虚空蔵菩薩再考

【 各地の虚空蔵菩薩・1 】

まずは虚空蔵菩薩安置の寺院を調べてみよう。

 

「慈覚大師の開山・再興」との伝承を持つ寺院が東日本各地に多数存在することについては、以下のことを先に記した。

・平安末期の聖人信仰の高揚が時代背景としてある

・「聖」と呼ばれる天台系の僧侶が諸国を歩き伝道教化した

・「聖」は同時に中央の最新知識、土木技術を伝えた

・「聖」自身も新道を通す、田畑を開くなどの地域の総合的な開発を進めた

・「聖」は再興した寺院を聖人・祖師信仰の聖地とすることを目指した

・そのために慈覚大師にまつわる様々な伝説を作り上げた

(佐藤弘夫氏の「霊場の思想」[2003年 吉川弘文館]による)

 

少年日蓮が登山した清澄寺は「771年・宝亀2(奈良時代)、不思議法師が訪れて虚空蔵菩薩を祭祀。836年・承和3(平安時代)、慈覚大師が再興する」と伝えており、これも「聖」の教化伝道の一環であったろうか。

 

ところで、虚空蔵菩薩を安置する寺院というのは全国に数多あるのだが、虚空蔵菩薩はどのような姿なのだろうか。

 

一例として

文化庁 > 文化遺産オンライン > 虚空蔵菩薩像 平安時代12世紀 鎌倉時代13世紀

 

大阪府貝塚市 > 国指定重要文化財・孝恩寺(浄土宗) 木造虚空蔵菩薩立像

大阪府貝塚市木積798

 

愛知県稲沢市 > 市指定文化財・萬徳寺(真言宗豊山派) 絹本著色虚空蔵菩薩像

愛知県稲沢市長野3-2-57

 

同市 > 国指定重要文化財・亀翁寺(きおうじ・曹洞宗) 木造虚空蔵菩薩坐像

愛知県稲沢市北市場町873

 

埼玉県さいたま市 > 市指定有形文化財・興徳寺(曹洞宗) 木造虚空蔵菩薩坐像

さいたま市西区宮前町1700

などが参考となるだろうか。

 

【 各地の虚空蔵菩薩・2 】

さて、「日本三大何々」といえば「河川」「清流」「瀑布」「松原」「潮流」「温泉」巨木」「名所」から「盛り場」「港湾」「鉄道路線」、そして「祭り」に「神輿」「天神」「鳥居」続いて「寺」「霊場」「食べ物」に至るまで、実に様々なジャンルに冠されているのだが、「如来」「薬師」「不動」「妙見」とあれば当然、虚空蔵菩薩についても然りとなる。ところが、自薦、他薦を合わせると簡単に三つを通り越してしまい、「日本三大虚空蔵尊」どころか「十大」またはそれ以上となってしまうようだ。どこの寺院も譲らない?だろうから、「A寺とB寺だ」と確定するのはまずはムリだと思われる。

ここで、それら各地の寺院を概観してみよう。これらによれば、聖の開創による寺院というのは天台系の聖によるものだけではなく、東密系の聖達の活動もいかに活発であったかが窺えるのではないかと思う。

 

 

 

 

 

霊岩山圓蔵寺(えんぞうじ・臨済宗妙心寺派)

福島県河沼郡柳津町柳津字寺家町甲176

本尊は釈迦如来だが、虚空蔵堂の柳津虚空蔵尊が知られる。福満虚空蔵尊とも称する。

< 寺伝 >

807年・大同2年、空海作とされる虚空蔵菩薩を法相宗の徳一が堂舎=虚空蔵堂を作り安置する。その後、虚空蔵堂の別当寺として建てられたのが圓蔵寺であると伝える。

もう一つの伝承としては、804年・延暦23年、空海が唐での修学を終え帰国する際に高僧より霊木を授かった。帰国後、三つに分けた霊木を海に投げると一つは千葉県の小湊へ流れ着き、それを刻んだ像が清澄寺の能満虚空蔵尊と称される。二つ目は茨城県の東海村へ流れ着き、空海が大満虚空蔵尊を刻む。三つ目は会津柳津町に流れ着き、空海が福満虚空蔵尊を刻んだ、というもの。

至徳年間(13841387・南北朝時代)に臨済宗となり、江戸時代に入って真言宗になるも、1627年・寛永4年に臨済宗に復帰する。真言宗は僅か20年位であり、いかなる事情によるものだったか。

・福島県柳津町商工会 > 福満虚空蔵尊

個人の方のホームページ「PHOTO CAFÉ」の「寺巡り」に圓蔵寺の写真がある。この仏像写真を見ると、さいたま市・興徳寺の木造虚空蔵菩薩坐像と容姿が似ているような気がするのだが・・・?

