身延草庵の本尊一考 4

                          身延 草庵跡
                          身延 草庵跡

4 臨滅度時本尊

【 授与書きのない臨滅度時本尊 】

    曼荼羅81 臨滅度時本尊 鎌倉 妙本寺蔵
    曼荼羅81 臨滅度時本尊 鎌倉 妙本寺蔵

弘安3年(1280)3月、日蓮は後に門下より「臨滅度時本尊、蛇形本尊」と呼ばれることになる曼荼羅(御本尊集NO81)を書き顕した。「御本尊集」(立正安国会)の解説によれば、

 

聖祖御入滅の時に臨み、御床頭に聖筆大漫荼羅を奉懸したことは
西山日代師「宰相阿闍梨御返事」 (「宗学全書興門集」二百三十四頁)
「当家宗旨名目」 (下巻二十九丁)
「立像等事」 (「本尊論資料」第一編百十五頁)
「元祖化導記」 (下巻四十二丁)
以下の諸書に概ね之を載せ、其の臨滅度時の大漫荼羅が即ち当御本尊であることは、

「本化別頭仏祖統紀」 (六巻二十六丁)
「高祖年譜攷異」 (下巻五十三丁)
の伝えるところである。

但し、「別頭統紀」が文永十一年四月の御図顕としたのは、失考としなければならぬ。 
「蛇形御本尊」と云う称号の由来も、亦同書に詳しい。

というもので、日蓮入滅の時にあたり、その床頭に掲げたと伝えられている。

 

顕示年月日は「弘安三年太才庚辰三月 □」、讃文には「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也」と書かれている。寸法は「161.5×102.7㎝」で、10枚継ぎの大きなものだ。

 

平成13年、日蓮宗により臨滅度時本尊の修理が行われ、その際、曼荼羅右下「大広目天王」の表具の背面に「日朗(花押)」と小さく署名されていることが確認されており(「妙本寺蔵『日蓮聖人御真蹟 臨滅度時曼荼羅本尊』の成立と伝来」中尾堯氏 2008年 「日蓮仏教研究」常円寺日蓮仏教研究所)、現在の所蔵寺院が鎌倉・比企谷妙本寺であることからも、臨滅度時本尊は日蓮一弟子の一人日朗の門流で継承されてきたことが分かる。この曼荼羅で注目すべきは授与書が無いことで、削られた跡が有るわけでもない。始めから授与書きが無いのである。渡辺宝陽氏は考察「大曼荼羅本尊御図顕の意義」(日蓮聖人門下歴代・大曼荼羅本尊集成 解説 1986大塚巧藝社)において、「なお、ここで注目されることは、臨滅度時の御本尊には授与書がないことである。十枚継以上の五幅のうちで、この一幅には授与書が認められていない。しかも大曼荼羅全体が見事な完成美を示していることといい、聖人の御入滅の時に掲げられたと伝えられていることとかさね合わせて、授与書がないことが逆に重要な意味をもっているようにも推察されるのである。」(P16)と指摘されている。

 

中尾堯氏は前記考察で、鎌倉における日朗の法華堂には文永11年(1274)に揮毫されたとみられる曼荼羅(「御本尊集」では曼荼羅18にあたる。寸法は189.4×112.1cm で、20枚継ぎの大きなもの)が掲げられていたが、10年余り経過して破損が目立ってきたようで、日朗は日蓮に本尊の揮毫を願い出た。弘安3年3月、日蓮は要請に応じて曼荼羅を揮毫、それが臨滅度時本尊で、日蓮から曼荼羅を直授された日朗は直ちに鎌倉法華堂に奉掲した。古くなった曼荼羅18は、巻かれて仕舞われ後世に伝えようとした。日蓮は授与する相手の名を「□□□授与之」と書くことがあるが、臨滅度時本尊の場合は「直授」なので改めて書くことはしなかった(趣意)と解説されている。

 

さて、どうだろうか。

弘安3年3月、臨滅度時本尊を書き顕した「直後」に、日蓮が日朗に授与したことを証するもの、記録等はない。程なくして鎌倉法華堂に奉掲されたという記録、文献もない。

もし、弘安3年3月の図顕直後、日朗に臨滅度時本尊を授与していたのならば、他の弟子への曼荼羅に、

・「大日本国沙門日照之」(建治2年4月 祈祷御本尊 曼荼羅37 寸法133.4×98.5㎝ 8枚継ぎ)

⇒「当曼荼羅の授与書きは、もと紙背に認めさせられたものを、表装に際し、之を切り離して表面に現した」と伝承されている。

・「日頂上人授与之」(弘安元年8月 曼荼羅53  寸法94.5×52.4㎝ 3枚継ぎ)

・「日向法師授与之」(弘安2年4月8日 曼荼羅61 寸法89.4×47.6㎝ 3枚継ぎ)

・「釈子日昭伝之」(弘安3年11月 伝法御本尊 曼荼羅101 寸法197.6×108.8㎝ 12枚継ぎ)

とあるように、「日朗授与之」などと授与書きを記したのではないだろうか。

 

        曼荼羅57 岡宮 光長寺蔵
        曼荼羅57 岡宮 光長寺蔵

 

 

 

「日蓮一門が大勢集まるところ、法華堂、持仏堂などに掲げるために揮毫された曼荼羅だから、授与書きはいらない」との意見もあるだろうが、臨滅度時本尊と同じ年、弘安3年11月に「釈子日昭伝之」と書かれた曼荼羅101通称・伝法御本尊は、寸法が197.6×108.8㎝、12枚継ぎの大きなもので、この形状からすれば日昭の法華伝道拠点に集まる信徒が礼拝するための曼荼羅であったと推測でき、その曼荼羅には授与書きが認められているのである。他にも、弘安元年11月21日に書き顕された曼荼羅57は、寸法234.9×124.9㎝、大小28枚継ぎという現存真蹟曼荼羅中最大のもので、教線拡大により法華伝道拠点が誕生し、そこでの礼拝のために顕された曼荼羅と思われる。ここには「優婆塞藤太夫日長」との授与書きがある。

