身延草庵の本尊一考 3-1

3 万年救護本尊

【 「大本尊」「上行菩薩」と書かれた万年救護本尊 】

讃文に「大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之」と認め、特に「大本尊」「上行菩薩」と書いたところから、他とは異なる意を以て図顕したであろう通称・万年救護本尊(曼荼羅16)には授与書きは無い。この曼荼羅は「文永十一年太才甲戌十二月 日」に、「甲斐国波木井郷於 山中図之」と身延山において書き顕したものだ。寸法は「106.0×56.7㎝ 3枚継ぎ」で、私も実物を拝したが大ぶりなものといえるだろう。現在は富士門流の保田妙本寺に所蔵されており、日蓮の入滅前のことと考えるが、いずれかの時点で日興の手元に移り、それが日目へ、次に日郷の門流へと継承されることになった。

 

                      万年救護本尊讃文 保田妙本寺蔵
                      万年救護本尊讃文 保田妙本寺蔵

【 万年救護本尊に関する伝承と認識 】

この曼荼羅について、大石寺17代の日精は「富士門家中見聞上・日興」(富士宗学要集5巻P154)にて、「又弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大曼荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり」と、弘安2年中に日蓮が日興に授与したとしている。これは、大石寺所蔵の通称・本門戒壇之御本尊(板本尊)が弘安2年10月12日、日蓮自身の手による図顕造立とされていることから関連・発生した伝承ではないだろうか。「身延の草庵で万年救護本尊を奉掲していたが板本尊を造立、安置したので、それまでの万年救護本尊を日興に授与した」ということになり、板本尊日蓮直造説の補強材料となるからだ。

 

万年救護本尊に関して「御本尊集」解説では、

此の御本尊もまた極めて重要なる御内観を示したまえるもので、山川智応博士は「本因妙・本国土妙御顕発の御本尊」(「日蓮聖人研究」第二巻四百七頁取意)としている。すなわちその特一無比の御讃文に於て御自身の本地を顕発したまうとともに、本国土妙の代表たる天照・八幡二神の本地をも示されたのであって、かくの如き儀相は他に全く拝することができない。

なお、御讃文中「大本尊」と称されたのもこの一例のみであって、他は総べて「大漫荼羅」或いは「大曼陀羅」を用いられている。

と評している。

 

大黒喜道氏は「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書」(興風22号P276)にて、文永12年3月10日の「曾谷入道殿許御書」(真蹟)は3~4箇月かけて完成したと考えられ、それは万年救護本尊を顕した文永11年12月と重なる同時期の作業であり、「曾谷入道殿許御書」の文中、「今親(まのあた)り此の国を見聞(けんもん)するに、人毎に此の二の悪有り。此等の大悪の輩は何なる秘術を以て之を扶救(ふぐ)せん。大覚世尊、仏眼を以て末法を鑑知(かんち)し、此の逆・謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたまふ。」(定P900、大黒氏は他の文も引用されている)との「一大秘法」とは、万年救護本尊を直接指し示した言葉である(趣意)、と考察されている。大黒氏は論考「佐渡の日蓮聖人(下)―大曼陀羅本尊のことー」(佐渡日蓮研究第三号P97、2010  佐渡日蓮研究会)でも、同様の見解を詳細に検討、提示されている。

 

万年救護本尊が日蓮のいう「一大秘法」か、どうかについて、私には『断定』するだけの力量はないが、やはり注意すべきは「特一無比」な讃文で、文永の役の後、程なくして顕されたこの曼荼羅の扱いについては日蓮自身の思いとして、他とは異なるものがあったと考えられるのである。

 