 

 

村松山日高寺(ひだかでら・真言宗豊山派)

一般的には村松山虚空蔵堂と称する。

茨城県那珂郡東海村村松8

< 寺伝 >

807年・大同2年、空海が日本各地を教化して歩き当地を訪れた際、海の彼方の輝く老木を引き上げて等身大の虚空蔵菩薩座像を刻み安置したのが始まり、と伝える。

その際、平城天皇より「村松山神宮寺」の勅額を賜ると。

または円仁の開基によるとの伝承もある。

平安末期から鎌倉、南北朝、室町、安土桃山時代までの500年間、佐竹氏の庇護を受け隆盛。

1485年・文明17年、戦火により伽藍、勅額を焼失。

1487年・長亨元年、頭白上人により再建され神宮寺より日高寺へと改め称する。

 

 

勝峰山金剛證寺(こんごうしょうじ・臨済宗南禅寺派)

虚空蔵菩薩を徳一満虚空蔵尊または福威智虚空蔵尊とも称する。

三重県伊勢市朝熊町岳548

< 寺伝 >

6世紀半ば、欽明天皇が僧・暁台に命じて明星堂を建てると伝える。

825年・天長2年に空海が密教道場として中興すると伝える。

1392年・明徳3年、鎌倉建長寺5世の仏地禅師東岳文昱(とうがくぶんいく)が再興し東密から臨済宗に改宗する。

室町時代に、伊勢神宮の丑寅(北東)に金剛證寺が位置していることから「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として伊勢信仰と結びつく。

伊勢音頭の俗謡「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ 朝熊駆けねば片参り」

・三重県観光開発株式会社・伊勢志摩スカイライン > 朝熊岳金剛證寺

 

 

柳津山宝性院(真言宗智山派)

柳津福智満虚空蔵尊とも称する。

宮城県登米市津山町柳津字大柳津63

< 寺伝 >

726年・神亀39月、行基が天皇よりの勅を受け東国巡遊の折り、一刀三拝(一回刻んで三回頭を下げる)して虚空蔵菩薩を刻み一宇を開創したことに始まる、と伝える。818年・弘仁9年、空海が堂に籠っての21日間密行を勤めて大黒天と毘沙門天を刻み虚空蔵菩薩の両脇に安置する、と伝える。

 

 

明鏡山円満院星井寺

成就院(真言宗大覚寺派)所有の境内外の堂宇で虚空蔵堂と呼ばれる

神奈川県鎌倉市坂ノ下18-28

730年・天平2年、全国行脚中の行基が鎌倉に立ち寄る。元々、ここには「星月の井」(鎌倉の水資源とした十の井戸=鎌倉十井の一つ)と呼ばれる井戸があり、その中では明星の輝きが見えると聞いた行基が覗いたところ虚空蔵菩薩の姿を拝した。行基は虚空蔵菩薩を刻み、堂宇を建て安置した、と伝える。

成就院の地は空海が護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法を修した霊跡と伝え、1219年・承久元年、鎌倉幕府3代執権の北条泰時が京都より高僧を招来、不動明王を祀り成就院を開創する。尚、鎌倉市内における行基開創を伝える寺院は他に杉本寺、岩殿寺がある。

 

 

金生山明星輪寺(みょうじょうりんじ・真言宗)

美濃赤坂虚空蔵菩薩と称する。

岐阜県大垣市赤坂4610

686年・朱鳥元年、持統天皇の勅命により役小角が開山、虚空蔵菩薩を安置と伝える。

801年・延暦20年、空海が再興し真言宗に改宗と伝える。

 

 

智福山法輪寺(真言宗五智教団)

