身延草庵の本尊一考 3-2

【 行者の内観を顕す時・行者の勝劣を決する時 】

文永11年11月20日の「曾谷入道殿御書」の「最後なれば申すなり」から、少しして書かれた万年救護本尊に日蓮は「上行菩薩」と書いたのだが、その一箇月後、文永12年1月24日の「大田殿許御書」(真蹟)と1月27日の「四條金吾殿女房御返事」(真蹟断片)では、「経典の勝劣」よりも「受持経典の違いによる行者の勝劣=人の勝劣」を強調して、「最大事」「一経第一の肝心」と強調している。

 

「大田殿許御書」(建治2年又は建治3年との説もある)

法華経の第七に云く「是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此の経の薬王品に十喩を挙げて已今当の一切経に超過すと云云。第八の譬、兼ねて上の文に有り。所詮、仏意の如くならば経之勝劣を詮とするに非ず。法華経の行者は一切之諸人に勝れたる之由、之を説く。大日経等の行者は諸山・衆星・江河・諸民也。法華経の行者は須弥山・日月・大海等也。而るに今の世、法華経を軽蔑すること土の如く民の如く、真言の僻人を重崇して国師と為ること金の如く王の如し。之に依て増上慢の者、国中に充満す。青天瞋りを為し、黄地夭・を至す。涓聚まりて・塹を破るが如く、民の愁ひ積もりて国を亡ぼす等是れ也。(定P854)

 

「四條金吾殿女房御返事」

所詮日本国の一切衆生の目をぬき神をまどはかす邪法、真言師にはすぎず。是れは且く之を置く。十喩は一切経と法華経との勝劣を説かせ給ふと見えたれども、仏の御心はさには候はず。一切経の行者と法華経の行者とをならべて、法華経の行者は日月等のごとし、諸経の行者は衆星燈炬のごとしと申す事を、詮と思しめされて候。なにをもんてこれをしるとならば、第八の譬への下に一の最大事の文あり。所謂此の経文に云く「能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此の二十二字は一経第一の肝心なり。一切衆生の目也。文の心は法華経の行者は日月・大梵王・仏のごとし、大日経の行者は、衆星・江河・凡夫のごとしととかれて候経文也。

されば此の世の中の男女僧尼は嫌ふべからず。法華経を持たせ給ふ人は一切衆生のしう(主)とこそ、仏は御らん候らめ、梵王・帝釈はあをがせ給ふらめとうれしさ申すばかりなし。(定P855)

 

万年救護本尊で「上行菩薩」と書いた後、法華経薬王菩薩本事品第二十三の十喩の内、特に第八番目の「又一切の凡夫人の中に須陀・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏為れ第一なるが如く、此の経も亦復是の如し。一切の如来の所説、若しは菩薩の所説、若しは声聞の所説、諸の経法の中に最も為れ第一なり。能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり。」を引用強調しているのは、次なる蒙古襲来と亡国を眼前にして、法を弘める自らの内実を顕す時、即ち「行者の内観を顕す時」に至ったとの判断と、密教の異国調伏の祈祷が世を覆う中で「法華経の行者対大日経の行者(東密・台密)」という「行者の勝劣」を決する時が来た、との認識があったのではないかと思う。

 

緊迫した情勢の中で、日蓮は自己をして仏教上どのように位置付けたのか。それを示すのが万年救護本尊の「上行菩薩」との暗示と、法華経の行者として「一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」というものだろう。「日本国に此れをしれる者、但日蓮一人なり」(定P556  開目抄 真蹟曽存)との自覚と使命感に生きる日蓮は、未だかつてなき国家的危機の高まりと共に、自己認識も大いに高まっていくのである。

 

そのような日蓮の、「仏教上の自覚の高揚」が窺える自己表現というものが、以降の著作に多く見られるようになる。

 

文永12年4月12日「王舍城事」(真蹟曽存)

章安大師云はく「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」等云云。かう申すは国主の父母、一切衆生の師匠なり。(定P917)

 

建治元年5月8日「一谷入道御書」(真蹟)

日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。(定P996)

 

建治元年6月「撰時抄」(真蹟)

法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり。章安大師云はく「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」等云云。されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり。 (定P1018)

 

「撰時抄」

日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。此れをそしり此れをあだむ人を結構せん人は閻浮第一の大難にあうべし。これは日本国をふりゆるがす正嘉の大地震、一天を罰する文永の大彗星等なり。此れ等をみよ。仏滅後の後、仏法を行ずる者にあだをなすといえども、今のごとくの大難は一度もなきなり。南無妙法蓮華経と一切衆生にすゝめたる人一人もなし。此の徳はたれか一天に眼を合わせ、四海に肩をならぶべきや。(定P1019)

