観心本尊抄一考 5

5 「一閻浮提第一の本尊」は一尊四士と曼荼羅か

【 仏の記文 】

本文(当抄全体30番問答のうち30番問答内の文)

問うて曰く、仏の記文は云何(いかん)。答へて曰く「後五百歳、閻浮提に於て広宣流布せん」と。

天台大師記して云はく「後五百歳、遠く妙道に沾(うるお)はん」と。妙楽記して云はく「末法の初め冥利(みょうり)無きにあらず」と。伝教大師云はく「正像稍(やや)過ぎ已()はって末法太(はなは)だ近きに有り」等云云。「末法太だ近きに有り」の釈は、我が時は正時(しょうじ)に非ずと云ふ意なり。伝教大師、日本にして末法の始めを記して云はく「代を語れば像の終はり末の初め、地を尋ぬれば唐の東、羯(かつ)の西、人を原(たず)ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり。経に云はく、猶多怨嫉況滅度後と。此の言(ことば)(まこと)に以(ゆえ)有るなり」と。此の釈に「闘諍の時」と云云。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。

此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為()りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支(がっし)・震旦(しんだん)に末だ此の本尊有(ましま)さず。

日本国の上宮(じょうぐう)、四天王寺を建立す。未だ時来らず。阿弥陀・他方を以て本尊と為す。聖武天王、東大寺を建立す。華厳経の教主也。未だ法華経の実義を顕さず。伝教大師、粗(ほぼ)法華経の実義を顕示す。然りと雖も、時、未だ来らざるの故に東方の鵝王(がおう)を建立して、本門の四菩薩を顕さず。所詮、地涌千界の為に之を譲り与うる故也。(P719)

 

質問する。「末法に本化の菩薩が現れて妙法蓮華経を弘める」という仏の未来記の文には、どのようなものがあるのだろうか。

答えよう。

法華経薬王菩薩本事品には「後の五百歳、閻浮提に於いて広宣流布せん」とある。

天台大師智顗の「法華文句」には「後の五百歳、遠く妙道に沾わん」とある。

妙楽大師湛然の「法華文句記」には「末法の初め冥利無きにあらず」とある。

伝教大師最澄の「守護国界章」には「正像稍過ぎ已わりて、末法太だ近きに有り」とある。

この「末法太だ近きに有り」というのは、最澄の時代は法華経の正時ではない、という意味なのである。

伝教大師最澄は日本国において末法の初めを「法華秀句」に、「代を語れば像の終り末の初め、地を尋ぬれば唐の東、羯(靺羯国・まかつこく)の西、人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり。経に云く、猶多怨嫉況滅度後と。此の言良に以有るなり」と記している。

伝教大師最澄の釈に「闘諍の時」と記すのは、今の自界叛逆という国内の乱と西海侵逼という他国襲来の二つの大難を指しているのである。

 

【 本門の釈尊の脇士と為(な)りて⇔本門の釈尊を脇士と為(な)す 】

さて、ここからが問題である。

前に続いての文は次の二つの読み方、どちらを採用すべきだろうか?

 

「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為()りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。」

 

「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為()す、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。」

 

この二つの読み方については、私は前の読み方を採用すべきと考えている。当時の日蓮の書簡には「教主である釈尊」が随所に記され日蓮自身が釈迦を仏として尊信しているのに、その「本門寿量品の本仏・釈尊=久遠実成の釈尊」を「脇士と為す一閻浮提第一の本尊」を日蓮が思考するなどは考えられないからだ。また、釈迦を仏と尊信することについては、書状を届けられた弟子檀越を始めとする一門も当然のごとく信受、理解したことだろう。日蓮自身が「仏()本尊・法本尊並立=仏像本尊・曼荼羅本尊並立」の本尊観を終生持ち続けたと考えられるのに、文永10年当時の、いまだ本尊としての釈迦仏像と曼荼羅の関係、その法義を熟知していない門下に対して、「本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊」と読んで聞かせたならば、どこまで認識、理解できたであろうか。

 

ここで、該文より前となるが、以下の記述を見てみよう。

 

所詮迹化・他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず。末法の初めは謗法の国にして悪機なる故に之を止(とど)めて、地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたまふ。

又迹化の大衆は釈尊の初発心の弟子等に非ざるが故なり。天台大師の云はく「是我が弟子なり応(まさ)に我が法を弘むべし」と。妙楽の云はく「子、父の法を弘む世界の益(やく)有り」と。輔正記(ふしょうき)に云はく「法是(これ)久成の法なるを以ての故に久成の人に付す」等云云。(P715)

