高橋入道殿御返事・2

建治元年(1275)712高橋入道殿御返事(加島書)(P1089 真蹟)に戻ろう。

 

 

◇本文

ただし真言の事ぞ御不審にわたらせ給ひ候らん。いかにと法門は申すとも御心へあらん事かたし。但眼前の事をもて知ろしめせ。隠岐の法皇は人王八十二代、神武よりは二千余年、天照太神入りかわらせ給ひて人王とならせ給ふ。いかなる者かてきすべき上、欽明より隠岐の法皇にいたるまで漢土・百済・新羅・高麗よりわたり来たる大法秘法を、叡山・東寺・園城・七寺並びに日本国にあがめをかれて候。此は皆国を守護し国主をまぼらんためなり。(P1089)

 

意訳

ただし、真言宗は悪法であると説き示したことを不審に思われているだろうか。真言の悪法の所以をどのように説明したとしても、法門上、理解することは難しいことだろう。ただ眼前の事実を以て理解すべきである。隠岐の法皇=後鳥羽上皇は人王では八十二代、神武天皇よりは二千余年を経過した天皇であり、天照太神が入り替わられて人王となられた。このような天皇に誰が敵対できようか。その上に、欽明天皇より隠岐の法皇に至るまで、漢の国・百済・新羅・高麗より海を渡って取り入れた大法、秘法などを、比叡山、東寺、園城寺、南都七大寺並びに日本国の隅々まで崇め置かれている。これらは皆、国を守護して、国主を護るためである。

 

日蓮の対機説法というべきか。他の遺文に見られるように(1)空海の教理面を批判するのではなく、「真言の調伏・祈祷によって身を滅ぼす現証」を以て、高橋入道に真言宗の悪法たる所以を説明する。ここでも「現証」として引用されるのは「承久の乱」となる。

 

(1)例えば「曾谷入道殿許御書」(文永12[1275]310日 真蹟)では、空海の著作「秘密曼荼羅十住心論」「秘蔵宝鑰」「弁顕密二教論」の不審点を指弾している。

「曾谷入道殿許御書」本文

弘法大師の十住心論(じゅうじゅうしんろん)・秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)・二教論(にきょうろん)等に云く「此くの如き乗々(じょうじょう)は自乗(じじょう)に名を得れども後に望めば戯論(けろん)と作()す」。又云く「無明の辺域」。又云く「震旦の人師等、諍って醍醐を盗み、各自宗に名づく」等云云。釈の心は法華の大法を華厳と大日経とに対して戯論の法と蔑り、無明の辺域と下し、剰え震旦一国の諸師を盗人と罵る。此れ等の謗法・謗人は慈恩・得一の三乗真実・一乗方便の誑言にも超過し、善導・法然の千中無一・捨閉閣抛の過言にも雲泥せるなり。六波羅蜜経をば唐の末に不空三蔵、月氏より之を渡す。後漢より唐の始めに至るまで未だ此の経有らず。南三北七の碩徳、未だ此の経を見ず。三論・天台・法相・華厳の人師、誰人か彼の経の醍醐を盗まんや。又彼の経の中に法華経は醍醐に非ずといふの文、之有りや不や。而るに日本国の東寺の門人等、堅く之を信じて種々に僻見を起し、非より非を増し、暗より暗に入る。不便の次第なり。(P906)

 

意訳

弘法大師空海が著した「秘密曼荼羅十住心論」「秘蔵宝鑰」「弁顕密二教論」等には(以下は秘蔵宝鑰の文)「他縁以後は大乗の心也。大乗に於いて前の二乗は菩薩乗、後の二は仏乗也。此くの如くの乗乗、自乗に仏の名を得れども後に望むれば戯論と作る。」とある。

(法華経には仏乗を説くも、真言の「十住心」中の十番目「秘密荘厳住心」の説示に比較すれば法華経の仏乗は戯論の法である)

「秘蔵宝鑰」には「顕教中における法華経の教主釈尊は真言の『十住心』中では八番目『一道無為住心』であり究竟の理智法身だが、十番目『秘密荘厳住心』の大日如来と比較すれば、釈尊は無明の辺域にすぎないのである」とある。

また「弁顕密二教論」には六波羅蜜経を引用して「喩して曰く、今この経文に依らば、仏五味を以て五蔵に配当して、総持=真言をば醍醐と称し、四味をば四蔵に譬えたまえり。振旦の人師等、醍醐を争い盗んで各自宗に名づく」等という。