 

【 日蓮と日昭 】

日蓮が日昭に言及した書状は多い。

 

◇「弁殿御消息」(文永9年7月26日 真蹟)

不審有らば諍論無く書き付けて至らしむべし。

此の書は随分の秘書なり。已前の学問の時もいまだ存ぜられざる事、粗之を載す。他人の御聴聞なからん已前に御存知有るべし。総じてはこれより具して至らん人には、よりて法門御聴聞有るべし。互いに師弟と為らん歟。(略)弁殿・大進阿闍梨御房・三位殿(定P649)

⇒鎌倉の日蓮一門は「新尼御前御返事」(真蹟断片)に「かまくらにも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて」(定P869)とあるように、文永8年の法難で退転する者が多く、留まった者も所領・家宅の没収などで門徒組織は衰微したのだが、文永9年2月の二月騒動(日蓮にとっては自界叛逆難の現実化)を経て復興されつつあった。文永9年7月26日、鎌倉で活動を展開していた日昭・大進阿闍梨・三位房の3名に宛てて、佐渡の日蓮は「随分の秘書」を送った。「開目抄」以降の、その法門書がどのようなものであったかは不明だが、これにより3名が鎌倉一門の中核であったことが分かる。日蓮は「随分の秘書」に不審点があるならば、不要な議論をせずに聞きたいことを書きつけて佐渡に送るよう指示。また、その書の内容は今まで学んだことのないものであり、あなた方3名が互いに師弟となり法門を研鑽すべきである、と教導している。

 

大進阿闍梨については「真間釈迦仏御供養逐状」(文永7年9月26日 日朝本 真蹟に準ずると考える)に、「御所領の堂の事等は、大進の阿闍梨がきゝて候。」(定P457)とあるのが初見か。「五人土籠御書」(文永8年10月3日 真蹟)には、「大進阿闍梨はこれにさたすべき事かたかたあり。又をのをのの御身の上をもみはてさせんがれう(料)にとゞめをくなり。」(定P506)とある。大進阿闍梨は鎌倉でやるべき種々のことがあり、日朗らの身が今後どのようになるかも見定めなければならないので鎌倉に留め置く、としており、門下を見守るべき導師的立場であったことが窺われる。

 

◇「妙一尼御返事」(文永10年4月26日 真蹟)

弁殿は今年は鎌倉に住し衆生を教化する歟。(定P722)

⇒日蓮は、今年は日昭が鎌倉に住み続けて、衆生を教化する=弟子檀越を教導することを妙一尼に伝える。

 

◇「波木井三郎殿御返事」(文永10年8月3日 日興本 北山本門寺蔵)

鎌倉に筑後房、弁阿闍梨、大進阿闍梨と申す小僧等之あり。之を召して御尊び有る可し、御談義有る可し。大事の法門等粗申す。彼等は日本に未だ流布せざる大法少々之を有す。随つて御学問注し申す可き也。(定P745)

 

◇「弁殿御前御書」(文永10年9月19日 真蹟)

しげければとどむ。弁殿に申す。大師講をおこなうべし。大師と(取)てまいらせて候。三郎左衛門の尉殿に候文の中に涅槃経の後分二巻・文句五の本末・授決集の抄の上巻等、御随身あるべし。(定P752)

 

◇「弁殿御消息」(建治2年7月21日 真蹟)

たきわう(滝王)をば、いえふく(家葺)べきよし候けるとて、まか(退)るべきよし申し候へば、つかわし候。(定P1190)

(妙一尼の配慮により、佐渡在島中から)日蓮のもとで仕えていた滝王丸を、屋根葺きのために、身延より鎌倉の日昭のところへ向かわせたことが記されている。それは日昭の房舎、または妙一尼の家屋のことだろうか。文面からはどちらともいえないと思うのだが。

 

◇「兵衛志殿御返事」(建治3年11月20日 真蹟)

かたがたのもの、ふ(夫)二人をもつて、をくりたびて候。その心ざし弁殿の御ふみに申すげに候。(定P1401)

 

◇弘安元年(昭和定本は弘安3)1020日、日蓮は日朗と池上宗仲に対して書状(両人御中御書・真蹟)を発した。そこには、

「故大進阿闍梨の坊は~べん(弁)の阿闍梨にゆづられて候よしうけ給はり候ひき」

(P1802、以下同)

「大国阿闍梨・大夫志殿の御計らひとして弁の阿闍梨の坊へこぼ(毀)ちわたさせ給ひ候へ。」

「弁の阿闍梨の坊をすり(修理)して、ひろ(広)く、もら(漏)ずば、諸人の御ために御たからにてこそ候はんずらむめ」

「このふみ(文書)ついて両三日が内に事切て」

とあって、鎌倉在住の弟子・大進阿闍梨は「自らの亡き後の房舎は日昭に譲渡する旨の譲り状」を残していたが、大進阿闍梨が死去した後も房舎は無住のままで、事後処理をしていないのはどういうことかと日朗・池上宗仲に指摘し、直ちに房舎を解体して、その材木で日昭の房舎の増築修理をするように、と指示している。尚、鎌倉の大進阿闍梨が亡くなった時期については、山上弘道氏の論考「四條金吾領地回復を伝える諸遺文の系年再考」(興風23P597)で、「弘安元年の78月頃」と推定されており、両人御中御書」の系年も「弘安元年1020日とするのが妥当」とされている。ここでは山上氏の教示によった。

