1-2 清澄寺と日蓮

(2) 「聖」による寺院の「開山、再興」

清澄寺の梵鐘が造立された明徳3(1392)には、醍醐三宝院流親快方の流れを汲む弘賢が寺主となっていたものの、鐘銘では天台宗の「慈覚大師草創」として前代からの寺伝を刻んでいる。この慈覚大師円仁による「草創」について、実際のところはどうなのだろうか。円仁による開基、再興と伝承される寺院が全国では300以上、500以上ともされ、特に出生地(栃木県下都賀郡壬生町または岩舟町)である関東や伝道教化に歩いたとされる東北に多数存在している。主だったものを見てみよう。

 

【 円仁による開基、再興と伝える寺院 】

< 東北地方の寺院 >

瑞巌寺 臨済宗妙心寺派 宮城県宮城郡松島町

828年・天長5年、円仁が3000名の大衆と共に松島に来訪。淳和天皇の勅願寺として開基した延福寺が始まりとされる。

 

中尊寺 天台宗 岩手県西磐井郡平泉町

850年・嘉祥3年、円仁が弘台寿院を開基したのが始まり。859年・貞観元年に清和天皇から中尊寺の額を賜ったと伝承される。

             立石寺本堂
             立石寺本堂

 

立石寺 天台宗 山形県山形市

860年・貞観2年、円仁が清和天皇の勅命により開基したと伝承される。

 

 

恐山菩提寺 曹洞宗 青森県むつ市

862年・貞観4年、円仁が本尊として地蔵菩薩を彫刻安置して開基したとされる。

 

 

 

黒石寺 天台宗 岩手県奥州市水沢区黒石町

729年・天平元年、法相宗薬師寺5代・行基が薬師如来を彫刻安置して開基したのが始まりとされ、その後、円仁の東北巡化の折に再興されたと伝承される。

 

< 清澄寺と同じ千葉県内の主な寺院 >

龍正院 天台宗 千葉県成田市滑川

838年・承和5年、円仁の開基と伝承される。

 

清水寺 天台宗 千葉県いすみ市岬町

782806年・延暦年間、最澄が十一面観世音菩薩を彫刻安置したのが始まりとされ、807年・大同2年に円仁が千手観世音菩薩を彫刻安置して再興と伝承される。

 

行元寺 天台宗 千葉県いすみ市萩原

849年・嘉祥2年、円仁の開基と伝承される。

 

長楽寺 天台宗 千葉県印西市大森

円仁の開基と伝承される。

 

能満寺 天台宗 千葉県いすみ市須賀谷

864年・貞観6年、円仁が本尊として虚空蔵菩薩を彫刻安置して開基と伝承される。

山号は虚空蔵山、院号は求聞持院。

 

真野寺 天台宗 千葉県南房総市久保

725年・神亀2年、行基が開基、860年・貞観2年、参籠中の円仁が大黒天を彫刻と伝承。

 

滝泉寺 天台宗 千葉県いすみ市大原

円仁の開基と伝承される。

             清澄寺より
             清澄寺より

 

石堂寺 天台宗 千葉県南房総市石堂

708年・和同元年、僧恵命・東照がアショカの王塔を祀る、とする。

726年・神亀3年、行基が堂宇を建立と。

851年・仁寿元年、円仁が七堂伽藍を造営して再興と伝承される。

 

那古寺 真言宗智山派 千葉県館山市那古

行基による開基とし、847年・承和14年、円仁が再興と伝承される。

 

観明寺 天台宗 千葉県長生郡一宮町一宮

734年・天平6年、行基による開基とし、円仁が再興と伝承される。

 

妙覚寺 天台宗 千葉県長生郡長南町地引

法相宗の道昭(629年・舒明天皇元年~700年・文武天皇4)による開基とし、円仁が阿弥陀如来を彫刻安置し再興と伝承される。

 

長秀寺 天台宗 千葉県勝浦市部原

延暦年中(782年~806)、最澄による開基とし、860年・貞観2年、円仁が再建と伝承する。

 

 

  栃木県岩船町指定文化財 慈覚大師誕生の地 円仁銅像
  栃木県岩船町指定文化財 慈覚大師誕生の地 円仁銅像

以上、数多存在する「開山・再興は慈覚大師円仁」と伝える寺院から一握りだけを並べたが、これらが史実であるならば「八面六臂」とは仏像などが八つの顔と六つの腕を持つことを意味しているように、円仁の伝道教化は多方面に亘り目覚ましいものがあるといえるだろう。しかし、寺院に伝わる「慈覚大師による開山・再興」はあくまで伝承であり、円仁の事跡を記した「慈覚大師伝」には各地への伝道についての記述が見受けられないようだ。一方、研究者の間では天長6年(829)から約4年間は関東、東北を巡化したのではないかと推測されてもいる。 

 

 

