身延草庵の本尊一考 2

2 佐渡始顕本尊

【 佐渡の居所での曼荼羅 】

まず最初に、佐渡期、日蓮の居所(きょしょ)において常時か、または経典読誦の時などに掲げられた曼荼羅は佐渡始顕本尊」ではないかと思う。(この本尊を書き顕わしたことが日蓮にとって宗教的画期であったことは、「佐渡始顕本尊一考」で確認しました。)日蓮は文永10年4月25日に「観心本尊抄」を書き上げ、2箇月半経過した7月8日、「観心本尊抄」の本尊相貌を示した文とほぼ同様の曼荼羅「佐渡始顕本尊」を書き顕わしている。「佐渡始顕本尊一考」の該当部分を再掲してみよう。

 

(本尊抄)

「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し」

(佐渡始顕)

首題 自署花押

 

(本尊抄)

「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏」

(佐渡始顕)

・仏界

南無釈迦牟尼仏 南無多宝仏

 

(本尊抄)

「釈尊の脇士上行等の四菩薩」

(佐渡始顕)

・本化菩薩

南無上行菩薩 南無無辺行菩薩 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩

 

(本尊抄)

「文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く」

(佐渡始顕)

・迹化菩薩

南無文殊弥勒等

・声聞界

南無舎利弗等声聞

・天界

南無釈提桓因等 南無大梵天王等 南無大日天等 南無大月天等

・人界

南無四輪王

・修羅

南無阿修羅王等

・鬼神

南無鬼子母神 

[十羅刹女]南無藍婆 南無毘藍婆 南無曲歯 南無花歯 南無黒歯 南無多髪 南

無無厭足 南無持瓔珞 南無皇諦 南無奪一切精気

・国神

南無天照八幡等

・伝法祖師

南無天台大師 南無伝教大師

・陣

不動明王 愛染明王 南無持国天王 南無増長天王 南無広目天王 南無毘沙門天王

 

(本尊抄)

「十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり」

(佐渡始顕)

・仏界

南無分身等諸仏 南無善徳等諸仏

 

このように、「観心本尊抄」の曼荼羅説示の文と「佐渡始顕本尊」の勧請諸尊の配列は符合していると思う。

 

その讃文も、

此法花経大曼陀羅 仏滅後二千二百二十余年一閻浮提之内未曾有之 日蓮始図之

如来現在猶多怨嫉況滅度後法花経弘通之故有留難事仏語不虚也

というもので、

「仏滅後、二千二百二十余年を経過した今、一閻浮提の内に未だ出現したことのない未曽有の法華経の大曼荼羅を、日蓮が始めて図顕した」

「法華経法師品に予言された、如来の現在、釈尊在世ですら此の経を弘める者に対しては、猶怨嫉が多いのである。ましてや如来滅後においては尚更である、との大難を蒙って日蓮が仏語を証明している」

ことを記した曼荼羅を奉掲して、本尊としての曼荼羅の意味、自己の仏教上の立場と正当性を示したのではないか。

 

要約すれば、曼荼羅本尊を説示する⇒その曼荼羅を書き顕す⇒曼荼羅本尊を奉掲して礼拝する=弟子檀越に身を以て範を示す、というものではなかったかと思う。日蓮は文永9年の夏の頃には塚原より一谷に移っているようなので、正確には一谷の草庵(であったか)に、文永10年7月8日以降、常時または必要に応じて奉掲された曼荼羅ということになるだろう。

 

佐渡始顕本尊と同じ文永10年に書き顕されたと推測されている通称・女人成仏御本尊・曼荼羅9は阿仏坊妙宣寺に伝来し、寺伝では「千日尼に授与したものであり、『女人成仏御本尊』の称号もこれに由来する」(「御本尊集」解説)と伝えているが、寸法は157.0×103.0cmで18枚継ぎという大きな曼荼羅だ。これは佐渡始顕本尊の寸法176.3cm×79.0cmの縦には及ばないが、女人成仏御本尊の大きさからすれば邸宅の持仏堂等、法華伝道の拠点で奉掲されたのではないかと思う。「佐渡百幅本尊」と呼んでもいいかと考えるが、系年が文永9年で佐渡期に分類される曼荼羅を見ると、曼荼羅3「44.8×28.8cm」1紙、曼荼羅3-2「42.2×26.4cm」1紙、曼荼羅3-3「45.7×28.3cm」1紙、曼荼羅4「52.4×33.0cm」1紙、曼荼羅5「44.8×29.4cm」1紙、曼荼羅6「43.6×29.4cm」1紙、曼荼羅25「41.8×24.8cm」1紙という小さなもので、これらは個人に授与されたものであることが分かる。ただ、曼荼羅7については「86.7×30.0cm」2枚継ぎと大きめなもので、たまたま用意された料紙がこのような寸法で個人に授与されたものだろうか。

 

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