虚空蔵法輪寺、嵯峨虚空蔵とも。

京都府京都市西京区嵐山虚空蔵山町68

713年・和銅6年、元明天皇の勅願により行基が堂宇を建て木上山葛井寺(もくじょうざんかづのいでら)として開創し国家安穏、五穀豊穣を祈る勅願所となる、と伝える。

その後、空海の弟子・道昌(798875)が付近の大堰川(おおいがわ)を修築、橋を架け船便を開く。また、周辺の荒れ地を開墾して田畑を整備して葛井寺に参籠、虚空蔵菩薩求聞持法を修した後、虚空蔵菩薩を安置する。868年・貞観10年に法輪寺と称する。尚、日蓮等、鎌倉時代の祖師達もここに参籠したと伝える。

 

 

柳井山湘江庵(しょうこうあん・曹洞宗)

柳井津虚空蔵尊とも称する。

山口県柳井市柳井新町3058-1

寺伝

柳井市の地名発祥の地。1400年前、豊後の国満野長者の娘・般若姫が橘豊日皇子(後の用明天皇であり聖徳太子の父)のもとへと上京するため船で瀬戸内海を航行中、嵐に遭遇してこの地に滞留する。姫は里人の出した井戸の水を飲んで「おいしい」と喜び、「お礼に」と中国・明帝大王から贈られた柳楊枝を井戸の傍らにさしこむ。一晩経過したところ芽を吹き出し、やがて柳の巨木となった、と伝える。

柳井市 > 観光される皆さまへ > 観光施設 > 柳と井戸(湘江庵)

・柳井市観光協会 > 見る・遊ぶ > 柳と井戸

 

 

当目山香集寺(曹洞宗)

福偉智満虚空蔵尊

静岡県焼津市浜当目1721

寺伝

聖徳太子作の虚空蔵菩薩を815年・弘仁6年、空海が当所に寺院を開創して安置、と伝える。

 

 

高松寺・福一満虚空蔵菩薩堂(こうしょうじ・臨済宗妙心寺派)

青森県八戸市南郷区大字島守字門前27-1

1449年・宝徳元年に開創と伝える。

 

 

大満虚空蔵尊

新潟県村上市朝日地区猿沢

寺伝

730年・天平2年、行基が一刀三拝して虚空蔵菩薩を刻み山の岩窟に安置したことに始まる、と伝える。1157年・保元2年後鳥羽上皇第三皇子雲上佐一郎が法師一透斉の案内により登山し一宇を建立し虚空蔵菩薩を安置し奥の院と称する。

・「村上市観光ガイド会」ブログ

【 虚空蔵菩薩像の代表例 】

 

菩薩像については以下が知られているようだ。

 

蜂岡山広隆寺(こうりゅうじ・真言宗)

京都府京都市右京区太秦蜂岡町32

603年・推古天皇   11年または622年・推古天皇30年に創建と伝え、平安遷都前から存在する京都市最古の寺院。創建当初は弥勒菩薩、平安遷都前後から薬師如来、その後聖徳太子信仰を中心とする寺院となる。

・京都市 > 京都観光Navi > 広隆寺

 

 

熊凝山額安寺(かくあんじ・真言律宗)

奈良県大和郡山市額田部寺町36

寺伝

聖徳太子の建立とされるも、地元豪族額田部氏出身の道慈律師が建立し額田寺と名付けられたと伝える。道慈は702年に入唐遊学、718年に帰国、金光明最勝王経や虚空蔵菩薩求聞持法をもたらしたとされる。日本三論宗の第3伝とされている。安置の虚空蔵菩薩半跏像は道慈律師作と伝える。鎌倉時代には西大寺叡尊、忍性、慈信らが再興する。

・奈良県大和郡山市 > 史跡・文化財 > 乾漆虚空蔵菩薩半跏像

・南都・大安寺(高野山真言宗) > 人物・道慈律師

 

 

妙見山法輪寺(ほうりんじ・聖徳宗)

奈良県生駒郡斑鳩町三井1570

622年・推古天皇30年または670年・天智天皇9年に創建と伝える。

虚空蔵菩薩立像は「観音菩薩と称すべき」としている。

 

 

