寺を移設した時には長安の西明寺を模して伽藍を建てるほどの人物であったから、在唐時代には朝廷を始め相当な人脈、ネットワークも培ったことだろう。そのような道慈であれば、善無畏と密教経典の唐への到来、新訳経典の情報を耳にすること、それを手に入れることも可能だったと思う。

 

尚、日蓮遺文には開元4(716)以降、善無畏らがインドより中国に赴いたことが記されている。

 

「善無畏抄」文永3(1266)或いは建治元年(1275) 真蹟

善無畏三蔵は月氏烏萇奈(うちょうな)国の仏種王の太子なり。七歳にして位に即()き、十三にして国を兄に讓り出家遁世し、五天竺を修行して五乗の道を極め三学を兼ね給ひき。達磨掬多(だるまきくた)と申す聖人に値ひ奉りて真言の諸印契(いんげい)一時に頓受(とんじゅ)し、即日に御潅頂(かんじょう)なし人天の師と定まり給ひき。(けいそく)山に入りては迦葉尊者の髪をそ()り王城に於て雨を祈り給ひしかば、観音日輪の中より出でて水瓶(すいびょう)を以て水を灌(そそ)ぎ、北天竺の金粟(こんぞく)王の塔の下にして仏法を祈請せしかば、文殊師利菩薩、大日経の胎蔵の曼荼羅を現はして授け給ふ。其の後開元四年丙辰(ひのえたつ)に漢土に渡る。玄宗皇帝之を尊むこと日月の如し。(P408)

 

「聖密房御書」文永11(1274)56月頃  真蹟曽存

日蓮勘へて云はく、大日経は新訳の経、唐の玄宗皇帝の御時、開元四年に天竺の善無畏三蔵もて来たる。法華経は旧訳の経、後秦の御宇に羅什三蔵もて来たる。(P820)

 

「曾谷入道殿許御書」文永12(1275)310日 真蹟

太宗より第八代玄宗皇帝の御宇に、真言始めて月氏より来たれり。所謂開元四年には善無畏三蔵の大日経・蘇悉地経、開元八年には金剛智・不空の両三蔵の金剛頂経。此くの如く三経を天竺より漢土に持ち来たり、天台の釈を見聞して、智発して釈を作って大日経と法華経とを一経と為し、其の上、印・真言を加へて密教と号し之に勝るの由をいひ、結句は権経を以て実経を下す。漢土の学者、此の事を知らず。(P899)

 

「撰時抄」建治元年(1275)6月 真蹟

太宗第四代玄宗(げんそう)皇帝の御宇、開元四年と同八年に、西天印度より善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持て渡り真言宗を立つ。(P1013)

 

 

このように、玄昉(げんぼう・?746)が天平7年(735)に一切経を日本に請来する17年前より、「虚空蔵菩薩求聞持法」は我が国に伝わり吉野比蘇山寺での自然智宗として、また後の空海に見られるように山林修行に相応しい各地において修行されていたのではないか、と考えられるのである(6)

 

(6) 道慈と密教の関わりについては、藤井淳氏が著書「空海の思想的展開の研究」(2008年 トランスビュー)で疑問を呈している。(P64)

 

道慈は、初期の日本三論宗において重要な役割を果たした人物で、善無畏から虚空蔵求聞持法を受け、勤操、空海と伝えられたという記事が、空海との関連で従来注目されている。しかし道慈と善無畏との関係をはじめ、虚空蔵求聞持法の相伝についての記事は鎌倉期になるものであり、道慈と密教を関連づける記事の信憑性は低いと考えられる。また道慈には、二部の著作があったとされるが現存しない。

 

また、藤井淳氏は「そもそも奈良時代の僧侶に密教という認識はなかったと考えられる。」(P615)と指摘し、「奈良時代の密教について」(P85)詳細な考察を重ねている。

 

一方では、飯島太千雄氏は「若き空海の実像」において、天平4(732)秦公豊足の優婆塞貢進解(うばそくこうしんげ)の誦経に「大般若呪」「羂索呪」「仏頂呪」「虚空蔵呪」とあること。天平6(734)7月の鴨縣主黒人の優婆塞貢進解の誦経に「観世音経」等と共に「虚空蔵経陁羅尼」とあること。これらを示した後、「右二例の優婆塞貢進解により、幾つもの陁羅尼経が養老2(718)に帰国した道慈等によって舶載され、天平7(735)に帰朝した玄昉以前にかなりの隆盛を見ていた事が分る。という事は、玄昉の帰国以前に、古密教の経疏がもたらされ、奈良仏教に密教が浸透し出していたと見るべきだろう。」(P30P31)とし、以下、詳細な考察を重ねている。

