(10)  「御輿振御書」

文永6(1269)31(または文永元年[1264])「御輿振(みこしふり)御書」(P437 真蹟断簡)

 

御文並びに御輿振の日記給び候ひぬ。悦び入って候。中堂炎上の事其の義に候か。山門破滅の期其の節に候か。

中略

但恃(たの)む所は妙法蓮華経第七の巻の「後五百歳閻浮提に於て広宣流布せん」の文か。伝教大師の「正像稍(やや)過ぎ已()はって末法太(はなは)だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是其の時なり」の釈なり。滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為なり。山門繁昌の為是くの如き留難(るなん)を起こすか。

 

(この時の日蓮の認識として)中堂が炎上してしまった比叡山ではあるが、山門・比叡山こそが法華経「後五百歳於閻浮提広宣流布」の経文、最澄の「法華一乗機今正是其時」の釈を現実に成し遂げるべきなのであり、今回の中堂炎上という災難は比叡山が滅から生を、下った状態から登るため、山門繁昌の為に起きたことなのだ、としている。佐渡期以前の台密に対する記述は当書に見られるように、仏法の根本道場である比叡山の繁昌、天台宗の再生を願うものが多い。前の「法門可被申様之事」の「仏法の滅不滅は叡山にあるべし」と当書の「山門繁昌の為」との記述に、天台宗・比叡山復興への思いが込められているといえ、やはり、佐渡期以前の日蓮は天台僧としての自覚が横溢していたといえるだろう。

 

※文永6110日、220日、延暦寺衆徒が梨本青蓮院奪回のため御輿を奉じて蜂起、六波羅探題の兵と衝突する。その際、衆徒は自ら延暦寺に火を放ち山内諸堂が炎上、中堂も燃えたものか。それを報じた門徒の書状に対する返状が「御輿振御書」となったもの。ただし、日蓮在世には根本中堂火災の事実はないとの指摘もあり、日蓮は比叡山火災の報をもとに当書を著したが、中堂炎上については事実確認をせず伝聞によった門徒の誤報の可能性もある。

 

前のページ                                  次のページ