 

「撰時抄」

日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし。これをもつてすいせよ。漢土・月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず。(定P1048)

 

建治2年3月27日「富木尼御前御書」(真蹟)

日本国の一切衆生の父母たる法華経の行者日蓮(定P1149)

 

建治2年7月21日「報恩抄」

法華経の第七に云く「能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此経文のごとくならば、法華経の行者は川流江河の中の大海、衆山の中の須弥山、衆星の中の月天、衆明の中の大日天、転輪王・帝釈・諸王の中の大梵王なり。(定P1218)

 

建治3年6月「下山御消息」(真蹟)

余は日本国の人々には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり。一には父母なり、二には師匠なり、三には主君の御使ひなり。経に云はく「即ち如来の使なり」と。又云はく「眼目なり」と。又云はく「日月なり」と。章安大師の云はく「彼が為に悪を除くは則ち是彼が親なり」等云云。(定P1331)

 

そして、日蓮の自己認識の高まる建治期頃から、「法華経の行者」に供養する功徳を強調するのである。

 

建治元年6月16日「国府尼御前御書」(真蹟)

法華経第四法師品に云はく「人有って仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在って無数の偈を以て讃めん。是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは其の福復彼に過ぎん」等云云。文の心は、釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりとと(説)かれて候。まこと(実)しからぬ事にては候へども、仏の金言にて候へば疑ふべきにあらず。其の上妙楽大師と申す人、此の経文を重ねてやわ(和)らげて云はく「若し毀謗(きぼう)せん者は頭七分に破れ、若し供養せん者は福十号に過ぎん」等云云。釈の心は、末代の法華経の行者を供養するは、十号具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり。又濁世に法華経の行者のあらんを留難をなさん人々は頭七分にわ(破)るべしと云云。(定P1062)

 

建治元年7月26日「高橋殿御返事」(日興本 大石寺蔵)

(うり)一籠、さゝげ(豇豆)ひげこ(髭籠)、えだまめ(枝豆)、ねいも(根芋)、かうのうり(瓜)給(た)び候ひ了んぬ。付法蔵経と申す経には、いさご(沙)のもち(餅)ゐを仏に供養しまいらせしわら(童)は、百年と申せしに一閻浮提の四分が一の王となる。所謂(いわゆる)阿育大王これなり。法華経の法師品には「而於一劫中(においっこうちゅう)」と申して、一劫が間釈迦仏を種々に供養せる人の功徳と、末代の法華経の行者を須臾(しゅゆ)も供養せる功徳とたくら(比)べ候に「其の福復(また)彼に過ぐ」と申して、法華経の行者を供養する功徳はすぐ(勝)れたり。これを妙楽大師釈して云はく「供養すること有らん者は福十号に過ぐ」と云云。されば仏を供養する功徳よりもすぐれて候なれば、仏にならせ給はん事は疑ひなし。(定P1093)

 

文永11年12月、万年救護本尊に自己の仏教上の立場、即ち釈尊より付属を受け末法に現れて、法華経最第一を訴え妙法蓮華経を弘めゆく「上行菩薩」であることを、拝する門下の信解によって理解できるように巧みなる表現で書き示した後、日蓮はいわば変わったのである。蒙古襲来という未曽有の国難が起き、迫りくる第二次襲来を前にして日本国が動揺、顕密仏教もその限界を晒して日蓮が一切を背負って立つ事態となった今、「上行菩薩」という自覚を曼荼羅上に暗に示したことが彼の内面世界の沈黙を破る契機となり、「日蓮とは仏教上どのような人物なのか」「日蓮を信じることの功徳」「日蓮に背く結果」「日蓮に供養する意味」「日蓮は日本国にとってどのような人物なのか」ということを、誰はばかることなく語り出す。これらが万年救護本尊を図顕した後、建治期の書に多く見られることにより、いかに同本尊を顕わしたことが(細かくいえば「上行菩薩」と書いたことが)日蓮の一生の画期となったかが知れるのではないかと思うのだ。

 

【 万年救護本尊讃文と新尼御前御返事 】

日蓮の故郷・安房国の新尼、大尼から「あまのり」が身延に届けられ、御本尊を要請されたことに対して教示をした返状が文永12年2月16日に著された「新尼御前御返事(与東條新尼書)」(真蹟断片)だ。