 

 ◇「王日殿御返事」(弘安3年 真蹟)

弁の房の便宜に三百文、今度二百文給了んぬ。(定P1853)

 

このように、日昭は師日蓮の佐渡配流中、法華勧奨の現場に立ち檀越の教導に当たって、壊滅状態だった鎌倉の日蓮一門を再興し、天台大師講を行っている。そこには日朗、大進阿闍梨も共にあったようだ。日昭は門下の近況を身延の日蓮に報告、供養の取り次ぎもしていて、鎌倉界隈の門下の導師としての存在であった。そして建治2年4月に曼荼羅37通称・祈祷御本尊(133.4×98.5㎝ 8枚継ぎ)を授与されていたこと、曼荼羅101通称・伝法御本尊(197.6×108.8㎝、12枚継ぎ)を弘安3年11月に授与されていることと合わせ考えると、鎌倉日蓮一門の重鎮、日蓮の補処としての日昭が知れるのであり、鎌倉のいずれかの地に大幅の曼荼羅を奉掲できる相応の房舎を構えていたことも確認されるのである。

 

   曼荼羅101 伝法御本尊 玉沢 妙法華寺蔵
   曼荼羅101 伝法御本尊 玉沢 妙法華寺蔵

日蓮と日昭の関係において、特に注目すべきは弘安3年11月の「伝法御本尊」の授与書きに、「釈子日昭伝之」と表現されたことだと思う。ここで、日蓮の著作者としての署名、「撰号」の冠詞の変化を見てみよう。

 

系年が文応年間(1260~1261)とされる「三部経肝心要文」(真蹟1巻6紙)では、題名の下に「天台沙門日蓮」と記す。(山中喜八氏は、「建長の末[1255~1256]に書かれたもの」と推定される。「日蓮聖人真蹟の世界・下」P225)

 

筆跡より日興写本とされる「立正安国論」では、題号の次下に「天台沙門日蓮勘之」の署名がある。他に「天台沙門日蓮勘之」と記したものには日高写本、日祐写本、日弁写本がある。

 

文永3年の「法華題目抄」(真蹟)では、本文冒頭に「根本大師門人 日蓮 撰」(定P391)と記している。

 

系年が佐渡期と推測される「顕謗法抄」(真蹟断片か・真蹟曽存)には、冒頭「本朝沙門 日蓮撰」(定P247)と記す。

 

系年、文永9年とされる「祈祷抄」(真蹟曽存)にも、冒頭「本朝沙門 日蓮 撰」(定P667)と記している。

 

そして文永10年4月25日の「観心本尊抄」でも、冒頭「本朝沙門 日蓮撰」(定P702)とする。

 

続いて文永11年5月24日の「法華取要抄」(真蹟) では、冒頭「扶桑沙門 日蓮 述之」(定P810)と記す。

 

建治元年6月の「撰時抄」になると、冒頭「釈子 日蓮 述」(定P1003)と、「釈子」を冠するようになる。

 

日蓮の法華勧奨の展開、度重なる受難と宗教的新境地の開拓とともに、天台沙門・根本大師門人から本朝沙門へ、続いて扶桑沙門から釈子日蓮へと至ったのではないか。この「釈子」には、身命に及ぶ受難を経て法華経最第一を証明した法華経の行者であること、自らも教主釈尊に導かれ包まれた仏弟子であること、そして次なる蒙古襲来を前にして釈尊に直参する正統の仏教者として国難の矢面に立とうとする自覚と覚悟等、これらを包摂した万感の思いが込められているのではないだろうか。この、日蓮の自己規定たる「釈子」を、彼は一人だけのものとはせず、弟子にも冠している。今、現存・曽存の図顕曼荼羅から「釈子」を冠されたことが確認できるのは、上記「伝法御本尊」を含めて3幅、即ち3名だけのようだ。

 

・曼荼羅60

弘安二年太才己卯二月 日・釈子日目授与之・94.9×52.7㎝ 3枚継ぎ

 

・中山法華経寺に曽存した弘安2年6月曼荼羅

弘安二年太才己卯六月 日・釈子日家授与之・104.5×57.0㎝ 3枚継ぎ

「日等臨写本・日蓮聖人真蹟の形態と伝来」(P51~97)、「日蓮聖人真蹟の世界・上」(P254・255)による。

 

弘安2年2月に日目、弘安2年6月に日家、弘安3年11月に日昭、この3名に日蓮は授与曼荼羅によって「釈子」を冠しており、日目、日家、日昭をいかに評価していたか、3名に他とは異なる格別の信頼、期待をよせていたことが窺い知れるのではないかと思う。更に細かい点だが、日目には「釈子日目授与之」、日家には「釈子日家授与之」、日昭には「釈子日昭伝之」とあり、日目・日家の「授与之」は他の曼荼羅と同じく通常の如く記されるものであるのに対し、日昭授与の曼荼羅に「伝之」とあるのは図顕曼荼羅中ではこの1幅だけで、そこに込められた日蓮の意を読み取ることが必要になると思う。「之を授与す」は被授与者に曼荼羅を授け与える、ということだが、「之を伝う」だと曼荼羅に顕された日蓮の法華経信仰世界をそのまま被授与者に伝える、師より伝えられたということはそれを未来にも伝えよ、との意が込められているのではないか。即ち、「日蓮が法門」を継承し、未来に伝えるべき導師として日昭に重きを置いた表現ではないかと考えるのだ。(もちろん、弘安5年10月の「宗祖御遷化記録」に見られるように、六老僧は「一弟子」である。と同時に、日昭は日蓮法華伝道初期よりの弟子であるから他の5人の先達として、経験と年齢からも、一門の指南役、長老的存在であったことだろう)