中略

今末法の初め、小を以て大を打ち権を以て実を破し、東西共に之を失し天地(てんどう)せり。迹化の四依は隠れて現前(げんぜん)せず、諸天其の国を棄()て之を守護せず。此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。

「謗に因()って悪に堕つは、必ず因って益を得()」とは是なり。我が弟子之を惟(おも)へ、地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり。寂滅道場にも来たらず双林(そうりん)最後にも訪(とぶら)はず、不孝の失(とが)之有り。迹門の十四品にも来たらず本門の六品には座を立ち、但八品の間に来還(らいげん)せり。是くの如き高貴の大菩薩、三仏に約束して之を受持す。末法の初めに出でたまはざるべきか。当(まさ)に知るべし、此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責(かいしゃく)し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持(ぐじ)す。(P719)

 

ここに示されたように、「我が(釈尊)内証の寿量品を以て授与」されたのが「地涌千界の大菩薩」であり、釈尊より付属を受けた上行菩薩の弘法・取次により「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与」されていくのである。更に、この頃には上行菩薩としての自覚を有したであろう日蓮は教主「釈尊の初発心の弟子」なのであり、その上行菩薩と自己を重ねていただろう日蓮であれば、彼が思考する「一閻浮提第一の本尊」が教主釈尊・久遠実成の釈尊を脇士とするなど、有り得ないことだと思う。

 

当該文に関して、富士門流の派祖・日興の記述がある。「興風」15P134、「日蓮大聖人の思想()」山上弘道氏の論文には以下のようにある。

「本文の読みについて、京都府要法寺蔵、日興写本『観心本尊抄』の富谷日震による対校表(『大崎学報』二八巻五一頁)によれば、日興上人により『為脇士』の『為』の字に『ナリテ』とルビが振られており『本門ノ教主釈尊ノ脇士トナリテ』と読んでいるようである。」

 

【 一閻浮提第一の本尊=一尊四士・仏(人)本尊 】

以上、見てきたように「本門の釈尊の脇士と為()りて」との読み方が妥当と思われる。それでは該文の意味するところを考えてゆこう。結論を記せば、ここでの「一閻浮提第一の本尊」とは「一尊四士」になると考える。

 

本文

此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為()りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支(がっし)・震旦(しんだん)に末だ此の本尊有(ましま)さず。

日本国の上宮(じょうぐう)、四天王寺を建立す。未だ時来らず。阿弥陀・他方を以て本尊と為す。聖武天王、東大寺を建立す。華厳経の教主也。未だ法華経の実義を顕さず。伝教大師、粗(ほぼ)法華経の実義を顕示す。然りと雖も、時、未だ来らざるの故に東方の鵝王(がおう)を建立して、本門の四菩薩を顕さず。所詮、地涌千界の為に之を譲り与うる故也。(P720)

 

このように、経釈に示されたものが的中して二難が興起する時に、地涌千界の菩薩が日本国に出現して、本化の四菩薩が法華経本門寿量品の釈尊(久遠実成の釈尊)の脇士となる、一閻浮提第一の本尊がこの国に建立されるであろう。インド、中国にも、いまだこのような本尊は存在しなかった。日本国では聖徳太子が四天王寺を建立したのだが、未だ時が至らなかった故、他方の教主たる阿弥陀仏を本尊とした。聖武天王は東大寺を建立したが、華厳経の教主・盧舎那仏を本尊とした。これらは未だ法華経の実義を顕していないのである。伝教大師最澄はほぼ、法華経の真実の意義を顕示したが、未だ末法の時が来らず、本門の本尊を建立する時ではなかったので、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来を建立して本尊とし、法華経本門の四菩薩を顕すことはなかった。結局、地涌千界の菩薩に本門の本尊建立を譲り与えたからなのである。

 

肝心部分の本文と訳を対照すると、

 

・「此の時」

経釈に示されたものが的中して二難が興起する時に(後述するがここには「国主の帰依」も含意されると考える)

 

・「地涌千界出現して」

地涌千界の菩薩が日本国に出現して

 

・「本門の釈尊の脇士と為()りて」

本化の四菩薩が法華経本門寿量品の釈尊(久遠実成の釈尊)の脇士となる

 

・「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」

一閻浮提第一の本尊がこの国に建立されるであろう

 