【 聖人開山伝説 】

このような東日本各地に見られる「慈覚大師による開山・再興」との伝承については、佐藤弘夫氏がその著「霊場の思想」(2003年 吉川弘文館)で詳細に論じている。

以下、論考の要点を挙げれば、

・平安末期の聖人信仰の高揚が時代背景としてある

・「聖」と呼ばれる天台系の僧侶が諸国を歩き伝道教化した

・「聖」は同時に中央の最新知識、土木技術を伝えた

・「聖」自身も新道を通す、田畑を開くなどの地域の総合的な開発を進めた

・「聖」は再興した寺院を祖師信仰の聖地とすることを目指した

・そのために慈覚大師にまつわる様々な伝説を作り上げた

ということである。

詳しくは同書を参照されたいが、各地を渡り歩いた「聖」の行動力、教化力もさることながら、彼らとその指導を受けた地元民自身の手による総合的な開発は、現地の人々に生活上の恩恵をもたらしたことだろう。また、「聖」という学のある人物の口から発する京の都の最新情報、知識などは地域の人々を魅了したであろう。里人は、彼らの説く教えに帰依すると同時に彼らのもたらしたもの、何よりも彼ら自身に信頼を寄せた故にそれぞれの地域で「聖による開基・再興の寺院」が地域住民に支えられるようになり、「聖人開山伝説」も継承されることとなったのではないだろうか。

 

各地にみられる「聖」の伝道教化というものを踏まえれば、清澄寺の「771年・宝亀2(奈良時代)、不思議法師が訪れて虚空蔵菩薩を祭祀。836年・承和3(平安時代)、慈覚大師が再興する」との寺伝についても、同地を訪れた「聖」により作られたものと考えられないだろうか。

 

              能満寺
              能満寺

また、安房の国に隣接する上総の国に開基された能満寺(天台宗 千葉県いすみ市須賀谷)では、「864年・貞観6年、円仁が本尊として虚空蔵菩薩を彫刻安置して開基」と伝えられている。山号は虚空蔵山、院号は求聞持院であるところから、清澄寺と同じく虚空蔵菩薩求聞持法を古くより修していたのであろう。このようなことから上総、安房に伝道教化した「聖」は、虚空蔵菩薩求聞持法を修行する密教色の強い一団だったと考えるのである。

 

【 虚空蔵菩薩画像 】

大阪府貝塚市 > 国指定重要文化財・孝恩寺 木造虚空蔵菩薩立像

愛知県稲沢市 > 国指定重要文化財・亀翁寺 木造虚空蔵菩薩坐像

市指定文化財・萬徳寺 絹本著色虚空蔵菩薩像

埼玉県さいたま市 > 市指定有形文化財・興徳寺 木造虚空蔵菩薩坐像

 

【 「安房国清澄寺縁起」 】

             清澄寺
             清澄寺

「安房国清澄寺縁起」(1930年 岩村義運氏編集発行)より

◇清澄寺の開創

時は今を距(へだて)ること一千百六十年の昔、人皇四十九代、光仁天皇の宝亀(ほうき)二年、一人の旅僧何地よりか飄然(ひょうぜん)として此の山に来たり一大柏樹を以って、虚空蔵菩薩の尊像を謹刻し、一宇を此處に建立し、日夜礼拝供養怠らず、人の来たりて加持祈祷を乞う者あれば、快く諾し、然も必ず験あり。里人其の生国氏名を問うに笑って応えず、暫くして忽然何地へか去って復た行く處を知らず。時の人、此の不思議なる行動と不思議なる法験とに因みて、此の僧を呼ぶに不思議法師となす。是れ清澄寺の草創にして、此の堂の傍らに浄池あり、清く澄めること鏡の如し。

此の山の古歌に、

みきはには立ちもよられす山賤の

影はつかしききよすみの池

とあるに因みて、寺の名を清澄寺と名け、山の頂、常に妙光を発するを以って、山号を千光山と称せり。

 

◇本尊虚空蔵菩薩

当山の本尊は虚空蔵菩薩なり。此の菩薩は往古より汎(ひろ)く我が国に尊信せられ、所謂虚空蔵菩薩求聞持法は、夙(つと)に世に行われたり。

其の功徳本誓について、虚空蔵経に曰く

若し智慧を得んと欲し、若しくは歌詠(うたよみ)を好みて第一音聲を得んと欲し、王位百官の位を得んと欲し、種々の眷族を得んと欲し、善悪事に於いて遠名聞を得んと欲する者は、此の呪を持し、又吾名を称念せよ。

・・・・とあり。

往昔、日蓮聖人が、日本第一の智者たらしめ給へと此の本尊に祈願して、智慧の宝珠を授けられしとの伝は、已でに何人もよく知る所。

浄土宗の巨刹、三縁山増上寺第卅二世貞譽大僧正及び同山第四十世衍譽大僧正は、若かりし折り、此の山の本尊に栄達出世の願を掛け、遂に三縁山増上寺に晋(すす)み、僧位極官に陞(のぼ)りしため、多くの寄進をなし、徳川大奥の春日局は、竹千代君成人出世及千世姫君の安泰を祈りて悉く成就せし等、挙げて数え難し。