 

内容的には、身延山での心情と供養に対する感謝の言葉を記した後、大尼から御本尊を所望されたことに対し、まずは御本尊の意義を説きながら、日蓮にとって重恩の人・大尼御前ではあるが、「日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給ひき」(定P869)日蓮が迫害を蒙った時に、法華経を捨ててしまったので、そのような信仰の人には御本尊を授与できない。対して、日蓮が佐渡に流された時も退転せず、固き信仰を貫いた新尼には御本尊を渡していることが窺えるものとなっている。

 

当書での御本尊の意義については、大尼・新尼への教示を基軸にして日蓮図顕の曼荼羅に通じるものと考えるが、その文章と万年救護本尊の讃文は重なるものがあり、万年救護本尊を顕して一箇月半後の書状であることも踏まえると、ここに説示された御本尊の意義の源は万年救護本尊ではないかと思う。

 

此の御本尊は天竺より漢土へ渡り候ひしあまたの三蔵、漢土より月氏へ入り候ひし人人の中にもしるしをかせ給はず。西域等の書ども開き見候へば、五天竺の諸国寺寺の本尊皆しるし尽くして渡す。又漢土より日本に渡る聖人、日域より漢土へ入る賢者等のしるされて候寺寺の御本尊、皆かんがへ尽くし、日本国最初の寺元興寺・四天王寺等の無量の寺寺の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば、其の寺寺の御本尊かくれなし。其の中に此の本尊はあへてましまさず。(定P866)

⇒大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢日三ヶ国之間未有此 大本尊

「大覚世尊(釈尊)が入滅された後、二千二百二十余年が経歴するが、月漢日(インド、中国、日本)の三カ国に於いて未だなかった大本尊である。」

 

今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品嘱累に事極まりて候ひしが、金色世界の文殊師利、兜史多(とした)天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士、我も我もと望み給ひしかども叶はず。是れ等は智慧いみじく、才学ある人人とはひびけども、いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかるべし。我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり。此れにゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひて、あなかしこあなかしこ、我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。(定P866~867)

或知不弘之 或不知之 我慈父以仏智隠留之為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世始弘宣之

「日蓮以前、月漢日の諸師は、或いはこの大本尊のことを知っていたが弘めず、或いはこれを知らなかった。我が慈父=釈尊は仏智を以て大本尊を隠し留め(釈迦より上行菩薩に譲られて)、末法の為にこれを残されたからである。後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するのである。」

 

そして、次の天災地変、疫病、飢饉と大兵乱は、明らかに当時の日本を意識した記述となっている。特に大兵乱は蒙古の次なる攻めを予期したものと思われ、その際は「五字の大曼荼羅を身に帯し心に存」することによって、諸国の王は国を助け、万民は難をのがれるであろうと、曼荼羅の力用を説くのである。

 

末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難竝びをこり、一閻浮提の人人各各甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること、雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱るべしと仏記しおかせ給ひぬ。(定P867)

 

文章表現と時期的なものを踏まえると、「新尼御前御返事」の「此の御本尊・妙法蓮華経の五字・五字の大曼荼羅」というものは、多分に万年救護本尊を意識してのものだったと思う。そして文永12年4月に書き顕された5幅の曼荼羅讃文を見ると、

 

◇曼荼羅20

仏滅後二千二百卅余年之間 一閻浮提之内未有大曼 陀羅也

 

◇曼荼羅21

仏滅後二千二百三十余年之間 一閻浮提之内未有大曼陀羅也

 

◇曼荼羅22

仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮 提之内未有大曼陀羅也

 

◇曼荼羅23

仏滅後二千二百三十余年之間 一閻浮提之内未有大曼陀羅也

 

◇曼荼羅24

仏滅後二千二百卅余年之間 一閻浮提之内未有大曼陀羅 也

 

と一定の形になっており、日蓮は万年救護本尊讃文で自身の宗教的境地を含ませ、次に「新尼御前御返事」で御本尊の宗教的由来と功徳を説示することにより、曼荼羅の持つ仏教上の意味合いを誰人にも分かるように簡潔に文章化する必要を感じ、それを曼荼羅讃文として定形化していった、と考えられるのではないだろうか。

 