【 身延草庵での曼荼羅・万年救護本尊 】

    曼荼羅16 万年救護本尊 保田 妙本寺蔵
    曼荼羅16 万年救護本尊 保田 妙本寺蔵

身延の草庵での曼荼羅を考える時、まず授与書きの有るものは除かれるのだが、やはり注目すべきは文永11年12月の万年救護本尊だろう。讃文では曼荼羅は即「大本尊」であると明確にし、自身は「上行菩薩」であることを暗示しており、これは他の曼荼羅讃文には見られないものである。このような「自身の境地を含ませ、かつ大本尊」とした曼荼羅=本尊であれば、それは拝する弟子檀越を通して世に向かって宣言をしたものともいえ、身延の草庵に奉掲されていたのではないかと思うのだ。逆に、このような「自らの内観世界を明かした宣言ともいうべき讃文」を記した曼荼羅を、明らかにせず秘してしまう、隠す、しまっておく等は考えづらいものがある。やはり、「釈尊より滅後末法の弘通を託された上行菩薩は日蓮である、との直接的な表現は避けながらも、拝する門下をして、『後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣する、というその大本尊を顕した日蓮こそ上行菩薩に他ならない』と信解せしめる」格別の讃文からも、授与書きが無いことからも、また、文永の役という未曽有の国難の後というタイミングからも、万年救護本尊が身延の草庵に奉掲されていたのではないだろうか。前述したように、奉掲の態様は様々であったとは思うが。

 

【 最後の時にあたり日蓮の真実を残した万年救護本尊 】

この万年救護本尊については、蒙古襲来と密接に関連していると思う。

文永11年10月5日に対馬が元軍に襲われ、10月14には壱岐に侵攻。10月20日には筑前国に上陸されて守備の鎮西の御家人と激戦を展開。日本勢は防戦しつつ太宰府に退いたが、夜半のうちに元軍は撤退してしまった。短期間で思わぬ一応の決着がついたといえるが、かねてから他国侵逼難を説いて亡国の危機を訴えてきた日蓮にとっては、次は本土に攻め込まれて大量殺戮が行われる、多くの人が生け捕りになる、そして日本は滅亡するという事態が眼前となったのであり、彼の書状にはその緊張感が満ち溢れている。

 

文永11年11月11日の「上野殿御返事(与南條氏書)」(日興本・大石寺蔵)には「大蒙古国よりよ(寄)せて候と申せば、申せし事を御用ひあらばいかになんどあはれなり。皆人の当時のゆき(壱岐)つしま(対島)のやうにならせ給はん事、おもひやり候へばなみだもとまらず」(定P836)とある。同じく11月20日の「曾谷入道殿御書」(真蹟断片)にも、「自界叛逆の難、他方侵逼の難すで(既)にあ(合)ひ候ひ了んぬ。(中略)当時壱岐・対馬の土民の如くに成り候はんずるなり」(定P838)と、日蓮の視界には本土を蹂躙する蒙古軍の姿があったようだ。

 

「法華取要抄」の草案である「取要抄」には、「慈覚等忘本師実義付順唐師権宗人也。智証大師少似伝教大師。」と台密・円仁批判が書かれるも、文永11年5月24日の「法華取要抄」では公にされなかった。続いて、かねてから主張していた他国侵逼難が蒙古襲来として現実化するに及んで、11月20日の「曾谷入道殿御書」で「日本国は慈覚大師が大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部と取って、伝教大師の鎮護国家を破せしより、叡山に悪義出来して終に王法尽きにき。此の悪義鎌倉に下って又日本国を亡ぼすべし。」(定P838)と、明確に台密・円仁への批判を展開する。この時の日蓮の思考は「日本が亡国となったということは、これまでの我が国の仏教も共に滅んだ」というものだろうし、故に出身母体である比叡山・台密批判という諸宗破折の最終段階に入ったと思われる。同時に、破局の時まで残された時間は少ないこともあり、「最後なれば申すなり。恨み給ふべからず。(定P839)という緊迫感漲る文章を綴っているのである。いわばこの時の日蓮は「最後の時」という覚悟を持つに至ったといえようか。

 

日蓮は11月に曼荼羅14と15を書いた後、12月15日に「顕立正意抄」(日春本)を著して、門下に覚悟をもって法華経信仰に奮起するよう促している。(真蹟ではないが、当時の日蓮の心情が活写されていると思う。尚、「けんりゅうしょういしょう」との読みが多いようだが、内容は「立正安国論」の意を顕しているものなので、「けんりっしょういしょう」と読むべきではないかと考えている)