他に高雄山神護寺(じんごじ・高野山真言宗)多宝塔と八幡山東寺(とうじ・教王護国寺とも・東寺真言宗)観智院は五大虚空蔵菩薩で知られている。

 

 

※五大虚空蔵菩薩

五智如来(五大如来とも=中心・大日如来、東方・阿閦如来、南方・宝生如来、西方・阿弥陀如来、北方・不空成就如来)の如意宝珠の相を表した像(五智如来の変化身)であり、五大金剛虚空蔵ともいう。五種類の鳥獣に乗った姿で、五大虚空蔵求富貴法(富貴増益、息災=一切の災厄を消滅する)という修法の本尊となる。画像では描いた円の中に更に五つの円を描いて、各円中に虚空蔵菩薩を顕す。

 

法界虚空蔵

中央・白色身

法界・解脱・智慧

左に鉤を持つ(以下の菩薩も全て左に鉤を持つ)、右に火焔宝珠を持つ

獅子上の蓮華座に乗る。

 

金剛虚空蔵

東方・黄色身

金剛・福徳・愛嬌・福智

右に金剛杵を持つ

象上の蓮華座に乗る。

 

宝光虚空蔵

南方・青色身

無垢・福徳

右に三弁宝珠を持つ

金翅(こんじ)鳥上の蓮華座に乗る。

蓮華虚空蔵

西方・赤色身

蓮華・施願・能満

右に紅蓮華を持つ

孔雀上の蓮華座に乗る。

 

業用(ごうよう)虚空蔵

北方・黒紫色身

宝光・能満・官位

右に宝珠を持つ

馬上の蓮華座に乗る。

 

【 各地の虚空蔵菩薩・3 】

続いて、各地に伝わる虚空蔵菩薩を見てみよう。

現在は「文化財」に登録されているものが多く、それらは役所のホームページなどで公開されている。 

 

奈良県大和郡山市 > 史跡・文化財 > 重要文化財 金剛山寺(こんごうせんじ・高野山真言宗)北僧房 木造虚空蔵菩薩坐像

一般的には矢田寺と呼ばれる

奈良県大和郡山市矢田3506

矢田寺

 

 

松本市文化財 > 市指定文化財 > 長安寺(臨済宗妙心寺派) 木造虚空蔵菩薩坐像

長野県松本市会田611

 

 

河内長野市 > 課別で情報を探す > 河内長野の歴史遺産:担当業務・業務案内など > 河内長野の歴史・文化財について > 重要文化財 金剛寺(真言宗御室派) 絹本著色虚空蔵菩薩像

大阪府河内長野市天野町996

天平年間(729748)聖武天皇の勅願により行基が開創、弘仁年間(810824)空海も密教の修行をしたと伝える。

 

 

茨城県教育委員会 > 県指定文化財 > 山口地区管理 木造虚空蔵菩薩坐像

茨城県桜川市真壁町田913

 

 

長野県上田市 > 上田市文化財マップ > 法住寺(天台宗)虚空蔵堂

長野県上田市東内4313

貞観年間、円仁による開創と伝える。

菩薩像そのものではないが、堂宇が文化財になっている。

 

【 少年日蓮と虚空蔵菩薩 】

       少年日蓮像 小湊 誕生寺
       少年日蓮像 小湊 誕生寺

少年日蓮は山岳密教の霊場である清澄寺に登山し虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給へ」との願いを立てる。

 

文永7年「善無畏三蔵抄」(P473当書の真蹟と推される断簡、京都妙覚寺にあり)

日蓮は安房国東条の郷、清澄山の住人也。幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云。

 

少年日蓮の「日本第一の智者となし給へ」との祈請は、尽きることのない宇宙空間の如く無限なる智慧、福徳、慈悲を所持、その顕れとされる虚空蔵菩薩に対するに相応しい「大いなる願い」ともいえようか。仏菩薩に祈請する・・・ここから日蓮の修学が始まったのである。

 

青年となった日蓮は「然而(しかるに)随分諸国を修行して学問し候ひしほどに」(P1580 本尊問答抄 日興本)と鎌倉、比叡山を始め、各地を周って修学を重ねるも「我身は不肖なり、人はをしへず。十宗の元起、勝劣たやすくわきまへ(弁)がたき()と日蓮の欲するところに答えをもたらすもの、掴み得る何ものかは容易にはなく困難を伴うものであった。