現在本堂に安置し奉る不思議法師御作の尊体は腹胎仏にして、母体の大尊像は実に尾張国八事山遍照院興正寺の開山にして、徳川家康の血族として尊信せられし天瑞大和尚一刀三礼の御作にして、是れ常陸国村松山の虚空尊像、会津の柳井津の虚空尊像と共に、日本三体の虚空蔵菩薩として世に称せらるるものなり。

 

【 武蔵の国・天正寺 】

              天正寺
              天正寺

ここに興味深い伝承がある。

「清澄山、不思議法師、虚空蔵菩薩」をキーワードとする寺院は、安房の国千光山清澄寺のみではないということだ。

 

それは武蔵の国、現在の埼玉県大里郡寄居町大字桜沢にある曹洞宗の天正寺である。寺伝によれば772年・宝亀3年に不思議法師が訪れ、安房の国清澄寺の虚空蔵菩薩と同一木を以て虚空蔵菩薩を刻み安置したことに由来する。山号を清澄山、寺号を天照寺と称し、その後天台宗になる。元亀年中(1570年~1573)に火災により本堂を焼失。1573年・天正元年に本堂を再建、寺名を天正寺に改める。この時に宗旨替えとなり現在の曹洞宗となったようだ。

 

このことはやはり、「聖」一行の広範囲に亘る布教伝道による物語の一つだろうし、「不思議法師による彫像」「清澄寺の虚空蔵菩薩と同じ材木で彫像した」との伝承、そして「山号の清澄山」は、安房の国清澄寺を開創した「聖」達が、この地を訪れていたことを示している、といえるだろうか。

 

鎌倉と安房国、清澄寺と虚空蔵信仰 4-3

 清澄寺梵鐘・道禅・三嶋神社鰐口・天正寺」へ

 

【 「聖」について 】

         東大寺金堂・大仏殿
         東大寺金堂・大仏殿

奈良時代の遊行僧から始まるものか。諸国を巡り修行を重ね教えを伝え歩いた僧らで、名の知られた人物として、貧民救済や土木事業を行い東大寺大仏造営の勧進をした行基(668年~749)、若き日の空海(774年~835)、市の聖と慕われた民間浄土教行者・空也(903年~972)らがいる。

平安時代(794年~1185年頃)の中期より末法思想(日本では1052年・永承7年が末法元年とされる)が広まる頃になると、本寺から離れた別所に集住し、そこを拠点として修行、布教を行う仏教僧が現れ彼らを「聖」と呼ぶようになった。

            高野山にて
            高野山にて

高野山の高野別所に集住する念仏聖は高野聖と呼ばれ、東大寺再建の大勧進職をつとめた重源(1121年~1206)、東大寺で三論宗を修学、高野山入山後に法然の門弟となり専修念仏に帰依した明遍(1142年~1224)らがいる。

平安後期、比叡山延暦寺黒谷別所に住した念仏聖が法然房源空であり、弟子の親鸞も念仏一門の弾圧以降は、関東に居を定めて教化伝道をしている。「聖」らは概して、伝統仏教とされる本寺やその教義に捉われない自由な立場で修行を行い、新しい教説を広めており、彼らの活動が鎌倉時代に至って新仏教の誕生へとつながっていく。このような観点からすれば、日蓮も伝統仏教に学びそこから巣立った「天台聖」「法華聖」または「題目聖」でもあったといえるだろうか。

もちろん、上記の人物と違い歴史に名は残さなかったが、「聖人信仰」により祖師、開祖に仮託して、寺院の母胎となる草庵、堂などを造り残しながら諸国を回遊した、「名もなき聖」達の方が圧倒的に多かったことを忘れてはならないだろう。

 

【 高野聖 】

           高野山・奥の院
           高野山・奥の院

「聖」について、五来重(ごらい しげる)氏は「増補=高野聖」(P29 1975年 角川学芸出版)で、以下のようにその語源、性格を記されている。

 

聖はおそらく原始宗教者の「日知(ひし)り」から名づけられたものであろうといわれるが、わたくしは火を管理する([]る=治[]ろしめす)という意味で「火治(ひし)り」といってもよいとかんがえている。

 

 

 

 

それは「古事記」の景行天皇条に日本武尊が、

新治(にひばり)筑波をすぎて、幾夜か宿()つる

と日数をたずねたのにたいして、

かかなべて、夜()には九夜(ここのよ)、日には十日を

とこたえたのは「御火焼(おひたき)の老人(おきな)」で、神聖な火を管理する宗教者が日をかぞえ、また日の吉凶を知っていたからである。この「御火焼の老人」は同時に「東(あずま)ノ国造」であったから、原始宗教者であるとともに、部族国家の首長でもあった。この意味から祭政一致の主権者である天皇が聖帝(ひじりみかど)とよばれたのは当然で、高野聖のような「ひじり」はきわめて原始的な宗教者一般の名称であったと考えてよい。

 

