観心本尊抄一考 6

6 日興一門の記録

一尊四士と曼荼羅、仏本尊と法本尊などについて、資料の豊富な日興と弟子の事跡を見てみよう。

 

【 「富士一跡門徒存知の事」の記述 】

日蓮一弟子六人の一人、日興の思想を伝えているとされる「富士一跡門徒存知の事」には、日興側の見解として、他の一弟子五人の本尊観と彼らが日蓮曼荼羅を「軽賤」したことが記述されている。

 

一、本尊の事四箇条

一、五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり。随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云。而る間盛に堂舎を造り、或は一躰を安置し、或は普賢・文殊を脇士とす。仍つて聖人御筆の本尊に於ては、彼の仏像の後面に懸け奉り、又は堂舎の廊に之を捨て置く。

 

一、上の如く一同に此の本尊を忽緒し奉るの間・或は曼荼羅なりと云つて死人を覆うて葬る輩も有り。或は又沽却する族も有り。此くの如く軽賤する間・多分は失せ畢んぬ。

 

一弟子五人の「曼荼羅本尊軽賤」に対して、日興側は以下のように記す。

 

本尊については、

日興が云く、聖人御立の法門に於ては、全く絵像・木像の仏菩薩を以て本尊と為さず。唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと、即ち御自筆の本尊是なり。

 

曼荼羅本尊の伝持については、

日興が云く、此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず、正像末に未だ弘通せざる本尊なり。然れば則ち、日興門徒の所持の輩に於ては左右無く、子孫にも譲り、弟子等にも付嘱すべからず。同一所に安置し奉り六人一同に守護し奉る可し。是れ偏に広宣流布の時、本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し。

 

日興が重須で教示していたものだろうか、彼独特の「曼荼羅本尊観」が説示されているのである。

 

では、当該文の記述は全面的に「正」とすべきものなのだろうか。答えは「否」であり、そのことは少し考えてみれば、誰でも分かることだと思う。

 

一弟子五人が「本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可し」としたのは日蓮遺文に、鎌倉の「小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したり」(P892・神国王御書 真蹟)、身延草庵の「教主釈尊の御宝前(P1151忘持経事 真蹟)とあるように、それは師の日蓮自らが行ったことであって、一弟子五人独自の見解によるものではない。釈迦仏本尊は師を手本とした師説の継承であり、「本尊」として「釈迦如来」を「立て」ること自体は何らおかしなところはなく、ただ「普賢・文殊を脇士」としたならば、かかる造立をなした者の法門信解について議論の余地が生まれるというものだろう。日興一門は「或は一躰を安置し」を非難する如く書くも、「釈迦仏の木像一体」でも「生身の仏」であることは、建治2715日の四條金吾釈迦仏供養事(P1182真蹟断片)に教示されているところである。

 

また、一弟子五人は「仏本尊」だけを造立して拝したわけではなく、日昭・日朗・日向等は自らも曼荼羅を書写しており、当然、日蓮図顕の曼荼羅も本尊として拝したことだろう。更に日蓮図顕曼荼羅を「堂舎の廊に之を捨て置く。」等、「軽賤」したというのもいかがなものだろうか。「いつ、どこで、誰が」そのような行いをしたのか、詳らかではない。「富士一跡門徒存知の事」では曼荼羅について「多分は失せ畢んぬ」と書いているが、もし、一弟子五人とその門流皆が日興側の記述通りのことをしたならば、今日、ほとんどの日蓮図顕曼荼羅は残っていなかったのではないか。実際には、日興一門が非難した側にこそ日蓮の曼荼羅は多数伝存しているのであって、この「現証」は即ち、「富士一跡門徒存知の事」の当該記述の信用度を著しく低下させているというべきだろう。同書は日興一門の正統門流意識が過剰に演出されていると考えられるのである。

 

【 「原殿御返事」一尊四士 】

        日向開基と伝える身延・樋之澤坊
        日向開基と伝える身延・樋之澤坊

 

