1221年・承久3年 辛巳(かのとみ)

順徳天皇(1210年[承元4年]11月25日~1221年4月20日)

仲恭天皇(1221年4月20日~同7月9日)

後堀河天皇(1221年7月9日~1232年[貞永元年]10月4日)

北条義時(1205年[元久2年]~1224年[貞応3年・元仁元年])

< 承久の乱 >

514

後鳥羽上皇 鳥羽城南寺の「流鏑馬揃え」を口実に北面、西面の武士、近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎を集める

 

515

京方の藤原秀康率いる800騎 京都守護・伊賀光季(いがみつすえ)を討つ

後鳥羽上皇は諸国の御家人、守護、地頭らに北条義時追討の院宣を発す

 

519

鎌倉に変事の一報がもたらされ武士達は動揺

北条政子 頼朝以来の恩顧を訴え上皇側を討伐する声明を発し鎌倉武士の動揺は鎮まる

 

*政子の演説 「吾妻鏡」より

「二品、招家人等於簾下、以秋田城介景盛、示含曰、皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍、征罰朝敵、草創關東以降、云官位、云俸禄其恩既高於山岳、深於溟渤、報謝之志、淺乎。而今依逆臣之讒、被下非義綸旨、惜名之族、早討取秀康胤義等、可全三代將軍遺跡。但欲參院中者、只今可申切。者群參之士、悉應命、且溺涙、申返報不委、只輕命思酬恩。」

 

二品(にほん・従二位の北条政子)、家人等を簾下に招き、秋田城介景盛(安達景盛)を以て示し含めて曰く、皆心を一にして奉るべし。是れ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。而るに今逆臣の讒に依りて、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべしてえれば、群参の士悉く命に応じ、且つは涙に溺みて返報を申すに委しからず。只命を軽んじて恩に酬いんことを思ふ。

 

522

鎌倉の軍勢 東海道、東山道、北陸道の三方向より京に向かう

後に幕府軍は19万騎となる

 

610

比叡山延暦寺は後鳥羽上皇の援軍依頼を拒否

 

613

京方と幕府軍 宇治川で衝突

翌日、幕府軍は渡河に成功し宇治、勢多の敵陣を突破 京方は潰走する

 

615

幕府軍15万余騎 京都占領 寺社、京方の公家、武士の屋敷に火を放つ

後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を取り消し幕府に従う意向を表明

幕府 京都に六波羅探題を設置し朝廷に対する統制を強化する

 

713

幕府 承久の乱首謀者である後鳥羽法皇を隠岐国へ配流

 

721

順徳上皇は佐渡国へ配流

 

1010

討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望み土佐の国に配流

 

この年

道元 明全に師資の印可を受ける 

 

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