1246年・寛元4年 丙午(ひのえうま) 25歳

後嵯峨天皇

後深草天皇(1246年1月29日~1259年[正元元年]11月26日)

北条経時

北条時頼(1246年~1256年[康元元年])

38 

日興 甲斐国大井庄鰍沢に誕生と伝う

⇒父は遠江・紀氏の大井橘六、母は駿州富士郡河合住の河合入道の女子(法名・妙福)、舎弟に橘三郎光房がいる。幼少にして父は他界、母は武蔵国綱島九郎太郎と再婚。後、外祖父河合入道に養われ、更に近隣の駿河蒲原庄・四十九院に入り修学。

◇「日興上人御伝草案」大石寺6世・日時著 (富要57)

日興上人は八十八代一院の御宇、寛元四ひのへむま御誕生、俗姓は紀氏、甲州大井の庄の人なり、幼少にして駿州四十九院寺に上り修学あり、同国冨士山の麓須津の庄良覚美作阿闍梨に謁して外典の奥義を極め、須津の庄の地頭冷泉中将に謁して歌道を極はめ給ふ。

 

323

北条時頼 執権となる(公卿補任)

 

41

北条経時卒33(吾妻鏡・百錬抄)

 

524

宮騒動 名越光時は前将軍藤原頼経を擁して執権北条時頼を除かんとす

吾妻鏡

「鎌倉中民不靜、資財雜具、運隠東西〈云云〉。已被固辻々。澁谷一族等。左親衛、令警固中下馬橋。而太宰少貳。爲參御所、欲融之處、彼輩於參御所者、不可聴之。令參北條殿御方者、称不可及抑留之由。此間、頗有喧嘩、彌物怱。夜半皆著甲冑、楊旗。面面任雅意、或馳參幕府、或群集左親衛邊〈云云〉。巷説縱横。故遠江入道生西子息、挿逆心、縡發覺之由〈云云〉。」

 

鎌倉中の民静まらず、資財・雑具東西に運び隠すと。すでに辻々を固めらる。渋谷一族等、左親衛の命を請け、中下馬橋を警固す。而るに太宰の少貳御所に参らんが為融らんと欲するの処、彼の輩御所に参るに於いてはこれを聴すべからず。北條殿の御方に参らしめば、抑留に及ぶべからざるの由を称す。この間頗る喧嘩有り、いよいよ物騒す。

夜半皆甲冑を着け旗を揚ぐ。面々雅意に任せ、或いは幕府に馳参し、或いは左親衛の辺に群集す。巷説縦横す。故遠江入道生西の子息逆心を挿み、縡発覚するの由。

 

「廿五日 壬午天晴 世上物怱、左親衛宿舘警固、敢不緩。甲冑軍士、囲繞四面。卯一點、但馬前司定員稱御使、參左親衛第。而不可入于殿中之旨、依令下知于諏方兵衛入道尾藤太平三郎左衛門尉等給、忽退出〈云云〉。越後守光時、令侍宿御所中之處、今暁家人參喚出之。稱白地、即退出訖。無歸參之儀、落餝献其髪於左親衛。是可追討左親衛之由、成一味同心、
不可改變之趣、相互書連署起請文。其張本者、在名越一流之由、風聞之間、及此儀。舎弟尾張守時章、備前守時長、右近大夫將監時兼等者、無野心之旨、兼以依令陳謝、無殊事〈云云〉。其後但馬前司定員、右事出家。秋田城介義景、預守護之。子息兵衛大夫定範、被處縁坐〈云云〉。午以後、群參之士、又揚旗。今日遠江修理亮時幸、依病出家〈云云〉。」

 

世上物騒す。左親衛の宿館の警固敢えて緩からず。甲冑の軍士四面を囲繞す。卯の一点但馬の前司定員御使と称し左親衛の第に参る。而るに殿中に入るべからざるの旨、諏方兵衛入道・尾籐太平三郎左衛門の尉等に下知せしめ給うに依って、忽ち退出す。越後の守光時御所中に侍宿せしむの処、今暁家人喚び出しに参るの程、白地に即ち退出しをはんぬ。帰参の儀無く落餝し、その髪を左親衛に献ず。これ左親衛を追討すべきの由一味同心を成し、改変すべからざるの趣、相互に連署の起請文を書く。その張本は名越一流に在るの由風聞するの間、この儀に及ぶ。舎弟尾張の守時章・備前の守時長・右近大夫将監時兼等は、野心無きの旨兼ねて以て陳謝せしむに依って、殊なる事無し。その後但馬の前司定員右事出家す。秋田城の介義景これを預かり守護す。

子息兵衛大夫定範縁坐に処せらる。午以後群参の士また旗を揚ぐ。今日遠江修理の亮時幸病に依って出家す。

 

613

幕府 名越光時・千葉秀胤を伊豆に流罪

吾妻鏡

「入道越後守光時、〈法名蓮智、〉配流。赴伊豆國。越後國務以下所帶之職、收公之。又上総權介秀胤、被追下上総國。有相度事之由、依令露顯也。」

 

入道越後の守光時(法名蓮智)配流。伊豆の国に赴く。越後の国務以下所帯の職これを収公す。また上総権の介秀胤上総の国に追い下さる。相度る事有るの由露顕せしむに依ってなり。

 

615

道元 越前国大仏寺を永平寺と改む(道元録)

 

711

幕府 前将軍頼経を京都に送る(吾妻鏡)

 

815

越前大仏寺を永平寺と改む(道元禅師和尚行録)

 

この年

蘭渓道隆(宋僧) 南宋より来朝(元亨釈書)

 

日蓮 三井および南都に遊学し、京都泉涌寺に道隆を訪うと伝う(本化別頭仏祖統記・日蓮宗年表・富士年表)

 

書を著すと伝う

◎「師子頬王(ししきょうおう)抄」(3続編3P1954)

遊学中

三宝寺本 真蹟なし

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*平成校定は真偽未決書として不収録

 

1245年・寛元3                                          1247年・寛元5年・宝治元年