独自の「曼荼羅本尊観」を示した日興ではあったが、それは彼が重須に移住して談所を作り、一門の布教が活発化して門流が形作られて以降のことであり、正応2(1289)春のいわゆる身延離山前後、門流初期の頃は日興も一尊四士の本尊形態を可としている。また、それは消極的なものではなく、「日興所立の義」「日興が義」として自説(実際は師説なのだが)としているのである。

 

 

 

 

正応元年(1288)12月16日「原殿御返事」(日蓮滅後7年、日興・身延離山の前年)

日興は今年問答講仕らず候いき。 此れのみならず、日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候えども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道御微力を以つて形の如く造立し奉らんと思し召し立ち候に、御用途も候わざるに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を造らせ給えと教訓し参らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わばさも候いなん。

それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、なにのほしなさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき。御力契い給わずば、御子孫の御中に作らせ給う人出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候いしを安置候べし。

(富士宗学要集8P11)

 

概訳

日興は今年、問答講を行わなかった。これのみならず、日蓮聖人御出世の本懐たる南無妙法蓮華経の、教主釈尊・久遠実成如来の画像は一人二人書き奉った人はあるが、いまだ木像(教主釈尊・久遠実成如来であることを顕すには脇士として四菩薩を添えるのだから、この場合の木像とは一尊四士となるだろう)は誰も造っていないところ、波木井入道殿が微力ながら形ばかり造立しようと思われた。

波木井氏は財力がないにも関わらず、日朗が所持するところとなった随身仏(第一転の仏)の替わりに、それと同じような一体仏(第二転の仏)の造立を申し出てきた。日興の教示としては、故・日蓮聖人の安置した仏ならばよいと思われるかもしれないが、その仏は上行菩薩を始めとした四菩薩の脇士がない一体仏であり始成の仏となるのである。しかもその仏は日朗が持ち去っており、どうして第二転の始成無常の仏を欲しく思うことがあるだろうか。一尊四士の造立は経費がかかることなので、子孫が財力をつけるようになるまでは日蓮聖人の文字曼荼羅を安置するべきである。

 

 

日興は、「波木井氏は(日蓮随身仏の)釈迦立像と同じような一体仏・第二転の仏の造立を企てたのだが、一体仏は上行等の脇士の無い始成の仏であるから不可」として、「上行等を脇士とする仏=一尊四士の造立は経費がかかることなので、子孫が財力をつけるようになるまでは日蓮の文字曼荼羅を安置するべきである」と教示している。

 

内容については、「未来の造仏によせて現在の造仏を制止、日興が正とする曼荼羅本尊安置を教示したもの」との解釈があるのだが、当該文は日興の自説である曼荼羅正本尊説を含ませながらも、波木井一族の経済的環境が整えば、身延山の寺に「一尊四士」が造立されることを可としたもの、といえるだろう。このように将来、波木井氏の子孫の中に財力有る人物が出た時の一尊四士造立を可としたということは、身延山に見られるように地頭等の有力檀越が法華経信仰に立脚して寺院を外護、周辺環境が安定して経済的条件が整えば一尊四士の造立は成されるという認識を、一弟子六人が共有していたことが背景にあると考えられるのではないだろうか。

 

これに対し、富士門流からは「文中、『身延沢を罷り出で候事面目なさ本意なさ申し尽くし難く候えども』とあり、この時には日興上人は身延山を離れる意を決していたのである。波木井実長の謗法によって不浄の地と化していた身延山に、更に謗法を重ねた一尊四士が将来立てられるとも、既にして謗法の汚濁にまみれた山なのだから、日興上人の預かり知らぬところ。あくまで現在の造仏を阻止して日蓮大聖人の正意たる曼荼羅本尊へ導かんとした指南なのである。」という反論が出るだろうが、果たしてどうだろうか。

 