・「月支・震旦に末だ此の本尊有さず」

インド、中国にも、いまだこのような本尊は存在しなかった。

 

となるのだが、「観心本尊抄」述作の時には、自界叛逆の難は前年・文永92月の二月騒動として起こり、西海侵逼の難=他国侵逼の難は蒙古の襲来が間近と思われる状況下であり、それは沸騰点に達しつつあった。日蓮は前年(文永9)1024日に、蒙古襲来について夢想した「夢想御書」(P660・真蹟)を記している。もちろん、現実に蒙古が攻め寄せてきたわけではないが、最早免れようのない必定ともいうべきものだから、日蓮の思考では他国侵逼難は起きている事態であったといえるだろう。日蓮はこのような時に、「地涌千界の菩薩が末法に出現して、本化の四菩薩が法華経本門寿量品の釈尊の脇士となる、一閻浮提第一の本尊が日本国に建立されるであろう」とするのである。

 

尚、ここで本門の釈尊の脇士を「本化の四菩薩」とするのは、当該文に正像二千年に造立された阿弥陀仏、盧舎那仏、薬師如来に対していまだ「法華経本門の四菩薩を顕さず。所詮、地涌千界の為に之を譲り与うる故也」とあって、地涌千界の菩薩が法華経本門の四菩薩を顕すことが前文より続けて記され、それは当然、四体のみ単独で造立されるものではなく、末法という時に本門の釈尊の脇士として顕されてこそ久遠の師弟子を示し、本尊として意味あるものとなるからである。

 

20番問答では、正法・像法二千年の間は「小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と」して造立され、「権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為」して造立された。これら正法・像法二千年の釈尊に対して、「寿量の仏」は未だ存在せず、それは末法に至って「初めて出現する仏像」であり、「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩」という法華経本門寿量品の釈尊(久遠実成の釈尊)を中心に四菩薩が脇士となる、「一尊四士」であったことが示されている。そして「一尊四士」は「三国の王臣倶に未だ之を崇重せざる」ものだったのだが、30番問答に至って、末法の日本国において、自界叛逆の難・他国侵逼の難が現実化する時に、地涌千界の菩薩によって建立される「一閻浮提第一の本尊」として、造立の時、場所、造立者、本尊の形態、法義上の位置付け、その意義が説示されるのである。

 

造立の時=「今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり」「此の時」国主の帰依を含意

場所=「此の国に立つべし」日本国

造立者=「地涌千界出現して」地涌の菩薩

本尊の形態=「本門の四菩薩」が「本門の釈尊の脇士と為りて」

本尊の法義上の位置付け=「一閻浮提第一の本尊」

本尊の意義=「月支・震旦に末だ此の本尊有さず」

 

【 「今の」「此の時」に国主の帰依が含意されるか 】

日蓮は存命中に一尊四士を造立しなかっただろう所以については「20番問答」で見たが、「30番問答」で注目すべきは、「今の自界叛逆・西海侵逼の二難」「此の時」ではないかと思う。

 

日蓮は「経釈に示されたものが的中して二難が興起する時に、地涌千界の菩薩が日本国に出現して、本化の四菩薩が法華経本門寿量品の釈尊(久遠実成の釈尊)の脇士となる、一閻浮提第一の本尊がこの国に建立されるであろう。」とするのだが、「立正安国論」進呈以来、彼が主張していた、「自界叛逆の難」「他国侵逼の難」が的中した以上、次の段階、というよりも同時にあるべきものとして、

謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん。」(P220「立正安国論」以下も)

「早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし。」(P223)

「帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや豈騒がざらんや。国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。汝須く一身の安堵を思はゞ先ず四表の静謐を祈るべきものか。」(P225)

汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし。」(P226)

との国主の捨邪帰正、即ちこの時の実質的な国主・北条時宗が法華経を受持して一閻浮提第一の本尊=一尊四士に合掌礼拝することが文永104月当時の、日蓮の描く構想ではなかったろうか。(この場合の一尊四士は、環境が整えば門下の力量に応じて造立される、いわば一門個々の本尊ではなく、国主帰依・広宣流布の象徴ともなる一閻浮提の本尊としての一尊四士である)

 