 

尚、日朗の房舎については、「日蓮攷」(P115 2008 山喜房仏書林)での高木豊氏の教示によれば、日像への書状に「持仏堂ノ障子五間之唐紙当用ニ候」(与肥後殿書・日蓮宗宗学全書6上聖部P29)とあること、正和5年(1316)閏10月6日付けの僧某両名の請取状に「比企谷の御坊」(大田区史・資料編寺社2 P114)とあること、別の日朗書状に「オモヒカゲ候ハズ鎌倉ヤケ候テ御処モヤケ候テ経論聖教モ皆焼失、オモフバカリモナク存候」(与肥後殿書・日蓮宗宗学全書P28)とあることから、その存在を窺い知れるのは日蓮滅後になるようだ。日朗所有の坊舎が今日の鎌倉比企谷妙本寺になったとされているが、高木豊氏は妙本寺の寺号の初出については、池上本門寺・妙本寺3代である日輪の無年次閏7月19日付けの「寺主上人」(京都妙顕寺2代・大覚)宛ての書状に見えるのが最も早く、同書の系年を延文2年(1357)と推定され、妙本寺の寺号は同年以前から用いられていた、とされている(日蓮攷P115)。

 

【 曼荼羅53「日頂上人授与之」 】

       曼荼羅53 村松 海長寺蔵
       曼荼羅53 村松 海長寺蔵

ここで、「日頂上人授与之」と書かれた曼荼羅53の背景を見てみよう。

 

文永12年2月7日、日蓮が富木入道尼御前に報じた「可延定業御書」(真蹟)では、富木氏夫人の病気を聞いた日蓮が平癒を祈念して激励しているが、文末に「大日月天に申しあぐべし。いよどの(伊予殿)もあながちになげき候へば日月天に自我偈をあて候はんずるなり。」(定P864)と、日蓮は日天月天に平癒を祈っていること、富木夫人の子息・伊与房が病身の母の平癒を願い「自我偈」を読んでいることが記されている。この時、伊予房・日頂は身延の日蓮のもとにいたことが窺われる。

 

弘安2年11月25日の「富城入道殿御返事」(真蹟)と「富城殿女房尼御前御書」(真蹟)では、日蓮は富木夫人の「御寿命長遠之由天に」(定P1710)祈念し、往年、世話になったことに感謝を捧げている。そして「さてはえち(越)後房・しもつけ房と申す僧をいよどのにつけて候ぞ。しばらくふびんにあたらせ給へと、とき殿には申させ給。」(定P1711)と、熱原法難の余韻が冷めやらないものか、越後房日弁・下野房日秀を伊予殿(日頂)につけて下総に向かわせたので、事情を察してしばらく留まらせてほしいと依頼している。袖書きには「いよ(伊与)房は学生になりて候ぞ。つねに法門きかせ給候へ。(P1710) とあり、富木夫人の子息・伊与房の教学研鑽が進み日蓮一門の学匠へと育ってきているので、法門のことについて常に尋ねていくように促している。

 

弘安3年11月29日の「富木殿御返事」(真蹟)は冒頭に、「鵞目一結、天台大師の御宝前を荘厳し候ひ了んぬ。」(定P1818)とあるように、富木氏が身延山での「天台大師講」のために銭一結を供養されたことに対する返状である。薬王菩薩本事品第二十三の「能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」、法師品第十の「持経者を歎美せんは其の福復彼れに過ぎん」、湛然の「法華文句記」の「若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号」、最澄の「依憑天台集」の「讃せん者は福を安明に積み、謗らん者は罪を無間に開く」、更に「法華文句記」の「方便の極位に居る菩薩猶尚第五十の人に及ばず」を引用して法華経の行者供養の功徳と、誹謗する罪を説く。続いて富木夫人の病について、「我が身一身の上」のことと思い昼夜を問わず天に平癒を祈願しているとし、富木夫人は「法華経の行者をやしなう事、燈に油をそへ、木の根に土をかさぬるがごとし」という重恩の人なのだから、「日月天其の命にかわり給へと」強く祈願していると励ます。続いて「又をもいわするゝ事もやといよ(伊予)房に申しつけて候ぞ。たのもしとをぼしめせ」と、様々な用事で思い忘れるかもしれないので、伊予房・日頂にも祈願に励むよう申しつけているので安心して頂きたい、と記している。

 

「可延定業御書」「富城殿女房尼御前御書」「富木殿御返事」の三書により、伊予房・日頂は身延の日蓮のもとにあって法門研鑽に励んでいたこと、身延と下総の往来をしていたことがわかる。そのような日頂に、弘安元年8月に授与された曼荼羅53の寸法は94.5×52.4㎝ で、3枚継ぎのものだ。日蓮の側にいた弟子・日頂に授与した曼荼羅53に、「日頂上人授与之」と書かれているのは注目すべきだろう。当然、身延の草庵で日蓮に仕えている時に奉掲したとは考えづらい。おそらくは、下総国での日頂の法華伝道拠点(日蓮亡き後、日頂は弘法寺に入ると伝えるところから、それは真間かその周辺かもしれない)に奉掲されたものではないだろうか(※)。日蓮は膝下にいた弟子・日頂に曼荼羅を直接授け、そこには授与書きが記されていた。しかも、その曼荼羅は日頂の伝道拠点となる堂舎等に奉掲されたと考えられるのだ。

 