このような宗教者には、呪力を身につけるための山林修行と、身のけがれをはらうための苦行があった。これが山林に隠遁する聖の隠遁性と苦修練行の苦行性になったのである。また原始宗教では死後の霊魂は苦難にみちた永遠の旅路をつづけるとかんがえたので、これを生前に果たしておこうという巡礼が、聖の遊行性(回国性)となっている。隠遁と苦行と遊行によってえられた呪験力は、予言・治病・鎮魂などの呪術にもちいられるので、聖には呪術性があることになる。また原始宗教者は一定の期間、あるいは山伏の夏行(げぎょう)や入峯(にゅうぶ)修行のような一年の何か月かは、隠遁と苦行のきびしい掟があるけれども、それ以外は妻帯や生産などの世俗生活をいとなむので、俗聖とよばれる世俗性がある。なお原始宗教ほど信仰を内面的な質よりも作善(さぜん・宗教的善行)の数量ではかるので、多数者による多数作善をおもんずるために、集団をなして作善をする集団性がある。この多数者による集団的作善は大衆を動員して道路や橋をつくり、あるいは寺や仏像をつくる勧進に利用されるから、仏教化した聖の最大のはたらきはその勧進性にあったのである。この勧進ということが、実は聖の社会史的、経済史的意義で、高野聖についてもこの点に重点をおいてかんがえなければならない。また勧進の手段として聖は、説経や祭文などの語り物と、絵解(えとき)と、踊念仏や念仏狂言などの唱導をおこなった。これが聖の唱導性であるが、これが庶民文学や民間芸能となって日本文化に寄与したのである。

 

このように、原始宗教者としての聖は、隠遁性・苦行性・遊行性・呪術性・世俗性・集団性・勧進性・唱導性をもつものとして歴史にあらわれてくる。高野聖もけっして例外ではなく、これら七つの性格をそなえて高野山の歴史をかたちづくり、日本の庶民仏教の歴史に大きな足跡をのこした。

 

(3) 清水龍山氏・山川智応氏の考証

清澄寺の宗旨に関する近代の考証は、明治37(1904)の「双榎(そうか)学報」での清水龍山氏の「清澄山宗旨考」があり、続いて昭和4(1929)には山川智応氏が「日蓮聖人研究 第一巻」(P82)にて「清澄寺宗旨の変遷とその寺格位地を考ふ」と題して詳細に論じている。

 

山川論文には清水氏の考証が紹介されていて、その要旨は以下のようなものである。

 

第一証

「境妙庵目録」が、(日蓮21歳の時とされる)「戒体即身成仏義」の内容は台密の意とすることに同意し、同書は「理同事勝」「顕劣密勝」の台密の義であるので、清澄寺の宗旨は天台宗であったろう。

 

第二証

建治2(または文永12)111日に清澄寺大衆に報じた「清澄寺大衆中」(P1132 真蹟曽存)には「(そもそも)参詣を企(くわだ)て候へば、伊勢公の御房に十住心論(じゅうじゅうしんろん)・秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)・二教論等の真言の疏を借用候へ。是くの如きは真言師蜂起故に之を申す。又止観の第一・第二御随身候へ。東春(とうしゅん)・輔正記(ふしょうき)なんどや候らん。」と書かれており、東寺真言の疏に限り「真言の疏」とあるのに、天台の疏には、別に天台とことわっていないのは、清澄寺が天台宗であることを示すものであろう。

 

第三証

師匠道善房追善のために著した「報恩抄」に「慈覚(円仁)・智証(円珍)の二人は、言は伝教大師の御弟子とはなのらせ給へども、心は御弟子にあらず」(P1216 真蹟)「慈覚・智証こそ専ら先師にそむく人にては候へ」()「慈覚大師・智証大師は已今当の経文をやぶらせ給ふ人なり。已今当の経文をやぶらせ給へば、あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや」(P1217)などと、慈覚、智証、更には源信、安然を批判しているのは、道善房、清澄一山が天台宗であることを暗示している。

 

第四証

善無畏三蔵抄」に「文永元年十一月十四日西条華房の僧坊にして見参に入りし時、彼の人の云はく、我智慧なければ請用の望もなし、年老ひていらへなければ念仏の名僧をも立てず。世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり。又、我が心より起こらざれども事の縁有りて、阿弥陀仏を五体まで作り奉る。是又過去の宿習なるべし。此の科に依って地獄に堕つべきや等云云」(P474 真蹟と推される断簡あり)道善房の念仏行を記しているが、これは天台慧心流の称名念仏の修行であったろうと思われる。

 

第五証

もし清澄寺が東寺流の真言宗であれば、日蓮の修学は高野山から始まったであろう。伝承では、天台宗でも園城寺に行かず、山門・比叡山から始まっており、これは清澄寺が山門・比叡山の天台宗であったことを裏書きする。

 