                         鴨川市 江見太夫崎
                         鴨川市 江見太夫崎

【 万年救護本尊奉掲・文永末、建治期、弘安期 】

建治年間、幕府はいわゆる元寇防塁(石築地)の築造を進め、非御家人を統轄下に入れて軍事動員の対象とし、異国警固のため東国御家人を九州に移動させ一時は高麗遠征も検討するなど、次なる蒙古襲来に備えて防御体制の強化を急いだ。いつ襲来するかもしれない蒙古の影に脅える日本国の上下万人。このような「臨戦態勢下」にある日本国の中の、人里離れた身延山。かねてから他国侵逼難を警告し、誰よりもその治術を心得ていると自負する日蓮にとっては、世情の騒然と一見無縁な静寂なる環境とは対照的に、彼の心中は、九州の現地で防御の任にあたる武士に勝るとも劣らない緊張感(それは同時に気迫でもあると思うが)に満ちたものがあったと思う。

 

このような「日本の人々定めて大苦に値いぬと見えて候。眼前の事ぞかし」(定P925 兄弟抄 真蹟)という状況下では、文永の役の後、「最後なれば申すなり」から程なくして書き顕された万年救護本尊は、「此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱るべし」の本尊として、また「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」(定P975  種種御振舞御書 真蹟曽存)、「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」(定P601 開目抄 真蹟曽存)という日蓮の法華経信仰世界での立場「上行菩薩」の意を含ませた文証として、それを弟子檀越に教示する意味からも、身延の草庵に建治年間から弘安にかけて、常時かまたは経典読誦などの際に奉掲されたと考えられるのではないか。

 

まず、日蓮が東国から九州の防御に向かう人々の、心情を綴った書状を見てみよう。

 

文永12年(又は建治2年)4月16日「兄弟抄」(真蹟)

今の世にはなにとなくとも道心おこりぬべし。此の世のありさま厭うともよも厭われじ。日本の人々定めて大苦に値いぬと見えて候。眼前の事ぞかし。~中略~文永十一年の十月ゆき(壱岐)・つしま(対馬)、ふのものども一時に死人となりし事は、いかに人の上とおぼすか。とうじもかのうて(打手)に向かいたる人々のなげき、老いたるおや、おさなき子、わかき妻、めづらしかりしすみか、うちすてて、よしなき海をまほり、雲のみ(見)うればはた(旗)かと疑ひ、つりぶねのみゆれば兵船かと肝心(きもこころ)をけす。日に一二度山えのぼ(登)り、夜に三四度馬にくらををく。現身に修羅道をかんぜり。各々のせめられさせ給う事も、詮するところは国主の法華経のかたきとなれるゆえなり。国主のかたきとなる事は、持斉等・念仏者等・真言師等が謗法よりおこれり。今度ねうしくらして法華経の御利生心みさせ給え。日蓮も又強盛に天に申し上げ候なり。いよいよおずづる心ねすがたをはすべからず。(定P925)

 

建治元年7月2日 「南条殿御返事」(日興本 大石寺蔵)

当時つくし(筑紫)へむかひてなげく人人は、いかばかりとかおぼす。これは皆日蓮をかみのあなづらせ給しゆへなり。(定P1080)

 

建治2年3月27日「富木尼御前御書」(真蹟)

かまくら(鎌倉)の人々の天の楽のごと(如)にありしが、当時つくし(筑紫)へむかへば、とど(留)まる女こ(子)、ゆ(往)くをとこ(男)、はな(離)るるときはかわ(皮)をは(剥)ぐがごとく、かを(顔)とかを(顔)とをと(取)りあ(合)わせ、目と目とをあ(合)わせてなげ(嘆)きしが、次第にはな(離)れて、ゆいのはま(由比の浜)・いなぶら(稲村)・こしごへ(腰越)・さかわ(酒匂)・はこねさか(箱根坂)。一日二日す(過)ぐるほどに、あゆ(歩)みあゆ(歩)みとを(遠)ざかるあゆ(歩)みも、かわ(川)も山もへだ(隔)て、雲もへだ(隔)つれば、うちそ(添)うものはなみだ(涙)なり、ともなうものはなげ(嘆)きなり、いかにかな(悲)しかるらん。(定P1148)

 

弘安2年10月1日「聖人御難事」(真蹟)

月々日々につよ(強)り給へ。すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。我等凡夫のつたなさは経論に有る事と遠き事はをそるゝ心なし。一定として平等も城等もいかりて此の一門をさんざんとなす事も出来せば、眼をひさい(塞)で勧念せよ。当時の人々のつくし(筑紫)へか、さゝれんずらむ。又ゆく人、又かしこに向へる人々を、我が身にひきあてよ。当時までは此の一門に此のなげきなし。彼等はげん(現)はかくのごとし。殺されば又地獄へゆくべし。我等現には此の大難に値ふとも後生は仏になりなん。設へば灸治のごとし。当時はいたけれども、後の薬なればいたくていたからず。彼のあつわら(熱原)の愚痴の者どもいゐはげま(言励)してをどす事なかれ。彼等には、ただ一えん(円)にをもい切れ、よ(善)からんは不思議、わる(悪)からんは一定とをもへ。(定P1674)