弘安元年321日の「諸人御返事」(真蹟)には「所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合はせ是非を決せしめば、日本国一同に日蓮が弟子檀那となり、我が弟子等、出家は主上・上皇の師となり、在家は左右の臣下に列ならん。将又一閻浮提皆此の法門を仰がん。」(P1479)とある。弘安元年に至っても、身延の日蓮は公場対決での諸宗との正邪の決着、日本国一同の法華経受持、「出家は主上・上皇の師」「在家は左右の臣下」となることを待望しており、ましてや、文永104月、蒙古の襲来がいつ起きるかも知れない異様な雰囲気に包まれていたであろう国土にあった日蓮は、流人の身の上でありながらも、「立正安国論」進呈以来の本願である国主の法華経受持を熱望、期していたのではないかと思うのだ。

 

この国主の帰依は、実際的には、蒙古襲来間近の今か、侵攻開始・戦闘となってからか、蒙古の侵攻が終了した段階か、それにより亡国ともいえる惨状を呈してからか、どのタイミングであるのかはともかく、国主が日蓮の勘文を受け入れ法華経信仰世界の守護者ともならない限りは、前に見たように、日蓮一門には「財力面の事情」「急襲がいつ起きるか分からない」「一尊四士では持ち出しが困難」という、一尊四士の造立が容易ではない、また作ってもいつ破却されるか分からない環境が継続するのである。更に一門の法門信解の程度というものもあった。ただし、以上は「消極的理由」になると考えるのだが、何よりも日蓮の本願は自界叛逆・他国侵逼の『二難興起の前』に国主が勘文を受け入れて、日本国が法華経流布の国となることだった。ところが、日蓮を事実上の死罪、そして流罪に処した今となっては、『二難興起の時』に国主が勘文を受け入れる方向に転じている。日蓮の「立正安国論」進呈以来の念頭には、七難興起、仏法の正邪の決着、国主の帰依は相互に関連していたのであり、「今の自界叛逆・西海侵逼の二難」「此の時」との表現には、国主の帰依という前提条件も含有されていたと思うのだ。故に国主の法華経受持を待って初めて「一尊四士」を、「一閻浮提第一の本尊」として造立するのが日蓮の構想ではなかったか、と考えるのである。

 

20番問答で、問者は説者より「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば、三国の王臣倶に未だ之を崇重せざる」と聞いたことを記した中に、敢えて「三国の王臣」と記述したところにも、一閻浮提第一の本尊である「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩」=一尊四士は「天下泰平国土安穏」の責を担う三国の王臣が礼拝すべきものである、との日蓮の意が表れているのではないだろうか。「立正安国論」を著した時の「所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽う所、土民の思う所なり。」(P220)との思いは、日蓮の脳裏にいつもあったと思う。

 

【 日蓮遺文の仏本尊 】

()本尊を示したものは、「観心本尊抄」の前記当該文以外では「像法の中末に観音・薬王、南岳・天台等と示現し出現して、迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して、百界千如、一念三千其の義を尽くせり。但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊、未だ広く之を行ぜず。所詮円機有って円時無き故なり。」(P719)がある。「南無妙法蓮華経の五字」と別表記される「本門の本尊」は釈迦仏・仏本尊を意味しているものだろう。このような本尊としての釈迦仏・仏()本尊を記したのは「観心本尊抄」だけではなく、他の遺文にも見られるところである。

 

 

文永1076日「富木殿御返事」(真蹟)

設ひ日蓮死生不定なりと雖も、妙法蓮華経の五字の流布は疑ひ無きものか。伝教大師御本意の円宗を日本に弘めんとす。但し定慧は存生に之を弘め円戒は死後に之を顕はせり。事相たる故に一重の大難之有るか。仏滅後二千二百二十余年、今に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず。当時果報を論ずれば、恐らくは伝教・天台にも超え竜樹・天親にも勝れたるか。(P743)

 

仏滅後二千二百二十余年の間、寿量品の仏と妙法蓮華経が流布しなかったとの記述は、二箇月と少し前の「観心本尊抄」の、「此れ等の仏を正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。」(P713)との文、また「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば、三国の王臣倶に未だ之を崇重せざる由、之を申す。」()との文、更に「事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊、未だ広く之を行ぜず。(P719)に通じるものがあり、当書の「寿量品の仏」とは本門寿量品の釈尊=仏本尊を意味するのではないだろうか。

 

 

文永1083日「波木井三郎殿御返事」(日興本 北山本門寺蔵)