 

どちらの主張を用いるべきか、現段階の私の考えでは、「密教という認識はなかった」としても、実際には典籍は伝来しているのであり、飯島氏の指摘する「古密教」は事実上、「存在していた」「体感されていた」が、「密教と明確に認識され、密教と名付けられていなかった」ということではないかと思う。いずれにしても、奈良時代に「密教認識はあったのか、なかったのか」については、興味の尽きない論点だ。

  

【 各宗・学系共に行った山林修行 】

        千葉 清澄寺 千年杉
        千葉 清澄寺 千年杉

これまでの経緯をまとめてみよう。

大安寺を平城京に移し日本三論宗第3伝とされる道慈が虚空蔵菩薩求聞持法を唐より請来。それは善議~勤操の大安寺三論系の正統派に相伝されると共に、道慈は神叡を始めとした吉野比蘇山寺に自然智宗を形成した修行者達にも伝える。神叡よりは「神叡―尊応―勝悟―護命」という元興寺を中心とした法相宗唯識の相承系譜にも、「求聞持法」は継承されたと考えられる。更には、唐において戒律、禅、華厳を学び三論宗義、天台教学にも通じていた道璿が天平8(736)に日本に招かれ、それらを伝えて自らも吉野比蘇山寺に入り、そこで自然智の行者に加わっており、それは虚空蔵菩薩求聞持法を修したものと考えられる。

 

このような、三論、法相、そして律、禅、華厳、天台教学に秀でた人物が自然智宗を形成、虚空蔵菩薩求聞持法を修行した。比蘇山寺に集う修行者は一様に自然智宗と呼ばれたが、実際はそれぞれの学系、宗派、本寺があった。しかし、そこでは共通の目的、自然智を得るというものがあり、そのために無限なる宇宙空間の尽きることのない知恵、溢れる慈悲を内蔵し、知恵、知識、記憶力増進の利益をもたらすとされる虚空蔵菩薩への修行を重ねたのである。

 

知力、記憶力の増進は仏道に生きる者、誰もが願うところのものだ。この虚空蔵菩薩の利益するところからすれば、その求聞持法は特定の宗派、学系に狭められるものではなかったのであり、事実、日本においては各宗・各学系共通の修行として始まった。そして若き空海の実践により東密で定着し、台密にも摂り入れられ、それは「聖」達によって日蓮の故郷、安房の国清澄寺にもたらされることになるのである。(宝亀二年[771]不思議法師が虚空蔵菩薩の尊像を謹刻し一宇を建立、との寺伝は後世に作られた伝承だろう)

 

このような位置付けの虚空蔵菩薩であれば、各宗・学系の教理、思想、信条に捉われない存在、更に上に位置付けられていたものではなかったろうか。

 

このことは日蓮の遺文からも窺えると思う。

日蓮が「此の諸経・諸論・諸宗の失を弁へる事は虚空蔵菩薩の御利生、本師・道善御房の御恩なるべし。亀魚すら恩を報ずる事あり、何に況や人倫をや。此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め、道善御房を導き奉らんと欲す(P473 文永7年「善無畏三蔵抄」 当書の真蹟と推される断簡あり) と経典の勝劣を知り、法華経最第一を覚知したのは虚空蔵菩薩の御利生、本師・道善御房の御恩であるとしたこと。東密破折の書を「これは大事の法門なり。こくうざう(虚空蔵)菩薩にまいりて、つねによみ奉らせ給ふべし。」(P826 文永1156月頃「聖密房御書」 真蹟曽存)と、清澄寺の虚空蔵菩薩の前で読むように教示したこと。

遺文中のこれらの記述によって、虚空蔵菩薩の位置付けは教理的思考を超越したものであり、日本に請来された奈良時代より平安時代、鎌倉時代と縦に、また各宗・各学系を横断して横にも継承され、天台の僧として「法門を申しはじめ」た日蓮も、虚空蔵菩薩について前代からの認識理解を継承する一人であった、と考えられるのである。

 

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