釈迦仏・法華経・日蓮・曼荼羅 2

*一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候

*三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏

文永元年12月13日「南条兵衛七郎殿御書」(真蹟断片)

御所労の由承り候はまことにてや候らん。世間の定めなき事は病なき人も留(とど)まりがたき事に候へば、まして病あらん人は申すにおよばず。但心あらん人は後世をこそ思ひさだむべきにて候へ。又後世を思ひ定めん事は私にはかな()ひがたく候。一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候べけれ。(P319)

中略

故に法華経の第二に云はく「今此の三界は皆是(これ)我が有()なり。其の中の衆生は悉く是吾が子なり。而も今此の処は諸の患難(げんなん)多し。

(ただ)我一人のみ能()く救護(くご)を為す。復教詔(きょうしょう)すと雖も而(しか)も信受せず」等云云。

此の文の心は釈迦如来は我等衆生には親なり、師なり、主なり。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはま()しませども親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎ()りたてまつる。親も親にこそよれ釈尊ほどの親、師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師主はあ()りがた()くこそはべれ。この親と師と主との仰せをそむ()かんもの天神地(てんじんちぎ)にす()てられたてまつらざらんや、不孝第一の者なり。(P320)

 

◇一切衆生の本師とは誰か?

誰の教えをもととすべきなのか?

末法当今の主師親は誰か?

それは一人なのか、二人いるのか?

真に有り難い師主は誰なのか?

これらについて、明示した遺文が当書である。

「一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候べけれ」

「釈迦如来は我等衆生には親なり、師なり、主なり」

「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎ()りたてまつる」

「釈尊ほどの師主はあ()りがた()くこそはべれ」

 

*当世の愚者は仏には釈迦牟尼仏を本尊と定めぬれば自然に不孝の罪脱れ

文永3年「善無畏抄」(真蹟断片)

今の世に浄土宗・禅宗なんど申す宗々は、天台宗にをとされし真言・華厳等に及ふべからず。依経既に楞伽(りょうが)経・観経等なり。此等の経々は仏の出世の本意にも非ず、一時一会の小経なり。一代聖教を判ずるに及ばず。(P412)

中略

かゝる謗法の人師共を信じて後生を願ふ人々は無間地獄脱るべきや。然れば当世の愚者は仏には釈迦牟尼仏を本尊と定めぬれば自然に不孝の罪脱れ、法華経を信じぬれば不慮に謗法の科を脱れたり。()

 

◇「当世の愚者」は信じるべきは「法華経」、本尊として礼拝するべきは「釈迦牟尼仏」と明示する。

 

*仏は閻浮第一の賢王・聖師・賢父なり

文永6年「法門可被申様之事」(真蹟)

法門申さるべきやう。選択をばうちを()きて、先づ法華経の第二の巻の今此三界の文を開きて、釈尊は我等が親父なり等定め了(おわ)るべし。(P443)

中略

釈尊は我等が父母なり。一代の聖教は父母の子を教へたる教経なるべし。()

中略

教と申すは師親のをしえ、詔と申すは主上(しゅじょう)の詔勅(みことのり)なるべし。仏は閻浮第一の賢王・聖師・賢父なり。されば四十余年の経々につきて法華経へうつ()らず、又うつれる人々も彼の経々をすてゝうつ()らざるは、三徳を備へたる親父の仰せを用ひざる人、天地の中にすむべき者にはあらず。(P445)

 

◇末法の衆生が親父と定めるべきは誰なのか?

末法の衆生は誰を父母とすべきか?

一閻浮提第一の賢王・聖師・賢父とは誰なのか?

これらにつき明答した遺文である。

 

文末では「日蓮房の申し候。仏菩薩並びに諸大善神をかへしまいらせん事は別の術なし。禅宗・念仏宗の寺々を一もなく失ひ、其の僧らをいましめ、叡山の講堂を造り、霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請じ入れたてまつらざらん外は、諸神もかへり給ふべからず、諸仏も此の国を扶け給はん事はかたしと申せ。」(P456)とあり、仏菩薩、諸大善神を日本国に還らせるには特別な術などはいらない。禅宗・念仏宗を禁断して寺を全てなくし、僧らを誡める。衰亡した比叡山に講堂を造り山門の復興を成し遂げ、釈迦牟尼仏の御魂を比叡山に請じ入れなければ諸神はこの国には還らない。諸仏もこの国を助けることは難しいのである、とする。

 

この頃の日蓮は、比叡山の復興、比叡山への釈迦牟尼仏の御魂の招来、それを仏法の本として国難に対処するしかない、と思考していたことが窺われる。日蓮が清澄寺に入寺したのが貞永2(1233)12歳の時。青年時代には京畿に修学に赴き、比叡山に身を置いていた。そして建長5(1253)の「法門申しはじめ」が32歳、当書の系年が文永6(1269)48歳となる。日蓮は青年期から48歳に至る約30年、比叡山への思いを抱き続けていたのである。法然浄土教の隆盛や、園城寺を始めとした他寺院との争乱、強訴を繰り返す僧兵の跋扈により衰微した比叡山の復興を願った日蓮。彼の思想的基盤、仏教上の立ち位置はどこにあったのかはここに明らかで、幼年、少年、青年、壮年期と天台宗的思考を捨てなかった一天台僧だった。

 

そして本尊、教理面において台密の影響を残しながらも、宗教者としては従来の一天台僧意識が薄くなり、新たなる意志で釈尊に直参、智顗・最澄に直結して独立独歩の精神が横溢したのが佐渡期からで、同時に法華経の行者としての自覚が一閻浮提第一のスケールとなり、上行菩薩と自己を列する意識が書状、著作に散見されるようになるのである。

 