離山後に作られた「富士一跡門徒存知の事」に「甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり」と記述するように、身延山は日興一門にとっても日蓮の廟所である。また、日興身延離山から8年後、永仁5(1297)925日に波木井実長は死去するのだが、その翌年、永仁6(1298)に記された「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」(北山本門寺蔵)には、「一、 甲斐國南部六郎入道者日興ノ弟子也、仍テ所申与フル如シ件」(日蓮宗宗学全書2P114)とあって、日興は波木井氏のことを「日興ノ弟子」としている。更に大石寺発行の「歴代法主全書」では、「一、 甲斐國南部六郎入道者、日興ノ第一ノ弟子也。仍テ所申与フル如シ件。」と、日目等の「本六」と同じ「日興ノ第一ノ弟子」としている。

 

「御筆御本尊目録事」では日興は敵対した、背いた者には明確に「背畢」(そむきおわんぬ)と厳しく記しているのだが、波木井氏は最後まで「日興の弟子」だったのであり、彼が領した身延山は先師・日蓮の廟所なのである。このような人物、このような地に対して、「後の事は預かり知らぬ」指南を日興がするとは考えられず、やはり、「原殿御返事」の御力契い給わずば、御子孫の御中に作らせ給う人出来し給うまでは」については、将来、「一尊四士」が身延山の寺の本尊となることを日興は肯定していた、と判断できるものだろう。また「一尊四士」自体は誰あろう、師の日蓮が「観心本尊抄」に「末法に来入して始めて此の仏像出現」「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩」と教示したものなのだから、日興の指南は師の教示に基づいたもの、ともいえるのである。

 

尚、「富士一跡門徒存知の事」には「釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉る」とあって、日興の身延離山後には一体仏が造立されたようだ。

 

【 「富士一跡門徒存知の事」日興所立の義・一尊四士 】

            身延山 山頂より
            身延山 山頂より

「富士一跡門徒存知の事」の追加条には「伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏なり。而るに去る年月、日興が義を盗み取つて四脇士を副う。」とあり、日興は釈迦一体仏に四菩薩を添造する一尊四士を「日興が義」としていたことが窺える。そして「日興が義」を「盗み取った」僧として寂仙房日澄、越後国の摩訶一、浄法房天目、少輔房日高、伊予阿闍梨日頂、民部阿闍梨日向、肥前房日伝の七人の名を挙げて非難している。

 

一、  追加八箇条。

近年以来日興所立の義を盗み取り己が義と為す輩出来する由緒条条の事。

一、寂仙房日澄始めて盗み取つて己が義と為す、彼の日澄は民部阿闍梨の弟子なり、仍つて甲斐国下山郷の地頭左衛門四郎光長は聖人の御弟子なり、御遷化の後民部阿闍梨を師と為す(帰依僧なり)。而るに去る永仁年中新堂を造立し一躰仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず。聞き已つて自義と為し候処に正安二年民部阿闍梨彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す。爰に日澄本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏して弟子と為る、此の仁盗み取つて自義と為すと雖も後改悔帰伏の者なり。

一、去る永仁年中越後国に摩訶一と云う者有り(天台宗の学匠なり)。日興が義を盗み取つて盛んに越後国に弘通するの由之を聞く。

一、去る正安年中以来浄法房天目と云う者有り(聖人に値い奉る)。日興が義を盗み取り鎌倉に於て之を弘通す。(又祖師の添加を蔑如す)

一、弁阿闍梨の弟子少輔房日高去る嘉元年中以来日興が義を盗み取つて下総の国に於て盛んに弘通す。

一、伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏なり。而るに去る年月、日興が義を盗み取つて四脇士を副う、彼の菩薩の像は宝冠形なり。