(六波羅蜜経には素怛䌫[そたらん]・毘奈耶[びなや]・阿毘達磨[あびだつま]・般若波羅蜜多[はんにゃはらみった]・陀羅尼門[だらにもん]の五蔵を説示する。そして五蔵が乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味の五味に順次対応していると説く文により、空海は真言密教こそ最高の醍醐味であるとする。続いて、中国の人師らが自宗を醍醐味と説くのは六波羅蜜経の醍醐味から[真言の教判から]盗んだものなのである、とする。)

この釈の心は、「大法たる法華経」を華厳経と大日経とに対すれば「戯論の法である」と軽蔑し馬鹿にして、「無明の辺域」と下し、しかも中国一国の諸宗の人師を「法盗人」と罵ったのである。

このように「法を謗り」「師を謗る」ということは、中国で法相宗を開いた慈恩()や日本の法相宗・得一の主張する「三乗の教法が真実であり、一仏乗の教法は方便である」との誑言にも超過しており、中国浄土教・善導の「往生礼賛」の「千が中に一無し」、日本の法然房源空の「選択集」にある「聖道を捨て、定散の門を閉じ、聖道門を閣き、諸雑行を抛ち=捨閉閣抛」の過ぎたる雑言とも雲泥の差なのである。

六波羅蜜経は唐代の末に、不空三蔵がインドより渡したものだ。後漢から唐の初めに至るまで、未だ六波羅蜜経は中国にはなかったのである。南三北七の碩徳らも未だこの経を見ていないのだ。三論宗・天台宗・法相宗・華厳宗の人師の誰がどのようにして、存在しない六波羅蜜経の醍醐を盗むというのか。

又六波羅蜜経の中に「法華経は醍醐味ではない」という文があるのだろうか。このように明確なことなのに、日本国の東寺の門人等は堅く空海の教えを信じて、様々な誤った考えを起こし、非より更に非を増し、暗きより更に暗きに入っているのである。実に哀れなることである。

 

               鎌倉・由比ヶ浜
             鎌倉・由比ヶ浜

◇「高橋入道殿御返事(加島書)本文

隠岐の法皇、世をかまくらにとられたる事を口をしとをぼして、叡山・東寺等の高僧等をかたらひて、義時が命をめしとれと行ぜしなり。此の事一年・二年ならず、数年調伏せしに、権の大夫殿はゆめゆめしろしめさゞりしかば一法も行じ給はず、又行ずとも叶ふべしともをぼへずありしに、天子いくさにまけさせ給ひて、隠岐の国へつかはされさせ給ふ。(P1089)

 

意訳

隠岐の法皇は日本国の実権を鎌倉武家政権が握って、世の中を意のままにしているのをたいそう悔んで、比叡山・東寺等の高僧らと通じ謀って「北条義時の命を取れ」と命じられた。この事は一年、二年のみではなく、数年に亘り北条調伏の祈祷をしたのだが、北条義時(権の大夫)は自らが密教の調伏の対象であるとは夢にも知らなかったので、対抗して、何の祈祷を命じることもなかった。また調伏の祈祷をしたところで叶うとは思ってもいなかった。結局、法皇は戦いに敗れて隠岐の国へと配流されたのである。

 

 

◇本文

日本国の王となる人は天照太神の御魂の入りかわらせ給ふ王なり。先生の十善戒の力といひ、いかでか国中の万民の中にはかたぶくべき。設ひとがありとも、つみあるをやを失なき子のあだむにてこそ候ひぬらめ。設ひ親に重罪ありとも子の身として失に行はんに天うけ給ふべしや。しかるに隠岐の法皇のはぢにあはせ給ひしはいかなる大禍ぞ。此ひとへに法華経の怨敵たる日本国の真言師をかたらはせ給ひしゆへなり。(P1090)

 

意訳

日本国の王位に着く人は、天照太神の御魂の入り替わられた王なのである。前生に十善戒(2)を備えた功徳力によって王位に着いたのであるから、どうして、国中の万民の中にかかる王位を傾けることのできる者がいるだろうか。例えば、罪のある親がいたとして、罪有る親を罪無き子が怨むのと同じであり、たとえ親に重罪があるとしても子の身・立場で処罰することを天が許容されるであろうか。しかるに、隠岐の法皇が北条勢との戦いに敗れて、かつてない恥に遭われたのはどのような大禍によるものか。これらはひとえに、法華経の怨敵である日本国の真言師と通じ謀り、彼らに調伏・祈祷をさせた故なのである。

 

