釈迦仏・法華経・日蓮・曼荼羅 9

*釈迦・多宝・十方の諸仏は御らん(覧)あり

*釈迦・多宝・十方の諸仏の御父母の御命をつがせ給ふなり

弘安元年6月25日「日女御前御返事(品々供養事)」(真蹟断片)

御布施七貫文送り給び畢んぬ。(P1508)

中略

かゝる法華経を末代の女人、二十八品を品々ごとに供養せばやとおぼしめす、但事にはあらず。宝塔品の御時は多宝如来・釈迦如来・十方の諸仏・一切の菩薩あつまらせ給ひぬ。此の宝塔品はいづれのところにか只今ましますらんとかんが()へ候へば、日女御前の御胸の間、八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候。(P1515)

中略

日女御前の御身の内心に宝塔品まします。凡夫は見ずといへども、釈迦・多宝・十方の諸仏は御らん()あり。日蓮又此をすい()す。あらたう()としたう()とし。(P1516)

中略

日蓮つ()めて云く、代に大禍なくば古にすぎたる疫病・飢饉・大兵乱はいかに。召(めし)も決せずして法華経の行者を二度まで大科に行ひしはいかに、不便不便。而るに女人の御身として法華経の御命をつがせ給ふは、釈迦・多宝・十方の諸仏の御父母の御命をつがせ給ふなり。此の功徳をもてる人一閻浮提の内にあるべしや。()

 

◇「法華経の行者・日蓮への供養=法華経の御命をつがせ給ふ=釈迦・多宝・十方の諸仏の御父母の御命をつがせ給ふ」であり、これは、日蓮のみが法華経、釈迦・多宝・十方の諸仏の命脈を継ぐ者であることを意味すると考えられ、日蓮の宗教的自覚、使命感が窺える記述だと思う。

 

*教主釈尊の入りかわりまいらせて

弘安元年6月26日「中務左衛門尉殿御返事(二病抄)」(真蹟)

将又日蓮が下痢(くだりはら)去年十二月卅日事起こり、今年六月三日四日、日々に度をまし月々に倍増す。定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来、日々月々に減じて今百分の一となれり。しらず、教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶け給ふか。地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給へるかと疑ひ候なり。(P1524)

 

*法華経に申し上げまいらせ候へ

弘安元年6月26日「兵衛志殿御返事」(真蹟)

みそおけ(味噌桶)ひとつ給び了んぬ。はらのけ(下痢)はさゑもん(左衛門)殿の御薬になを()りて候。又このみそをな()めていよいよ心ちなをり候ひぬ。あわれあわれ今年御つゝがなき事をこそ、法華経に申し上げまいらせ候へ。(P1525)

 

*法華経にまいらせて

*釈迦仏の御いのちをもたす(助)けまいらせさせ給ひぬる御功徳

弘安元年7月7日「種種物御消息」(真蹟断簡)

みなみなのもの()をく()り給びて法華経にまい()らせて候。(P1529)

中略

かゝるふしぎ(不思議)の者をふびん(不便)とて御くやう(供養)候は、日蓮が過去の父母か、又先世の宿習(しゅくじゅう)か、おぼろげの事にはあらじ。其の上雨ふり、かぜ()ふき、人のせい()するにこそ心ざしはあらわれ候へ。(P1531)

中略

此も又かくのごとし。たゞなる時だにも、するが(駿河)とかい(甲斐)とのさかい()は山たか()く、河はふか()く、石をゝ()く、みち()せば()し。いわうやたうじ(当時)はあめ()はしの()をたてゝ三月にをよび、かわ()はまさりて九十日、やま()くづ()れ、みち()ふさ()がり、人もかよはず、かつ()てもた()へて、いのち()かうにて候ひつるに、このすゞ(種種)の物たまわりて法華経の御こへ()をもつぎ、釈迦仏の御いのちをもたす()けまいらせさせ給ひぬる御功徳、たゞを()しはか()らせ給ふべし。くはしくは又々申すべし。(P1531)

 

◇日蓮への供養は即「法華経の御こへ()」を継ぎ、「釈迦仏の御いのちをもたす()け」るものであることを示す。ここに釈迦仏の真の後継者、法華経伝道者としての彼の境地が窺えるのではないか。即ち、釈迦・法華経と日蓮の一体化した世界が書状に表出されていると思うのである。

 

*我等が親父、大聖教主釈尊の金言

*いわうや法華経の題目をや

弘安元年7月14日「妙法尼御前御返事」(真蹟断片)

一代の聖教いづれもいづれも、をろ()かなる事は候はず。皆我等が親父、大聖教主釈尊の金言なり。皆真実なり。皆実語なり。

其の中にをいて又小乗・大乗、顕教・密教、権大乗・実大乗あいわかれて候。仏説と申すは二天・三仙・外道・道士の経々にたいし候へば、此等は妄語(もうご)、仏説は実語(じつご)にて候。此の実語の中に妄語あり、実語あり、綺語(きご)も悪口(あっく)もあり。其の中に法華経は実語の中の実語なり。真実の中の真実なり。

真言宗と華厳宗と三論と法相と倶舎(くしゃ)・成実と律宗と念仏宗と禅宗等は実語の中の妄語より立て出()だせる宗々なり。法華宗は此等の宗々にはに()るべくもなき実語なり。法華経の実語なるのみならず、一代妄語の経々すら法華経の大海に入りぬれば、法華経の御力にせめられて実語となり候。いわうや法華経の題目をや。

白粉(おしろい)の力は漆(うるし)を変じて雪のごとく白くなす。須弥山に近づく衆色は皆金色なり。法華経の名号を持つ人は、一生乃至(ないし)過去遠々劫(かこおんのんごう)の黒業の漆変じて白業の大善となる。いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり。(P1536)

 

*法華経に申しあげ候ひぬれば、御心ざしはさだめて釈迦仏しろしめしぬらん。

弘安元年8月14日(建治3年8月14日)「芋一駄御書」(真蹟)

いも()一駄・はじかみ五十ぱ()をくりたびて候。(P1550)

中略

しかれどもかゝるいも()はみへ候はず、はじかみはを()ひず。いし()ににて少しまもりやわ()らかなり。くさ()ににてくさよりもあぢあり。法華経に申しあげ候ひぬれば、御心ざしはさだめて釈迦仏しろしめしぬらん。()

 

*法華経と釈迦仏とにゆづりまいらせ

弘安元年9月19日「上野殿御返事」(延徳年間・1489~1492古写本 京都妙蓮寺蔵)

塩一駄・はじかみ送り給び候。

かゝるところにこのしほを一駄給びて候。御志、大地よりもあつく虚空よりもひろし。予が言は力及ぶべからず。たゞ法華経と釈迦仏とにゆづ()りまいらせ候。事多しと申せども紙上にはつ()くしがたし。(P1571)

 

                        伊豆市 だるま山高原より
                        伊豆市 だるま山高原より

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