 

しかし、青年日蓮はここでも祈請し、そして考え、経典世界に没頭した。

たまたま仏菩薩に祈請して、一切の経論を勘へて十宗に合せたるに」(P1581 本尊問答抄)

「一の願を立つ。我れ八宗十宗に随はじ。天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく、一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云く法に依て人に依らざれ等云云」(P1194 報恩抄)

 

そこで彼は一定の結論を得る。

されば仏の遺言を信ずるならば、専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか」(P1194報恩抄)「日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱、粗、伺ひ侍りぬ」(P473 善無畏三蔵抄)と、諸経の勝劣を弁えた日蓮は法華経こそが釈迦「一代五十年の已今当之三説に於て最第一の経也」(P102 守護国家論)とするのである。

 

そこに至った因として日蓮は「虚空蔵菩薩、眼前に高僧とならせ給ひて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給ひき。其のしるしにや」(P473 善無畏三蔵抄)、「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思(おぼ)し食()しけん、明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候ひし故に(P1133 清澄寺大衆中)との、少年時の祈請に伴う宗教的体験を綴るのである。

 

虚空蔵菩薩が高僧と変じて明星の如き智慧の宝珠を少年に授ける、少年は宝珠を右の袖に受け取る・・・・・

 

もちろん、このような宗教的体験をしたからといって突然にして「一切経典に通達解了」というものは常識的には有り得ない話だろう。これは、虚空蔵菩薩に祈りを捧げる中で「明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖に」受け取るという不思議なる体験をし、それが、胸中に修学、研鑽への揺るぎなき信念の炎となった。そして若き日蓮は虚空蔵菩薩への誓願を果たすべく、また少年時の宗教的体験を現実化すべく、胸中の火をますます盛んにたぎらせながら不断の努力を重ねた、その結果が「法華経・最第一」というものだった、ということではないだろうか。

 

純粋にして曇りなき少年時の祈り、青年時代の研鑽の苦闘、「法華経・最第一」の開悟、それらを総じて日蓮は「此の諸経・諸論・諸宗の失を弁へる事は虚空蔵菩薩の御利生、本師道善房の御恩なるべし」(P473 善無畏三蔵抄)と、師僧たる道善房、清澄寺で日々拝したであろう虚空蔵菩薩の恩である、として記しているのである。

 

そして、「法華経・最第一」の確信をつかみ壮年となった日蓮は道善房と虚空蔵菩薩の恩」に報いるために、初めての法華勧奨の地を故郷・清澄寺としている。

「亀魚(かめ)すら恩を報ずる事あり。何に況んや人倫をや。此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め、道善御房を導き奉らんと欲す」

(P473 善無畏三蔵抄)

「虚空蔵菩薩の御恩をほう(報)ぜんがために、建長五年四月二十八日、安房の国東条の郷清澄寺道善之房持仏堂の南面にして、浄円房と申すもの竝びに少々の大衆にこれを申しはじめ、其の後二十余年が間退転なく申す」(P1134 清澄寺大衆中)

 

【 東密破折の書を虚空蔵菩薩の前で読む 】

      昭和定本 日蓮聖人遺文より
      昭和定本 日蓮聖人遺文より

日蓮が「法華経・最第一」を「申しはじめ」て以降、虚空蔵菩薩の前で読むように促した書状が二つある。

 

文永1156月頃「聖密房御書」(P826 真蹟曽存)

これは大事の法門なり。こくうざう(虚空蔵)菩薩にまいりて、つねによみ奉らせ給ふべし。

 

清澄寺の大衆の一人と思われる聖密房に送った書状は「理同事勝」を始めとして、

「法華経には印・真言なけれども二乗作仏劫国名号・久遠実成と申すきぼ(規模)の事あり。大日経等には印・真言はあれども二乗作仏・久遠実成これなし。二乗作仏と印・真言とを竝ぶるに天地の勝劣なり」(P823)

等、東密の教理破折を展開しており、台密については、

「天台宗の人人は一同に真言宗に落ちたる者なり」(P822)