(2)十善戒=十悪に対する善き戒律。

以下は左が十善、右が十悪

不殺生(ふせっしょう)「不必要な生物殺傷はしない」⇔殺生

偸盗(ふちゅうとう)「盗みをしない」⇔偸盗

不邪淫(ふじゃいん)「乱れた性的関係はもたない」⇔邪淫

不妄語(ふもうご)「嘘をついて人を騙すことはしない」⇔妄語

綺語(ふきご)「無意味なうわさ話などはしない」⇔綺語

不悪口(ふあっく)「暴言を吐かない、乱暴な言葉づかいはしない」⇔粗悪語

不両舌(ふりょうぜつ)「双方に違うことを言って人の中を裂くようなことはしない、筋の通った発言をする」⇔離間語

不慳貧(ふけんどん)「欲望に振り回されない」⇔妄貧

不瞋恚(ふしんに)「怒りにとらわれない、怒りの感情を制御する」⇔瞋恚

不邪見(ふじゃけん)「仏の教えに対し誤った見解を持たない、教えを正しく信受する」⇔邪見

 

            鎌倉 鶴岡八幡宮
            鎌倉 鶴岡八幡宮

◇本文

一切の真言師は潅頂と申して釈迦仏等を八葉の蓮華にかきて此を足にふみて秘事とするなり。かゝる不思議の者ども諸山諸寺の別当とあをぎてもてなすゆへに、たみの手にわたりて現身にはぢにあひぬ。此の大悪法又かまくらに下りて御一門をすかし、日本国をほろぼさんとするなり。此の事最大事なりしかば弟子等にもかたらず、只いつはりをろかにて念仏と禅等計りをそしりてきかせしなり。今は又用ひられぬ事なれば、身命もおしまず弟子どもに申すなり。かう申せばいよいよ御不審あるべし。日蓮いかにいみじく尊くとも慈覚・弘法にすぐるべきか。この疑ひすべてはるべからず。いかにとかすべき。(P1090)

 

意訳

真言師は皆、潅頂と申して釈迦仏等を八葉の蓮華に描いて、これを足で踏んで秘密の法としているのである。かかる不思議なこと、破仏をなす者達を京畿の諸山・諸寺の別当として仰ぎもてなす故に、日本国の実権は民である北条家に渡り、法皇は現身に未だかつてない恥に遭ったのである。そして、この大悪法たる真言の秘法はまた鎌倉に下って北条一門を誑惑しており(3)、今や日本国を滅ぼそうとしているのだ。この事は最大事なので弟子等にも語らず、いつわり愚かな者として念仏と禅宗ばかりを謗って弟子に聞かせてきたのである(4)。今は、私は用いられない事だから、身命も惜しまずに弟子達に申している。このように言えば、更に不審を抱くことだろう。日蓮がいかに仏教の智解の勝れ、如来の使いとして尊い者であるとしても、慈覚大師円仁、弘法大師空海に勝れているのであろうか。この疑問というのは、全てが晴れることはないだろう。どうしたら疑問は解消するだろうか。

 

(3)真言密教が鎌倉に流入して幕府要路と通じ盛行したことは、他の遺文にも記されている。

 

「清澄寺大衆中」(P1133 建治2[1276]または文永12[1275]111日 真蹟曽存)

此の悪真言かまくら(鎌倉)に来たりて又日本国をほろぼさんとす。

 

「頼基陳状」(P1359  建治3[1277]625日 日興再治本写本)

爰に彼の三の悪法関東に落ち下りて存外に御帰依あり。

 

「祈祷抄」(P683 文永9[1272] 真蹟曽存)

かかる大悪法、年を経て漸漸に関東に落ち下りて、諸堂の別当供僧となり連連と之を行う。本より教法の邪正勝劣をば知食さず。只三宝をばあがむべき事とばかりおぼしめす故に、自然として是れを用いきたれり。

 

「下山御消息」(P1329 建治3[1277]6月 真蹟断片)

先に王法を失ひし真言漸く関東に落ち下る。存外に崇重せらるゝ故に、鎌倉又還りて大謗法一闡提の官僧・禅僧・念仏僧の檀那と成りて、新寺を建立して旧寺を捨つる故に、天神は眼を瞋らして此の国を睨め、地神は憤りを含んで身を震ふ。長星は一天に覆ひ、地震は四海を動かす。

 