 

それは、

日蓮が「去る正嘉元年太歳丁巳八月二十三日、大地震を見て之を勘え定めて書ける立正安国論」(定P840)の自界叛逆難と他国侵逼難が的中したことを以て、「情有らん者は之を信ず可し」と法華経信仰に目覚めるべきなのだが、「天魔の国に入りて酔へるが如く狂へるが如く」の日本国の民は一向に信じる心がないので、「上下万人阿鼻大城に堕せんこと大地を的と為すが如し」阿鼻地獄に堕ちるであろう。それは「日蓮が弟子等又此の大難脱れ難きか」日蓮一門といえども逃れ難い大難であり、「是を免れんと欲せば、各薬王楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ、雪山国王等の如く身を投げ心を仕えよ。若し爾らずんば五体を地に投げ、徧身に汗を流せ。若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め。若し爾らずんば奴婢と為て持者に奉へよ。若し爾らずんば等云云」と、今こそ経文に説かれるような不惜身命の信仰に立脚するべきなのである。「四悉檀を以て時に適うのみ。我弟子等の中にも信心薄淡者は臨終の時阿鼻獄の相を現す可し。其の時我を恨む可からず等云云。」たとえ日蓮の弟子であっても、信心薄き者は最期に阿鼻地獄の相を現わしてしまうだろうが、その時、日蓮を恨んではいけない。

というもので、やはり、蒙古軍襲来という国家的有事、危急存亡の時にあたって日蓮一門はいかなる法華経信仰を貫徹すべきかを教示、というよりも訴える文面となっている。

 

この12月15日前後だろうか、日蓮は万年救護本尊を書き顕す。

讃文を訳すれば、「大覚世尊(釈尊)が入滅された後、二千二百二十余年が経歴するが、月漢日(インド、中国、日本)の三カ国に於いて未だなかった大本尊である。日蓮以前、月漢日の諸師は、或いはこの大本尊のことを知っていたが弘めず、或いはこれを知らなかった。我が慈父=釈尊は仏智を以て大本尊を隠し留め(釈迦より上行菩薩に譲られて)、末法の為にこれを残されたからである。後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するのである。」ということになると思うが、この「大本尊」と「上行菩薩」は重く見るべきだろう。

 

この時の日蓮の思考では、蒙古軍襲来⇒九州での戦闘が一旦は終わっても、また必ずや攻めてくる⇒次は本土が蹂躙されて日本は滅びる、というものだったろうし、故に「最後なれば申すなり」という心境となり、門下には覚悟の奮起を促し、自らの身命も先のことは分からないのであれば、最後の作業をするべき時が来た、というものだったのではないか。その帰結として顕されたのが万年救護本尊ではなかったか、と私は考えている。いわば、国も仏教界も全てがリセットされて、滅びの中から法華経による再生の物語が始まる前夜に書かれたのが、万年救護本尊だと思う。故にその讃文の中に、たとえ蒙古の攻めによって我が身命がなくなろうとも後世に残すべき自らの真実、即ち教主釈尊より妙法蓮華経の付属を受け、滅後末法の弘通を託された上行菩薩であるとの意を含ませたのではないだろうか。

 

                          蒙古襲来絵詞
                          蒙古襲来絵詞

【 一大秘法と万年救護本尊 】

まず、「曾谷入道殿許御書」(真蹟)の「一大秘法」に関する箇所を見てゆこう。

 

そこに書かれた「今末法に入て二百二十余年、五濁強盛にして三災頻りに起り、衆見之二濁国中に充満し、逆謗之二輩四海に散在す。」(定P900、以下P901まで)とは、当時の日本国を仏教的視点から洞察したもの。

