鎌倉と安房国、清澄寺と虚空蔵信仰 4-2

(2) 清澄寺 不思議法師から天台宗、真言宗智山派へ

① 東条御廚

             越生町 虚空蔵尊
             越生町 虚空蔵尊

清澄寺の起源は、伝承によれば「上古神武天皇の御宇、天富命を祀りし霊場なる故に、今寺の本堂の紋、三つ玉を用ふ」と伝える。

 

続いて、岩村義運氏の著作である 「安房国清澄寺縁起」(1930)によれば、「光仁天皇の宝亀(ほうき)二年(771)、一人の旅僧何地よりか飄然として此の山に来たり一大柏樹を以って、虚空蔵菩薩の尊像を謹刻し、一宇を此處に建立し、日夜礼拝供養怠らず」(P3)と、不思議法師が虚空蔵菩薩像を彫刻、祭祀したとする。

 

          栃木県岩船町  円仁像
          栃木県岩船町  円仁像

次に「不思議法師開創当時の清澄寺は、極めて微々たる山寺に過ぎざりしが、其の後六十余年を経て、仁明天皇の御宇、承和三年(836)慈覚大師東国巡錫の砌、清澄に登りし處、聞きしに優る仙境に讃嘆禁ぜず、之れ仏法相応の霊地なりとし、錫を止めて興隆に力を盡(つく)し、自ら一草堂に籠りて、虚空蔵菩薩求聞持法を厳修して其成満を祈り、遂に僧坊を建つる十有二、祠殿を造る二十有五、房総第一の巨刹、天台有数の大寺となり、清澄寺の名、漸(ようや)く世に知らるるに至れり」(P6)と、慈覚大師円仁による再興を伝えている。

 

             鴨川市 花房付近
             鴨川市 花房付近

鎌倉時代の元暦元年(1184)53日にいたり、源頼朝は清澄寺の在する東条郷を、伊勢神宮の外宮に寄進している。

 

「吾妻鏡」

元暦元年(1184)53

外宮の御分は安房国東条の御厨、会賀の次郎大夫生倫に付けられをはんぬ。一品房を奉行として、両通の御寄進状を遣わす。~

寄進 伊勢太神宮御厨一処

在 安房国東条 四至旧の如し。

右志は、朝家安穏の為に奉り、私願を成就せんが為、殊に忠丹を抽んで寄進状件の如し。寿永三年五月三日    正四位下前の右兵衛佐源朝臣

 

これは日蓮遺文にも記されている。

「新尼御前御返事」文永12(1275)216日 真蹟曽存

而るを安房の国東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし。其の故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢の国に跡を垂れさせ給いてこそありしかども、国王は八幡加茂等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋りおぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請文をもつてあをか(会加)の小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給いけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給いぬ。此の人東条の郡を天照太神の御栖と定めさせ給う。されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房の国東条の郡にすませ給うか、(P868)

 

「聖人御難事」弘安2(1279)101日 真蹟

去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房の国長狭郡の内東条の郷、今は郡也。天照太神の御くりや()、右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。(P1672)

 

そして、伊勢神宮の外宮から派遣されてきた新来の領家が東条の御厨を掌握、徴税するにあたり、古くからある清澄寺の徴税システムを利用、見返りに寺領の保証、御厨としての特権を清澄寺が利用することを認めたであろうことは、山中講一郎氏が「日蓮伝再考」(P222 2004年 平安出版)で指摘されている。

 

寺伝によれば、源頼朝は清澄寺を深く尊信。北条政子はその意を体して、頼朝追善のために大輪蔵を建立して一切経を収めた、と伝える。

 

② 山林修行の霊場

くだって、日蓮の時代の清澄寺は、「虚空蔵菩薩求聞持法」を修する、山林修行の霊場として喧伝されていた。

 

「阿闍梨寂澄自筆納経札」(早稲田大学所蔵文書)

房州 清澄山

奉納

六十六部如法経内一部

右、当山者、慈覚開山之勝地

聞持感応之霊場也、仍任

上人素意六十六部内一部

奉納如件、

弘安三年(1280)五月晦日 院主阿闍梨寂澄

 

※六十六部如法経

法華経六十六部を書写して、一国に一部ずつ納経してまわる六十六部回国が、回国聖・経聖(持経者)によって行われた。

 

< 参考 >

ときがわ町 慈光寺山門跡の板碑群

 

 

文和4(1355) 南北朝時代の「阿弥陀三尊種子板碑」

文和四年 乙未 六月十七日

古宝塔皆修造之

権少僧都 長厳

逆修敬白

六十六部行者拝

 

※逆修

自身の成仏を願い、生前に自らの死後の供養をすること。

 

 

 

妙法蓮華経書写の石碑

奉書写妙法蓮華経一百余巻

 

③ 修学道場

当時の清澄寺の学問環境については、安房国の一地方寺院の域を超えたものだったことが日蓮遺文より窺える。(日蓮には足りないものだったが)

 

嘉禎4(1238)「授決円多羅義集唐決」書写本・真蹟 日蓮17

(同書奥書)

嘉禎四年 太歳戊戌 十一月十四

阿房国東北御庄清澄山 道善房

東面執筆是聖房 生年十七才

後見人々是無誹謗

(P2875)