一、民部阿闍梨も同く四脇士を造り副う、彼の菩薩像は比丘形にして納衣を著す。又近年以来諸神に詣ずる事を留むるの由聞くなり。

一、甲斐国に肥前房日伝と云う者有り(寂日房向背の弟子なり)。日興が義を盗み取つて甲斐国に於て盛んに此の義を弘通す。是れ又四脇士を造り副う、彼の菩薩の像は身皆金色剃髪の比丘形なり。又神詣を留むるの由之を聞く。

 

このように一尊四士を日興は自らの発案であるかの如く「日興所立の義」とするも、それは「観心本尊抄」に「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩」(P713)と見られるように、一弟子六人・六老僧の師である日蓮が教示したところであって、一尊四士を日蓮に連なる一門が造立するのは師説のとおりであるといえるだろう。いずれにしても、日蓮亡き後、一門の弟子達は一尊四士の造立を始め、日興も日興所立の義」として師の教示を自らのものとしていた、一尊四士の造像形態を可としていたのである。このことは、日蓮が「一門の法門信解」「逆縁の時」などを考慮、また「国主の帰依」を期して造立を成さなかったのとは違い、一弟子六人を始めとする一門が各地に布教展開して門流が形成されていく過程で、財力のある檀越の受法が増え、寺院を取り巻く環境が一部では安定化してきたことを意味するのではないかと思う。

 

尚、「富士一跡門徒存知の事」が追加条を含めて作成されたのは、文中に「弁阿闍梨の弟子少輔房日高・去る嘉元年中以来、日興が義を盗み取って下総の国に於て盛んに弘通す。」とあるので、「嘉元年中」(13031306)以降と考えられる。

 

【 「五人所破抄」執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば 】

               身延の山々
               身延の山々

 

 

「五人所破抄」の奥書には「嘉暦三戊辰年七月草案す 日順」とある。また、五人所破抄見聞」(妙蓮寺日眼著とされるも実際は異なる)末尾の記述は、「五人所破抄」作成の経緯が認識されるものとなっている。

 

 

 

 

 

 

・本文(富士宗学要集 4P26 )

五人所破抄 重須本奥(書)に云く 嘉暦三戊辰年七月草案 日順。

応永廿二秊(ねん)正月廿九日。
日代聖人御筆大事の書也重宝有る可き也。
太夫阿闍梨日円に之を授与す  日任 華押

 

・概訳

五人所破抄 重須所蔵本の奥書に云く 嘉暦三戊辰年(1328)七月に草案 日順。

 

応永二十二年(1405)正月二十九日

日代聖人御筆大事の書である。重宝とすべきものである。

太夫阿闍梨日円に之(五人所破抄)を授与する  日任(西山4) 華押

 

「五人所破抄見聞」には「草案 日順」「日代聖人御筆大事の書」と、重須談所・日順、日代の名が記され、「五人所破抄」の作成は草案が日順、筆録が日代であることが窺える。しかしながら「興風」16号収載・池田令道氏の「『五人所破抄』諸本の書誌的考察」では、日代筆の「五人所破抄」を日辰が忠実に筆写した「五人所破抄・日辰本」(京都・要法寺蔵)に日順の奥付が見られないので、同奥付は日辰以降の後加であるとしている。その上で、「五人所破抄」が日順作であるとして、「日代本」と別の「日膳本」に「本云、嘉暦三年七月草案之。下山三位阿闍梨日順御筆ウツス也」とあることや、「日順阿闍梨血脈」の記述などを根拠としている。「興風」19号収載・山上弘道氏の「『富士一跡門徒存知事』について」(P16)でも日順作であること、「嘉暦37月」説を記している。

 

嘉暦3(1328)7月といえば日興存命中のことであり、同書への日興の認知もあったことだろう。いずれにしても内容の当否はともかく、「五人所破抄」は日興とその一門が「五一の相違を明示した書」であるといえるだろう。

 

「五人所破抄」

又五人一同に云く、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻み、弘安帰寂の日も随身せり何ぞ輙(たやす)く言うに及ばんや云云。