 

弘安3年7月2日「上野殿御返事」(真蹟)

そのやうに当時日本国のたのしき人々は、蒙古国の事をきゝてはひつじの虎の声を聞くがごとし。また筑紫へおもむきていとをしきめ(妻)をはなれ、子をみぬは、皮をはぎ、肉をやぶるがごとくにこそ候らめ。いわうやかの国よりおしよせなば、蛇の口のかえる、はうちやうし(包丁師)がまないた(爼)にをけるこゐふなのごとくこそおもはれ候らめ。今生はさてをきぬ。命きえなば一百三十六の地獄に堕ちて無量劫ふ(経)べし(定P1767)

 

日蓮は対蒙古防衛の最前線にある武士の心情を見事に描いており、これを以て彼の心の置き所がどこにあったか、それは、九州より遠く離れた身延の山中に身を置きながら、異国警護の任にあたる武士達、また、そこにいる門下と共にあり、いつ身命を失うかもしれない彼らとその家族のことを思い続けていたことが窺い知れると思う。

 

一方、法華弘通の面からは国主帰依・一国皆法華は遠い日のことではなく、「文永の役」の翌年、建治元年6月に著した「撰時抄」(真蹟)では、次の蒙古襲来の時には日本国の人々が日蓮に救いを求めるようになる、としている。

 

今末法に入って二百余歳、大集経の於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にあたれり。仏語まことならば定んで一閻浮提に闘諍起こるべき時節なり(定P1016)

蒙古のせめも又かくのごとくなるべし。設ひ五天のつわものをあつめて、鉄囲山を城とせりともかなうべからず。必ず日本国の一切衆生兵難に値ふべし。(定P1018)

いまにしもみよ。大蒙古国数万艘の兵船をうかべて日本国をせめば、上一人より下万民にいたるまで一切の仏寺・一切の神寺をばなげすてゝ、各々声をつるべて南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へ、掌を合はせてたすけ給へ日蓮の御房、日蓮の御房とさけび候はんずるにや。(定P1052)

 

攻め寄せる蒙古の大軍、逃げ惑う人々、その時になって聞こえてくる南無妙法蓮華経の大音声と「たすけ給へ日蓮の御房」との叫び声。実に日蓮の眼に浮かんでいればこそ、このような臨場感あふれる描写が可能になったのだと思う。彼の脳裏では観念ではなく、近き現実のことだった。

 

このような日蓮であれば、対蒙古に関する認識、緊張感は数年で落ち着くものではない。弘安元年3月の「四十九院申状」では、

「未萠を知るを聖と謂つ可きか」

「国主此の法を用いて兵乱に勝つ可きの秘術なり」

「国の為世の為尤も尋ね聞し食さるべき者なり」とし、

 

弘安2年10月の「滝泉寺申状」には、

「本師は豈に聖人に非ずや。巧匠内に在り、国宝外に求むべからず」

「隣国に聖人有るは敵国之憂也」

「国に聖人有れば天必ず守護す」

「聖人国に在るは、日本国之大喜にして蒙古国之大憂也」

「諸龍を駈り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし」

として法華経信仰世界の表出による異国退治の効験が確かなることを明示し、日本国の救済は日蓮によるべきことを力説している。

 

このように時間の経過とともに日蓮の危機意識は強まり、彼の信仰観念は拡大して溢れんばかりの高揚感となり、それは使命感の発露となって国家的危機を法華経信仰によって救うという、日本国の導師意識に昇華されていったのである。

 

四十九院申状(弘安元年3月 日蓮宗宗学全書・興尊全集P94)

駿河の国蒲原の庄四十九院の供僧等謹んで申す。

中略

且去る文応年中・師匠日蓮聖人仏法の廃れたるを見・未来の災を鑒み諸経の文を勘え一巻の書を造る立正安国論と号す。異国の来難果して以て符合し畢んぬ、未萠を知るを聖と謂つ可きか。大覚世尊霊山虚空二処三会二門八年の間三重の秘法を説き窮むと雖も、仏滅後二千二百二十余年の間月氏の迦葉・阿難・竜樹・天親等の大論師、漢土の天台・妙楽、日本の伝教大師等内には之を知ると雖も外に之を伝えず、第三の秘法今に残す所なり。是偏に末法闘諍の始・他国来難の刻・一閻浮提の中の大合戦起らんの時、国主此の法を用いて兵乱に勝つ可きの秘術なり。経文赫赫たり所説明明たり。彼れと云い、此れと云い、国の為世の為尤も尋ね聞し食さるべき者なり。仍て款状を勒して各言上件の如し。