第六証

日蓮の乳人(めのと)瀧口氏の菩提寺であったといわれる西蓮寺(現在の日蓮両親墓所とされる妙蓮寺)は、元天台宗であったと伝承され、同寺縁起には西蓮寺住職であった道善房が清澄寺に転住したとあり、これは清澄寺の天台宗であったことの証左の一つとなろう。

 

山川氏は清水氏の説に加えて、「種種御振舞御書」(P983 真蹟曽存)に「円智房は清澄の大堂にして三箇年が間一字三礼の法華経を我とか()きたてまつ()りて十巻をそらにをぼへ、五十年が間、一日一夜に二部づつよまれしぞかし。かれをば皆人は仏になるべしと云云」とあるところから、円智房が一字三礼の法華経書写、一日一夜に法華三部経十巻を二部ずつ読経したことを以て、かかる行法は東寺流真言のものではなく、円仁を始めとするものであるから清澄寺の天台宗であった証拠と成し得る、とする。

 

また、清澄寺の諸房の名称も「円頓房、実智房、観智房、実成房、円智房、浄円房」と、天台宗に親しみの多い「円の字」が付いたものが多く、密の字の付いたものがないことも「清澄寺=天台宗」の理由としている。

 

これら清水氏の考証と山川氏の解説は、清澄寺の宗旨を探る上で重要な視点だと思う。(ただし、文献的に不確実な「戒体即身成仏義」と、西蓮寺に関する伝承は二次的なものと考える)

 

※「戒体即身成仏義」は写本しか伝わらず、「刊本録内」「日奥所持本」「日奥目録」「御書抄」は系年・文永三年であり、「日諦目録」「日明目録」「録内扶老」は仁治三年とし、「縮刷遺文」は仁治三年・或云文永三年としており、その真偽が問われることもある。

 

⇒清澄寺について詳しくは「安房国清澄寺に関する一考」へ

 

(4) 「阿闍梨寂澄自筆納経札」(早稲田大学所蔵文書)

             清澄寺より
             清澄寺より

房州 清澄山

奉納

六十六部如法経内一部

右、当山者、慈覚開山之勝地

聞持感応之霊場也、仍任

上人素意六十六部内一部

奉納如件、

弘安三年五月晦日 院主阿闍梨寂澄

1280年・弘安3年当時、清澄寺は慈覚大師円仁の開山と伝わり、六十六部如法経納入の寺院であり、「聞持感応之霊場也」即ち虚空蔵菩薩求聞持法を修する霊場であった。

 

【 虚空蔵菩薩 】

     東大寺 金堂・大仏殿の虚空蔵菩薩像
     東大寺 金堂・大仏殿の虚空蔵菩薩像

梵名はアーカーシャ・虚空、ガルバ・母胎の意訳であり、虚空蔵菩薩とは、無限なる宇宙空間の尽きることのない知恵、溢れる慈悲を内蔵した菩薩であり、知恵、知識、記憶力増進の利益をもたらす菩薩とされる。

密教の胎蔵界曼荼羅の中の虚空蔵院での主尊であり、釈迦院での右脇士である。

金剛界曼荼羅の賢劫十六尊の中におり、外院方壇南方四尊の第三位である。

 

 

 

【 虚空蔵菩薩求聞持法 】

虚空蔵菩薩を念じて記憶力増進を成就する修行法であり、中国の善無畏訳の「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」には、

「一経耳目文義倶解。記之於心永無遺忘」

とあり、経典を一度見聞きする事有れば、経典の意味を理解する事ができ、永く忘れる事が無いとしている。

(善無畏=善無畏三蔵・637年~735年、インド鳥荼国の国王・僧。716年、唐の長安に行き、虚空蔵求聞持法、大毘遮那経[大日経]を漢訳する。真言伝持の八祖の第五祖)

 

【 三教指帰 】

        空海
        空海

記録に残る修行としては弘法大師空海が入唐する前に行ったものが有名で、その著「三教指帰(さんごうしいき)・序」(797年・延暦16121日成立)には以下のように記されている。

 

時に一沙門有り。虚空蔵求聞持法を呈示す。其の経に説く。若し人、法に依って此の真言一百万遍を誦せば、即ち一切経法の文義暗記を得ん。是に於て大聖の誠言を信じ、飛焔を鑽燧に望み、阿波国大瀧之獄に躋り攀ち、土佐国室戸之崎に勤念す。幽谷は聲に応じ、明星は影を来す。

とある。

 

文意

ある時、空海は一沙門から「虚空蔵求聞持法」を示された。その経によると、「山中に篭もり、虚空像菩薩の真言(ノウボウアキャシャキャラバヤ・オンアリキャマリボリソワカ=華鬘蓮華冠をかぶれる虚空蔵に帰命す)を百万遍誦すれば、一切経の深義、文の意味するところが心中に入るであろう。記憶力が増進し、一切経の智恵を得ることができるのである」ということであり、沙門の教えを聞いた空海は、木鑽により炎を発するような不眠不休の修行を成し、四国阿波の国の深山、太龍の岳や土佐の国室戸岬に篭もったのです。深山幽谷は大師の音声に応じて響き、ついには明星(虚空蔵菩薩の応化)が来影しました。