日興が云く、諸仏の荘厳同じと雖も印契に依つて異を弁ず。如来の本迹は測り難し眷属を以て之を知る。所以に小乗三蔵の教主は迦葉・阿難を脇士と為し、伽耶始成の迹仏は普賢・文殊左右に在り、此の外の一躰の形像豈頭陀の応身に非ずや。凡そ円頓の学者は広く大綱を存して網目を事とせず。倩(つらつら)聖人出世の本懐を尋ぬれば、源と権実已過の化導を改め、上行所伝の乗戒を弘めんが為なり。図する所の本尊は亦正像二千の間一閻浮提の内未曾有の大漫荼羅なり。今に当つては迹化の教主既に益無し、況や哆々婆和の拙仏をや。次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛、月を待つ片時の螢光か。執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば、須らく四菩薩を加うべし、敢て一仏を用ゆること勿れ云云。

 

日蓮滅後47年の嘉暦3(1328)、日順により即ち日興一門により考えられた「五人所破抄」では仏像造立についての見解を示す。「執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば」と、日蓮所持の釈迦立像に思いを寄せて仏像を造立せんとする者については、という前提つきで、「須らく四菩薩を加うべし、敢て一仏を用ゆること勿れ」と、釈迦一体仏に四菩薩を加えて久遠実成の釈尊たることを示した、「一尊四士」の造立を認めるのである。

 

日興は門流が拡大していくに伴って、現存だけでも300幅以上の曼荼羅を本尊として書写し、日蓮図顕曼荼羅に「本門寺に懸け万年の重宝たるなり」(富士宗学要集8P220)と添え書きをするなど、日興書状に見受けられる御影への崇敬「御影信仰・祖師信仰」に加えて、曼荼羅に重きを置いた本尊観・曼荼羅正本尊説を形成していったように思われる。

 

それでも日興は「五人所破抄」が考えられた5年後の正慶2(1333)27日、88歳で亡くなっているのだから、彼は晩年まで「一尊四士」造立を可としていた、ということがいえると思う。

 

 

以上、見てきたように日興は「原殿御返事」では、身延山に将来「一尊四士」が造立されるのを可とし、「富士一跡門徒存知の事」では絵像・木像の仏菩薩を以て本尊と為さず。唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可し」と曼荼羅正本尊を説く一方、同書に「一尊四士」を「日興所立の義」とする。そして「五人所破抄」でも「一尊四士」は可としている。曼荼羅書写の多さからも分かるように、日興自身は法本尊に重きを置きながらも、結局はその一生を通して「一尊四士」造立は可としているのである。

 

師・日蓮は「仏本尊・法本尊並列」であり、「観心本尊抄」では曼荼羅と「一尊四士」を説示している。そのことを知悉する弟子の日興であればこそ、(「五一の相違」を意識するあまりだろうか)法本尊偏重の教理展開となりながらも、やはり、師説を軽んじることはできなかったと思われるのである。

 

【 京都・日尊 】

             京都 要法寺
             京都 要法寺

続いて、日興の弟子を見てゆこう。

 

日興亡き後7年が経過した暦応3年・興国元年(1340)5(日蓮滅後59)、日尊は弟子の日大に「末法は三類の強敵が跋扈する濁乱の世であるから、木像等の色相荘厳の仏は崇敬するのに憚りがある。香華燈明の供養も叶わないことであろう。故に、広宣流布の時分までは曼荼羅本尊を奉安するべきである。」(日尊実録=尊師実録)と、日興より受けた教示を語っており、このことは即ち広宣流布の時となれば久遠実成の釈尊の造立が成されるもの、と解されるのである。

 