承賢 賢秀 日持 日興

 

滝泉寺申状(弘安2年10月 真蹟)

訴状に云く 日秀・日弁日蓮房之弟子と号し、法華経より外の余経、或は真言の行人は皆以て今世後世、叶ふべからざる之由、之を申す云云。取意

此の條は日弁等之本師、日蓮聖人、去る正嘉以来の大仏星・大地動等を観見し、一切経を勘へて云く 当寺日本国の為体、権小に執著し実経を失没せる之故に、前代未有之二難を起すべし。所謂、自界叛逆難・他国侵逼難也。仍て治国之故を思ひ、兼日彼の大災難を対治せしむるべき之由、去る文応年中一巻の書を上表す立正安国論と号す。勘へ申す所、皆以て符合す。既に金口の未来記に同じ。宛も声と響きとの如し。外書に云く未萠を知るは聖人なり。内典に云く智人は起を知る、蛇は自ら蛇を知る云云。之を以て之を思ふに、本師は豈に聖人に非ずや。巧匠内に在り、国宝外に求むべからず。外書に云く隣国に聖人有るは敵国之憂也云云。内経に云く国に聖人有れば天必ず守護す云云。外書に云く世必ず聖智之君有り 而して復賢明之臣有り云云。此本文を見るに、聖人国に在るは、日本国之大喜にして蒙古国之大憂也。諸龍を駈り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし。君既に賢人に在さば豈に聖人を用ひずして徒に他国之逼を憂へん。 (定P1677)

 

「四十九院申状」の「第三の秘法今に残す所なり。是偏に末法闘諍の始・他国来難の刻・一閻浮提の中の大合戦起らんの時、国主此の法を用いて兵乱に勝つ可きの秘術なり」との、日蓮の法門を日本国主が用いて兵乱(蒙古の攻め)に勝利すべきとの訴え。「滝泉寺申状」の「聖人国に在るは、日本国之大喜にして蒙古国之大憂也。諸龍を駈り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし」との、日蓮が国に在ることによって=日蓮を用いることによって対蒙古戦に勝利できるとの確信。これら、日蓮とその門下によって表明された「日本国救済の導師・日蓮」としての意識は文永の役以降、年を追うごとに高まっていく。

 

文永末から弘安年間を通して、「日蓮が法門」の展開は対蒙古という角度を織り交ぜながら展開されていくのであり、やはり第一次蒙古襲来・文永の役によって最後の時に顕された「大本尊」、日蓮がその立場を暗示した「上行菩薩」と書かれた本尊、即ち万年救護本尊が、次なる蒙古襲来への危機感の持続と平行して、身延の草庵に奉掲されたと考えられるのではないだろうか。

 

【 遺文上では日蓮と上行菩薩の教理的関係は一定しないかの感がある、その理由は 】

今度は「法華取要抄」と万年救護本尊の関係から考えてみよう。

文永11年5月24日の「法華取要抄」に日蓮は記す。

 

問て云く 如来滅後二千余年に龍樹・天親・天台・伝教の残したまへる秘法とは何物ぞや。答て曰く 本門の本尊と戒壇と題目の五字と也。(P815)

我が門弟之を見て法華経を信用せよ。目を瞋(いか)らして鏡に向かへ。天の瞋るは人に失有ればなり。二つの日並び出づるは一国に二の国王を並ぶる相なり。王と王との闘諍なり。星の日月を犯すは臣の王を犯す相なり。日と日と競ひ出づるは四天下一同の諍論なり。明星並び出づるは太子と太子との諍論なり。是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か。(定P818)

 

天変相次ぎ戦乱に明け暮れて国が衰微するその時に、上行菩薩等が出現して「本門の三つの法門」を「建立」するのである。しかる後、全世界に「妙法蓮華経の広宣流布」することは疑いないであろう。

 