 

           高野山 金剛峯寺
           高野山 金剛峯寺

※ある時=791年・延暦10年頃とされる。

「一沙門・空海の師僧」は、通説では勤操(ごんそう 754827・三論宗の学僧)とされていた。(「遍照発揮性霊集」巻八「先師の為に梵網経を講釈する表白」の記述、及び造東寺別当に勤操の後に空海が就いたことによるものか)

近代では、空海が重要視した「釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)」を請来した大安寺・戒明(他に唐より「首楞厳経(しゅりょうごんきょう)」なども請来する)が、「三教指帰・序」の一沙門・空海の師僧ではないかと推測されている。

 

 ※高野山御影堂に空海真蹟として伝来してきた「聾瞽指帰(ろうこしいき)(高野山霊宝館収蔵・国宝)は「三教指帰」と同じ797年・延暦1612月の作となっており、両書の比較では序文と巻末の十韻の詩の異なり、若干の字句の変更のみの相違であり、現在では「聾瞽指帰」が原作、「三教指帰」はそれを修正したものとされている。

 

【 三教指帰と立正安国論 】

         立正安国論
         立正安国論

「立正安国論」四六駢儷体文章の典拠の一つとして、空海の「三教指帰」を踏まえていることが北川前肇氏(大崎学報157号「日蓮聖人の立正安国論と三教指帰」P53)、山中講一郎氏(法華仏教研究3号「立正安国論はいかに読まれるべきか」P56)によって指摘されている。そして中山法華経寺には平安後期・院政期のものとされる「三教指帰注」が伝来している。若き空海の虚空蔵菩薩求聞持法と明星来影の体験が著された「三教指帰」を、日蓮は「立正安国論」を進呈した正元2年・文応元年(1260)以前に読み込んでいたことは確実で、その時期はやはり、集中的に学習を行った建長5(1253)の「法門申しはじめ」以前ということになるだろう。

 

日蓮は17(嘉禎4年・1238)の時には天台座主・円珍の「授決集」を補った「授決円多羅義集唐決」を写し、33(建長3年・1251)には東密と浄土教の融合を説いた覚鑁の「五輪九字明秘密義釈」を写しており、台密・東密の学習に励んだこの頃の日蓮の手元には「三教指帰」が置かれていたようだ。今、山中氏が論考中で指摘された「立正安国論」と「三教指帰」の対象箇所を見ると、空海と密教が日蓮に与えた影響は実に大なるものがあったように思う。それは「立正安国論」の文体のみならず、建長6年に「不動明王」「愛染明王」が感得されていることや、後年、図顕される妙法曼荼羅の形相的起源という角度からもいえることだろう。

 

また、日蓮は少年時に虚空蔵菩薩高僧示現の不可思議なる体験をしており、それを解明するということも、修学期の密教探求活動の一端にあったのではないだろうか。このような日蓮の修学過程は、空海が高僧より虚空蔵菩薩求聞持法を教えられ、教理研鑽よりもその実践修行を行い、結果、明星来影の不思議体験をして、その理論的根拠を知るべく経典探索を続けた姿と重なるものがあるように思う。

 

【 自然智宗 】

            比曽(蘇)寺跡・世尊寺
            比曽(蘇)寺跡・世尊寺

求聞持法」は空海に始まるものではなく、奈良時代の山林修行の僧団「自然智宗(じねんちしゅう)」が始まりのようだ。

 

宮家準氏の著「修験道と日本宗教」P44(1996年 春秋社)によれば、奈良時代初期に元興寺(がんごうじ・創建593年、開基・蘇我馬子)に来た唐僧の神叡(しんえい・法相宗)は、吉野川北側の比曽(蘇)寺(現在の曹洞宗世尊寺・奈良県吉野郡大淀町上比曾)にて二十年間に亘り籠る。その間、神叡は虚空蔵菩薩を本尊とする修行を行い結果、自然智を得る。この自然智とはヨーガの観法によって得られる仏梵一如の境地を意味し、その実践は自然智宗と呼ばれている。その後、大和大安寺で華厳・戒律・禅を説法した唐僧の道璿(どうせん・702760)も自然智を求めて比蘇寺で修行している。

 

最澄は12歳の時、比叡山の南の神宮禅院で、如来禅や天台を説いた行表の下で出家して弟子となっている。最澄は自然智宗にも触れている。一方、興福寺の賢璟(けんけい)とその弟子修円は天応元年(781)頃、室生寺を開き、ここを興福寺僧の修行道場とする。そこに初代比叡山座主・義真の弟子円修が入山している。

 

他に、大安寺の道慈は竹渓山寺を開いたが、その孫弟子の勤操は空海の師である。また、金峰山で修行して醍醐寺を開き、のちに当山派修験の祖とされた聖宝は,勤操の孫弟子に当たる。

 

自然智宗の淵源は中国の揚子江下流域で実践された山林修行であり、飛鳥地方南部に移住した帰化人檜前氏により伝来され、同氏創建の比蘇寺で行われた。(以上、引用趣意)

