釈迦仏・法華経・日蓮・曼荼羅 6

*釈尊の二度世に出現し給ふか。上行菩薩の重ねて涌出せるか

*只偏に釈迦如来の御神我が身に入りかわせ給ひけるにや

建治元年6月「撰時抄」(真蹟)

但し詮と不審なる事は、仏は説き尽くし給へども、仏の滅後に迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親乃至天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深秘の正法、経文の面に現前なり。此の深法今末法の始め五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべきやの事不審無極なり。問ふ、いかなる秘法ぞ。先づ名をきゝ、次に義をきかんとをもう。此の事もし実事ならば釈尊の二度世に出現し給ふか。上行菩薩の重ねて涌出せるか。いそぎいそぎ慈悲をたれられよ。(P1029)

 

◇日蓮は「釈尊の二度世に出現し給ふか。上行菩薩の重ねて涌出せるか」との問者の言葉に託して、自己が釈迦の正統なる後継者であること、滅後末法の法華経弘通を託された上行菩薩としての自覚を有していることを、示そうとしたのではないだろうか。

 

外典に云はく、未萠をしるを聖人という。内典に云はく、三世を知るを聖人という。余に三度のかうみゃうあり。一つには去にし文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向かって云はく、禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべしと申させ給へ。此の事を御用ひなきならば、此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給ふべし。二つには去にし文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向かって云はく、日蓮は日本国の棟梁なり。予を失ふは日本国の柱橦を倒すなり。只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とて此の国の人々他国に打ち殺さるゝのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頸をゆひのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し候ひ了んぬ。第三には去年文永十一年四月八日左衛門尉に語って云はく、王地に生まれたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑ひなし。殊に真言宗が此の国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古を調伏せん事真言師には仰せ付けらるべからず。若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば、頼綱問ふて云はく、いつごろかよせ候べき。予言はく、経文にはいつとはみへ候はねども、天の御気色いかりすくなからず、きうに見へて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき。此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず。只偏に釈迦如来の御神(みたましい)我が身に入りかわせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり。(P1053)

 

◇日蓮は自らに「三度のかうみゃう(高名)」があるとするのだが、それは自己の意思で行われたものにも関わらず、実は日蓮が直言したものではなく、釈迦如来が我が身に入り申したのだ、と「三度の高名」における自身の内面世界というものを明かしている。

特に文永八年九月十二日、平左衛門尉に向かって申したのは、身命に事が及ぶことを覚悟しての直言であり、このような大事の時に日蓮は釈迦仏に一身を託していたことが窺われ、それは竜口の虎口を脱する「教主釈尊衣を以て之を覆ひたまはん」(P641真言諸宗違目 真蹟)へと展開していくのである。釈迦仏に依って立ち、釈迦仏に護られての彼の法華伝道活動であった。

 

「只偏に釈迦如来の御神我が身に入りかわせ給ひけるにや」との記述に、日蓮と釈迦との一体感、というよりも両者は一体であることが示されていて、彼は釈迦即日蓮、日蓮即釈迦との境地となっていたのではないだろうか。(ただし、これによって日蓮に本仏としての自覚があったというものではない。法華経・題目を弘法する者として自らの内面世界を師の説教と同化させた、純粋なる宗教的境地を意味する「釈迦即日蓮」である。また、このようなものがなかったら、彼の激しい伝道活動も成されなかったことだろう。今日の布教にあっても、「日蓮即我・我即日蓮」の心意気であるべきだろうし、このような「気概」という意味での「釈迦即日蓮」である。)

 

*(日蓮は) いつとなく日月にかげ(影)をう(浮)かぶる身なり

建治元年6月16日「国府尼御前御書」(真蹟)

日蓮こい()しくをはせば、常に出づる日、ゆう()べにい()づる月ををが()ませ給へ。いつとなく日月にかげ()をう()かぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまひらせん。(P1064)

 

*このまんだら(曼荼羅)を身にたもちぬれば~一切の仏神等のあつまりまぼり、昼夜にかげのごとくまぼらせ給ふ法にて候

建治元年8月25日「妙心尼御前御返事」(日興本[要検討]大石寺蔵)

をさ()なき人の御ために御まぼ()りさづけまいらせ候。この御まぼ()りは、法華経のうちのかんじん(肝心)、一切経のげんもく(眼目)にて候。たとへば、天には日月、地には大王、人には心、たからの中には如意宝珠のたま、いえ()にははしら()のやう()なる事にて候。

このまんだら(曼荼羅)を身にたもちぬれば、王を武士のまぼるがごとく、子ををや()のあい()するがごとく、いを()の水をたの()むがごとく、草木のあめ()をねが()うがごとく、とり()の木をたのむがごとく、一切の仏神等のあつまりまぼり、昼夜にかげのごとくまぼらせ給ふ法にて候。よくよく御信用あるべし。(P1105)

 

*法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給ひ候へ

建治元年9月28日「御衣並単衣(おんころもならびにひとえぎぬ)御書」(真蹟)

衣かたびら(帷子)は一なれども、法華経にまいらせさせ給ひぬれば、法華経の文字は六万九千三百八十四字、一字は一仏なり。此の仏は再生敗種(さいしょうはいしゅ)を心符とし、顕本遠寿(おんじゅ)を其の寿(いのち)とし、常住仏性を咽喉(のんど)とし、一乗妙行を眼目(げんもく)とせる仏なり。

