釈迦仏・法華経・日蓮・曼荼羅 1

*法華経は釈迦牟尼仏

正嘉3年・正元元年(1259)「守護国家論」(真蹟曽存)

法華経に云はく「若し法華経を閻浮提に行じ受持すること有らん者は応に此の念を作すべし。皆是普賢威神の力なり」已上。

此の文の意は末代の凡夫法華経を信ずるは普賢の善知識の力なり。

又云はく「若し是の法華経を受持し読誦し正憶念(しょうおくねん)し修習し書写すること有らん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり。仏口より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」已上。

此の文を見るに法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後たりと雖も仏の在世なり。(P123)

 

◇釈迦一代教説中において最第一の経典たる法華経は、日蓮の説示によれば「釈迦牟尼仏なり」であり、法華経信奉者の前には「滅後たりと雖も仏の在世なり」と、「そこには釈迦仏が眼前」と教示するのである。これは紙上に「何が書かれているのか」を認識し「そこに信を以て拝する」という精神的行為により、現実には存在しないものが信仰観念世界には顕れるという発想ではないだろうか。この「紙上に表出された文字世界に精神を没入、信仰として帰命し、そこから仏との邂逅を成していく」という日蓮法華伝道初期段階の発想が、後の受難を経ての虚空会世界の曼荼羅紙上への再現、それを受持礼拝することによる成仏得道論へと昇華していくのではないかと考えるのである。

 

青年時代に「経典世界」探求の旅を続け、教わるに師とすべき確たる人なく「依法不依人」を自らの法華経信仰の骨格とし、無師独悟で「法華経最第一」の境地を確立した日蓮であればこそ、余人とは違った意味での「文字内容に力が備わる」という思考を培ったのだと思う。日蓮の、青年時代から始まる「法華経信仰」の帰着点が、「妙法曼荼羅」を図し顕すことだった、ともいえるのだろう。ただし、彼の「本尊観」というものは、後に見るように「人法並列」と考えられ、曼荼羅・釈迦仏像どちらか一方に決したものではなかったと思う。

 

*たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし

文応元年(1260)5月28日「唱法華題目抄」(真蹟「南条兵衛七郎殿御書」行間に日興筆の「唱法華題目抄」一部分の書写あり)

四十余年の諸経並びに涅槃経を打ち捨てさせ給ひて、法華経を師匠と御憑(たの)み候へ。法華経をば国王・父母・日月・大海・須弥山・天地の如くおぼしめせ。(P197)

中略

第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」(P202)

 

法師品・神力品の「経巻安置」を依文として、「法華経一部八巻・題目」を本尊とし、門徒それぞれの法門信解・機根と信仰の縁、また財力に応じて、耐えうる上根の者には「法華経・題目」の左右に「釈迦如来・多宝仏」「十方の諸仏・普賢菩薩等」の木像・画像の安置を説示したものであり、当時の日蓮とその弟子檀越が「法華経・題目」を主体として木像・画像の安置をしていたことが窺われるのである。

 

中央に紙本墨書の南無妙法蓮華経と法華経の経巻、左右に釈迦像・多宝仏像また十方諸仏の像・普賢菩薩等の像、この「本尊」に向かい日蓮と弟子檀越が専修唱題に励む光景・・・・これが日蓮一門初期の姿であり、それが後には中央の紙本が曼荼羅となって諸仏の尊像が釈迦一仏の像に収斂されていったのではないかと考えられるのである。(曼荼羅図顕以後、諸仏像を造立安置したことを示す遺文はなく、檀越による釈迦一仏造立安置の遺文はある。)

 

このように「釈迦像」造立を勧めているということは、自らも造立安置していたことは「道理」だろうし、また実際に造立安置していればこそ、「唱法華題目抄」に「釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし」としたのではないか。ましてや「法華経最第一」を主張する「天台沙門」日蓮であれば、当然のことながら「法華経の経巻」を安置すると共に、そこには法華経説示の教主たる「釈迦如来の姿()」が存在したことだろう。

 

当抄により、鎌倉に草庵を構えた頃には紙本墨書の南無妙法蓮華経、法華経の経巻を中央に置き、釈迦像・多宝仏像・諸仏の像を安置していたことが窺えるのである。

 

*国主帰依の本尊=釈迦仏

文応元年7月16日「立正安国論」(真蹟)

日蓮の勘文=立正安国論を北条時頼が受け入れ、法華経を受持した時、彼が合掌礼拝する本尊として日蓮はどのようなものを考えていたのか?

 

◇これについては「国主帰依の本尊」の項で考えた。

 

*弘長期(1261~1263)の伊豆配流以降、立像釈迦を所持

(文献による、実際は「法門申しはじめ」頃からと思われる)

「五人所破抄」

日蓮宗宗学全書・興尊全集P83

日蓮大聖人御書全集(創価学会版P1614)

又五人一同に云く、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻み、弘安帰寂の日も随身せり何ぞ輙(たやす)く言うに及ばんや云云。

日興が云はく、

中略

次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須(すべか)らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云。

 

「日順雑集・法花観心本尊抄見聞」

富士宗学要集2P92

聖人は造仏の為の出世には無し本尊を顕んが為なり、然れば正像の時は多く釈尊を造れども本尊をは未だ顕さず然れば如来滅後未曽有大漫荼羅と云云、聖人海の定木を以て一躰の仏を造り佐渡の国へも御所持・御臨終の時には墓側に置けと云云、小乗の頭陀釈迦の仏・瓔珞の衣を脱ぎ垢衣を着玉ひ鹿苑に来遊教化の御弟子無きは一人頭陀し玉ふ事なり、設ひ鹿苑教化の後も一人修行し玉ふ時は頭陀の釈迦なり、聖人御滅の時に註法花経は弁の法印・一躰仏は大国阿闍梨に取られ畢んぬ、御遺言には身延に墓を建て墓の傍に置けと波木井殿・此を無念に思はせられ長門殿に用途五十貫借用して身延の仏を造らせらる。

 

堀日亨氏頭注

○日順立像仏ヲ以テ新ニ彫刻セルモノトシ海中出現聖文ヲ没ス五人所破抄ニ亦此説等ノ見ユルハ如何ゾヤ

 

弘安5年10月16日「宗祖御遷化記録」(日興筆録)

一  御所持佛教事  

御遺言云

佛者 釈迦立像 墓所傍可立置云々

経者 私集最要文名註法花経

同篭置墓所寺六人香花当番時

可披見之 自余聖教者非沙汰之限云々

仍任御遺言所記如件

弘安五年十月十六日 執筆日興  花押

 

◇日興の門流(富士門流)、重須談所・日代筆の「五人所破抄」には「一体仏を刻んだ」、同じく重須学頭・日順の著「日順雑集・法花観心本尊抄見聞」には「聖人が一体仏を造った」との記述があり、「宗祖御遷化記録」の「御所持佛教事」と併せて日蓮の一生を概観すれば、釈迦仏像は伊豆に於いて造立され、日蓮はそれを終生所持したことが窺えるのである。

                         沼津市 西浦より
                         沼津市 西浦より

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