『今は末法の時代となって既に二百二十余年を経過したが、劫濁・衆生濁・煩悩濁・見濁・命濁の五濁が盛んとなって穀貴・兵革・疫病の三災が相次ぎ、衆生濁と見濁の二濁が国中に充満し、殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の五逆罪と謗法の二輩が日本一国中に散在している。』

 

「専ら一闡提之輩を仰いで棟梁と恃怙し、謗法之者を尊重して国師と為す。孔丘の孝経に之を提げて父母之頭を打ち、釈尊の法華経を口に誦しながら教主に違背す。不孝国は此の国也。勝母の閭〈さと〉他境に求めじ。」では、釈迦正統意識から正法違背・邪師崇敬即一国衰亡という、仏教と国の表裏一体関係を訴えている。

『衆生は一闡提の輩を仰ぎ敬って国の棟梁とたのみ、謗法の者を尊重しては国師として崇敬している。孔子が、儒経の本となる孝について教えた、孝経を持ちながら父母の頭を打ち、釈尊の法華経を口で読みながら教主に違背している。不孝の国とは、まさにこの国のことではないか。中国に勝母という名称の里があり、孔子の弟子である曾子は『その地名は不孝である』として里の門に入らなかったのだが、勝母という里は決して中国だけのことではなく、今の日本国がそれにあたるのではないか。』

 

「故に青天、眼を瞋らして此の国を睨み、黄地は憤りを含みて大地を震ふ。去る正嘉元年の大地動・文永元年の大彗星、此れ等の災夭は仏滅後二千二百二十余年之間、月氏・漢土・日本之内に未だ出現せざる所の大難也。彼の弗舎密多羅王の五天の寺塔を焼失し、漢土の会昌天子の九国の僧尼を還俗せしめしに超過すること百千之倍なり。大謗法之輩国中に充満し、一天に弥〈はびこ〉り起す所の夭災也。」では、「現実世界の自然事象の背景に宗教的要因あり」「宗教的福徳即現実世界安穏」という当時の思考にもとづいて、日本国の天災地変はインド、中国や日本の過去の歴史でも経験したことのない大難であり、弗舎密多羅王が五天竺の寺塔を焼失させたことや、漢土の会昌天子が九ケ国の僧・尼を還俗させたことに超過すること百千倍であるとする。その理由も「一国邪師帰依即国土壊乱」「一国正法帰依即国土安穏」という、両極二者択一的思考ともいうべき理解から指摘するのである。

 

続いて「大般涅槃経に云く『末法に入て不孝謗法の者大地微塵の如し』取意。法滅尽経に『法滅尽之時は狗犬の僧尼、恒河沙の如し等云云』取意。」と、日蓮の常の認識である「邪法が世を覆い、圧倒的多数が邪師である日本国」を、大般涅槃経と法滅尽経を引用して喝破する。

 

そして、「今、親り此の国を見聞するに、人毎に此の二悪有り。此れ等の大悪の輩は何なる秘術を以て之を扶救せん。」今、日本国を法華経信仰に立脚した身で以て見聞すると、皆、五逆罪と謗法罪という大悪をなす者ばかりである。これら仏教上の大悪人はいかなる秘術で救っていくべきであろうか、とした後、「大覚世尊、仏眼を以て末法を鑒知し、此の逆謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたまふ。」大覚世尊は仏眼によってこのような末法の救い難き有り様を見て知っており、五逆罪と謗法罪という重い病を治し衆生を救われるために、一大秘法を留め置かれたのである、とする。

 