*釈迦仏造立の功徳「福きたり命ながく、後生は霊山」

文永7年9月26日「真間釈迦仏御供養逐状」日朝本 真蹟なし

釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。はせまいりてをがみまいらせ候はばや。「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」は是なり。但し仏の御開眼の御事は、いそぎいそぎ伊よ()房をも()てはたしまいらせさせ給ひ候へ。法華経一部、御仏の御六根によみ入れまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ひ入れまいらせさせ給へ。自身並びに子にあらずばいかんがと存じ候。

御所領の堂の事等は、大進の阿闍梨がきゝて候。かへすがへすをがみ結縁しまいらせ候べし。いつぞや大黒を供養して候ひし、其の後より世間なげかずしておはするか。此の度は大海のしほの満つるがごとく、月の満ずるが如く、福きたり命ながく、後生は霊山とおぼしめせ。(P457)

 

当書は富木氏が釈迦仏像を造立したことを讃嘆する書状で、伊予房(日頂)により開眼供養を行うべきことを指示、日蓮自らが釈迦仏像に参拝して結縁したいこと、仏像造立の功徳は「福きたり命ながく、後生は霊山」であることを教示している。尚、この仏像については、富木氏の所領とする堂宇に安置するために作られたようだ。

 

当書の真蹟はなく日朝本であるものの、

文永7年当時は曼荼羅図顕以前であり、文応元年528日付け「唱法華題目抄」(真蹟「南条兵衛七郎殿御書」行間に日興筆の「唱法華題目抄」一部分の書写あり)の「たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」(P202)との教示を踏まえれば、財力のある檀越は仏像造立を成したであろうこと。

・日蓮が曼荼羅図顕を開始した後、建治2715日前には四条金吾が、弘安222日前には金吾夫人が釈迦仏像を造立している。日蓮の法華伝道初期以来の有力檀越である富木氏が所領内の堂宇に本尊を奉安するならば、この時期では、釈迦仏像を造立するのは自然と考えられること。

・富木氏による「日常目録・御自筆皮籠」の「御消息の分」に、「一通 真間釈迦仏御供養の事 弘法寺に納めらる」とあること。

これらを根拠として、「真間釈迦仏御供養逐状」は真蹟に準ずるものとしてよいと考える。

 

*必ず先づ釈尊を木画の像に顕はして御本尊と定めさせ給ひて

文永7年「善無畏三蔵抄(師恩報酬抄)」(当書の真蹟と推される断片あり)

我が師釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり。此の裟婆無仏の世の最先に出でさせ給ひて、一切衆生の眼目を開き給ふ御仏なり。東西十方の諸仏菩薩も皆此の仏の教へなるべし。(P466)

 中略

此の釈迦如来は三の故ましまして、他仏にかはらせ給ひて裟婆世界の一切衆生の有縁の仏となり給ふ。(P466)

中略

而れば此の土の一切衆生生死を厭ひ、御本尊を崇めんとおぼしめさば、必ず先づ釈尊を木画の像に顕はして御本尊と定めさせ給ひて、其の後力おはしまさば、弥陀等の他仏にも及ぶべし。

(P469)

中略

我等が父母世尊は主師親の三徳を備へて、一切の仏に擯出せられたる我等を「唯我一人能為救護」とはげませ給ふ。其の恩大海よりも深し、其の恩大地よりも厚し、其の恩虚空よりも広し。

(P470)

中略

例せば此の道善御房の法華経を迎へ、釈迦仏を造らせ給ふ事は日蓮が強言より起こる。日本国の一切衆生も亦復是くの如し。当世此の十余年已前は一向念仏者にて候ひしが、十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ、二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑ひをなす故に心中に法華経を信じ、又釈迦仏を書き造り奉る。是亦日蓮が強言より起こる。(P476)

 

一切衆生の眼目を開く仏とは誰か?

裟婆世界の一切衆生の有縁の仏とは誰か?

一切衆生が生死を厭い御本尊を拝するには、何を本尊とすべきなのか?

主師親の三徳を備える仏は誰か?

これらの答えが明示されている遺文である。

 

更に「其の後承りしに、法華経を持たるゝの由承りしかば、此の人邪見を翻し給ふか、善人に成り給ひぬと悦び思ひ候処に、又此の釈迦仏を造らせ給ふ事申す計りなし。」と、幼年時からの師匠・道善房が法華経を受持し釈迦仏を造立したことを「今既に日蓮師の恩を報ず。」としている。この頃の日蓮の法華勧奨の内実とは、念仏などの爾前権教を捨てさせる、正法たる法華経を受持する、可能な者には本尊として釈迦仏を造立させることだった、ということが窺える。

このように日蓮が故郷・清澄山の兄弟子・浄顕房、義浄房に宛てた書状では、釈迦を仏として尊信し本尊とすることを教示しているのである。

 

*小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したり

文永12年2月または建治3年8月21日「神国王御書」(真蹟)

此は教主釈尊・多宝・十方の仏の御使ひとして世間には一分の失なき者を、一国の諸人にあだまするのみならず、両度の流罪に当てゝ、日中に鎌倉の小路をわたす事朝敵のごとし。其の外小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎ねこぼちて、仏像・経巻を諸人にふまするのみならず、糞泥にふみ入れ、日蓮が懐中に法華経を入れまいらせて候ひしをとりいだして頭をさんざんに打ちさいなむ。(P892 真蹟)

 

文永8912日、鎌倉の草庵に平左衛門尉一行が逮捕に訪れた際の記述により、日蓮の草庵では「釈尊を本尊とし一切経を安置」していたことが確認できる。文中の「小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したり」という本尊奉安形式は、「木絵二像開眼之事(法華骨目肝心)」に教示された「木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり」通りといえよう。

 

                         沼津市 西浦より
                         沼津市 西浦より

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