1268年・文永5年 戊辰(つちのえたつ) 47歳

亀山天皇

北条政村

北条時宗(1268年~1284年[弘安7年])

129

凝然 八宗綱要2巻を著す(同書奥書)

 

1

高麗使潘阜が蒙古の国書を携えて大宰府に到着

「安国論御勘由来」文永545日 真蹟 延山録外

而るに勘文を捧げて已後九箇年を経て、今年後(のちの)正月大蒙古国の国書を見る。日蓮が勘文に相叶ふこと宛(あたか)も符契(ふけい)の如し。

 

118

蒙古国書 鎌倉に到着

◇「安国論奥書」文永6128日 真蹟

文応元年太歳庚申より文永五年太歳戊辰後正月十八日に至るまで九箇年を経て、西方大蒙古国より我が朝を襲ふべきの由牒状之を渡す。

 

27

幕府 蒙古・高麗の国書を奏上(続史愚抄)

 

219

朝廷 蒙古に返書を送らぬ旨を定む

幕府 高麗使者を返す(深心院関日記・五代帝王物語・蒙古国牒状奥書)

 

222

宗性 「調伏異朝怨敵抄」を著す

 

225

朝廷 蒙古調伏祈願のため22社へ奉弊使を遣わす(続史愚抄)

 

227

幕府 西国の守護・御家人に蒙古襲来の防備を下知

 

323

東寺 異国降伏の祈祷をなす

 

323

執権・北条時宗 岩本実相寺に下文を与う〔北条時宗奉下文案〕(富要10-306)

 

書を著す

◎「安国論副状」(1-48P421、校1-67P475、新P409)

鎌倉 北条時宗

真蹟110行半断簡・身延山久遠寺曽存(乾録)

日朝御書見聞集・安国論私抄1-1身延山蔵

*平成校定「断簡111行」

⇒この年の3月、北条時宗(18)は前代・政村より執権職を継承する。
その就任直後に、日蓮は北条時宗に対して「立正安国論」を上進し、その際に添えられた送り状が「安国論副状」か。

 

45

書を法鑑房に報ず

「安国論御勘由来」(1-49P421、校1-51P416、全P33、新P367)

法鑑房

真蹟5紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

延山録外2 満上95 宝5

録外3-4 遺10-20 縮604

 

*叡山を除きて日本国には但一人なり

日蓮復之を対治するの方之を知る。叡山を除きて日本国には但一人なり。

譬へば日月の二つ無きが如く、聖人肩を並べざるが故なり。若し此の事妄言ならば、日蓮が持つ所の法華経守護の十羅刹の治罰之を蒙らん。但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず。

 

413

亀山天皇 蒙古調伏祈願のため伊勢神宮へ宸筆の宣命を奉納(続史愚抄)

 

4

幕府 諸社寺に蒙古調伏の祈祷を命ず(元寇記略)

 

821

書を宿屋光則に報じ蒙古の事を論じる

「宿屋入道許御状」(1-50P424、校1-52P419、全P169、新P370)

鎌倉・宿屋光則

日朝本 平15 真蹟なし

録内29-23 遺10-23 縮607

 

日蓮一人、蒙古を調伏すべき人

其の後九箇年を経て今年大蒙古国の牒状(ちょうじょう)之有る由風聞(ふうぶん)す等云云。経文の如くんば彼の国より此の国を責めん事必定なり。而るに日本国中、日蓮一人彼の西戎(せいじゅう)を調伏(じょうぶく)すべきの人に当たり、兼ねて之を知り論文に之を勘ふ。

 

8

日興は「実相寺衆徒愁状」を幕府に呈す(日興上人全集P93)

日興正本・静岡県富士宮市北山 法華本門寺根源蔵

⇒当時、賀嶋庄の天台宗・実相寺院主は他所出身者であったが、院主と院主代の「職務怠慢、寺院の私物化、乱行」が目に余った為、この人物の院主職を解任した後、住僧の中から院主を選び寺院を正常化すべきであることを訴える。

実相寺は富士川東岸であったが、西岸の蒲原庄にあった天台宗・四十九院の供僧を日興は努めていた。

 

9

書を再び宿屋光則に報ず

「宿屋入道再御状」(1-51P425、校1-53P420、新P370)

宿屋入道

真蹟111行断簡・京都府京都市山科区御陵大岩 本圀寺蔵

 

1011

十一通御書で公場対決を迫る

 

書を北条時宗に送る

「与北条時宗書」(1-52P426、校1-54P421、新P371)

「北条時宗への御状」(P169)

満上36 真蹟なし

10-23 縮607 

聖人の一分、法華経の御使ひ

(そもそも)正月十八日西戎(せいじゅう)大蒙古国の牒状到来すと。日蓮先年諸経の要文を集め之を勘へたること立正安国論の如く少しも違はず普合(ふごう)しぬ。日蓮は聖人の一分に当たれり。未萌(みぼう)を知るが故なり。~