その様相は、「所謂、法華経本門久成之釈尊・宝浄世界の多宝仏、高さ五百由旬、広さ二百五十由旬の大宝塔之中に於て二仏座を竝べしこと宛も日月の如く」法華経本門での久遠実成の釈尊と宝浄世界の多宝仏が、高さ五百由旬、広さ二百五十由旬という壮大な虚空の大宝塔の中において並び、それはあたかも日月のよう。「十方分身の諸仏は高さ五百由旬の宝樹の下に五由旬之師子の座を竝べ敷き、衆星の如く列坐したまひ」十方世界より来った分身諸仏は、高さ五百由旬という大きな宝樹の下に五由旬もある師子の座を並べ敷いて、あたかも多くの星の如くに列座された。「四百万億那由他之大地に三仏二会に充満したまふ之儀式は、華厳寂場の華蔵世界にも勝れ、真言両界の千二百余尊にも超えたり。一切世間の眼也。」四百万億那由他の大地に釈尊、多宝仏、十方分身の諸仏(三仏)が虚空と霊鷲山の二つの会座(二会)に充満された儀式の相は、華厳経に説かれる寂滅道場の華蔵世界に勝るものであり、真言の胎蔵界・金剛界の千二百余尊にも超えるもので、一切世間の眼目というべき尊く素晴らしいものであった。

 

やはり、「曾谷入道殿許御書」執筆開始、即ち下書きを始めた時期と、万年救護本尊を書き顕した時が合うのであれば、「一大秘法」と書いた日蓮の念頭には万年救護本尊を重ね合わせるものがあったと思う。大黒喜道氏が指摘されるとおりではないか。ただし、「曾谷入道殿許御書」以降の遺文では、「一大秘法」と「万年救護本尊」を関連付けた法義展開が記述されていることはないようで、それを「日蓮が法門」として積極的に解釈・展開していこうという意思が日蓮にあったかどうか、検討を要すると思う。

 

【 国主の帰依と万年救護本尊 】

ところで、万年救護本尊を書く日蓮の念頭にあったのは「一大秘法」(正確には、どちらが先かは分からないが)とともに、文永10年4月25日に著した「観心本尊抄」(真蹟)の「此の釈に『闘諍の時』と云云。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為(な)りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に末だ此の本尊有(ましま)さず。」(定P720)の文ではなかったか。「一閻浮提第一の法本尊」は今、日蓮がその手で万年救護本尊として書き顕わしている。そして、「天の御計いとして隣国の聖人にをほせつけられて此れをいましめ」(P1047 撰時抄 真蹟)と、蒙古軍が謗法国日本を治罰した後、改心した国主は法華経を受持。そこに一閻浮提第一の仏本尊=一尊四士が造立されるのであり、それは間近になった、と日蓮は待望していたのではないだろうか。

 

いわば、「最後」が差し迫った緊張感と覚悟、その先にある「新しい時」「法華経の国」への期待。そこに我が存在はあるやなしや、の思い。「今、すべきことを成さねば時間がない」という切迫感と、時代と人心を高山より悠々と見渡すがごとき静かなる観察力。釈尊の正法を継承し世に訴え、幾多の死地にも生き抜いてきた法華経の行者、上行菩薩再誕と確信を抱くに至った日蓮の内面世界で、これらが交互に織り成された結晶ともいうべき曼荼羅が万年救護本尊ではないだろうか。また、彼の眼には再度の(それは近いもの)蒙古襲来の後、国主が法華経を受持する光景があったのではないかと思うのだ。

 

建治元年4月の「法蓮抄」(真蹟曽存)では、天災地変と国主の信仰の関係から、日本国の現状を宗教的に解明。日蓮は自らを大聖人とし、その聖人を国主が信じない故に七つの大難が起きるとするのだが、この文面からは、日蓮には絶えず「国主の帰依を願う強き意思」のあったことが窺えると思う。

(それ)天地は国の明鏡なり。今此の国に天災地夭あり。知んぬべし、国主に失ありと云ふ事を。鏡にうかべたれば之を諍(あらそ)ふべからず。国主小禍のある時は天鏡に小災見ゆ。今の大災は当に知るべし大禍ありと云ふ事を。仁王経には小難は無量なり、中難は二十九、大難は七とあり。此の経をば一には仁王と名づけ、二には天地鏡と名づく。此の国土を天地鏡に移して見るに明白なり。又此の経文に云はく「聖人去らん時は七難必ず起こる」等云云。当に知るべし、此の国に大聖人有りと。又知んぬべし、彼の聖人を国主信ぜずと云ふ事を。(定P955)

 