「三類の強敵によせて広宣流布の時に譲り、現在の造仏を制した」との解釈もあるが、果たして、日興が日尊に遠慮して本尊の大事について、遠回しの事を言う必要があるのだろうか。「弘安七甲申年・師目公に従つて甲州身延山に登り玉ふ、時に五月十二日なり。同き年十月十三日始て日興上人に値ひ奉り御影堂に出仕し、蓮祖第三回の追薦に値ひ奉り玉ふなり。」(「祖師伝」日辰 富士宗学要集5P39)と、弘安710月、身延山で日尊は日興と会い、日興一門の身延離山後は重須に参じて教示を受けた関係である。もしも、日興が日尊の仏本尊(仏像)に関する理解を指摘するのであれば、直ちに「曼荼羅を本尊とすべし。現在も未来広宣流布の時も造仏は不可」と教導すればそれで済む話なのである。日興が敢えて「広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置」とし、その理由も説示したところに、広宣流布の時には久遠実成の釈尊造立の意が含まれている、と解釈すべきではないだろうか。

 

これについて、「日興がそのような教示をするものだろうか」との疑問も起きる。

興味深いのは、「日尊実録=尊師実録」の中で日尊自身は日興と異なる見解を示していることで、「予が門弟相構えて上行等の四菩薩相副え給へる久成の釈迦略本尊、資縁の出来、檀越の堪否に随って之を造立し奉りて、広宣流布の裁断を相待ち奉るべきなり」と、四菩薩を添えて久遠実成の釈尊を顕した「一尊四士」(日尊はこれを略本尊とする)を造立して広宣流布の時を待つように説示しているのである。自らが受けた日興の教示を挙げながら、それと異なる見解を明確に示しているのだから、日尊が日興の教示内容を俄かに作る、改変するということは考えづらいのである。

 

であれば、日興の教示は、「観心本尊抄」の「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば、三国の王臣倶に未だ之を崇重せざる由」「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。」に示された仏本尊の造立にも通じるものがあり、同文を背景としての日尊への教示と考えられるのではないだろうか。もちろん「久成釈迦造立」ということであれば、釈迦一仏に四菩薩を加えて初めて法華経本門寿量品の釈尊・久遠実成の釈尊となるのが「日興所立の義」でもあるのだから、そこには脇士としての四菩薩も共に造立され「一尊四士」となることを意味するのである。

 

一 久成釈迦造立有無の事

日興上人の仰せに云く、末法は濁乱也、三類の強敵之有り、爾れば木像等の色相荘厳の仏は崇敬憚り有り、香華燈明の供養も叶う可から不、広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置し奉るべし云云。尊の仰に云く大聖人の御代二箇所に之を造立し給へり。一ケ所は下総国市河真間富貴五郎入道常忍みそ木を給て造立す。一ケ所は越後国内善の浄妙比丘尼の造立之有り云云。御在世に二ケ所なり。又身延沢の仏像等は聖人滅後、様々の異義之れ有り。記文相伝別紙に之れ有り云云。惣じて三ケ所之れ有り、此れ等は略本尊なり。但し本門寺の本尊造立の記文相伝別に之れ有り云云。予が門弟相構えて上行等の四菩薩相副え給へる久成の釈迦略本尊、資縁の出来、檀越の堪否に随って之を造立し奉りて、広宣流布の裁断を相待ち奉るべきなり。

(日蓮宗宗学全書2P419)

 

日大への教示をしたこの年の8月、日尊は師・日目筆の本尊を模刻する。

 

日目上人御筆漫荼羅の分  (日尊上人模刻して其脇書に)

暦応三年壬辰八月日   上行日尊之を彫刻す   京都要法寺(富士宗学要集 8P210 )

 

続いて翌暦応4年・興国2(1341)には、日尊は京都・上行院に立像の釈迦・十大弟子を立てている。

 

「祖師伝」日印の伝

此の仏像の事は去る暦応四年に有る仁の方より安置候へとて、寄進せしめ候ひ畢ぬ。教主は立像脇士は十大弟子にて御座候。(富士宗学要集5P47 )

 

尚、日尊の教示を受けた日大は貞治元年・正平17(1362)に「一尊四士」を造立していることが、比叡山の僧・直兼との問答に記録されている

 