「久遠実成なんどは大日経にはをもひもよらず。久遠実成は一切の仏の本地、譬へば大海は久遠実成、魚鳥は千二百余尊なり。久遠実成なくば千二百余尊はうきくさの根なきがごとし、夜の露の日輪の出でざる程なるべし。天台宗の人人この事を弁へずして、真言師にたぼらかされたり。」(P824)

等と東密に「たぼらかされている」天台宗の態度を批判するのみで、「法華真言」の台密に対する破折は見られず、蒙古襲来を機に始まる本格的台密破折の「前段階」のようなものとなっている。

 

迫りくる蒙古襲来の不安渦巻く世情の中で、身延入山以降の日蓮が本格的な東密批判を展開していることが知れる書であると共に、それを故郷・清澄寺の虚空蔵菩薩の前で読むように聖密房に促すということは、聖密房自身が密教系の僧であったか、または日蓮に帰依したものの長年の密教信仰に染まっているものがあったか、を示すものだろう。それは「不便にをもひまいらすれば目安に注せり。御ひまにはならはせ給ふべし=あなたを不憫に思うので目安として書き注したのである。時間のある時に学んでいくべきです」(P826)と、当書の学習を促していることからも窺えると思う。

 

ここで気になるのが、虚空蔵菩薩といえば周知のとおり真言密教の菩薩であるということだ。東密の祖・空海自らが唐に渡る前に虚空蔵菩薩求聞持法を修しており、「明星は影を来す=明星・虚空蔵菩薩の応化が来影した」との宗教的体験をしたことが空海の著「三教指帰」に記されている。その空海・真言を破折した書を、空海修行の虚空蔵菩薩求聞持法の本尊の前で読む・・・・いわば真言密教批判の書を真言密教の一修行の際の本尊の前で読むように、とは何を意味するのだろうか。

 

今日の富士門流の一部の信仰による発想では「日蓮は立教以降、法華経以外の一切経を破折しており、虚空蔵菩薩の前での読了云々は信心未熟なる、機の劣る弟子への一旦の方便的教導」云々、となることであろう。しかしながら、それはやはり、日蓮滅後に作られた信仰からの考えであり、ここは日蓮の時代に還っての思考が要求されるところだと思う。

 

おそらくは、ここ(虚空蔵菩薩の前で読むということ)には教理的な難しい意味合いは含まれていないのではないか。

 

日蓮及び多くの清澄寺大衆は虚空蔵菩薩が真言密教の菩薩であることは周知のことだったが、日常の修行・研鑽においては虚空蔵菩薩の教理的位置付けというものは特段に意識されてはおらず、清澄寺の本尊として当然の如くにそこに存在していた、というものではないだろうか。その上で個々の学僧・修行僧が有縁の浄土三部経、大日経などを読み、念仏を唱え、法華経一部を読誦し、印を結び真言を唱える者もいたことだろう。これらは台密・東密の法脈のある寺院であれば、ごく普通のことである。

 

後の「院主阿闍梨寂澄」の自筆納経札(早稲田大学所蔵文書)に見られるように、日蓮の時代以前から清澄寺は虚空蔵菩薩求聞持法を修する地として喧伝されているのだから、「清澄寺といえば虚空蔵尊、虚空蔵尊といえば清澄寺」という内外の認識があり、浄土三部経、禅、法華経、大日経のどれであれ、自己が「第一」とする、または有縁の経典への信とその修行に精進する者でも、虚空蔵菩薩に帰命するのは当然のことだったのではないか。

 

「これが第一ではあるが、そちらもよいものであり否定すべきではない」そのような諸宗兼学、融和、共存という信仰に包まれた清澄寺であれば、教理的思考による破折、批判というものが及ばないもの、それが(寺院の統一的なシンボルでもある)本尊としての虚空蔵菩薩であったのだろう。それを常の思考としていたのは、在住の大衆のみならず、日蓮もその一人だったと考えるのである。

 

いずれにしても、日蓮は聖密房に対して東密批判の書を送り、密教信仰からの覚醒を促そうとした(または以前の密教信仰の垢を落とそうとした)。信仰的覚醒、受持法華の確信を抱かせるための教導の書は、少年日蓮(=自己)が祈請した「清澄寺の本尊」であり、智力増進をもたらす利益を有する虚空蔵菩薩の前で読み諸経の勝劣を思惟すべし、日蓮はそのような思いであったろうか。

