観心本尊抄一考 4

4 日蓮の意とするところは?

以上、当該文についての二通りの解釈、「曼荼羅本尊と仏像本尊を説示」「曼荼羅本尊を説示」を確認したが、私は『文永104月当時の日蓮』は、前者の意で当該文を記述したと考えている。

 

【 曼荼羅と一尊四士 】

             江の島
             江の島

文永8912日、「日蓮流罪に当たれば教主釈尊衣を以て之を覆ひたまはんか。去年九月十二日の夜中に虎口を脱れたるか。」と後の遺文(文永955日付け「真言諸宗違目」真蹟)に記したように、日蓮は竜口の虎口を釈迦仏の衣に覆われて脱し得た。

続いて、配流の地・佐渡において初の越冬をした日蓮は、文永9410「日蓮が臨終一分も疑ひ無し。頭を刎()ねらるゝの時は殊に喜悦有るべく候。大賊に値ふて大毒を宝珠に易()ふと思ふべきか」(P619「富木殿御返事」真蹟)と、自らの死の必定たること、法華経故に身命を失う喜びの心情を記す。

 

以降の経緯については、以下に概要をまとめる。(「佐渡始顕本尊一考」でも再度確認する)

・釈迦仏が「我が滅後末法に入らずば此の大法いうべからず」(P1447 三沢抄)と制した此の法門出現」()の内実を記したものが「開目抄」であり、「観心本尊抄」と考えられる。

・日蓮は「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(P539「開目抄」真蹟曽存)と、法華経の本門である如来寿量品第十六の文の底に一念三千を見出し、久遠の仏によって成就されている一念三千を、法華経を介して衆生のものとなすべく、具体的な救済論として確立した。

・「観心本尊抄」において「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」(P720)受持即観心により、末法の衆生は久遠仏の功徳力に潤うとした。

・「観心本尊抄」では「妙法曼荼羅」の相貌を示し、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。四大声聞の領解に云はく『無上宝聚、不求自得』云云」(P711)自然譲与を、そして「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に末だ此の本尊有さず。」(P720)と一閻浮提第一の本尊が立つこと(後に見るように一尊四士なのだが、曼荼羅の意も含まれていると考える)を宣言した。

・この背景には、死罪・流罪という受難によって法華経の行者としての自己の仏教上の立場が明確となり、それまで抱いていた天台宗・台密に対する一定の配慮、期待というものを越えて「日蓮(我れ)による衆生救済の時となった」との強き自覚があったと思われる。

・一切衆生皆成仏道の導師、救済者は、明確に日蓮となったのであり、「開目抄」の三大誓願「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ(P601)の精神に立脚して「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」との宣言を発し、(一尊四士の造立は後に期すこととして、直ちに自らが成し得ること、即ち)曼荼羅の図顕を始めたと考えられる。

 

 

このように妙法曼荼羅の図顕を始めた日蓮であったが、彼の法華経信仰世界における師弟観では、自己を規定して「日蓮賎しき身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来たれり」(P664・文永9年「四條金吾殿御返事(梵音声書)」日興本・北山本門寺蔵)と自らを「如来使」としており、「教主釈尊は一代の教主、一切衆生の導師なり」()と、教主たる釈迦を崇敬、礼拝する仏弟子なのである。

 

そして、「仏と申すは三界の国主」(P881・文永122月または建治3821「神国王御書」真蹟)娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり。」(P992建治元年58日「一谷入道御書」真蹟)一切衆生は釈尊の御子なり。」()「釈迦仏も又一切衆生の親なり。又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし。」()と、教主釈迦は「三界の国主」「娑婆世界を所領とする領主」「一切衆生の親」「一切衆生の明師」なのだから、釈迦を可視的世界に顕してそれを崇敬することも至極当然のことであっただろう。事実、日蓮は釈迦仏を安置して礼拝し、日興筆録の弘安51016日付け「宗祖御遷化記録」に「佛者 釈迦立像」とあるように、それは終生のものであった。であれば、「釈迦一仏に脇士として四菩薩を造立添加し、本門寿量品に開顕される本仏釈尊を意味させた一尊四士こそ、末法において初めて造立されるもの」として説示するのも、法華経の行者、如来使としての自覚を深めた日蓮の法門展開としてなされるのは必然であったといえ、「観心本尊抄」著作の段階に至って曼荼羅と一尊四士を説示したと考えるのである。

 