「応化は真仏に非ず」と申して、三十二相八十種好の仏よりも、法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給ひ候へ。仏の在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人もあり。仏の滅後に法華経を信ずる人は「無一不成仏」とは如来の金言なり。

この衣をつく()りて、かたびら(帷子)をきそ(着添)えて法華経をよみて候わば、日蓮は無戒の比丘なり、法華経は正直の金言なり、毒蛇の珠をはき、伊蘭(いらん)の栴檀(せんだん)をいだすがごとし。(P1111)

 

*身命を仏神の宝前に捨棄して刀剣・武家の責めを恐れず

建治元年12月26日「強仁(ごうにん)状御返事」(真蹟)

其の上大覚世尊は仏法を以て王臣に付嘱せり。世出世の邪正を決断せんこと必ず公場なり。就中当時我が朝の為体、二難を盛んにす。所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり。此の大難を以て大蔵経に引き向かへて之を見るに、定めて国家と仏法との中に大禍有るか。

()って予正嘉・文永二箇年の大地震・大長星に驚きて一切経を開き見るに、此の国の中に前代未起の二難有るべし。所謂自他返逼(ほんびつ)の両難なり。是併(しかしなが)ら真言・禅門・念仏・持斎等、権小の邪法を以て法華真実の正法を滅失するが故に招き出だす所の大災なり。只今他国より我が国を逼()むべき由兼ねて之を知る。

故に身命を仏神の宝前に捨棄して刀剣・武家の責めを恐れず、昼は国主に奏し夜は弟子等に語る。然りと雖も真言・禅門・念仏者・律僧等、種々の狂言を構へ重々の讒訴を企つるが故に叙用せられざるの間、処々に於て刀杖を加へられ、両度まで御勘気を蒙り、剰へ頭を刎()ねんと擬す是の事なり。(P1122)

 

*法華経に供養

建治元年「白米和布御書」(真蹟)

白米五升・和布(わかめ)一連給び了んぬ。阿育大王は昔得勝童子なり。沙(すな)の餅を以て仏に供養し一閻浮提の王と為る。今施主は白米五升を以て法華経に供養す。是の故に成仏し候ひ了んぬ。何故に飢ゑを申すべき。(P1132)

 

*日蓮が御本尊の手にゆ(結)いつけていの(祈)りて

建治2年(または文永12年)1月11日「清澄寺大衆中」(真蹟曽存)

就中(なかんずく)、清澄山の大衆は日蓮を父母にも三宝にもをも()ひを()とさせ給はゞ、今生には貧窮(びんぐ)の乞者(こつじゃ)とならせ給ひ、後生には無間地獄に堕ちさせ給ふべし。故いかんとなれば、東条左衛門景信が悪人として清澄のか()いしゝ(鹿)等をか()りとり、房々の法師等を念仏者の所従にしなんとせしに、日蓮敵(かたき)をなして領家のかたうど(方人)となり、清澄・二間(ふたま)の二箇の寺、東条が方につくならば日蓮法華経をすてんとせいじょう(精誠)の起請(きしょう)をかいて、日蓮が御本尊の手にゆ()いつけていの()りて、一年が内に両寺は東条が手をはなれ候ひしなり。此の事は虚空蔵菩薩もいかでかすてさせ給ふべき。大衆も日蓮を心へずにをもはれん人々は、天にすてられたてまつらざるべしや。かう申せば愚癡の者は我をのろうと申すべし。後生に無間地獄に堕ちんが不便なれば申すなり。(P1134)

 

*慈父過去の聖霊は教主釈尊の御前にわたらせ給ひ

建治2年1月19日「南条殿御返事(初春書)」(日興本[要検討]大石寺蔵)

しかるに亦於現世得其福報(やくおげんぜとくごふくほう)の勅宣、当於現世得現果報(とうおげんぜとくげんかほう)の鳳詔(ほうしょう)、南条の七郎次郎殿にかぎりてむな()しかるべしや。日は西よりいづる世、月は地よりなる時なりとも、仏の言(みこと)むな()しからじとこそ定めさせ給ひしか。これをも()ておも()ふに、慈父過去の聖霊は教主釈尊の御前にわたらせ給ひ、だんな(檀那)は又現世に大果報をまねかん事疑ひあるべからず。かうじん(幸甚)かうじん。(P1138)

 

*釈迦仏の御魂の入りかはれる人は此の経を信ず

建治2年2月17日「松野殿御消息」(真蹟断片)

然るに在家の御身として皆人にくみ候に、而(しか)もいまだ見参(げんざん)に入り候はぬに、何と思し食して御信用あるやらん。是偏に過去の宿殖(しゅくじき)なるべし。来生に必ず仏に成らせ給ふべき期()の来たりてもよを()すこゝろなるべし。其の上経文には鬼神の身に入る者は此の経を信ぜず、釈迦仏の御魂の入りかはれる人は此の経を信ずと見へて候へば、水に月の影の入りぬれば水の清()むがごとく、御心の水に教主釈尊の月の影の入り給ふかとたのもしく覚へ候。(P1141)

 

*教主釈尊の御宝前

建治2年3月「忘持経事」(真蹟)

然る後深洞(しんどう)に尋ね入りて一菴室(あんしつ)を見るに、法華読誦の音(こえ)青天に響き、一乗談義の言山中に聞こゆ。案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌して両眼を開き、尊容を拝するに歓喜身に余り、心の苦しみ忽ちに息()む。(P1151)

 

                    沼津市 大瀬崎より
                    沼津市 大瀬崎より

前のページ                                  次のページ