 

【 清澄寺の信仰世界の中心的存在・虚空蔵菩薩 】

      昭和定本 日蓮聖人遺文より
      昭和定本 日蓮聖人遺文より

建治2または文永12111日「清澄寺大衆中」(P1136)

このふみは、さど(佐渡)殿とすけあさり(助阿闍梨)御房と虚空蔵の御前にして大衆ごとによみきかせ給へ

 

諸宗兼学・融和であり、様々な仏菩薩に祈り、多様な経典を誦していた密教寺院・清澄寺の大衆に送った「清澄寺大衆中」は、特にその文末で、蒙古襲来の時は日本が蹂躙されることは(文永の役の時の)壱岐、対馬の如し、かくなる前に日蓮に帰依すべし(法華経を受持せよ)との意を強く感じさせる書であり、故に多くの衆僧に知らしめるべく、弟子のすけ()阿闍梨とさど殿(佐渡公日向)が、大衆ごとに集まる虚空蔵菩薩の前で読み聞かせるように命じたものだろう。

 

ここに、清澄寺の寺僧は「大衆ごとに」集まっていたこと、それは「虚空蔵の御前」であることが知られるし、「弘安三年五月晦日」付けの「院主阿闍梨寂澄」による「当山者、慈覚開山之勝地 聞持感応之霊場也」との自筆納経札とあわせ考える時、日蓮の誕生遥か以前から清澄寺は虚空蔵菩薩求聞持法を修する霊場であったこと、故に多くの修行僧が集ったであろうこと、それは日蓮と同時代も続いていたこと、虚空蔵菩薩は清澄寺の信仰世界の中心的な存在であったろうことが窺われるのである。

 

日蓮は東密、台密に本格的な破折を加えている建治期になっても、また、くだって弘安元年(実際は弘安2)とされる101日付の「富木入道殿御返事=禀権出界抄」に「第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了()へず。所詮末法の今に譲り与へしなり。五五百歳とは是なり。」(P1590 真蹟)と記すように日蓮独自の教理的展開を見せる頃においても、清澄寺の中心的存在ともいえる真言密教の虚空蔵菩薩には一言も云々しない、教理的なコメントは加えないのである。求聞持法を修した空海、円仁には容赦のない呵責をしながらも、当の虚空蔵菩薩には言及しない。

 

ということは「真言諸宗違目」で「教主釈尊衣を以て之を覆ひたまはん」(P641 真蹟)と、日蓮は大難の時に釈迦仏の衣に覆われていた=釈迦仏に守られていた、としていたのと同様、その一代を通して故郷の虚空蔵菩薩への恩を忘れることはなかった、虚空蔵菩薩との絆は不変であったということがいえるのではないだろうか。

 

日蓮の少年時代の祈りの地、修学・研鑽が始まった原点の地、法門を「申し始めた」地、その後の受難の連続の一生となった原点の地、それが清澄寺の虚空蔵菩薩の前なのである。日蓮は「法華経・最第一」を立てながらも、立教以降しばらくは「法華真言」という天台宗の信仰世界の中にあり、それを前提とした(また包まれながら)教理的展開、行動をしていた(竜口以降は脱するが)のと同様、故郷の虚空蔵菩薩は「日蓮の法門」の思考、展開の及ばない域にあり、少年時の誓願成就と虚空蔵菩薩への報恩に生き続けたことは一生涯を貫くものだった、と見られるのである。

 

 

※延山録外の書「破良観等御書」(建治2)の記述も他の遺文と合致している。

予はかつし()ろしめ()されて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願(がん)を立て、日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此の願を立つ。其の所願に子細あり。今くはしくのせがたし。其の後、先づ浄土宗・禅宗をきく。其の後、叡山・園城・高野・京中・田舎等処々に修行して自他宗の法門をならひしかども、我が身の不審はれがたき上、本よりの願に、諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからず、いづれも仏説に証拠分明(ふんみょう)に道理現前ならんを用ふべし、論師・訳者・人師等にはよるべからず、専ら経文を詮とせん。

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