「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑(ねうし)の時に頸はねられぬ。」(P590「開目抄」) 「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(P1446 「三沢抄」)と、佐渡期以降、新たなる内面世界を開拓した日蓮が「妙法曼荼羅」の図顕と共に、正法・像法二千年間における「小乗教の釈尊と脇士たる迦葉尊者・阿難尊者」「権大乗並びに涅槃経・法華経迹門等の釈尊と脇士たる文殊師利や普賢等の迹化の菩薩」という仏像本尊を越えた前代未聞の「法華経本門寿量品に開顕される本仏釈尊、脇士である四菩薩」の出現と崇重を説くのは、教主たる釈迦と如来使たる自己の位置付けを更に鮮明にするものでもあったといえよう。日蓮は脇士たる四菩薩、なかんずく仏滅後の弘通を託された上行菩薩と自らの法華経実践を重ね合わせていたと思うのだ。

 

教主釈迦が主師親三徳を備え、三界の国主・領主でもあること、日蓮自身は上行菩薩としての使命を有した如来使であることを端的に明示しているのが、末法に初めて造立される一尊四士ではなかったろうか。

【 日蓮が一尊四士を造立しなかったわけは? 】

              万年救護本尊讃文
              万年救護本尊讃文

 

 

 

では、日蓮は曼荼羅の図顕に力を注ぎ、「観心本尊抄」に示した一尊四士を造立しなかったのはなぜなのだろうか?

 

 

 

①釈迦立像奉安と日蓮の姿

「万年救護御本尊」の讃文には、「大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之」とあって、日蓮は自らをして上行菩薩ということを暗示している。日蓮が上行菩薩であるならば、「随身仏」と呼称される「釈迦立像」を奉安して仕える姿自体が久遠の師弟を顕したもの、即ち信仰上の「一尊四士」を示しているといえるだろう。そして、物理的な造立は下記に見られるような理由により、後日を期したと考えられるのではないだろうか。

 

②一門の財力と門下の増加

日蓮の一生を概観すれば、日蓮とその一門に相当な財力があったとは思えず、ましてや、一門として仏師に仏像製作を大量に依頼、それを弟子檀越に与えるなどは考えもしなかったことだろう。しかし、紙であれば富木氏のような立場のある門下による調達が可能な上、図し顕す人・日蓮の思い一つで直ちに曼荼羅を作製できる。実際、文永末・建治から弘安期にかけて檀越は増え続けたようで、少なからぬ門下より本尊を望まれたことだろうし、紙本曼荼羅により応じたことだろう。相貌座配を少なくした、一紙のいわゆる「略本尊」が弘安期に多く見受けられるのがそれを物語っていると思う。

 

日蓮の身延在山期、門下はささやかな供養を捧げて本尊授与を願い出る。日蓮は曼荼羅を顕して授与する。この繰り返しが常態であったことだろう。そんな中でも、持仏堂などを擁する邸宅に住んだ者、地位・財力のある者は釈迦仏像を造り、安置したと思われる。その事例としては、まず「光日房御書」(建治23月・真蹟断片)が挙げられる。文中、「されば故弥四郎殿は、設ひ悪人なりともうめる母、釈迦仏の御宝前にして昼夜なげきとぶらはば、争でか彼の人うかばざるべき。」(P1160)とあって、日蓮は息子に先立たれた安房天津の光日尼に、釈迦仏の宝前で追善菩提をするよう勧めている。光日尼邸では釈迦仏像を安置していたのである。また、建治2715日に四条金吾の「釈迦仏の木像一体」(P1182・四條金吾釈迦仏供養事 真蹟曽存・真蹟1紙断簡)の開眼について教示し、弘安222日には金吾夫人の「三界の主教主釈尊一体三寸の木像」(P1623・日眼女釈迦仏供養事 真蹟曽存)について、「日々月々の大小の難を払ひ、後生には必ず仏になるべし(P1624)後生も疑ひなし。二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なり(P1625)と最大級の讃嘆をしている。仏像造立は門下個々の力量に委ねられたものであれば、実際には相応の者は少なく、それにより「一尊四士」造立は事例としても存在しなかったものではないだろうか。

 

③末法逆縁の時

経済的な事情に加え、末法逆縁の時代ということも考えなければならないと思う。

日蓮は鎌倉の草庵を複数回襲撃されていて、特に「文永法難」時には「仏像・経巻を諸人にふまするのみならず、糞泥にふみ入れ」(P892・神国王御書 真蹟)と、釈迦仏像が足蹴にされ糞尿にまみれており、その光景は網膜に焼きついたことだろう。このような官憲の逮捕や暴徒の急襲等、有事の際には「紙本曼荼羅」であればすぐに持ち出せることを考慮したのではないか。それにより、「一尊四士」の造立安置については一門を取り巻く環境が落ち着いてから等、後日を期したとも考えられるのである。ただし、身延に草庵を構えて以降は、同所は深山に位置しており突如の襲撃というものは考えづらいのだが、日本国全体がいつ蒙古に攻め込まれるかも知れないという穏やかならざる世情を思い、やはり、「一尊四士」造立は差し控えたのではないかと思う。