日蓮がこのように説示した約4箇月後、元軍の日本侵攻によって事態は現実のものとなり、最後なれば申すなり。恨み給ふべからず。(定P839)から程なくして万年救護本尊が書き顕わされている。注目すべきは他の曼荼羅には見られない、即ち日蓮が意識して書き示した「大本尊」「上行菩薩」との表記が「法華取要抄」と共通していることで、これにより、是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立」との「宣言」のとおりに書き顕わされたのが、万年救護本尊であるといえるのではないか。

 

ここで、日蓮と上行菩薩の関係について他の遺文を確認してみよう。

 

◇文永12年2月16日「新尼御前御返事(与東條新尼書)」(真蹟曽存・真蹟断簡)

而るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほゞ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひかと存じて此の二十余年が間此を申す。(定P868)

 

◇文永12年3月10日「曾谷入道殿許御書」(真蹟)

予、倩(つらつら)事の情(こころ)を案ずるに、大師、薬王菩薩として霊山会上に侍(じ)して、仏、上行菩薩出現の時を兼ねて之を記したまふ故に粗(ほぼ)之を喩(さと)すか。而るに予、地涌の一分には非ざれども、兼ねて此の事を知る。故に地涌の大士に前立(さきだ)ちて粗(ほぼ)五字を示す。(定P910)

 

◇建治元年6月「撰時抄」(真蹟)

後五百歳に一切の仏法の滅せん時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと、梵・帝・日・月・四天・竜神等に仰せつけられし金言虚妄なるべしや。(定P1017)

 

◇建治元年7月12日「高橋入道殿御返事(加島書)」(真蹟)

末法に入りなば迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし。(定P1084)

其の時十方世界の大鬼神一閻浮提に充満して四衆の身に入り、或は父母をがいし、或は兄弟等を失はん。殊に国中の智者げなる持戒げなる僧尼の心に此の鬼神入って、国主並びに臣下をたぼら(誑)かさん。此の時上行菩薩の御かび(加被)をかほりて法華経の題目南無妙法蓮華経の五字計りを一切衆生にさづ(授)けば、彼の四衆等並びに大僧等此の人をあだ(怨)む事、父母のかたき宿世のかたき朝敵・怨敵のごとくあだむべし。(定P1085)

 

◇建治元年「上野殿御消息(本門取要抄)(与南条氏書)」(日興本)

然る間釈迦・多宝等の十方無量の仏、上行地涌等の菩薩も、普賢・文殊等の迹化の大士も、舎利弗等の諸大声聞も、大梵天王・日月等の明主諸天も、八部王も、十羅刹女等も、日本国中の大小の諸神も、総じて此の法華経を強く信じまいらせて、余念なく一筋に信仰する者をば、影の身にそふが如く守らせ給ひ候なり。相構へて相構へて、心を翻(ひるが)へさず一筋に信じ給ふならば、現世安穏後生善処なるべし。(定P1127)

 

◇建治3年6月「下山御消息」(真蹟)

今の時は世すでに上行菩薩の御出現の時剋に相当れり。而るに余愚眼を以てこれを見るに、先相すでにあらはれたる歟。(定P1316)

 

◇建治3年6月25日「頼基陳状(三位房龍象房問答記)(龍象問答抄)」(日興写再治本・未再治本)

日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使ひ、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御坐候聖人を(定P1352)

日蓮聖人の御房は三界の主、一切衆生の父母、釈迦如来の御使ひ上行菩薩にて御坐候ひける事の法華経に説かれてましましけるを信じまいらせたるに候。(定P1358)

 

⇒建治3年6月9日に行われた龍象房と日行の桑谷問答に同席した四条金吾が、主君・江馬入道より勘気を蒙り、「日蓮と法華経信仰を捨てるという起請文を出すこと。拒否すれば所領二カ所を没収する」と、下文を以て迫られる。四条金吾は直ちに事の顛末を日蓮に報告。日蓮は江馬氏の下文に対する「陳状の案文」を作成して四条金吾のもとに届け、金吾は誰人かに清書を依頼して陳状を用意した。その後、秋頃には江馬氏が病気にかかり、四条金吾が治療・看病の任にあたって主君の誤解も解ける方向に事態が改善していったため、陳状が主君に実際に上呈されたかどうかははっきりしないようだ。「頼基陳状」には日蓮真蹟がなく、北山本門寺に再治本と未再治本が伝わる。「昭和定本」「日蓮聖人遺文辞典・歴史編」「日興上人全集」等は再治本、未再治本共に日興筆としているが、菅原関道氏は「重須本門寺所蔵の頼基陳状両写本について」(興風15号P141)にて、再治本が日興筆、未再治本は日澄筆であると立証されている。

 