 

宮家準氏の解説に基づいて清澄寺に至る伝来の過程を大まかにたどれば、「中国・揚子江下流域の山林修行・自然智宗→檜前氏の帰化→山林修行・自然智宗とその修行法・虚空蔵菩薩求聞持法の伝来→比蘇寺の創建→時を経て空海による虚空蔵菩薩求聞持法→東密より台密へ取り入れられる→慈覚大師・円仁の流れを汲む『聖』による全国各地、安房の国への伝来→虚空蔵菩薩求聞持法を修する道場として清澄寺は再興され、喧伝されるようになる」というところだろうか。

 

※自然智宗について、もう少し詳しくは

⇒「自然智宗、山林修行そして日蓮」のページへ

 

※国会図書館・近代デジタルライブラリー

「弘法大師全集」1909年祖風宣揚会編 吉川弘文館ほか

聾瞽指帰  三教指帰

 

※道璿(どうせん)   大安寺 > 人物 > 名僧たち

 

(5)  天台沙門、根本大師門人

日蓮は建長5年の「法門申しはじめ」以降も、天台沙門、根本大師門人を名乗っている。これは天台宗の僧として自己規定し、仏教上の立場を明確にしたものである。それは同時に、出家得度した清澄寺での、日蓮の法脈の理解につながるものといえるだろう。

 

【 「三部経肝心要文」 文応年間(1260年~1261年) 】

「三部経肝心要文」日蓮聖人真蹟集成 第6巻P87 1976年 法蔵館
「三部経肝心要文」日蓮聖人真蹟集成 第6巻P87 1976年 法蔵館

真蹟16紙 池上本門寺蔵

題名の下に「天台沙門日蓮」と記す、紙は所々損じている。真蹟では唯一か。

*山中喜八氏は、「建長の末(1255年~1256)に書かれたもの」と推定。(「日蓮聖人真蹟の世界・下」P225)

 

 

【 日興書写「立正安国論」(玉沢妙法華寺蔵) 】

         立正安国論 中山法華経寺蔵 
         立正安国論 中山法華経寺蔵 

題号の次下に「天台沙門日蓮勘之」の署名がある。日興の署名・花押はないものの、筆跡より日興写本とされる。

「日蓮聖人遺文の文献学的研究」(鈴木一成 山喜房仏書林 P274)には、「日興筆の『安国論』については日親の『伝燈抄』に、彼が鎌倉浜戸の法華寺往訪の際の同寺の重宝拝見の事を記した中に『日興ニ書セラレタル安国論裏ニ御自筆ニテ註ヲ付サセ給タル御本』とある(筆者注・夢想御書のこと)。」とし、写本が日興筆であること、既に日親(1407年・応永14年~1488年・長享2年、「伝燈抄」述作は1470年・文明2)の代に玉沢本が日興筆とされていたことが窺われる。

 

日興以外の門下による「立正安国論」写本にも「天台沙門日蓮勘之」とあり、千葉県市川市中山・法華経寺蔵の日高写本、千葉県香取郡多古町島・正覚寺蔵の日祐写本、千葉県香取郡多古町南中・()妙興寺蔵の日弁写本の計三本が確認されている。

 

【 「法華題目抄」 文永3年 真蹟 】

(P391)

本文冒頭に「根本大師門人 日蓮 撰」と記す。

根本大師=最澄

 

尚、智顗(天台大師)の後身が最澄(伝教大師)となり法門を広める、との思想が当時の延暦寺・円仁門流にあり、日蓮はその説を「法華題目抄」の文中で引用しているところから、思想的にはそれを継承していた立場・天台沙門であり、「根本大師門人」と記した冒頭の記述と併せて、天台僧としての意識を強く持っていたことが窺われる。

 

漢土の天台大師御入滅二百余年と申せしに、此の国に生まれて伝教大師となのらせ給ひて、秀句と申す書を造り給ひしに「能化所化倶に歴劫無し妙法の経力にて即身成仏す」と竜女が成仏を定め置き給へり。而るに当世の女人は即身成仏こそかたからめ、往生極楽は法華を憑まば疑ひなし。譬へば江河の大海に入るよりもたやすく、雨の空より落つるよりもはやくあるべき事なり。(P404)

 

付言すれば、建治235日に妙密上人に報じたとされる「妙密上人御消息」では、「然るに日蓮は何れの宗の元祖にもあらず、又末葉にもあらず」(P1165)としているが、同書の真蹟はなく、本満寺本、三宝寺本による写本である。これが真蹟だとしても、建治2年の段階ではそれまでの「台密」への一定の期待というものから脱却し、「台密批判」を行っている時期であり、この頃には「日蓮と同時代の比叡山の一天台僧」としての意識は薄くなっていたであろうから、然るべき表現になったものと考えられる。

 