付記すれば、日興の富士方面での法華勧奨活動により、富士熱原郷下方の天台宗・滝泉寺の住僧である日秀・日弁・日禅らが日蓮の一門となり、彼らに関係する地元の農民らも多数が法華経を信仰するに至った。同地での日蓮一門の活発な布教活動が滝泉寺院主代・平左近入道行智らとの軋轢を生み、それが高じて弘安2年秋の熱原法難へと拡大していくのだが、法華伝道が活発化していた弘安2年4月、日蓮は越後房日弁に曼荼羅を授与している。「御本尊集」の曼荼羅63がそれで、当時の日弁の動向からすれば、熱原と周辺での法華伝道拠点に奉掲した、また農民らを教化する際には持ち歩いて布教の現場でも掲示(樹木に掛ける等)したのではないだろうか。曼荼羅63には「比丘日弁授与之」と授与書きがあり、寸法については日頂に授与した曼荼羅53の94.5×52.4㎝ よりやや大きめの100.0×53.0㎝で、共に3枚継ぎとなっている。法華伝道拠点に奉掲する曼荼羅の寸法は、縦横100.0×53.0㎝前後が平均値だったろうか。これらは堂舎、持仏堂、邸宅のみならず、農民らを集めて集会・布教する屋外などでも掲示されたことがあったのではないかと思う。

 

尚、系年が弘安4年10月27日とされる、真蹟1紙11行の断簡「越州嫡男並妻尼事」でも「伊予殿の事存外の性情、智者也。当時、学問隙無く」(定P1889)と、伊予房の学業増進とその智者ぶりを讃えている。しかし、系年については坂井法曄氏氏の考察「分蔵された一通の御書」(興風談所・平成15年のコラム)では、「土木殿御返事(文永10年11月3日)の前半部分が当書であり一本化すべき」(趣意)と指摘されている。であれば、当書は佐渡期の書となり、身延期の日頂の動向を伝えるものとはならないので、ここでは参考とするに留めたい。

 

※日興一門の「富士一跡門徒存知事」に、「伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏なり。而るに去る年月日興が義を盗み取って四脇士を副う、彼の菩薩の像は宝冠形なり。」とある。下総国・真間の堂の本尊が釈迦一体仏であることは、文永7年9月26日の「真間釈迦仏御供養逐状」(日朝本 真蹟に準ずると考えている)に「釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。」(定P457)とあるところだが、富士一跡門徒存知事」によれば、後年、四菩薩を加えて一尊四士となったようだ。ということは、「日頂上人授与之」の曼荼羅53は今日の日蓮系寺院に見られるように仏像の後方に奉掲されたのか、または同じ堂舎内で別の宝前として掲げられたのか、更には他の房舎なのか、いずれにしても奉掲の態様については確定的なことはいえない。「日頂の法華伝道拠点」という表現が相応しいかと思う。

 

                         鴨川市 粟斗
                         鴨川市 粟斗

【 弘安年間の授与書き 】

「御本尊集」により日蓮が書いた曼荼羅を確認すると、文永、建治年間には授与書きのあるものは少なく、弘安元年から次第に授与書きが多くなり、弘安2年以降は同年11月の曼荼羅68-2、弘安3年3月の曼荼羅81・臨滅度時本尊、同じく弘安3年の系年と思われる曼荼羅90(守護曼荼羅か)、弘安5年1月の曼荼羅117、同年6月の曼荼羅122、123の計6幅を除き、他の72幅の曼荼羅は全てに授与書きが記されている。このことは、布教の進展により法華経信奉者が増加、弟子檀越からの曼荼羅授与の申し出が多くなり日蓮はそれに応えたことを示すとともに、弘安元年以降、日蓮は授与される者の名を意識して書き入れ、それが定形化していったことを意味するのではないかと思う。以下、弘安元年以降の曼荼羅授与書きを、「御本尊集」をもとに確認してみよう。

 

⇒は筆者が加える

 

◇曼荼羅47  弘安元年3月16日  授与書きなし  「病即消滅御本尊」

曼荼羅 28、29、38、39、40、49と同じく、由来を明示する文がなく、形態の簡略化、「此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」との讃文の意から「守護曼荼羅」と区分されるか。

 

◇曼荼羅48  弘安元年4月21日  優婆塞日専

 

◇曼荼羅50  弘安元年7月5日   沙門日門授与之 「若宮御本尊」「竹内御本尊」

 

◇曼荼羅51     同日         授与書き削損  「輪宝御本尊」

 

◇曼荼羅49  弘安元年7月      授与書きなし

曼荼羅 28、29、38、39、40、47と同じく、由来を明示する文がなく、形態の簡略化、「此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」との讃文の意から「守護曼荼羅」と区分されるか。

 

◇曼荼羅53  弘安元年8月      日頂上人授与之

 

◇曼荼羅54  弘安元年8月      授与書き削損

 

◇曼荼羅56  弘安元年10月19日  授与書きなし  「鴛鳶御本尊」

 

◇曼荼羅57  弘安元年11月21日  優婆塞藤太夫日長

 

◇曼荼羅52  顕示年月日削損     比丘日賢授与之

 

◇曼荼羅55  顕示年月日なし     授与書きなし

 

◇曼荼羅58  顕示年月日なし     授与書きなし

 

◇曼荼羅59  弘安2年2月      妙心授与之

 

◇曼荼羅60  弘安2年2月      釈子日目授与之

 

◇曼荼羅61  弘安2年4月8日   日向法師授与之

 

◇曼荼羅62  弘安2年4月8日   優婆塞日田授[与之]

 

◇曼荼羅63  弘安2年4月      比丘日弁授与之

 

◇曼荼羅64  弘安2年6月      比丘尼日符

 

◇曼荼羅65  弘安2年7月      沙門日法授与之

 

◇曼荼羅66  弘安2年9月      日仰優婆塞授与之

 

◇曼荼羅67  弘安2年10月     沙弥日徳授与之   「子安御本尊」

 