 

「清澄寺大衆中」建治2(1276) 真蹟曽存

(そもそも)参詣を企(くわだ)て候へば、伊勢公の御房に十住心論・秘蔵宝鑰・二教論等の真言の疏(しょ)を借用候へ。是くの如きは真言師蜂起故に之を申す。又止観の第一・第二御随身候へ。東春(とうしゅん)・輔正記(ふしょうき)なんどや候らん。円智房の御弟子に、観智房の持ちて候なる宗要集か()した()び候へ。それのみならず、ふみ()の候由も人々申し候ひしなり。早々に返すべきのよし申させ給へ。今年は殊に仏法の邪正たゞさるべき年か。(P1132)

 

・東密、いずれも空海の著であり真言教学の基本的な書物

十住心論⇒「秘密曼陀羅十住心論」十巻  真言密教の体系書

秘蔵宝鑰⇒「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)  十住心論の要綱をまとめ示した書

二教論⇒「弁顕密二教論」二巻  顕教と密教を対比、密教の勝れる所以を示した書

 

・天台の書

止観⇒「摩訶止観」十巻  天台大師智顗の著

東春⇒「天台法華疏義纉」  唐代の天台僧・智度の著

輔正記⇒「法華天台文句輔正記」  唐代の天台僧・道暹の著

 

日蓮自身も密教の重書を書写して、清澄寺に持ち帰っている。

建長3(1251)1124日、日蓮(30)は京都五条坊門富小路にて「五輪九字明秘密釈」(P2875)を書写し、建長6年(1254)9月3日、「清澄山住人」の肥前公日吽は日蓮筆の「五輪九字明秘密釈」を書写している。

 

五輪九字明秘密釈

建長六年(1254)甲寅九月三日未時了

清澄山住人肥前公日吽生年廿七歳

為仏法興隆法界衆生成仏道也。

(金沢文庫古文書識語編1P222)

 

④ 寺主 弘賢

明徳3(1392)に鋳造された清澄寺の梵鐘には「当寺主 前大僧正法印大和尚 弘賢」の名が刻まれる。

 

                          清澄寺 梵鐘
                          清澄寺 梵鐘

源頼朝によって建立された鶴岡八幡宮寺の社務職を記した「鶴岡八幡宮寺社務職次第」によれば、弘賢は鶴岡八幡宮寺第20代別当であり真言・東寺流の出身。文和4(1355)31歳の時より応永17(1410)86歳に至るまでの56年間、関東管領足利基氏、氏満、満兼、持氏の四代を経て鶴岡八幡宮寺別当として在職。他に十数箇所の別当を兼務していて、相模箱根山・走湯山の二所権現、足利氏の菩提寺・下野足利の鑁阿寺、月輪寺、松岡八幡宮、大門寺、勝無量寺、赤御堂、鶏足寺、大岩寺、越後国国付寺、安房国清澄寺、平泉寺、雪下新宮、熊野堂、柳営六天宮等の別当職にもなっていた。今日まで伝わる梵鐘が鋳造された明徳三年(1392)弘賢の寺主別当時代には、清澄寺は真言宗醍醐三宝院流親快方(或いは地蔵院流)の法脈に属していたと推測されるのである。

 

「鶴岡八幡宮寺社務職次第」

二十 東

弘賢

左衛門督ノ法印 三十一。西南院。治五十六年。加子七郎ノ息。前ノ大僧正頼仲ノ入室灌頂。無品親王遍智院聖尊ノ重受。醍醐ノ寺務法印ノ弘顕法印ノ重受。貞雅法印西院流ノ受法印可。文和四年乙未六月頼仲存日之譲之旨京都安堵御判到来 年三十一。東寺二ノ長者。康安二壬寅五月任権僧正。応安三六転正。至徳四年丁卯六月転大僧正。関東護持奉行。走湯山別当。月輪寺。松岡八幡宮。大門寺。勝無量寺。鑁阿寺。赤御堂。鶏足寺。大岩寺。越後国国付寺。安房国清澄寺。箱根山。(越前)平泉寺。雪下新宮。熊野堂。柳営六天宮。此数ヶ所ノ別当職兼之。当社仮殿御遷宮事。明徳三壬申十二月二十一日同正御遷宮。応永元年甲戍十二月十四日。此時上下宮金物以下御装束等。悉被新調之。惣奉行ヲ上椙中務入道禅助。委細在別記。進止供僧十六口。被成外方事。応永七庚辰八月二十三日、以社家吹学。可為公方供僧之旨御教書。十六人仁各被申與了。随分御興隆此事哉。奉行清式部入道是清。応永十七年庚寅五月四日結講(誦か)印明。如睡帰寂 八十五。

 

⑤ 安房・上総の総氏寺

源頼朝によって伊勢神宮外宮に寄進された東条郷に位置する清澄寺は、室町幕府の時代では鶴岡八幡宮寺、相模箱根山・走湯山の二所権現、下野足利・鑁阿寺の別当が更に兼務するほどの寺格、地位となっていた。それ以降、清澄寺は安房・上総の総氏寺であったとして、山川智応氏は「安房国志」の「安房上総両国ノ氏寺ト称シ」を引用する。(「日蓮聖人研究」1P99)

                             清澄山より
                             清澄山より

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