日大直兼台当問答記

日大尋ねて云く、去去年本門の釈迦を造立す云云。印契は教主脇士等合掌をもって皆造立す云云。(日蓮宗宗学全書2P431)

 

【 西山・日代 】

              西山本門寺
              西山本門寺

 

 

日興が亡くなってから8年後の暦応4年・興国2(1341)、日尊は檀那より釈迦立像と十大弟子を寄進されて京都・上行院に安置した。そして康永3年・興国5(1344)68日には、日尊は会津の日印()を付弟として、日興の曼荼羅本尊と日蓮御影を授与し、翌年58日に81歳で死去している。

 

 

 

 

「祖師伝」日尊の伝

日尊八十歳、康永三年 日印を以て付弟と為す、其の状に云はく、

「 宰相禅師日印に授与す。本尊一鋪 日興上人御筆 正応三年正月十三日

大聖人御影一鋪

右付属として授与する所件の如し。

康永三年(甲申)六月八日 法印日尊 在判」 (富士宗学要集 5P44 )

 

日印()は付属を受けた同年717、日興門流の長老格ともいうべき西山・日代に、造仏義について教示を願う書状を送っている。

 

当院仏像造立の事、故上人の御時誡め候の由、師匠にて候人仰せられ候ひ畢んぬ。今は造立せられ候の間不審千万に候。此の仏像の事は去る暦応四年、有る仁の方より安置候へとて寄進せしめ候ひ畢んぬ。教主は立像、脇士は十大弟子にて御座候。仍って大聖人御立義に相違の間、疑ひ少からず候。(日蓮宗宗学全書2P408

 

師匠にて候人=日尊は釈迦立像と十大弟子を檀那より寄進されて、上行院に安置している。これに対して富士門流の出家在家の人々より「(日蓮)聖人の御代、故上人(日興)、上野上人(日目)の御時には仏像造立はなかった。また『本尊問答抄』の『法華経の教主を本尊とす、法華経の正意にはあらず』などを引用して形像本尊は不可である」と疑難された。日尊は「観心本尊抄」「報恩抄」の文により、本来は虚空会諸尊皆を造立するだが、料足は微少で宝塔の造立は叶わないため、四菩薩を造り副えた、というのである。仏像造立は摂受行であり、広宣流布の時に至って初めて行われるべきものであろう。

このようなことを日印()は日代に書き送っている。

 

813日、日代は日印()の趣旨に沿った返書を記して、「仏像を造立するのは本門寺建立の時である」と説示する。

 

宰相阿闍梨御返事

中に仏像造立の事、本門寺建立の時なり。未だ勅裁無し国主御帰伏の時、三ケの大事一度に成就し給はしむべきの由御本意なり、御本尊図は其が為なり。

(日蓮宗宗学全書2P234

 

 

康永2年・興国4(1343)、西山に移住した日代は翌年、京都・日印()よりの書状を受けて、国主が法華経を受持して広宣流布となり、本門寺が建立された時には本尊・題目・戒壇の三つが一度に成就するのであり、その時にこそ曼荼羅を図表とした仏像が造立安置される、とするのである。

 

【 重須・日順 】

             北山本門寺
             北山本門寺

日興の膝下で重須の学頭職にあり、門派の教学を振興したとされる三位日順だが、彼の講義が記録された「日順雑集」中の「法花観心本尊抄見聞」(文和五年[1356]三月五日  富山麓重須郷南坊に於て)には、「聖人は造仏の為の出世には無し、本尊を顕んが為なり。然れば正像の時は多く釈尊を造れども本尊をは未だ顕さず。然れば如来滅後未曽有大漫荼羅と云云。」とあって、本尊とは日蓮が「如来滅後未曽有大漫荼羅」と認めた曼荼羅であり、日蓮は造仏のために出世したのではなく、曼荼羅本尊を顕すためだったのである、と記している。

