1-1 清澄寺と日蓮

(1) 清澄寺の古鐘の銘文

明徳3(1392・日蓮滅後111)の鐘銘に「房州千光山清澄寺者慈覚大師草創」(造顕・前大僧正法印大和尚弘賢)とある。清澄寺は天台宗の慈覚大師が「草創」したと伝える寺院であった。

 

3代天台座主・円仁(えんにん)のことを慈覚大師ともいう。平安時代始まりの延暦13(794)誕生、貞観6(864)寂。

 

鐘銘

房州千光山清澄寺者、慈覚大師草創。往昔有鐘、破壊久矣。何以驚睡眠止酸苦。行脚比丘惠闇、参礼虚空蔵大士次、欲発大心補此欠、遍募衆縁、成就其功。仍作銘曰

陶鋳金銅 成大治功 寅夕鯨吼 洪音湧空 響遍高低 啓昏導迷 礼楽既益 号令共斉

上窮碧天 下徹黄泉 赴斉出定 得句悟礼 梵字繁昌 國家安康 檀信有慶 聖寿無彊

明徳三季 壬申 八月 日 

当寺主 前大僧正法印大和尚 弘賢

檀那 源朝臣 清貞 

幹縁比丘 明了

勸縁比丘 惠闇 

大工 武州塚田 道禪

(古鐘・現物と山川智応氏の著「日蓮聖人研究 第一巻」P95を参照した。以下、山川氏の記述は同書による)

 

「群書類従」第四輯P686 塙保己一氏編纂・続群書類従完成会発行
「群書類従」第四輯P686 塙保己一氏編纂・続群書類従完成会発行

 

 

 

山川智応氏は寺主・弘賢について、「天台宗の当時の僧綱の名を列せるあらゆる文献を捜索したが、遂にその名を見出せなかった」とし、「真言宗の僧綱名を列せる各文献を捜索」したところ「東寺長者補任」に弘賢の名を発見する。

 

※京都大学電子図書館 > 貴重資料画像 > 東寺長者補任

 

貞治五年(1366)丙午 

長者僧正 光済

僧正 弘賢 後七日法行之

(東寺長者は969年・安和2年以降、4名の定員となっている)

 

そして「貞治五年(1366)から明徳三年(1392)までは、二十六年あるから、その間に大僧正となり得る可能性がある」としながらも、「併し東寺の長者で、宮中の後七日法まで奉行した人物が、何故に房州清澄寺の寺主となっているか」と不審とする。

確かに、弘法大師空海開創の東寺長者の座にあった人物が、清澄寺のような安房の国の地方寺院の寺主に納まるというのはどうであろうか。山川氏は「弘賢の隠居寺でもあったのか」と弘賢の法脈系統を知るために東密の関連文書(「仁和寺諸院家記」「諸嗣宗脈記」「秘密辞林」「真言宗法脈系図」)を捜すも見当たらず、しかし、意外なところに弘賢の名を発見する。

 

 

「群書類従」第四輯P486 塙保己一氏編纂・続群書類従完成会発行
「群書類従」第四輯P486 塙保己一氏編纂・続群書類従完成会発行

源頼朝によって建立された鶴岡八幡宮寺の社務職を記した「鶴岡八幡宮寺社務職次第」に弘賢の名があった。それによると弘賢は鶴岡八幡宮寺第二十代の別当であり東寺流の出身。1355年・文和4年、31歳の時より1410年・応永17年、86歳に至るまで、56年間、関東管領足利基氏、氏満、満兼、持氏の四代を経て在職。

 

他に十数カ所の別当を兼務していて、相模箱根山・走湯山の二所権現、足利氏の菩提寺・下野足利の鑁阿寺、月輪寺、松岡八幡宮、大門寺、勝無量寺、赤御堂、鶏足寺、大岩寺、越後国国付寺、安房国清澄寺、平泉寺、雪下新宮、熊野堂、柳営六天宮等の別当職になっていたことが判明した、としている。(※注 山川氏は弘賢の兼務寺院に箱根山を含めたが、「箱根山別当・東福寺金剛王院・累世」等によると箱根山の歴代に「弘賢」の名はない)

 

続いて「聖人滅後百十一年の明徳三年(1392)当時には、清澄寺が正しく此の弘賢法印を寺主別当として、真言宗醍醐三宝院流親快方(或いは地蔵院流)の法脈に属していた事実は、頗る確実である」とされている。

 

                         清澄山より
                         清澄山より

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