遺文に記されている「鎌倉に向かった真言師」について、鎌倉幕府の儀式、行事を執り行った鶴岡八幡宮寺(現在の鶴岡八幡宮)と別当職に注目してみよう。

同寺は康平6(1063)8月、「前九年の役」で奥州・安倍氏を平定した源頼義が京都・石清水八幡宮護国寺を鎌倉由比郷鶴岡に勧請して社殿を創建したのを始まりとしている。治承4(1180)10月、「平家打倒」を目指して挙兵し、鎌倉に入った源頼朝(11471199)は社殿を鎌倉小林郷北山に移転。建久2(1191)の火災後、頼朝は再度、石清水八幡宮護国寺を勧請して、八幡宮寺を上宮と下宮の体制としている。承元2(1208)には神宮寺を創建。武家の崇敬を集めた鶴岡八幡宮寺は隆盛し、一時は25の僧坊を擁している。

そして鶴岡八幡宮寺の別当職については、初代から17代までは寺門派=三井寺=園城寺と東寺の高僧が独占しており、密教系宗派と幕府の親密な関係、密教僧の鎌倉への定着のほどが窺われるのである。

 

初代・円暁(三井寺)

二代・尊暁(三井寺)

三代・定暁(三井寺)

四代・公暁(三井寺)

五代・慶幸(三井寺)

六代・定豪(東寺)

七代・定雅(東寺)

八代・定親(東寺)

九代・隆弁(三井寺)

十代・頼助(東寺)

十一代・政助(東寺)

十二代・道瑜(三井寺)

十三代・道珍(三井寺)

十四代・房海(三井寺)

十五代・信忠(東寺)

十六代・顕弁(三井寺)

十七代・有助(東寺)

 

これら東密、寺門派の高僧が独占状態だった鶴岡八幡宮寺に対して、鎌倉幕府は様々な祈祷を依頼した。一例を確認しよう。「吾妻鏡」には日蓮11歳の時の貞永元年(1232)94日、彗星が見えたことが記される。

 

寅の刻彗星乙方に見ゆ。庚方を指し、長二尺・広八寸・色白赤。この変白気・白虹・彗星未だこれを決せず。本星分明ならざるに依ってなり。和以降本星無き彗星出現の例、度々に及ぶと。

 

そして幕府は鶴岡八幡宮寺に祈祷を依頼する。

926日 癸酉 晴

今日御台所の御祈り等これを行わる。また鶴岡宮寺に於いて、百口の僧を屈し仁王会を行わる。云うにこれ彗星の御祈りなり。

(仁王会=仁王経を読誦し鎮護国家、天下泰平、国土安穏、万民豊楽を願う祈祷法要。)

 

京都で公家社会、朝廷に深く入ってお抱えの僧となり各種の加持祈祷をした如く、鎌倉に教勢を拡大した密教・真言師らは幕府と親密な関係を築いて官僧的存在となり、文永5(1268)の蒙古牒状到来以降は国家の動向を左右する場面において、その密教の祈祷力を以て幕府の蒙古防衛策の事実上の補完的役割を果たしている。密教寺院で行われる異国調伏の祈祷は幕府にとっては心強いものであり、また国家による異国退治の一環、公的なものとして密教の祈祷が位置付けられていた。

このような一国を挙げて敵国調伏をしているところに、密教祈祷の亡国論を主張する僧があれば、受け止める側としては教理的解釈に関心を寄せるよりも、幕府に対する批判と同義とするだろう。故に密教に対する批判開始はそのまま体制批判とも捉えられ、身命に係わる事態となることを日蓮は予期していたと思う。日蓮の、台密も加えての本格的密教批判は身延入山以降だから、高橋入道に記した「今は又用ひられぬ事なれば、身命もおしまず弟子どもに申すなり」は、まさにその通りだったと思うのだ。

 

 

(4)類文を先に見た

「曾谷入道殿御書」(P838 文永11[1274]1120日 真蹟断簡)

仏法の邪見と申すは真言宗と法華宗との違目なり。禅宗と念仏宗とを責め候ひしは此の事を申し顕はさん料なり。

 

「清澄寺大衆中」(P1133 建治2[1276]または文永12[1275]111日 真蹟曽存)

真言宗は法華経を失ふ宗なり。是は大事なり。先づ序分に禅宗と念仏宗の僻見(びゃっけん)を責めて見んと思ふ。

 

尚、東密批判が建長5(1253)より意図されていたものではなく、念仏批判より始まり、禅、律と次第して東密、最後に台密に至っていることは真蹟・真蹟曽存遺文を系年順に追えば確認できる。

 

前のページ                                  次のページ