山上弘道氏は「宗祖書状・陳状等のご自身によるテキスト化について」(興風18号P257)で、再治本・日興本と未再治本・日澄本の比較検討を行い、その文面から、また関係人物に対する配慮・記述から未再治本・日澄本は上呈本であった、即ち日蓮の案文であったことを立証されている。それによれば、上記の「日蓮聖人は~上行菩薩の垂迹」「日蓮聖人の御房は~上行菩薩にて御坐候ひける」との記述は日澄本、即ち四条金吾が主君・江馬氏に上呈するために用意した陳状にはなく、弘安2年以降に成立されたと判断される再治本・日興本に記入されている。日蓮は上行菩薩との文は、はじめに内外に示した文書には記されていないと考えられるのである。

 

日蓮存命中の再治本であれば、日蓮は万年救護本尊で上行菩薩であると認識される記述をした以外に、弟子への教導では自らの内観を、「檀越からその主君への陳状書」というやはり間接的なものによって表現していたことになる。もしくは再治本の該文が日蓮滅後に日興が書き加えたものであれば、それは日興の日蓮理解、信解を示すものにほかならない(もちろんそれは正しい理解だ)。いずれにしても日蓮は存命中、「自らが上行菩薩である」と誰人にも分かるように直接的に語ったり、書いたりしたことはなかったようだ。

 

◇建治3年7月「四条金吾殿御返事(為法華経不可惜所領事)」(真蹟)

只事の心を案ずるに、日蓮が道をたすけんと、上行菩薩貴辺の御身に入りかはらせ給へるか。又教主釈尊の御計らひか。(定P1362)

 

◇弘安元年9月「本尊問答抄」(日興本)

経には上行・無辺行等こそいでてひろ(弘)めさせ給ふべしと見えて候へども、いまだ見えさせ給はず。日蓮は其の人には候はねどもほゞ心へて候へば、地涌の菩薩のいでさせ給ふまでの口ずさみに、あらあら申して況滅度後のほこさき(矛先)に当たり候なり。(定P1586)

 

遺文によれば、日蓮は上行菩薩の働きを説示して今は出現の時とするも、それは自らであることを否定したり、守護の働きをする神仏的存在に例えたりもする。このような日蓮と上行菩薩の教理的関係は一定しないかの感がある中、唯一、日蓮の意思表示として彼の手により、直接的な表現は避けながらも「上行菩薩・日蓮」と理解できるように書かれたのが万年救護本尊の讃文だといえるだろう。いわば「文証」ならぬ「本尊証」が万年救護本尊の讃文であり、(信解ある門下にとっては)「上行菩薩・日蓮」の明証として、未曾有の国難の時に「上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立」したことを示す曼荼羅として、万年救護本尊は建治期から弘安期にかけて、身延の草庵に奉掲され続けたのではないかと考えるのだ。

 

また、日蓮が遺文上では「上行菩薩であることを自身の言葉、記述として直接、明確に表示」しなかったのも、当然、軽々に示すことではなく、法華経への信厚き者が日蓮の意とするところを理解すべきとの考えであり、故に「身延に来たって曼荼羅(万年救護本尊)を拝する門下こそが我が意を察せよ」との思いで、遺文上ではかくなる表現(自らであることを否定、神仏的存在に例える)程度に留めたのではないだろうか。

 

文永10年4月26日、「観心本尊抄」を富木常忍・大田入道・教信御房等に送付した際の「観心本尊抄副状」(定P721 真蹟)に、「此の事日蓮当身の大事也。之を秘して無二の志を見ば之を開拓せらるべきか。此の書は難多く答へ少なし、未聞の事なれば人の耳目之を驚動すべきか。設ひ他見に及ぶとも、三人四人座を並べて之を読むこと勿れ。仏滅後二千二百二十余年、未だ此の書の心有らず、国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す。」との、重要なる法門書の扱いに慎重を期するよう厳命したことと合わせ考えると、我即上行菩薩であるとの宗教的確信の表明には受けての信仰理解の程度により様々な疑問を生ずる可能性がある故、間接的なものに留めたのだと考える。そのような意味からも、日蓮の内観「日蓮即上行菩薩」を外に表すには慎重を期して、門下の信を以て理解せしめるべくの思いを込めて書き顕わした万年救護本尊は、他の曼荼羅とは異なる扱いであったと思う。それは身延の草庵で、日蓮の法華経信仰世界での一つの到達点を示すものとして奉掲され続けたことを意味する、と私は考えている。

 

前のページ                                    次のページ