 

遡る貞和6年・観応元年・正平5(1350)3月中旬(滅後69)に著した「摧邪立正抄」では、「法華は諸経中の第一・富士は諸山中の第一なり。故に日興上人独り彼の山をトして居し、爾前迹門の謗法を対治して法華本門の戒壇を建てんと欲し、本門の大漫茶羅を安置し奉つて当に南無妙法蓮華経と唱ふべしと、公家武家に奏聞を捧げて道俗男女に教訓せしむ。是れ即ち大聖の本懐御抄に分明なり。」(富士宗学要集2P43)として、これによれば「法華本門の戒壇」には「本門の大漫茶羅」が安置されるもののようである。

 

しかし一方では、広宣流布の時は「仏像を安置することは本尊の図の如し」とするのである。

 

貞和5年・正平4(1349)5月 日順著「本門心底抄」

行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇・其れ豈に立たざらんや。仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし。国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし。兼日の治定後難を招くあり、寸尺高下注記するに能へず。

(日蓮宗宗学全書2P346)

 

これについて大石寺の堀日亨氏は頭注を加えている。

「仏像安置と云々、順師未だ興師の真意を演暢せず。後人此の文に滞ることなかれ」

 

正平4年の「広宣流布の時の本門の戒壇に本尊を図表とした仏像安置」と、正平5年の「法華本門の戒壇に本門の大漫茶羅を安置」の関係について、日順は明らかにしていない。しかし、両書を併せ考えれば、本門戒壇に曼荼羅本尊と仏像本尊を奉安する「本門戒壇仏本尊・法本尊安置思想」ともいうべきものを日順は抱いており、その一端を別の著作で示した、とも理解できるだろうか。であれば、法本尊を主としたものが「摧邪立正抄」、仏本尊を主としたものが「本門心底抄」の記述ということになるだろう。

 

かように重須の日興のもとにあって、一門の重鎮、富士教学の最高職たる学頭を務めた日順と日代は、「広宣流布の時の本門の戒壇には曼荼羅を図表とした仏像が造立安置される」とするのである。

 

日興の寂年が正慶2年・元弘3(1333)27日、日代が日印()に仏像造立を示したのが日興寂11年後の康永3年・興国5(1344) 813日、日順の「本門心底抄」は日興寂16年後の正平4(1349)5月に著されている。「曼荼羅図表・仏像造立説」を日興が日順・日代へ授けた文献はないが、日興亡き後10数年を経過しただけで俄に創作されたとは考えられず、重須学頭職にあった二名がこのような説示をすることは同様の理解が同時代の重須大衆の間に共有されていたことを意味するものであり、その源は日興存命中とも考えられるのではないだろうか。

 

ただし、両名の説が日興の見解に相違する「異義」であるならば、「身延沢を罷り出で候事、面目なさ本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し・打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ、詮にて候え。」(原殿御返事)と身延を離山してまで、自らが理解するところの師・日蓮の法門を守らんとした日興が放置することはないだろう。「一尊四士」を「所立の義」とした日興でも、果たして曼荼羅図に基づく仏像造立まで可としたかは不明であり、同説は重須大衆間での議論の域に留まり師の耳に届くことなく伏在したものか、または老齢の日興は議論に関わることなく後代の決に任せたものだろうか。

 

私としては、「曼荼羅図表・仏像造立説」は「立正安国論」を源とし、「観心本尊抄」の曼荼羅と一尊四士から発して、「日興所立の義=一尊四士」を経由、一弟子五人門流の造仏や彼らとの接触などによる触発、妙法蓮華経の広宣流布・本門寺戒壇建立を現実的視野に入れ奈良・京都・鎌倉を始めとした顕密寺院の造像を念頭にした国主帰依の本尊形態をめぐる重須大衆間での議論、このような祖説・師説を基とした広布への展望と国主の機を鑑みたところより生まれたものではないか、と考えるのである。

 

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