但し仏滅後二千余年三朝の間数万の寺々之有り。然りと雖も本門の教主の寺塔、地涌千界の菩薩の別に授与したまふ所の妙法蓮華経の五字未だ之を弘通せず。経文には有って国土には無し、時機の未だ至らざる故か。仏記して云はく「我が滅度の後、後五百歳の中に広宣流布し閻浮提に於て断絶せしむること無けん」等云云。天台記して云はく「後五百歳遠く妙道に沾はん」等云云。伝教大師記して云はく「正像稍過ぎ已はって末法太だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是其の時なり」等云云。此等の経釈は末法の始を指し示すなり。外道記して云はく「我が滅後一百年に当たって仏世に出でたまふ」云云。儒家記して云はく「一千年の後仏法漢土に渡る」等云云。是くの如き凡人の記文すら尚以て符契の如し。況んや伝教・天台をや。何に況んや釈迦・多宝の金口の明記をや。当に知るべし、残る所の本門の教主妙法の五字、一閻浮提に流布せんこと疑ひ無き者か。 (P748)

 

◇冒頭、「仏滅後二千余年の間、三朝には数万の寺が有るのだが、本門の教主の寺塔はなく、地涌千界の菩薩に別付属された妙法蓮華経の五字は未だ弘通されていない。経文に有って国土には無いということは、流布の時、広まる機が至らざる故であろうか。」としている。この「本門の教主の寺塔」とは、「法華経本門寿量品の釈尊・仏本尊を安置した寺塔」を意味するものだろう。続いて「仏の経文、天台・伝教の釈共に、末法に弘通されることを志向している、外道、儒家のような凡人の記文でもその通りなのだから、ましてや伝教・天台の釈、釈迦・多宝の金口の明記がはずれることはない」とする。そして「正像にはなかった、末法の為に残された本門の教主と妙法の五字が一閻浮提に流布することは疑いのないことである」と、本門の教主と妙法五字が必ずや一閻浮提に流布すると記すのである。

 

 

文永11114日「法華行者値難事」(真蹟)

追って申す。竜樹・天親は共に千部の論師なり。但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまはず、此に口伝有り。天台・伝教は之を宣べて本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字と、之を残したまふ。所詮、一には仏授与したまはざるが故に、二には時機未熟の故なり。今既に時来たれり、四菩薩出現したまはんか。日蓮此の事先づ之を知りぬ。西王母の先相には青鳥、客人の来相には鵲是なり。各々我が弟子たらん者は深く此の由を存ぜよ。設ひ身命に及ぶとも退転すること莫れ。(P798)

 

◇「本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字」との記述、特に「本門の本尊と四菩薩」と本尊と四菩薩を分けて記すということは、該本尊は本門の本尊=本門寿量品の釈尊と四菩薩の形像であることを意味するのではないだろうか。

 

 

建治2511(或は弘安2)「宝軽法重事」(真蹟)

法華経は仏滅後二千二百余年に、いまだ経のごとく説ききわめてひろ()むる人なし。天台・伝教もしろしめさゞるにはあらず。時も来たらず、機もなかりしかば、か()ききわ()めずしてを()わらせ給へり。日蓮か弟子とならむ人々はやすくしりぬべし。一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂塔いまだ候はず。いか()でかあら()われさせ給はざるべき。しげければとゞめ候。(P1179)

 

◇日蓮はここでは、「一閻浮提の内に、法華経本門寿量品の(久遠実成の)釈迦仏を造立、または画像として作り安置した堂塔は、未だ存在していない。末法の今、どうしてそのような釈迦仏を奉安した堂塔が現れないことがあるだろうか=必ずや建立される」としており、釈迦仏・仏本尊奉安の堂塔が必ずや建立されるであろうと教示するのである。

 

【 一閻浮提第一の本尊=曼荼羅 】

日蓮は「観心本尊抄」で「一閻浮提第一の本尊」である一尊四士を説示したのだが、佐渡期から身延期にかけて、彼によって顕されたのは曼荼羅であった。このことは、師匠の姿が第一線から消えて後、弟子檀越の法華勧奨が活発化して信徒が増加、それに伴い門下より本尊授与の要望も増え、日蓮が曼荼羅図顕を以て要請に応じたことを示しているとして、先に確認した。同時に受難を経ての、法華経の行者としての意識の高揚、また上行自覚という内面世界の変化により、次の展開として妙法曼荼羅を授与する時に至った、という日蓮の確固たる意志があったと思われるのである。(このことは「佐渡始顕本尊一考」でも確認する)

 