彼を調伏せられん事、日蓮に非ざれば之協(かな)ふべからず。~

日蓮は法華経の御使ひなり。経に云はく「則ち如来の使ひ、如来の所遣として、如来の事を行ず」と。

 

書を宿屋左衛門光則へ送る

「与宿屋入道書」(1-53P427、校1-55P422、新P372)

「宿屋左衛門光則への御状」(P170)

満上38 真蹟なし

10-25 縮609 

聖人の一分

(そもそも)正月十八日、西戎(せいじゅう)大蒙古の牒状(ちょうじょう)到来すと。之を以て之を案ずるに、日蓮は聖人の一分に当たり候か。

 

書を平左衛門尉頼綱へ送る

「与平左衛門尉頼綱書」(1-54P428、校1-56P423、新P373)

「平左衛門尉頼綱への御状」(P171)

満上39 真蹟なし

10-25 縮610

 

書を北条弥源太へ送る

「与北条弥源太書」(1-55P429、校1-57P424、新P374)

「北条弥源太への御状」(P172)

満上40 真蹟なし

10-26 縮611

 

書を建長寺道隆へ送る

「与建長寺道隆書」(1-56P430、校1-58P425、新P375)

「建長寺道隆への御状」(P173)

満上41 真蹟なし

10-27 縮612

 

書を極楽寺良観へ送る

「与極楽寺良観書」(1-57P432、校1-59P427、新P376)

「極楽寺良観への御状」(P174)

満上43 真蹟なし

10-28 縮613

*日蓮は日本第一の法華経の行者

蒙古国調伏(じょうぶく)の秘法は定めて御存知有るべく候か。日蓮は日本第一の法華経の行者、蒙古国退治の大将たり。「於一切衆生中、亦為(やくい)第一」とは是なり。

 

書を大仏殿別当へ送る

「与大仏殿別当書」(1-58P433、校1-60P428、新P377)

「大仏殿別当への御状」(P174)

満上44 真蹟なし

10-29 縮614

日蓮に帰すべし

日蓮兼ねて勘へ申せし立正安国論に少しも相違せず。急(すみ)やかに退治を加へたまへ。然れば日蓮を放(おい)て之を協(かな)ふべからず。早く我慢を倒して日蓮に帰すべし。

 

書を寿福寺へ送る

「与寿福寺書」(1-59P433、校1-61P429、新P378)

「寿福寺への御状」(P175)

満上45 真蹟なし

10-29 縮615

*日蓮は未萌を知る者なるか

風聞の如くんば、蒙古国の簡牒(かんちょう)、去ぬる正月十八日慥(たし)かに到来し候ひ畢んぬ。然れば先年日蓮が勘へし書の立正安国論の如く普合(ふごう)せしむ。恐らくは日蓮は未萌(みぼう)を知る者なるか。

 

書を浄光明寺へ送る

「与浄光明寺書」(1-60P434、校1-62P430、新P378)

「浄光明寺への御状」(P175)

満上46 真蹟なし

10-30 縮615

日本第一の勧賞

内々日本第一の勧賞に行なはれるべきかと存ぜしめ候の処、剰(あまつさ)へ御称歎に預(あず)からず候。

 

書を多宝寺へ送る

「与多宝寺書」(1-61P435、校1-63P431、新P379)

「多宝寺への御状」(P176)

満上47 真蹟なし

10-30 縮616

 

書を長楽寺へ送る

「与長楽寺書」(1-62P436、校1-64P432、新P380)

「長楽寺への御状」(P176)

満上48 真蹟なし

10-31 縮617

 

書を弟子檀那中に報ず

「弟子檀那中御書」(1-63P436、校1-65P433、新P380)

「弟子檀那中への御状」(P177)

満上48 真蹟なし

10-31 縮617

流罪死罪一定

大蒙古国の簡牒(かんちょう)到来に就いて十一通の書状を以て方々へ申さしめ候。定めて日蓮が弟子檀那、流罪死罪一定ならんのみ。少しも之を驚くこと莫(なか)れ。

 

この年

延暦寺衆徒 京都正伝寺を毀す(東厳慧安禅師行実)

 

【 系年、文永5年と推定される書 】

図録を著す

◎「一代五時図」(3図録13P2299、校3図録25P2481、全P618、新P1080)

真蹟10紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

縮続108

< 系年 >

昭和定本「文永5年頃()

平成校定「建治2年」

 

図録を著す

◎「日月之事」(3図録14P2304、校3図録12P2401、全P599、新P410)

真蹟6紙完・千葉県市川市中山 法華経寺蔵

縮続161

< 系年 >

昭和定本「文永5年頃()

平成校定「同」

*国立国会図書館・近代デジタルライブラリー「日蓮聖人御真蹟」(19131914年 神保弁静編)

日月之事

 

1267年・文永4                                                1269年・文永6