◇曼荼羅68-1弘安2年11月     優婆塞日安授与之

 

◇曼荼羅68-2弘安2年11月     授与書きなし

 

◇曼荼羅69  弘安2年11月     沙門日永授与之

 

◇曼荼羅70  弘安2年11月     優婆塞日久     「四天王画像御本尊」

 

◇曼荼羅74  弘安3年1月      日仏

 

◇曼荼羅71  弘安3年2月1日   俗日頼(四條頼基)授与之

 

◇曼荼羅72  弘安3年2月      日眼女(四條頼基妻)授与之

 

◇曼荼羅73  弘安3年2月      藤原清正授与之

 

◇曼荼羅75  弘安3年2月      俗■□・読取困難

 

◇曼荼羅76  弘安3年2月      優婆塞日安

 

◇曼荼羅77  弘安3年2月      俗吉清

 

◇曼荼羅78  弘安3年3月      日□授与之

 

◇曼荼羅79  弘安3年3月      沙弥妙識

 

◇曼荼羅80  弘安3年3月      日安女

 

◇曼荼羅81  弘安3年3月      授与書きなし   「臨滅度時本尊」「蛇形本尊」

 

◇曼荼羅82  弘安3年3月      授与書き截落  「紫宸殿御本尊」

 

◇曼荼羅83  弘安3年4月10日  尼日実授与之

 

◇曼荼羅91  弘安3年4月13日  盲目乗蓮授与之

 

◇曼荼羅84  弘安3年4月      削損

 

◇曼荼羅85  弘安3年4月      俗□・読取困難

 

◇曼荼羅86  弘安3年4月      日妙[之]

 

◇曼荼羅87  弘安3年4月      削損

 

◇曼荼羅88  弘安3年4月      優婆塞藤原広宗 授与之

 

◇曼荼羅89  弘安3年4月      尼日厳 授与之

 

◇曼荼羅90  系年は弘安3年か   授与書きなし  「今此三界御本尊」

⇒曼荼羅28、29、38、39、40、47、49と同じく、由来を明示する文がなく、形態の簡略化、「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護」との讃文の意から「守護曼荼羅」と区分されるか。

 

◇曼荼羅92  弘安3年5月8日   沙門日華授与之

 

◇曼荼羅93  弘安3年5月8日   削損

 

◇曼荼羅94  弘安3年6月      俗日円 授与之

 

◇曼荼羅95  弘安3年6月      俗藤原国貞 法名日十授与之

 

◇曼荼羅96  弘安3年6月      俗日肝授与之

 

◇曼荼羅97  弘安3年8月      俗日重 授与之

 

◇曼荼羅98  弘安3年9月3日   俗日目 授与之

 

◇曼荼羅99  弘安3年9月8日   優婆夷源日教授与之

 

◇曼荼羅100 弘安3年11月      比丘日法 授与之

 

◇曼荼羅101 弘安3年11月      釈子日昭伝 之  「伝法御本尊」

 

◇曼荼羅102 弘安4年2月2日    優婆塞藤原日生 授与之

 

◇曼荼羅103 弘安4年2月      俗資光 授与之 亦云宝日

 

◇曼荼羅104 弘安4年3月      俗日大 授与之

 

◇曼荼羅105 弘安4年4月5日   僧日春 授与之

 

◇曼荼羅106 弘安4年4月17日  俗真広 授与之 「若宮御本尊」

 

◇曼荼羅107 弘安4年4月25日  比丘尼持円授与 之

 

◇曼荼羅108 弘安4年4月26日  比丘尼持淳授与 之

 

◇曼荼羅109 弘安4年8月23日  摩尼女 授与之

 

◇曼荼羅110 弘安4年9月      俗日常授 与之

 

◇曼荼羅111 弘安4年9月      俗守常 授与之

 

◇曼荼羅112 弘安4年10月     □□□□授与□(削損)

 

◇曼荼羅113 弘安4年10月     俗守綱授与 之

 

◇曼荼羅114 弘安4年10月     俗眞永 授与 之

 

◇曼荼羅115 弘安4年10月     俗近吉 授与 之

 

◇曼荼羅116 弘安4年12月     優婆夷一妙 授与之

 

◇曼荼羅117 弘安5年1月      授与書きなし

 

◇曼荼羅118 弘安5年1月      俗安妙 授与之

 

◇曼荼羅119 弘安5年1月      俗日専 授与 之

 

◇曼荼羅120 弘安5年4月      沙門天目 受与之

 

◇曼荼羅121 弘安5年4月      俗藤三郎 日金 授与之

 

◇曼荼羅122 弘安5年6月      授与書きなし

 

◇曼荼羅123 弘安5年6月      授与書きなし

 

一覧で分かるように、特に弘安2年冬以降は「守護曼荼羅」と区分される曼荼羅90「今此三界御本尊」(系年・弘安3年か)と、日蓮最後の年弘安5年を除いて全ての曼荼羅に授与書きを記しており、やはり授与書きは定形化しているといえるのではないか。その中で明らかに守護曼荼羅ではない、大型の「臨滅度時本尊」(81)に授与書きがないということの『意味』は何だろうか。日蓮は門下に授与するというよりも、常とは異なる意をもってこの曼荼羅を書き顕した、日朗のもとに至ったのは後の事である、との推測もまた可ではないだろうか。

 

