(11)  「金吾殿御返事(大師講書)」

文永7(1270)1128日の「金吾殿御返事(大師講書)(P458 真蹟)

 

(そもそも)此の法門の事、勘文の有無に依りて弘まるべきか、弘まらざるか。去年方々に申して候ひしかども、いなせ(否応)の返事候はず候。今年十一月の比、方々へ申して候へば、少々返事あるかたも候。をほかた(大方)人の心もやわらぎて、さもやとをぼしたりげに候。又上のげざん(見参)にも入りて候やらむ。これほどの僻事(ひがごと)申して候へば、流・死の二罪の内は一定と存ぜしが、いまゝでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼへ候。いたれる道理にて候やらむ。又自界叛逆難の経文も値ふべきにて候やらむ。山門なんどもいにしえにも百千万億倍すぎて動揺とうけ給はり候。それならず子細ども候やらん。震旦・高麗すでに禅門・念仏になりて、守護の善神の去るかの間、彼の蒙古に従ひ候ひぬ。我が朝又此の邪法弘まりて、天台法華宗を忽諸のゆへに山門安穏ならず、師檀違叛の国と成り候ひぬれば、十が八・九はいかんがとみへ候。人身すでにうけぬ。邪師又まぬかれぬ。法華経のゆへに流罪に及びぬ。今死罪に行なはれぬこそ本意ならず候へ。あわれさる事の出来し候へかしとこそはげみ候ひて、方々に強言をかきて挙げをき候なり。すでに年五十に及びぬ。余命いくばくならず。

 

文永5(1268)の蒙古からの国書到来によって比叡山を含め日本中が動揺しているが、これは日蓮が「立正安国論」の中で「他国侵逼難」として警告していたことが現実となることを意味した。「去年方々に申して候ひしかども」とは、文永5(1268)11月に幕府、鎌倉仏教界の主要人物に送った十一通の状を指すものと思われるが、その返事はなかったことが記されている。今年11月にも「方々へ申して候」と再度、関係方面に書状を発したが「少々返事あるかたも候」と、今度は返書のあったことが記される。

(「去年」から「今年」の文脈からすれば、本書の系年は文永6[1269]が妥当ということになる)

続いて法華折伏の故に流罪、死罪に処せられることは必定であるのに、これまで何も起きないのは不思議であるとし、次には(日本国の為政者、仏教者は)自界叛逆難の経文」を身で読むことになるであろうとしている。

震旦(中国)や高麗(朝鮮半島の国)などは禅宗、浄土教の流布により国土守護の善神は国を捨て去ってしまい、蒙古国に従うこととなってしまった。我が日本国にも禅宗、法然浄土教が広まり天台宗法華宗を軽んじ下す故に山門=比叡山は衰微し、教えは廃れ師匠、檀那共に正法違背の国となってしまったことを嘆き憂えている。

 

日蓮は人界に生を受け、邪師となることを免れ、法華経弘経の故に伊豆に流されたのであり、ここに至って死罪に処せられないのは「本意ならず候へ」と本意ではない、としている。これは殉教願望ともいうべきだろうか。国難が刻一刻と迫る中にあって、それを退治できるのは「我れ一人のみ」との確信と、宗教的使命感に燃えるが故の高揚が沸騰点に達していることが窺えるのではないかと思う。ここでも禅宗、法然浄土教興隆による山門=比叡山の衰微を記述しているということは、「天台法華宗を忽諸のゆへに山門安穏ならず」の対極「天台法華宗を崇敬し山門を安穏ならしめる」べきであり、日本国は「天台法華宗に師檀随順の国」となるべきことが、この時の日蓮の思想であったと考えられるのである。

 

※本書は「大師講に鵞目五連給び候ひ了んぬ。此の大師講三・四年に始めて候が、今年は第一にて候ひつるに候」と天台大師講に捧げられた供養に対する礼状であり、大師講は文永3[1266]4[1267]頃から始まっていること、今年は大変に盛況だったことが記されている。また端書には「止観の五、正月一日よりよみ候ひて、現世安穏後生善処と祈請仕り候。便宜に給ふべく候。本末は失せて候ひしかども、これにすりさせて候。多く本入るべきに申し候」とあり、この年の大師講では正月1日より摩訶止観第五を読み「現世安穏後生善処」を祈請していたこと、多くの書籍が必要となり送付してほしい旨を伝えている。

 

尚、本書の系年は「境妙庵目録」「日諦目録」「日明目録」「日騰目録」が文永6(1269)、「高祖遺文録」「縮刷遺文」は文永7(1270)であり、昭和定本は後者によったものか。文中の「去年方々に申して候」と続けての「今年十一月の比、方々へ申して候」からすれば、「去年方々」は文永5(1268)1011の「十一通御書」を指すようであり、やはり、系年は文永6(1269)とすべきか。

 

前のページ                                  次のページ