尚、「一閻浮提第一の法本尊」の意は全ての曼荼羅に通じると考えるが、「観心本尊抄」より文永の役をへて万年救護本尊を書き顕わすまでの経緯をあわせ考えれば、「上行菩薩」「大本尊」と示した万年救護本尊は、やはり、日蓮の意では格別なものがあったと思え、一閻浮提第一の法本尊の象徴的な曼荼羅として他とは違った扱いだったのではないか。

 

※「観心本尊抄一考」で確認した、曼荼羅・一尊四士説示の文をもう一度見てみよう。

其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空に居(こ)し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏。釈尊の脇士は上行等の四菩薩。文殊・弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月郷を見るが如し。十方の諸仏は、大地の上に処したまう。迹仏・迹土を表する故也。是の如き本尊は在世五十余年に之無し。八年の間、但、八品に限る。正像二千年の間、小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此れ等の仏を正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。

問う、正像二千余年の間、四依の菩薩並びに人師等、余仏、小乗・権大乗・爾前・迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども、本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば、三国の王臣倶に未だ之を崇重せざる由、之を申す。此の事、粗(ほぼ)之を聞くと雖も、前代未聞の故に耳目を驚動し、心意を迷惑す。請う、重ねて之を説け。委細に之を聞かん。(定P712~)

 

「其の本尊の為体~八年の間、但、八品に限る。」は、曼荼羅の相貌を描写。「正像二千年の間、小乗の釈尊は~此の仏像出現せしむべきか。」までが、末法の時に至って初めて本門寿量品の釈尊の像が出現することを示す。続いて「問う、正像二千余年の間~本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば~委細に之を聞かん。」では、問いの中で法華経本門寿量品の釈尊の像は四菩薩が脇士、即ち一尊四士であることが示されている。要は前半が曼荼羅相貌、後半が末法出現の一尊四士を説いており、「日蓮の本尊観」というものは、仏(人)本尊と法本尊に優劣はなく、仏像本尊・曼荼羅本尊並列、即ち仏(人)本尊・法本尊並列というものだったと考えられるのである。

 

古来、日蓮系それぞれの宗派によって様々な解釈がされてきた文なのだが、それら「現在の宗派」で「決められている解釈」というものはそれとして、原文に則して読めば、上記のようになると考えている。日蓮の真実に少しでも近づくために、「日蓮が書いたままを忠実に読み解く」努力を続けていくのが、現代の探究者に課せられた使命だと思う。(かくいう私が、その理想とするところに遠く及ばないのが現状なのだが)

 

観心本尊抄の該文について、大黒喜道氏は曼荼羅本尊を日蓮・日興の正意とする富士門流の人でありながらも、宗派性にとらわれない原文に忠実な解釈をされている。

 

「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書」(興風22号P279)より

(上記の観心本尊抄の文について)これは一見、明らかな矛盾であり、この現象をどのように理解するか、甚だむつかしい。けれども、古来にぎやかな本尊論議の一切を棚に上げて、できるだけ虚心でもって客観的にこれを見た場合、釈尊よりの結要付属を受けた上行等の地涌の菩薩が末法に出現して建立すべき本尊として、宗祖は「法華経」の虚空会を相貌とした大曼陀羅本尊と共に、上行等の四菩薩を脇士とした本門の釈迦仏像本尊の二つの形態を想定されていたものと考えられる。しかも、この両本尊は基本的にイコールで結ぶことのできる、同じ価値を持った本尊形態と見られていたことが、右掲の「観心本尊抄」のご文から了解されるように思われる。

 

大黒氏は前記「佐渡の日蓮聖人(下)―大曼陀羅本尊のことー」(P90)でも、同様の見解を示されている。

 

神奈川県鎌倉市 建長寺・梵鐘 銘文

建長七年卯乙二月二十一日

本寺大檀那相模守平朝臣

時頼 謹勧千人同成大器

建長禅寺住持宋沙門道隆 謹題

都勧進監寺僧 琳長

大工大和権守物部重光

 

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