【 日蓮阿闍梨 】

            比叡山延暦寺 根本中堂
            比叡山延暦寺 根本中堂

文永86月、極楽寺良観と日蓮との「祈雨の勝負」があり、事の成り行きに仏教諸宗派の高僧らは危機感を抱いて結束、日蓮に対する行動に出た。光明寺の開山と伝えられる「法然上人の孫弟子・念阿弥陀仏」(行敏訴状御会通)の弟子・行敏が日蓮に対して「難状」を送り法論を求めてくるのだが、文末に「日蓮阿闍梨御房」とある。これは、日蓮とは阿闍梨号であること、それを他宗の者も認識していたということを意味している。では、日蓮はこの阿闍梨号をどこで付したのかとすれば、まずは自称の阿闍梨号とは考えられない。これまでの日蓮の仏教界との関わりからして、比叡山で付与されたものと思われる。そして日蓮は天台僧であること、日蓮は天台宗の僧としての阿闍梨号を終世使用した、ということを示しているのである。

 

文永8713日「行敏御返事」(P496 真蹟断簡)

*「行敏御返事」中の「行敏初度の難状」

未だ見参に入らずと雖も、事の次(ついで)を以て申し承るは常の習ひに候か。

(そもそも)風聞の如くんば所立の義尤(もっと)も以て不審なり。

法華の前に説ける一切の諸経は、皆是妄語にして出離の法に非ずと是一。

大小の戒律は世間を誑惑して悪道に堕せしむるの法と是二。

念仏は無間地獄の業たりと是三。

禅宗は天魔の説、若し依って行ずる者は悪見を増長すと是四。

事若し実(まこと)ならば仏法の怨敵なり。仍って対面を遂げて悪見を破らんと欲す。将又(はたまた)其の義無くんば争(いか)でか悪名を被(こうむ)らざらん、痛ましきかな。是非に付き委しく示し給はるべきなり。恐々謹言。

七月八日  僧行敏在判

日蓮阿闍梨御房

 

【 水鏡の御影 】

      水鏡の御影 中山・浄光院蔵
      水鏡の御影 中山・浄光院蔵

中山法華経寺塔頭・浄光院所蔵「水鏡の御影」(国・重要文化財)の日蓮の法衣は七条、法服で僧綱襟であり天台宗の僧衣とされる。画像右上には文永12310日に曾谷入道・大田金吾に報じた曾谷入道殿許御書」(真蹟)の「正像二千年には西より東に流る、暮月の西空より始むるが如し。末法五百年には東より西に入る、朝日の東天に出づるに似たり。」(P909)が書かれており、山中喜八氏によると「筆跡から推測して中山の二代目の日高聖人だと考え」(「日蓮聖人真蹟の世界・下」P225)られる、とのことである。

            中山 浄光院
            中山 浄光院

日高は下総の国千葉氏の家臣・太田乗明の子であり、正嘉元年(1257)の生まれ。身延山の日蓮に仕え教説を学ぶ、と伝えられている。

 

※参考「日蓮聖人遺文辞典」P858

1276年・建治2721日に日昭に報じた「弁殿御消息」(真蹟 定P1191)には「ちくご(筑後)房、三位、そつ()等をばいとま()あらばいそぎ来たるべし」とあり、この「そつ()公」とは即ち日高のことを指しているのは、富木日常による「日常置文」に見られるところである。

 

上記遺文は「ちくご(筑後)房、三位、そつ()等をばいとま()あらばいそぎ来たるべし。大事の法門申すべしとかたらせ給へ。」というもので、日蓮は「ちくご(筑後)=日朗、三位=三位房、そつ()=帥公=日高の三名に『大事の法門』を教示したいので身延山に来なさい」と伝えるよう日昭に依頼している。これは日蓮身延在山時の門弟内における日高の位置を語るもの、即ち日蓮より直接教導を受ける法器であったことを示すものだろう。また、帥公(日高)は弘安51014日の日蓮葬送の列に、後陣として随っている。

 

日高は日蓮滅後に八幡庄谷中郷中山・太田乗明の館内持仏堂に居住し、本妙寺として開創する。富木日常(常忍)とは師弟関係を結び、日常亡き後に法華寺の貫主を兼務して中山門流発展の礎を築くこととなる。三代目となる日祐に後事を託して、正和3(1314)に逝去している。

 

八幡庄にいた少年日高は、建長5年の「法門申しはじめ」以来、何度も富木氏等のもとを訪れた日蓮と、直に接する機会が多かったのではないだろうか。そして青年日高は身延山で日蓮に給仕をしてからは、生の日蓮に接して眼前の師匠を眼に刻んだことであろう。

 

ただし、水鏡の御影は鎌倉時代の作と伝えるが、この画像の制作に日高が直接関わったとの確証はないようだ。日高の存命中かまたは亡き後に書かれたものかどちらにしても、日高が口述したであろう日蓮の天台僧姿を絵師が受け止めて書いたものではないだろうか。

 

上代において作成された「水鏡の御影」についても、天台僧としての日蓮の姿を今日に伝えるものと思うのである。

 

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