授与書きのない弘安5年の曼荼羅を見ると、(117)の寸法は95.5×47.0㎝で3枚継ぎ、(122)は67.9×45.8㎝で2枚継ぎ、(123)は67.6×44.5㎝で2枚継ぎの大きさ。いずれも弘安完成期といえる相貌座配となっており、現地写真撮影の時には確認されていないものの、授与書きを削り取ってある可能性を探るのは考え過ぎだろうか。曼荼羅(117)(122)は、共に日弁開山と伝える鷲山寺(千葉県茂原市鷲巣)の所蔵であることも気になるところだ。曼荼羅(123)は本圀寺(京都府京都市山科区御陵大岩)に所蔵されるが、「御本尊集・解説」によれば同寺所蔵の曼荼羅 (51)「輪宝御本尊・弘安元年太才戊寅七月五日・120.6×64.5㎝3枚継ぎ」には年月の下に授与書があったが、削損した形跡があるとのこと。また、曼荼羅(34)「授与書きなし・建治二年太才丙子卯月 日・152.7×94.5㎝ 10枚継ぎ」は右下隅の紙背に墨痕があり、本圀寺では日朗への授与書きと伝えている(墨痕に何が書かれていたか、正確なところは不明ではないか)。ということは曼荼羅(34)も授与書きを削った可能性があると思う。日蓮真蹟を裁断して末寺に分けたり、護りとして檀家に与えたりした中世の日蓮系僧侶の信仰形態からすれば、真蹟曼荼羅といえども寺院に縁のない授与者の名を削り取るのに抵抗のない人物もいたことだろう。

 

 

1

「御本尊鑑 遠沾院日亨上人」(藤井教雄編集 昭和45年11月21日 身延山久遠寺発行)に身延33代・遠沾院日亨が日蓮曼荼羅を拝写した記録があるが、中山法華経寺曽存分については「南無妙法蓮華経」を「題目」と書いたり、相貌座配が棒線で略されている。「日蓮聖人真蹟の世界・上」(1992 雄山閣出版)には日亨模写本が掲載されているが、山中喜八氏により「この一例のみである」「疑いを存する」「写誤」「失であろう」等、指摘をされるところが多い。寺尾英智氏は山中喜八氏の指摘を踏まえて、「資料として配慮が必要」(日蓮聖人真蹟の形態と伝来P51 1997 雄山閣出版)とされている。このように、授与書きの有無を確かめる資料として日亨模写本を用いるのは躊躇せざるをえないと考える。

 

尚、「日亨本尊鑑」において、弘安元年以降で授与書きのない模写本は以下の2幅となるだろうか。

◇「日亨本尊鑑」(P50) 第25 弘安二年四月日御本尊 底本(第17)

「日蓮聖人真蹟の世界・上」(P192)

弘安二年太才己卯四月 日

 

◇「日亨本尊鑑」(P53・P195) 第26 弘安二六月日御本尊 底本(第32)

弘安二六月 日

「南無妙法蓮華経」を「題目」と書き、相貌座配の多くが棒線となっている。

 

2

京都頂妙寺20代貫主の真如院日等(1655~1730)は下総・中山に行き、法華経寺の輪番住職として56代貫主を務めた。在職は宝永5年(1708)8月27日から正徳元年(1711)8月27日の3年間。宝永8年1月、正徳元年(4月25日改元)7月、日等は法華経寺宝蔵において日蓮曼荼羅を書写、その「日等臨写本」6幅は頂妙寺に所蔵されている。その内、弘安元年以降のものは次の4幅になる。

 

弘安元年三月十六日曼荼羅本尊  2幅あり

2幅は若干、寸法が異なるほかは全く同じ。

「御本尊集」曼荼羅47・通称病即消滅御本尊(中山 法宣院)と相貌座配が同一

・顕示年月日

弘安元年太才戊寅三月十六日

・授与書きなし

・讃文

此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病 

得聞是経 病即消滅 不老不死

・相貌

首題 自署花押 南無釈迦牟尼仏 南無多宝如来 南無上行無辺行菩薩 南無浄行安立行菩薩 南無天台大師 南無伝教大師

・寸法

一つは、曼荼羅本尊部分は65.5×49.0cm 1枚

曼荼羅47は66.1×43.4 1枚

・「御本尊集」曼荼羅(28)(29)(38)(39)(40)(47)と日等臨写本「弘安元年三月十六日曼荼羅本尊 2幅」は、由来明示の図顕讃文なし、形態の簡略化、讃文の意からすると「守護曼荼羅」と区分されるか。

 

弘安元年七月十六日曼荼羅本尊

・通称・同日三幅曼荼羅

法華経寺95代・日亮による「正中山本妙法華経寺御霊宝目録鑑」(文政8年[1825]6月良日付)により、同年同日付の曼荼羅が3幅あったことが確認される。

・顕示年月日

弘安元年太才戊寅七月十六日

・授与書きなし

・寸法

曼荼羅本尊部分は129.5×72.6㎝ 3枚継ぎ

 

◇弘安二年六月日曼荼羅本尊

・顕示年月日

弘安二年太才己卯六月 日

・授与

釈子日家授与之

⇒釈子日家=日保とともに小湊誕生寺、興津妙覚寺を開いたとされる寂日房日家のことか

・寸法

曼荼羅本尊部分は104.5×57.0㎝ 3枚継ぎ

 

【 弘安3年・臨滅度時本尊へ 】

日蓮の曼荼羅は、文永~建治~弘安に至る過程で相貌座配が整足され、勧請諸尊も定形化しており、弘安3年3月に至って、文永11年12月という「以前の相貌・勧請形態」となった万年救護本尊に替えて、新たな曼荼羅(臨滅度時本尊・81)を書き顕し奉掲したのではないだろうか。この曼荼羅に授与書きのない「意味」、常とは異なる意というのはここにあると考えるのだ。また、弘安3年(1280)3月になると、万年救護本尊に「大本尊」「上行菩薩」と認めて(文永11年[1274]12月)、本尊としての曼荼羅の意味と、日蓮の上行自覚を読み解くように示してから5年と少しが経過している。日蓮の意とするところは、「身延の草庵の弟子達、そこを訪れた門下を中心に伝えるべき人に十分な時間をかけて周知した」と考え至り、草庵奉掲の曼荼羅本尊を替えたのではないかと思う。