 

④一門の法門信解

先に見たように、「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩」が「三国の王臣倶に未だ之を崇重せざる由」を説者が「之を申」したことについて、問者は「前代未聞の」ことなので「耳目を驚動」して「心意を迷惑」するとしており、日蓮は一尊四士の造立は未だかつてないことである故、聞いた者は驚き迷うであろうことを予期している。そして一度だけでは信解に及ばないであろうことを念頭に「請う、重ねて之を説け。委細に之を聞かん。」と、再度の説教を要請する記述をしている。「観心本尊抄副状」(真蹟)にも「此の書は難多く答へ少なし、未聞の事なれば人の耳目之を驚動すべきか。」(P721)とある。

 

「末法に来入して始めて此の仏像出現」と、末法に至って初めて出現する法華経本門寿量品の釈尊と四菩薩である故に、眼にした者、聞いた者の驚き、信仰上の迷いというものを日蓮は思い、また文永法難よりの再建渦中である一門の法門理解の程度を考慮して、「観心本尊抄」で一尊四士を説示するも、直ちにそれを作ることは控えたのではないだろうか。

 

法華伝道初期の「唱法華題目抄」には「第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」(P202)と説いており、第一の本尊として法華経・題目を定め、次には「たへたらん人」即ち法門を理解して、その信仰実践が増進し、かつ財力もある者は「釈迦如来・多宝仏・十方の諸仏・普賢菩薩等」の木画の造像を勧めている。そして、この本尊観の延長上に「観心本尊抄」に説かれた曼荼羅と一尊四士が位置するのではないか。文永末から建治・弘安の日蓮の事跡を見ると、彼は弟子檀越は「曼荼羅」の深い意味は理解しなくとも、それを拝せる又拝するべき者としたが、一尊四士については日蓮の意とするところを理解させる必要があった、また弟子檀越は「耳目を驚動」「心意を迷惑」させるであろう、信解に至らぬ機、段階と判断したのではないだろうか。

 

⑤国主帰依の時を期した(このことは後述)

現時点では、「日蓮が一尊四士を造立しなかった最大の理由」と考えている。

日蓮の「立正安国論」進呈以来の念頭には、七難興起、仏法の正邪の決着、国主の帰依は相互に関連しており、「観心本尊抄」の「今の自界叛逆・西海侵逼の二難」「此の時」との表現には、国主の帰依という前提条件も含有されていたのではないだろうか。故に国主の法華経受持を待って初めて「日蓮自らが関わる一尊四士の像」を、「一閻浮提第一の本尊」として造立するのが日蓮の構想ではなかったか、と考えるのである。

 

 

このように、日蓮一門の法門信解、財力、官憲の逮捕・暴徒による不意の襲撃等、末法逆縁の時というものを踏まえ、また国主帰依の時を期して、「一尊四士」の造立は一門にとって環境が整うまでとして後日を期した。仏像本尊は持ち出し容易な釈迦一体仏が主となり四菩薩を加えることはなかった、と私は考えている。そして、日蓮の身延入山以降は(後の)一弟子・六老僧を中心とした門下の法華勧奨が活発化し、信徒の激増に伴い本尊授与の要望が増えたことにより、直ちに顕せ、且つ持ち運びが容易、財力も仏像ほどは要しない紙本曼荼羅の図顕と授与が主となった、といえるのではないだろうか。

 

「日蓮の本尊観」というものは、仏()本尊と法本尊に優劣はなく、仏像本尊・曼荼羅本尊並列、即ち仏()本尊・法本尊並列というものだったと考えられるのである。

 

※弘安2517日付けの「四菩薩造立抄」は「本満寺録外」「三宝寺録外目録」「刊本録外」に収載されているのだが、真蹟が伝わらず不確実なものであるため、ここでは引用しない。富木氏が中山において護持すべき聖教を記した「常修院本尊聖教事」(永仁7(1299)36日付け・祖滅18)には、「釈迦立像並四菩薩 入御厨子」とあって、富木氏のもとで一尊四士が造立されたことが窺われるが、いつ作られたのかは不明ではないか。

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