ここで改めて、日蓮が顕した曼荼羅の「讃文」をみてみよう。

 

・通称「佐渡始顕本尊」の讃文

此法花経大曼陀羅 仏滅後二千二百二十余年一閻浮提之内未曾有之 日蓮始図之

如来現在猶多怨嫉況滅度後法花経弘通之故有留難事仏語不虚也

 

・文永11725NO13

大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間 雖有経文一閻浮提之内未有大曼陀羅也 得意之人察之

 

・文永1112月通称「万年救護本尊」 NO16

大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之

 

・文永124月 NO22

仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮 提之内未有大曼陀羅也

 

・弘安32月 NO76

仏滅度後二千二 百二十余年之 間一閻浮提 之内未曾有 大漫荼 羅也

 

讃文については文永末から建治にかけて定形化していくのだが、いずれの讃文も「仏の入滅後、二千二百二()十余年の間、一閻浮提の内で未曽有の大曼荼羅である」との意は共通している。「未曽有」ということは「今まで一度もなかった」という意味であり、「一閻浮提の内未曽有の大曼荼羅」であれば、仏教有縁のインド・中国・日本に存在しない、爾前権教の信仰世界、また日蓮以前の法華経信仰でも顕されることのなかった曼荼羅ということである。更に、通称「万年救護本尊」に「大本尊」とあるように、曼荼羅は「本尊」として顕されている。このように、曼荼羅に込められた「讃文の意」と、「本尊」であることを勘考すれば、日蓮自らが顕した曼荼羅は「一閻浮提第一の本尊」であり、それは彼が図し顕した曼荼羅総体に通じるもの、と考えられよう。

 

即ち、日蓮は「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に末だ此の本尊有さず。」(P720)との文に、法華経本門寿量品の釈尊(久遠実成の釈尊)と四菩薩の造立=一尊四士=一閻浮提第一の『()本尊』を示した。曼荼羅の「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也」との讃文には、曼荼羅本尊=一閻浮提第一の『法本尊』であることを示したのではないだろうか。

 

「一閻浮提第一の本尊」には「仏()」と「法」があり、「仏()本尊」とは「本門の釈尊と脇士の四菩薩・一尊四士」で、これは「今の自界叛逆・西海侵逼の二難」「此の時」に「地涌千界出現して」「此の国に立」てるのだが、国主の法華経受法・帰依等、一門にとって環境が整う「時」を待った。

「法本尊」とは「万年救護本尊」の讃文を借りれば、「釈尊が入滅された後、二千二百二十余年が経歴するが、インド、中国、日本の三箇国に於いて未だなかった大本尊であり、日蓮以前、三国の諸師は、或いはこの大本尊のことを知っていたが弘めず、或いはこれを知らなかった。我が慈父・釈尊は仏智を以て大本尊を隠し留めて上行菩薩に譲られ、末法の為にこれを残されたからである。後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するのである。」というもので、これは顕され、弘宣される「時」が到来しており、日蓮は妙法曼荼羅として図顕を始め本格化させていくのである。

 

【 文の表と文の意 】

「仏()・法本尊」について別角度から見れば、「観心本尊抄」(20番問答)には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」 (P711)と、釈尊の因行(因位での修行の功徳)と果徳(果位での功徳)の二法は妙法蓮華経の五字に具足しているというのが日蓮の認識であり、本仏である釈尊と、法たる妙法蓮華経の五字を顕した妙法曼荼羅は、日蓮の創出した信仰世界では同体異相の関係ともいえるだろう。このような「仏()・法本尊並立、同体異相」という観点から当該文に戻ると、日蓮は「一閻浮提第一の本尊」との「文の表」に釈尊と四菩薩を脇士とした一尊四士を顕し、「文の意」に妙法蓮華経を含めた、ともいえるだろうか。そして「文の表」に顕されたものは、時機至らずして現実世界に建立されることはなかったが、「文の意」に含まれたものは如来使たる日蓮によって顕された。このような「解釈」もまた可であろうか。

 

「観心本尊抄」に「一閻浮提第一の本尊」とあることにより、当該箇所の解釈に思考をめぐらすことはもちろん必要だが、一閻浮提第一の本尊」とはこの箇所だけに説かれていると限定されるものではなく、ましてや、特定の、ただ一つのものに限る、とされているわけでもない。日蓮の著作により、顕した曼荼羅により、彼の事跡を俯瞰すれば、それは仏()と法の本尊ではないかと考えるのである。

 

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