 

文永の役の後、しばらくは次なる蒙古襲来は必定との緊張感に包まれていたものの、5年という時の経過によりやや肩の力を抜いたところで、対蒙古緊迫の中から生まれた万年救護本尊奉掲の意味合いも上記のように薄くなり、臨滅度時本尊に替えられたのではないだろうか。

 

弘安5年2月25日、日蓮は南条時光の病の平癒を願い「伯耆公御房御消息」(定P1909)を日興に報じている。これは日蓮が口述し、日朗に代筆させたとされるが、病が進み常時体調不良であった師の日蓮を気遣い、日朗は時折、身延山に来ていたのであろうか。建治2年(1276)7月21日の「弁殿御消息」(真蹟 定P1191)には、「ちくご(筑後)房、三位、そつ(帥)等をばいとま(暇)あらばいそぎ来たるべし。大事の法門申すべしとかたらせ給へ。」とあり、日蓮は「筑後房日朗、三位=三位房、そつ(帥)=帥房日高の3名に『大事の法門』を教示したいので身延山に来なさい」と伝えるよう、日昭に依頼している。

 

法門教示をなさんとする師が、手紙一つで、遠方の弟子に対して急ぎ来るよう指示する。弟子は応じて師のもとに駆けつける。この関係からは、鎌倉・下総と身延の距離をものともしない師弟子の一体感というものが窺え、それは同時に鎌倉・下総や近辺在住の弟子達が、足繁く身延に通ったことを物語るといえよう。また、日朗、三位房、日高が日蓮の胸中にあり、彼らが師より直接教導を受ける法器であったことが理解されるのである。故に、体調不良の師のもとに、鎌倉の日朗が往来を重ねていたことも容易に想像されるところではないだろうか。弘安5年9月に、日蓮は身延を出山して旅に出るとされるが、道中、池上に立ち寄ったのは弟子日朗の勧め、また師弟の信頼関係によるものではないかと思う。

 

日蓮が日朗に臨滅度時本尊を授与したのはいつ頃だろうか。

・身延出山の時に2年以上奉掲されていた臨滅度時本尊を持ち、池上での療養の頃か。

・日朗が身延の師のもとを訪れていたと考えられる、弘安5年2月から3月の頃だろうか。ただし、日朗がいつ身延に入り、いつ下山したとの情報がなく、かつ鎌倉では日昭が指揮をとれる故、師の身延出山まで同地にいて師に仕えていた可能性もある。

私としては、臨滅度時本尊が身延の草庵(弘安4年11月下旬以降は十間四面の坊)に奉掲されていたと考えるので、弘安5年9月とされる日蓮の身延出山より10月13日の入滅までの間に、同本尊を日朗に授与したのではないかと考えている。

 

万年救護本尊は富士門流で継承されることから、いずれかの時点で日蓮が日興に授けたものと考えられる。日興に「大本尊・上行菩薩と書いた万年救護本尊」を、日朗に曼荼羅として完成形といえる「臨滅度時本尊」を授けたのは、即ちこの二人に、師が顕し、師が拝した曼荼羅を授与したのも、それまでの両名の功労に報いたもの、彼らの功績を評価したものであり、察すれば自身滅後に教団を担い守り、発展させてほしいという期待を込めてのものだったと思う。

 

日朗は初期よりの弟子であり、特に文永8年の法難では土牢に入れられながらも、出獄後は多くの檀越が退転していく中で、日昭と共に鎌倉の一門を再興している。日興は熱原法難の時に奔走、困難な状況に対応していることが当時の日蓮の書状から窺われる。日蓮入滅時、日朗・日興ともに30代。経験、力量からいっても、師亡き後の教団を担うに十分なものがあったと思う。事実、その後に各地へと展開・拡大していくのが、両名の門流であった。

 

もちろん、日蓮がこの二人に「秘法の秘伝」をした等、特別な扱いをしたということはない。日朗・日興への曼荼羅授与は、「釈子」と冠した曼荼羅を日目、日家、日昭に授与したことと同様の思いだったのではないか。史実は日興筆の「宗祖御遷化記録」にあるように、日蓮の意として日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の「一弟子六人」であり、六人は等しく一弟子となり日蓮法華教団運営の導師となったのである。

 

ここでまとめれば、万年救護本尊の「大本尊」「上行菩薩」により、また「本尊」として書き顕した曼荼羅を門下に授与していることからも、日蓮も自らの居所に曼荼羅を奉掲したと判断される。その前提の上で「どの曼荼羅を奉掲したのか」について遺文との関連、授与書きより検討すれば、文永10年7月8日から「佐渡始顕本尊」、身延の草庵(弘安4年11月下旬以降は十間四面の坊)では文永11年12月からは「万年救護本尊」、弘安3年3月からは「臨滅度時本尊」だったと考えている。日蓮が身延に入山し、庵室が完成した文永11年6月17日に奉掲された曼荼羅はどれだったろうか?「佐渡始顕本尊」を奉掲したのか、または始顕本尊と相貌が近く、かつ庵室完成の6月に顕された曼荼羅11であったろうか。

 

「佐渡の居所、身延の草庵の本尊に、曼荼羅はあったのか?あったとしたらそれはどれだったのか?」という問題は志ある方にとっては大いに興味あるものだと思う。今回は私としても始めの一歩、現時点での考えであり、今後も諸氏の考察に学びながら、自分なりに考えていきたい。

 

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